春想亭 桜木春緒

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 翌日。



 落天はまた菊の居間に居る。

 夜明けの始めに起きだしてその光の中で、彼は庭を、菊は室内を清掃し、客の痕跡を念入りに消した。

 午前中に落天は本棟で雑事を処理して、午後に菊の居間に来た。そして画紙をその眼下に伸べている。

 渓流を描き、その激しい流れの中に跳ね上がって虫を喰らう獰猛な表情の岩魚を描く。その岩魚に釣り人が竿を向けている。釣り人の足元の澱みにはもう一匹の岩魚が居るが、彼がそのたやすく獲れそうな澱みの魚には目もくれぬ、という絵であった。

 墨一色で、豪壮な筆遣いで一気に描き上げる。

 昨夜、菊と話しているときに思いついた画題であった。

 高価な紙を二・三枚ほど反古にして、最後に気に入ったものができたようである。

 菊は、落天から離れて源氏物語など読みながらその様子を時々横目で見ていた。居間は20畳。二人の距離はお互いの作業が気になるほどのものではない。

「……」

 菊はそれでも落天のことが気になった。

 夕べ落天が言っていた言葉が胸に残っている。彼は、散華、と言った。(そのつもりがあるのだろうか)彼女の危惧はそれであった。

 しかし、と一方で考える。

 もし落天が大坂へ去れば、菊は解放されるのだ。今のような、ただ彼の玩具のように日々を送る環境から、解き放たれることができる。自分のために日常を暮らせる。日の光を好きなだけ浴びることが出来る。雨にも打たれることができる。物語に出てくるもろもろの土地を訪ねることもできるだろう。

 そんな他愛のないことに菊は希望を持っていた。

 そのくせ、落天が大坂に行くのを喜ぶ気持ちにはならない。

 この時代のほかの女性達よりも、菊は様々のことを学ばせてもらってはいたが、一人で生きる術は教わっていない。

 もし落天が居なくなったとしたら。それを考えると、菊はただ途方にくれるばかりだ。

 落天の許に来てからは、まるで煩悩という粘質の腥い液体の中に浸されるように、彼の欲望を満足させる道具として恥ずかしい手入れを受け続けてきていた。

 それが屈辱で堪らなかった菊には、たとえば清松尼のように、色々な穢れを流し去ってしまったような、すがすがしい老尼の表情が目映く感じられていた。欲望と縁を切った世界、その境地に入りたいと願うことがある。彼さえ居なければ、そうなれるのだろうか。それほどに単純なことではないということだけは、菊にも漠然と感じられる。

 そんな思案をする菊の視線の端で、落天がふとため息をつきながら、画材を取り集めている。彼はそれを持って、茶室の脇にある井戸へ行くのだろう。そんな作業さえ、何か舞うように優雅で無駄のない動作になっている。習い性というものらしい。

 道具の洗浄を終えた落天が、日向の縁側でそれらを拭っている。庭の緑が、明るい晩春の日差しに美しく映える。光の強さゆえに、落天の背の影がいっそう深く濃い。



 一年を通じ、陽の気がもっとも高まる時期である。

 桜花は散ったが、草木の緑はいよいよ萌え、日々、肌に感じる温度も上昇する。

 こんな時期は、万事が充実した者でさえ、何かし足りぬことがあるような気がして心が落ち着かなくなる。

 まして、壮齢に閑居している落天などは。

 哀れな、と菊は時々思う。彼に囚われた籠の鳥のような自分の身だが、同時代の同じような身分の婦女子と言うのはこれほど極端でなくても、どこへ行ったところで今の菊と大差のない、儘ならない暮らしをしているだろう。

 しかし男は。

 働き次第でどうにかなる。何らかの志があり、それに向かっていく体力と気力があれば何にでも挑戦していけるはずである。

 だが、落天はそれができない。

 彼が自らに課している慎みを破れば、それもできるかもしれない。だが、彼は彼にとって残念なことにそれほど浅慮ではなかった。自らの動きに対する波紋と言うものを知り、それを恐れた。

