春想亭 桜木春緒

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 良いか、と落天は茫然と頬を押さえた菊の目をのぞきこんで言った。

 日が落ちるまで与五郎をこの棟から出してはならぬ。そして家人にはこの部屋にいるのは自分だと思わせるのだ、と落天は命じて言った。

 「必ずそなたのところへ戻る。信じよ…」その言葉は真実なのだろうか。

 真実であってほしい。菊は胸を押さえて切望した。ただ震えるような思いで落天の帰りを待っている。

 与五郎は源氏物語の若紫に菊をなぞらえて言った。「愛しいものがあるというのは良いことだ」と。そのときの落天は、否定も肯定もしなかった。ただ少しほろ苦いような顔をした。

 愛しい、とは落天の口から聞いたことはない。ほぼ毎夜のように落天は菊を欲するが、彼は愛しいとは言わない。かといって菊を、その身体を酷く扱うこともない。悩乱しながら菊を賞賛し、良い、と口走ることはあるが、愛しいとか、そういう慈しむような言葉を菊に向けて言ってくれたことはない。

 では、とも思う。菊は、どうなのだろうか。落天が愛しいのだろうか。

 落天は菊にとっての天地の全てと言っていい。5年前に彼に引き取られたときが、不本意な、異様な関わりの始まりではあった。淫靡なことを強制され、恐怖と屈辱で逃げ出したいと思ったことも再三ある。

 しかし、落天の怒り、憂い、その悦楽、彼の一つ一つの表情を菊は思い起こすことができる。今となってはこの後の生涯に彼のそんな表情がないことを想像すると、底知れぬ暗闇に裸で立たされたような寂寞とした恐ろしさを感じる。

 それが愛しいと言うことなのかどうかは、菊にはよくわからない。



 考え事はすぐに中断した。

 与五郎が眼を覚まして、寝室から菊のいる居間の襖を開けた。

「お目覚めでございますか」

「うむ、菊どのか」

 彼の髷が少し乱れている。

 落天の浴衣を着ている。そもそも与五郎が来ていた着物は、今ここにはない。落天が身に着けて出かけてしまった。

 出かけた先を菊は知らない。

「お召し替えをなさいますか?」

 膝の前に手を軽くついて、与五郎に訊く。

 伸びをしながら彼はうなずき、頼みましょうと言った。

「これは…?儂の着物ではないようだが」

「はい…」

 少し視線を揺らがせながら、菊は引き寄せた乱れ箱の中を見る。確かに、そこに入っているのは落天の物である。

「これを、と申しつかっております」

「困りましたな。それではお暇いたしかねる。…兄上はいずこに」

「ひとときほど、外出すると申しておりました」

 答えながら、菊は初めてこの男が落天の弟であると確認した。しかしまだ名前は聞いていない。落天は、彼には菊を紹介したが、菊に彼のことを話してはくれなかった。

「外出…?」

「さようでございます。戻るまで、必ずあなた様をここから出さぬようにと」

 緊張をみなぎらせた顔で菊は与五郎を見上げている。

 与五郎は戸惑った。

 兄は、どこへ出かけたというのだろう。だが、菊を与五郎の身近に残したということは、つまり与五郎に対して害意はないということなのだろうか。

 敷居を越えずに与五郎はその場に胡坐をかいた。

「いずこへ行かれたか」

「申し訳ありませんが存じませぬ。ただ…」

 膝の上で菊の指が少し曲がる。拳を握ったのだろう。

「ただ?」

「必ず戻ります」

 当たり前のことを、と与五郎は嘆息する。

 それなのに菊は何を張り詰めた声で必ず戻るなどというのだろう。

「戻らぬ疑いをお持ちか、菊どの?」

 その言葉に、菊は、はっと顔をあげて与五郎を見た。眼差しに潤みがある。

 なんと美しいのだろう、とその憂い姿の菊を見て与五郎は感心した。

 小さく繊細な輪郭の中に危ういほどに大きな双眸がある。その睫毛の華やかな彩りが濡れ濡れとして、白い頬に濃い影を落としていた。端麗な容貌を、指の先の角度にまで神経を行き届かせるような、細やかに躾けられた仕草がさらに引き立てる。顎の引きよう、背筋の伸びようも、まるで気高い花が風にそよぐような美しさだ。

