月に捧ぐ

春想亭 桜木春緒

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   月に捧ぐ


 瀬崎源之助はその日、半年前まで許嫁だった瑞枝を見かけた。
 父親同士が仲の良い朋輩で、ずいぶん幼い頃から源之助と瑞枝は許嫁の間柄だった。
 秋に、破談になった。

 夕闇の中、山を走る。
 携えた鴇色の絹の包みが赤黒く染まっている。中身は首である。包んだ布の隙間から、豊かな髪が一房垂れている。


 城下の西、寺町の華園寺に、源之助の瀬崎家の墓も、瑞枝の原田家の墓もある。源之助は先祖の墓参に来ていた。黄昏時、手桶を提げて呆然と瑞枝の姿を目で追う。
 春。間もなく、新しい殿様が初めてのお国入りとなる。
 瑞枝は、新しい殿様のお国御前、つまり国元の側室として城に上がることとなっている。

「過ぎたる女子よ」
 瑞枝が十八になった昨年、源之助は周囲にそんな言葉を投げつけられた。剣術の腕ばかりが自慢の、八十石の馬廻り身分の嫁には過ぎた美女だという。下らぬ嫉みだと聞き捨てにしていた。
 瑞枝の家は、禄高は源之助の家と同等だが、家老原田氏の分家の末だった。
 そのころ、先の藩主が隠居し、江戸で新しい殿様が後を継いだ。
「これは好機」
 当代には首席家老の座をと狙う原田氏は、殿様の気を引く手段を考えた。
 瑞枝はそんな原田の本家に、婚儀の前の挨拶に訪れた。家中で一番だと評判の美貌は、家老の目にも鮮やかに映った。
「源之助ごとき軽輩には似合わぬ。お国御前にこそ相応しい美女であろう」
 噂が、源之助と瑞枝の間を裂いて広まる。
 やがて瑞枝の父が仲人と共に源之助の家を訪れ、結納の倍を置いて去った。
 源之助は、行く先々で、哀れみの視線を浴びせられた。
「お国御前となれば、綺麗なべべを着て、上げ膳据え膳で暮らせる。そんな贅沢をしたいのだ。所詮、その程度の女子だったのさ」
 源之助は傲然と言い放つ。慰められる度に、あんな女に用はない、と、哀れみを跳ね返した。瑞枝の話が出る度に、あれは嫌な女だ、悪い奴だ、と言いつのるようになった。
「あれは悪い女狐だ。殿のお側に上げてはならぬ」
 やがて源之助は、誰彼なく訴え始めた。反論を述べる者には、顔に唾をかけるような勢いで同意を迫る。
「あわれよ」
 美しい許嫁を奪われた故に我を失ったと、噂になった。そういう噂になっていると、源之助は、親族に叱責された。そして城での役目も失った。墓参の他には外出もはばかり、薄暗い部屋に独り閉じこもったまま、冬を越した。


 瑞枝には、警護が数名と、老女も一人、付き添っていた。もはや藩主の側室としての扱いになっている。
 源之助は、墓石の群れの間から、瑞枝を盗み見た。端からは墓参に来ている家中の士にしか見えない。警護らしい侍が視線の先を通り過ぎた。

 家中一の美女と評判の瑞枝は、遠目にも美しい。
 源之助は、魅入られて瞬きを忘れた。
 頬の周囲に光の輪が見えるかのように、瑞枝の美貌が輝いていた。切れ長で大きな目を長く濃い睫毛が彩る。肌の白さが、唇の紅さを際立たせた。つややかな鴇色の小袖に金糸の光る帯という贅沢な装いに、以前にはないような濃い化粧を施した瑞枝は、源之助の目には不遜に艶やかに見えた。
 自らの呼吸の音を騒がしく感じた。ぎりぎりと歯を噛みしめ、手桶を地面に落とした。がらん。と石畳に桶が転がる。
「何やつ!」
 怒鳴り声を、源之助は斬り捨てた。
「狼藉者じゃ、かたがた出会え」
「乱心者!」
 斬りかかってきた侍の腿を、薙ぐ。警護を四人まで斬って、源之助は瑞枝の付き添いの老女を蹴り倒した。ひい、と老女が悲鳴を上げた。

 腕を伸ばし、瑞枝の襟元を左手で鷲掴みにした。
「おのれ、女狐」
 嗚呼、高い声が迸る。瑞枝の白い手が、源之助の左の胸に触れた。

 瑞枝を貫いた刃を抜く。血が、鴇色の絹の小袖をみるみる紅く染めていった。
 断末魔の力で源之助の胸を掴んだ瑞枝が、濃い紅を塗った唇を、動かした。
 末期の声に、源之助は、くわ、っと目を見開く。


 寺町の西はすぐ山塊である。足を引きずりながら、源之助は山深く分け入った。
 追われて逃げた。肩先や袴の裾を矢が裂いた。木々の間をすり抜けて、追っ手をまいた。袖が血に濡れている。傷も負った。
 春先の宵、まだ寒い。だが土埃に汚れた肌に、汗の筋が幾つも通る。喉の奥から呼気と共に血のような匂いが上がる。
 源之助は瑞枝の首を左手に携えて、岩を這い、獣道を登っていく。
 月が、見えた。
 尾根に出て、視界が開ける。源之助は瑞枝の首を抱え直した。
 呻吟の声が源之助自身の耳につく。嗚咽が喉を押し上げる。歯噛みした頬に涙が伝う。
  足を止めた。
 鴇色の包みを開く。源之助は、瑞枝の両頬を掌に挟み、月光に捧げるように持ち上げた。目を閉じた瑞枝も、美しい。


「これで私は、貴方のもの」
 源之助に胸を刺し貫かれながら、瑞枝の声は笑っていた。まるで安堵したように。
 かねてより、源之助の刃を待ち望んでいたかのように。

 追っ手の足音が迫っている。
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