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第二章
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宿は、と問う。
月子は着物を着替えた船宿を示した。
顔から火が出るような心地で、宿の女将に見送られながら、源治の後に付いて二階へ上がる。狭い階段の、黒ずんだ段がぎしぎしと鳴る。部屋には床が敷かれていた。
月子は褥(しとね)の端に立ちすくむ。彼女に背を向けて、源治は寝床の上に座る。
下男がひっそりと入ってきて、無言で火鉢と鉄瓶を置いていった。
鉄瓶の外に付着した水滴が、ちり、と蒸発する音がする。
一度座ったのに、源治はまた立ち上がった。
彼の挙措に、怯えのようなものを漂わせる月子がわかる。手を伸ばしかねる。
(やめよう、やはり……)
何度も、そう思いながら源治はここに居る。
月子を寝かせ、そのまま出て行けば良い。そうするべきだと思う。月子は取り乱しているのだと源治は思っている。横にでもなって少し落ち着けば、黙って、帰るかもしれない。
どれほどの窮乏か、源治は詳しく畑野に尋ねたことはない。しかしこのように月子が城下の繁華街に春をひさぎに来るようでは、よほどのことなのだろう。
先ほど、女衒のような男に五両を渡した。そのうちの何割が月子の取り分になるのか解らないが、少しでも足しになるようであれば良い。
また明後日には源治は江戸に帰らなければならない。人を伴って行く待ち合わせをしていた。二日後の辰の刻には、川口の渡し場に着いている必要があった。
密かな文の使いとしての今回の作業はほぼ終わっている。明日は表の商売としての貸本屋の仕事の残りを、周囲に怪しまれないようにこなし、その仕事を終えた後、明後日には人を伴って江戸に帰る。
江戸に帰ったら、源治は、畑野も属するその一派の領袖である「鳳雛」に、窮状にある畑野家への援助を掛け合おうと思っている。そうすれば月子は、もう身体を売るような真似をしなくても良い。
そうするのであれば、源治は、ここで月子に手を出すべきではないのかもしれない。
初めては、貴方が良い。
月子の言葉を耳にした瞬間に胸の底に点った火を、源治は未だに消すことが出来てはいない。
手を出すべきではないと理性が言う。
だが、月子は、源治に身を委ねることをもう決めているようだ。自暴自棄のようなものなのかもしれない。その自棄に、乗じて良いものなのか、どうか。
しかし、もし源治が月子に触れなかったとして、それでも月子が家に帰らなかったのだとしたら、恐らく明日には、誰とも知らない惨い男に、いくばくかの金銭と引き換えで月子は乙女を破られるのだろうか。
見ず知らずの者にそのようにされるのであれば、最初はせめて、顔見知りの男が良いと考えたのか。
しかし、もし今、源治が月子を抱くことなく源治の言うとおりに家に帰っていくのだとしたら、そのまま月子は身を売ることをやめることになるだろうか。
だがもし、畑野家への援助を、と源治が申し出たとしてそれが間に合わないのだとしたら、月子は、いずれ、誰とも知らぬ男に身体を売るようになるのか。
もしそうなるのなら、今、月子の言うように源治はするべきなのだろうか。
もし。
わずかの時のあいだに、源治の脳裏には限りなく言葉がさまざまの矛盾を帯びて回った。
もう月子は決めているではないか。源治の胸の奥でそんな声がする。
彼女に手を出さずにいるべき理由がどこにあるだろう。
貴方が良い。
つい先ほど、月子はそう言ったではないか。
ならば。
否。
どうすれば、良い。
この人とのかかわりはいつからだろうと月子は思う。
源治と初めて言葉を交わしたのは、父の在宅を尋ねてきた時だった。
笑顔が優しく、よく陽に焼けた肌に微笑んだ歯が際立って白く、飄然と涼しげな風を纏ったように見えた。月子に向けられる源治の表情は、いつもそんな笑顔だった。
貸本屋であろうとは見知っている。だが、しなやかな体つきの物腰や言葉遣いにどこか節度があった。都会的な口調で話すものの、その贅肉のない風貌に浮薄な雰囲気はない。少女の月子にも敬意を払ってくれていた。そんな彼を商人風情と軽視する気持ちにはならなかった。言葉を交わしていても快かった。
月子の暮らす周囲には見かけない、異質の青年であった。