 わずかに顎を震わせて、必ず戻るとおっしゃったのです、と菊は言う。

「では何故、疑う?」

「…あなた様のほうがおわかりなのではありませんか?私には、落天様のことで解ることなど、ありませんから」

「兄上に寵愛されているのではないのか?」

「ご自分の事は何もおっしゃいません」

 与五郎は納得した。確かに、自分自身の事をくどくどと語る落天の姿を想像できない。



「兄上は、儂をここから出すなと、言われたのだな」

「左様でございます」

「ならば是非もない。儂も兄上を待つしかないのだろう。しかし、菊どの、少し離れてはくれぬか」

「は?」

 そもそも菊は起き出した与五郎の着替えを手伝おうとして彼のすぐそばに座っている。

「こう、手の届く位置に居られては、抱いてしまいたくなる。それでは困るでしょう。菊どのが」

 自分としてはむしろ望むところなのだが、と明るく笑う与五郎の声に、菊は膝を少し上げてつま先を中心に体を返し、後へ去った。典雅な舞のような動作だ。

 このときの菊は浅葱色の小袖に、白と藍の大きな市松模様の打掛を腰巻きにまとっている。清々しい色彩の菊を、与五郎は目の保養だと思って見た。

「そのくらい離れておれば、話もしやすいというものだ」

 胡坐の膝に肘を置き、それを頬杖にして与五郎は楽しげに菊を眺めている。

「ところで菊どのは、いくつになられる?」

「17でございます」

「若いな。なんと羨ましいことだ。いつから兄上の?」

「ここに参りましてからは、5年経ちます」

「…それは」

 いくらなんでも幼すぎる者に、兄は何をしたのだと言わんばかりのきなくさい顔をした与五郎に、

「ご寵をいただいたのはこの春です」

 あわてて言い訳をするように菊は言った。頬を紅くした。言わずもがなのことだったと後悔する。

「それなら良かった。いくらなんでも兄上が其処まで壊れたとは思わなんだが」

 いかにも安堵した様子の与五郎を菊は少し面憎く思う。

 確かに破瓜されたのはこの春だったが、それまでの5年の間も、その幼い菊に対して落天が為していたことは、壊れたような行いではなかったか。あの屈従の日々を知らないから、与五郎は安堵の笑みを浮かべられるのだ。

「ここへ参りましてから、菊、と呼ばれるようになりましたが、本当は違うのです」

 せめて、と自分が矯められたことをそんなことだけでも訴えてみたくなった。

 習い事の師匠は落天の影響下にある者ばかりで、辛いことがあっても、訊きたいことがあってもそれを彼らに向かって口にすることを憚ってきた。だが、この与五郎はどうやら違う。落天の埒外にある。

「そもそもは……と申しました」

「なんと…?」

 与五郎は頬杖を止めて膝の上で拳を握り締めた。眉を寄せ、眼を見開いている。

 菊は、自分が告げた本当の名が、それほどの驚きを彼にもたらしたことで逆に狼狽した。

 それでは、菊と呼ぶしかなかっただろう、と与五郎は言う。

「それは兄上の奥方の名だ」

「…奥方様?」

 与五郎の言葉を反復してから、菊は愕然となった。



 知らなかった。

 落天に妻が在ったことなど、菊は全く知らないことだった。

「…だから、私はこの棟から一切出ることが許されなかったのでしょうか?」

「いや、それはわからぬ。…え?知らなかったのか?これはまずいことを話したな」

「いえ、…教えてくださいませ。知りとうございます」

「何を」

「奥方様の事も、…他のことも。この屋敷に居られるのですか?」

 それを訊かれて、与五郎は、菊が本当に何も知らないのだということがよく解った。

 ここには居ない、と与五郎は言った。

 詳しくは知らないが、と前置きをして話す。



 落天が結婚をしたのは、彼が今の菊と同じ17歳のときで、妻は同年であった。

 妻の実家はいわゆる「豊臣恩顧」の大大名であり、その時は実に良縁と思われた。しかし関ヶ原の戦い以後はその縁が仇となったのだろう。

「…お家の名を、存じません」

「ならばそのまま知らぬものとするがいい。ともかくそういうことだ。我が家と、その家との縁が、江戸の不興を招くだろうと父は思ったのだろう」

 他にも諸事情はあったのだが、最大の理由は恐らく次期天下人と目される徳川からの不興をかわすために、落天は父から妻の離縁を迫られたのだという。

「兄上は、離縁を拒んだ。…それゆえに廃嫡となったのだ」

「わかりませぬ。それならば離縁なさらなかった?」

「そうだ。お互いに顔も知らぬままに夫婦となったのに、兄も義姉も、本当に相愛の仲で、実に睦まじかった。離縁を命じられて、兄は身を危険にさらしながら自分自身で処方に奔走して何とかそれを避けようとしておられた。だが、父は離縁せぬなら是非もなし、と言って結局は兄を廃し、弟を嫡子と成した。…徳川の娘を妻に持った、弟を、だ。」