 それは家族への思いやりという呼び方でも良い心遣いであった。彼らを苦衷に追い込んではならないと、落天は思っていた。たとえそこから廃された身であっても、そう思っている。

 それは矜持でもあった。廃されたとはいえ長子であることに違いはない。暴発することはその血の誇りへの裏切りだ。

 誘いに乗れば、喜ぶのは大坂方だけではない。今まさに天下を取っている江戸の者は、生家への付け入る隙を落天の行動に見出し、喜ぶだろう。

 だから落天はどうあっても、たとえ百万石をよこすといっても大坂の誘いには乗らないつもりであった。

 もっとも、そのような利は欲しくもなかったし、そんなものを勝ち取る力が大坂方にあるとも思えなかった。

 彼をもっとも魅了するのは、昨夜、ふとつぶやいた「散華」ということである。連綿と寿命にすがるよりは、という衝動がときに心を揺さぶる。利には動かない心が揺らぐ。

 落天は沓脱石の下に筆を取り落とした。思案に暮れていたことに、そのとき初めて気がついた。

 自嘲しながらそれを拾い上げ、縁に上る。と、そこに菊がいた。

「何を考えておいでなのです?」

 低い声だった。

「そなたは何を考えている?源氏を読んでいたのではないのか」

 平静な顔で落天はまた腰を下ろす。この菊も何か感じているらしい。

「落天様のご様子がおかしい」

 立ったまま、菊は落天を見下ろして、第三者に告げるように言った。

「行ってはいけません。落天様。大坂など、落天様が行ったところで何一つ変わらない」

「俺ごときが行ったところでと?なかなか手厳しいな」

「いえ、…失礼な申しようでした」

 菊は座って手を付いて頭を下げる。別に落天の存在など小さいと言ったつもりは無かったが、そうとも取れる言葉ではあった。また、それも一面の事実ではある。

「時流の流れと言うものを、己が変えられるのではないかと夢想するのが男だ」

 淡々と言う彼の声に怒りは含まれていないように菊は感じた。

「徒に命永らえるよりも、無駄と知って散華を思うのも」

 不意に、菊は落天の胸に縋り付いた。彼の言葉がそうさせたといっていい。謂われない切なさが込み上げている。

「そのようなことお考えにならないで!」

落天の胸の中で菊が塞き上げるように叫んだ。

「解っている」

 平板な口調で言いながら、落天は菊の髪の香りを嗅いだ。

 身の回りの手入れを怠らないのが癖になっているらしく、このときの菊の髪も、たいそういい香りであった。

「だから、辛いのだ」

「…解るような気がします…」

 そうか、と落天はつぶやいた。



 暑気の終わるころ、寺の鐘の文字が呪詛であるといい、その弁明が行われ、条件が出され、それが破棄された。

 いよいよ大坂には浪人が増えている。抱える、とは城内のものは言わない。だが、ことのあるときには彼らは争って入城するだろう。別に江戸方に恨みがあるとか、そういう積極的な理由のあるものがその数だけいるわけではない。先の見込みが無いから乱に集まってきたようなものである。