 語尾が低くなる。落天の次の男子は与五郎だった。そこを飛び越えて三男にお鉢が回ったのは、まさに彼が言ったとおりの事情による。

「では、奥方様は…?」

「そう。蟄居ののちも仲良く暮らしておられた。だが、そう。お幸せであったかどうかは何ともいえないな…」

 与五郎は仏壇にある甥と姪の小さな位牌の話をした。

 彼の話の途中で、菊は悲痛な顔になって口元を両手で覆った。眼に涙が膨れ上がる。

 廃嫡されてから数年の後、妻の実家の者が強制的に彼女を落天のもとから連れ去って、一族の者に再嫁させてしまったという。罪人のように蟄居させられた男のもとになど、いつまでも置いておけないという言い分だった。



「先方もまた、徳川の目と耳を憚ったものだと看える」

「ひどい…」

「菊もそう思うかね」

 与五郎に低い声で尋ねられて菊は強くうなずいた。

「そうまでして権力にへつらわねば家を生き残らせることができぬ。馬鹿馬鹿しいが、今はそういう世の中らしい。しかし耐え難いと思うことも間違っているとは言えないはずだ。人として、譲れない、許せないことということは確かにある。それが天下に逆らうことであっても、敵わぬまでも手を上げなければならないことは、確かにあるんだ」

「解ります。そのお気持ちはよくわかります。ですが」

 与五郎が熱く語る、敵わぬまでも戦うという理由を聞いても、その意味が理解できても、菊は言いたいことがあった。

「それでも生きていてほしいと、思うのは間違いでしょうか?私の身勝手ですか?許せぬことのために戦って敵わぬゆえに命を散らすことを望むのは、痛快ではありましょうが、後に残る者の悲しみをあまりにも知らないことだと思います」

 ざ、と衣擦れの音を立てて膝を進め、与五郎の前にひれ伏す。

「お願いですから、落天様を連れていかないで下さいませ。どうか…。あなた様も大坂になど行かないで下さいませ。遺されて悲しむ者が、愛しい者がおありでしょう?」



 そのとき、静かな足音とともに落天が現れた。

 戸惑った顔で眉根を寄せた与五郎の胡坐の前に、菊がひれ伏している。

「何をしている?」

 異様な光景に思わず尋ねた。

 菊は素早く立ち上がり、落天が開けかけた襖に手を添えて引く。そのまま、と命じられて開け放したままにする。

 涼しい夕風が舞い込んだ。いつの間にか黄昏時を越えている。

 出かけた時と衣装が違っている。あまり彼の好みでもなさそうな萌黄色の着物をまとっていた。

「まだ起きたばかりか?」

 着替えていない与五郎の姿を見て訊く。

「左様。つい先ほど」

「顔を洗って着替えるがいい。すぐに監物が来る」

 眉をあげて与五郎は鋭く落天を見上げた。

「監物が、なにゆえに」

「目が覚めたか。そなたに付いて行かせる」

 さあ、と落天は与五郎を促す。

 落天がこの部屋を開けたときの陰りが、与五郎の目から消えた。兄を見上げる眼差しに不敵な光が生じた。



 与五郎が湯殿へ去った後、

「敵わぬまでも、許せぬことのために戦うのだとおっしゃいました」

 菊は落天の足元で、彼のほうを見ることなく呟いた。項垂れている。

 落天は、出かけるときから作っていた髷をほどいて、髪を指で梳いた。

 下を向いたままで、菊は寒気でも有るかのように、腿を掌で摩擦している。無意識の動作のようで、落ち着きのない子供の姿に見えた。か細い震え声が、落天様、と呼んだ。

「大坂へいらっしゃるのでしょう…?」

項垂れたまま落天の顔を見ずに、確信めいたものを帯びて菊は呟いた。

 ただ廃嫡になったのみならず、落天は相愛だった妻さえも徳川方の遠意によって奪われたのだと今聞いた。授かった子も、既に位牌の中に居るという。後顧の憂いはない。彼を迫害したその生家と、天下に一矢報いるために、今ほどの好機もあるまい。