 同じころ。



 夜明け前にひそやかな来客があり、落天は早々に菊の元を去り、その対応に追われている。

 客は、六尺はあろうかという落天よりさらに丈が高く、身体の厚みは落天を凌ぐ。まさに画に描いたような偉丈夫であった。年輩は、落天とそう変り映えしない。

 懐かしげな眼差しを落天に注いでいる。

「複雑なお顔で儂をご覧になられますな。儂には懐かしく慕わしく思えておりますのに」

 揶揄するような皮肉を彼は言った。

「しかし驚かれはしなかったようだ。然れば、儂が何用で参ったのかも、既にご推察あろうか?」

「まずは仏間に参るが良い」

 落天は聊かぞんざいな態度で顎をしゃくった。腕を胸の前で組んだまま立ち上がり、客を先導するように先に客間を出る。

 客は、傍らの落天が見守る中で、神妙に仏壇に手を合わせた。

 そして首をめぐらせて言った。

「兄上」

 迎え入れてはもらえぬものと覚悟をしていた、と彼は言う。

「お祖父様が亡くなった事も、後になって聞き申した。それも全くの他家の者から」

「与五郎、そなた何をしにここへ参った?」

「兄上のご推察の通りでござる」

 落天は祖父の位牌から目を離さぬまま、

「お祖父様に香華を手向けに参ったというのか?」

 低い声で言う。無論、それが与五郎という弟の目的だとは、口にした落天本人も全く思っては居ない。

 落天が与五郎と呼んだ弟は、乾いた声で短く笑い、面白いことを仰せになるものだ、と言った。

「お分かりでしょう、兄上。儂は大坂に参る」

「意味の無いことだ。」

「かなりの人物も居りますぞ」

「泥を浴びて生きることを厭い、乱に集まった羽虫どもに何が出来ようか」

 与五郎が落天に殺気を帯びて向き直った。膝を浮かせ、短刀に手を掛けた。しかし、底冷えのする落天の視線に会って、短刀からは手を離す。

「では兄上は泥の中で這いずり回って命汚く生き延びんとするほうが良いのですな」

「…議論はせぬ。俺には無意味に思えることでもお前には意味のある事なのだろう。それを否定しようとは思わぬ。もう何年も前にお前と俺は道を違えたのだ。その隔たりを今さら引き寄せようとして俺の元に来たのではないだろう。与五郎よ?」

 低く穏やかな落天の言葉に、浮かしかけた腰を、与五郎は再び下ろした。少し背中を丸めて、小さくなったようだ。

「今朝は何処から来たのだ?夜を徹して参ったのであろう」

「さようで」

「では湯漬けでも摂るか?」

「ありがたく…」

「すぐに用意させよう。それから少し眠るがいい」

 落天は身軽に立ち上がり、部屋を出た。

 その落天が見ていないのに、与五郎は兄に向かって深々と頭を下げる。わずかに肩が震えていた。

 顔を上げた与五郎は、香の煙が一筋立ち昇る仏壇を見た。

 大きな祖父の位牌の影に隠れるように、童子、童女と書かれた小さな位牌が1つずつある。与五郎にとっての甥と姪の位牌であった。

 あれから何年になるか、と考え、すぐに考えることをやめた。ただ、香を追加した。



 落天は台所に向かわず、菊の元を訪れた。

 暁光の上がりきらぬ早朝にもかかわらず菊は既に身仕舞いを整え、典雅な姿で落天を迎えた。

「ここへ人を通す」

「畏まりました。では私は何れへ?」

「居て良い」

 菊は驚いて落天を見上げた。

 使用人の目にも触れさせまいと菊を隠したがる落天の言葉とも思えない。

「今日は良い」

 その一言を残し、また落天は去っていった。

 家士に湯漬けの用意とその膳の運び先を命じる。命じられた男の顔がわずかな驚きに染まった。

 再び、与五郎の待つ仏間に行く。

 落天はふと、嘆息した。与五郎は仏間に正対して端整な姿勢で座している。逞しい背中には気負いもなく衒いもなく、ただ恬淡とした風を纏っているかのようだ。あの聞かん坊が、と落天は唇の端を少し上げた。

 思わず見惚れるような後姿に向けて

「与五郎、こちらへ参れ」

 声を掛け、落天は弟を先導して菊の居る別棟に向かう。

 廊下を渡りながら、これはお見事な、と与五郎は美しく手入れされた庭を褒めた。

 落天と共に入ってきた男を、菊は知らない。

 ただずいぶんと大きな男だと思った。長身の落天よりもさらに丈高く、肩も厚い。豊かな髪を堂々とした茶筅髷に結い上げているため、さらに彼は天井に近いように見える。

 客人を凝視し続ける無礼は犯さず、菊はすぐに視線をたたみの上に置いた指先に落す。

 その菊の姿を見て、与五郎は胸が鳴るように感じた。まだ少女のようだが絵でも見たことがないほどに美しく艶やかだ。落天に連れて来られたこの部屋には女らしい調度が見受けられ、この場所が彼女のものであることはわかる。伽羅の香りがしている。早朝にもかかわらず香を焚き染めたところに、たしなみが匂う。

 示した場所に与五郎が座るのを見届け、向かいに落天が座る。落天の後ろの隅に、菊も座った。

 すぐに菊の係りの女が膳を提げて現れた。湯漬けと僅かな香の物。二膳。与五郎の分と、落天の分である。



 秋が近くなってきたとはいえ、日が昇り始めると気温が上昇する。

 落天と向かい合って湯漬けをさらさらと掻いこんでいる侍が、落天の身内であることは想像がつく。落天より顎が張っているのが違うだけで、面差しは良く似ている。客人を見る菊は不意にその彼と眼が合った。

 与五郎は、その美しい娘と視線が合って、目元だけで微笑んだ。

 菊は、彼の微笑に真夏の空のような青を感じる。好感が持てる男だと思った。

 それにしても、僅かに菊を垣間見ただけの下男を打ちのめすような落天が、何故この客にだけは彼女を会わせようと思ったのか。

「…光が、心配して居った」

落天は不意に言った。

 湯漬の椀から視線を外して、与五郎が落天を見る。雷光を帯びたような視線だ。

「それでどうなさる」

「とりあえずは食って、眠るがいい。この棟には誰も来ない」

「殺せと言われなんだか」

 つつましく眼を伏せていた菊は、物騒な言葉を聞いて思わず目を上げて客人の顔を見た。

「戻ってほしいとは言っていたな」

「あいつはいつもそうだな。甘い…」

「優しいのだと思ってやればよい」

「気弱で用心深く、人の顔色を気にするだけの小心者さ」

 与五郎は吐き捨てるように言い、また椀を口に運んだ。

 湯漬を食べ終わった落天が椀と箸を膳に置く。そのすぐ後に与五郎も同じようにした。

 「それで、」と与五郎はつぶやくように言った。その先は何とも言わなかったが、

「相変わらず痩せていたが、光もそれでもずいぶん丈夫にはなったようだな」

 落天の言葉に、彼は強くうなずいていた。

「父上のことは聞かぬのか」

 少しの沈黙の後、

「儂にとっての父上は、玄蕃様だけだ」

 静かな憤りを隠すように言った。

 彼は、玄蕃頭を称する叔父の家に養子に行っていたことがある。実の父より馬が合ったとはかねてから落天も聞いていた話ではある。



 それから与五郎に湯殿を使わせている間に、菊の寝所に床を延べ、落天はその床に与五郎を寝かせるように指示し、菊には居間にいるようにと命じた。

「この娘ごは…?」

「菊と申す。子ではない」

 端的な落天の説明で、与五郎は納得したようである。

「なるほど、若紫どのか」

 うれしそうに破顔し、

「愛しいものがあるというのは良いことだ」

 そんなことを言った。透き通るような笑顔を見せた。

 落天はその与五郎の顔を悲しいような虚しいような複雑な表情で見た。そなたはどうなのだ、と問おうとしてやめる。



 2・3刻、出かける、と落天は言った。

 日が高くなり、残暑の陽炎が道に沸いている。

 嫌だ、と訴えた菊の眼差しを日差しよりも熱く思い出している。笠の蔭で落天は目もとだけで笑った。

 出かけると言って、落天は屋敷の表から出たのではない。菊の住まいの裏門から密行している。主だった家人は落天の不在には気づいていないだろう。

 落天は、与五郎の着ていたものを身につけている。その姿で裏手から出て、密行とは言いながらも屋敷の見回りの者には目撃させている。出かける前に小物に命じて馬を裏門に繋がせ、今は馬上にある。

 果たして、そんな落天を追ってくる人の姿があった。恐らくは与五郎と思って追ってきているのだろう。与五郎は確かに落天の屋敷に入った時は徒歩であった。追手に馬の用意があれば面倒だと思ったが、幸いその様子はないようだった。