 考えれば考えるほど、菊には落天を止める理由が見つからない。

 ただ、行かないで欲しい。生きていて欲しい。菊のその願望が彼への抑止になりえるかどうか、自信はなかった。

 数瞬の沈黙を、菊はどれほど長く感じただろう。これより長く落天の声が降って来なければ、菊は、彼が出かけたときのように泣いて取り乱したかもしれない。

 そんな菊の顎の先が、頭上から見下ろす落天から見えた。ありありと震えている。菊が震えているのは、落天を失うのではないかという恐れなのか。

 ならばその疑いは、あたらない。

 大坂へ行くのかという菊の問いに、落天は低く落ち着いた声で答えを出した。



 「与五郎は、行く」

 息を呑んだ菊の気管の音が聞こえるようだった。

「むごい兄だと思うか」

 菊を見下ろした落天の背後に紫紺の空がある。間近で見上げたのに、暗くて彼の表情は見えなかった。

 首を横に振りながら、菊は泣く様な笑うような顔をしていた。

「それをお聞きして嬉しく思う私も、むごいものです」

 与五郎は行くのだ。敵わぬと知れきった戦いに行く。だが、落天は行かない。それを菊は安堵と共に聞いた。彼を失わなくてすむのだと、心の底から嬉しかった。その残酷な喜びが、与五郎に対して申し訳ないような気持ちにもなる。

 菊が落天を失うのではないかと怖れたように、与五郎を失いたくないと願った誰かは在ったのだろうか。それを思うと、菊は胸が痛んだ。



 初更。

 落天が手ずから開けておいた屋敷の北西の門から、ひそひそとした足音が数個。

 菊の居間の開け放たれた戸の前の庭に、拝跪した影が5つある。

 先程指図されたとおりに、菊は隣の間に退いた。

「監物か…」

 感に堪えぬように与五郎は居間を出て、濡れ縁から飛び降りた。

 落天は、与五郎の後にゆっくりと居間を出る。

「それは?」

 僅かに久闊を叙した後、与五郎は監物の傍らに置かれた箱に目を置いて訊いた。

「…内記様より、託されてございます」

「光に?」

 監物の言う内記とは、落天と与五郎が光という幼名で呼ぶ弟、すなわち彼らの家の現在の世子の別称である。

「左様でございます。殿様より遣わされました具足でござります」

「父上が?まさか…!」

 打ち震えるほどに与五郎は驚愕した。

 がば、と身体ごと落天のほうを振り仰ぐ。

 濡れ縁の上で、落天は緩やかに頷いた。彼は、知っていた。



 晩春に、菊の茶室を訪れた客人、すなわち落天らの弟であるところの光が、そのことを託していった。

 処方に気を使う性質の弟は、痩せた肩を震わせて落天に頭を下げた。荷が重い、器ではない、申し訳がない…、彼は落天の前で他の者には聞かせられぬ弱音を吐いていた。長兄に甘える末弟、それだけの姿だった。

 その傍らで、京の本邸に隠し置いた鎧櫃のことを告げた。

「父上が与五郎兄上のために工夫されたのだとおっしゃっていました。念のため、兄上にもお頼みいたします。もしこちらにおいでになったときのことを…」

 そして、本邸には与五郎と縁の深い監物を配することを、落天は弟に依頼した。

 兄が廃嫡され、世子に弟が立てられ、そのときに出奔した与五郎である。そもそも折り合いが悪かった実父とは、出奔後10年、一切の音信は絶っていた。

 我が父は、玄蕃様だけである、と与五郎は叔父であり養父であった人のことをそう言っていた。しかし、それでも実の父に対して、何らかの感情がなかったとは言えない。



 その思いが、鎧櫃を撫でる与五郎の指先を震わせていた。

「与五郎…」

 庭に下り、身をかがめた与五郎の後ろから落天は彼を呼ぶ。右手に大刀を提げている。

「これは俺からだ。二代和泉守兼定。斬れるぞ」

「ありがたく…」

 両手で掲げて恭しく与五郎は受け取った。

 兼定は、祖父も父も愛用していた刀匠で、家に数振あるうちの一振が落天の手元にあった。これが、それだ。二尺一寸、長くはないが扱いやすく、何より斬れる。実用本位の業物であった。

 それから落天は、腰に差した短刀を鞘ごと抜き、監物に与える。

「頼んだぞ」

と言い添えた。

 監物は剛毅な笑みのまま、かたじけなし、と頭を下げた。



 落天は、監物が忍んできた北西の門の外まで彼らを送った。

「与五郎…」

立ち去るその前に、弟を呼び止めた。

 抱かせてくれ、と落天は言い、与五郎の首に右腕を回す。がっしりした肩は、落天を凌ぐ頼もしさである。

「刀も甲冑も、正しく使え。どちらもお前の身を守るものだ」

 良いか、わかったな、と念を押す。

 何度も与五郎が頷いた気配がした。三〇年前に戻ったかのように、幼い仕草だと落天は思った。

「堅固でな、与五郎」

「兄上もどうぞ息災で…」

 それが兄弟で交わした最後の言葉になった。

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