 落天と与五郎は、よく似ている。横に並べて見比べれば差異は明らかだが、単独で、互いの装束を取り替えてしまえば見分けはつかない。

 与五郎が就寝した後で、家の者への手配りを命じてから、落天は菊の手を借りて与五郎に似た形に髷を結わせた。そのうえ与五郎の衣装まで身につけて、刀を帯びて、出かける、という。



 散華なんて少しも美しくなんかない、と菊は鋭く言った。

 落天がもう戻らないのだと菊は思いこんだようだった。ひどく泣いて、取り乱し、落天の袂にすがり、離そうとしなかった。仕方なく、落天は菊の頬を平手で殴った。時間もなかった。

「必ずそなたのところへ戻る。信じよ…」

そう言い聞かせた。取りすがった菊を思い出してふと笑みが浮かぶ。菊に身を案じられていようとは、意外なことである。

 不思議なことだ。菊が彼を失うことを怖れているとは。生意気な、と落天は思う。

 そんな菊の不安は当たっている。

 行こうと思えばこのまま追手を振り切って大坂まで駆けられるかもしれない。このまま行きたい。

 15年前を思い出す。

 確かに戦場を疾駆し、その采配で一軍を進退させ、敵を破った。あの時は暑かったのだろうか。寒かったのだろうか。ただ兜の下の頭はぎりぎりと絞られるように緊張し、耳の後ろに汗が流れていた。奥歯をかみしめすぎて歯の先が少し欠けたことには、戦のあとずいぶん経ってから気がついたものだ。

 敵を倒すこと、家臣を守ること、それだけの単純な思いで駆けた。戦のときは何もかもが単純だった。今は、命を取られる心配をしない分だけ、生きるということの枝葉が様々に交錯して、風が吹けばますます絡まるようで複雑なものになってしまっている。



 気づけば、いつの間にか目的の場所に落天は着いていた。

 馬は疾駆させたわけではないが、落天の住まいもこの屋敷も、同じ洛中である。近い。

 何者か、と誰何する門番に、軽く笠を傾けて顔を見せる。彼らは一歩も二歩も後ずさって跪いた。本来ならば彼らの主になるはずだった、落天なのである。

 「監物は居るか」と落天は訊いた。

「お珍しいい出立ちですな」

 呼び出された監物という三〇年輩の男は、旅装と見える落天の姿にきな臭い顔をして見せた。

「所望がある」

 表情を変えることなく、落天は監物に着替えを持ってくるように言った。人もなげにその場で落天は手甲を外し、皮の足袋をも脱ぎ捨てている。

「千影を置いてまいる。いずれ取りに来るが、今日は代わりの馬を貸せ」

 そう言いながら、監物の後姿を見送る。それから落天は着ているものをすっかり脱いでしまった。

 監物が着替えを持って現れた時、下帯一つの落天は扇で体に風を送っていた。

「今夕、この装束を持って我が家へ来るのだ。表門から参ってはならぬ。北西の端に裏門がある故、そこから入るのだ」

 立ち上がった落天の肩に萌黄色の着物を着せかけながら、監物は彼の言葉を追う。何を命じられているのかさっぱりわからない。

 これは、と足元の装束を眼で示しながら落天は言った。

「与五郎のだ。監物」

 足元の帯を取って落天に手渡した監物の、その動作の一切が止まる。彼の項の毛が逆立ったのを落天は確かに見た。

「守ってやってくれ」

 願いではあったが、落天の口から出れば、監物にとっては命令になる。

 今の彼の暮らしは知らないが、もしかするとむごい命ではなかったか。またたきの中に菊の顔を思い浮かべてそんな危惧を抱いた落天に対し、莞爾として笑う監物は拳を膝前について深々と頭を下げた。落天や与五郎のように長身ではないものの、たゆまずに鍛え上げた筋骨をしている。

 いつの間にか逞しくなったものだ、と思う。彼は落天より六年若い。落天の記憶の中では、与五郎になついてついて回っていた一族の末の頼りない少年という印象しかなかった。

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