褥の端で月子はただおののいて立ち竦んでいる。
一旦座して、また立ち上がった源治を震えるような眼差しで見上げていた。
眉を寄せ目をそばめ、唇を引き結んだ顔で、源治は月子を見ている。彼のこんな表情は初めて見るものだ。
恋というものを、月子は知らない。
だが、今、こうして源治と向かい合っていて思う。困惑した彼の顔を見上げて、感じる。泣くほどに目の前の源治に縋り付きたい思いに駆られている。
これは、こういう思いが、恋ではあるまいか。
褥を踏みしめて、ただ沈黙のまま、向き合って立ち尽くして……。
月子の右手が上がる。
緩慢に動く細い指先を、源治は見るともなく目で追った。ゆらりと伸ばされた指は、そっと、源治の袂を捕えて、引いた。
月子の頼りない身体を、源治の腕が抱き寄せた。額に触れ、借り物の頭巾を落とした。露になった頬に両手を置く。
ためらいがまだ胸にある。
塞き上げるような激しさで、源治は月子の唇をむさぼった。乾いた唇が触れる。慄いた硬い感触を、ときほぐすように舌先で撫でた。
膝をついて、横倒しになった。唇の隙間で、月子が呼吸を忘れたような声で呻いた。
「今なら、まだ止められる」
自らに言い聞かせるように、唇を離した源治が言った。
彼の身体の下で、月子の手が自らの胸の上を押さえている。襟元を開かぬように押さえている。それを暴きたい。それを暴いてはならない。相反する思いとともに、源治は月子を見下ろす。慄いた睫毛が震えている。
「怖いか? 怖いだろう? やめよう、やはり」
呼吸の音が耳に付く。眼下の少女を、欲している。
それでも、その欲望を捨てるべきだと心の上澄みの彼が言う。
月子は着物を着替えた船宿を示した。
顔から火が出るような心地で、宿の女将に見送られながら、源治の後に付いて二階へ上がる。狭い階段の、黒ずんだ段がぎしぎしと鳴る。部屋には床が敷かれていた。
月子は褥(しとね)の端に立ちすくむ。彼女に背を向けて、源治は寝床の上に座る。
下男がひっそりと入ってきて、無言で火鉢と鉄瓶を置いていった。
鉄瓶の外に付着した水滴が、ちり、と蒸発する音がする。
一度座ったのに、源治はまた立ち上がった。
彼の挙措に、怯えのようなものを漂わせる月子がわかる。手を伸ばしかねる。
(やめよう、やはり……)
何度も、そう思いながら源治はここに居る。
月子を寝かせ、そのまま出て行けば良い。そうするべきだと思う。月子は取り乱しているのだと源治は思っている。横にでもなって少し落ち着けば、黙って、帰るかもしれない。
どれほどの窮乏か、源治は詳しく畑野に尋ねたことはない。しかしこのように月子が城下の繁華街に春をひさぎに来るようでは、よほどのことなのだろう。
先ほど、女衒のような男に五両を渡した。そのうちの何割が月子の取り分になるのか解らないが、少しでも足しになるようであれば良い。
また明後日には源治は江戸に帰らなければならない。人を伴って行く待ち合わせをしていた。二日後の辰の刻には、川口の渡し場に着いている必要があった。
密かな文の使いとしての今回の作業はほぼ終わっている。明日は表の商売としての貸本屋の仕事の残りを、周囲に怪しまれないようにこなし、その仕事を終えた後、明後日には人を伴って江戸に帰る。
江戸に帰ったら、源治は、畑野も属するその一派の領袖である「鳳雛」に、窮状にある畑野家への援助を掛け合おうと思っている。そうすれば月子は、もう身体を売るような真似をしなくても良い。
そうするのであれば、源治は、ここで月子に手を出すべきではないのかもしれない。
初めては、貴方が良い。
月子の言葉を耳にした瞬間に胸の底に点った火を、源治は未だに消すことが出来てはいない。
手を出すべきではないと理性が言う。
だが、月子は、源治に身を委ねることをもう決めているようだ。自暴自棄のようなものなのかもしれない。その自棄に、乗じて良いものなのか、どうか。
しかし、もし源治が月子に触れなかったとして、それでも月子が家に帰らなかったのだとしたら、恐らく明日には、誰とも知らない惨い男に、いくばくかの金銭と引き換えで月子は乙女を破られるのだろうか。
見ず知らずの者にそのようにされるのであれば、最初はせめて、顔見知りの男が良いと考えたのか。
しかし、もし今、源治が月子を抱くことなく源治の言うとおりに家に帰っていくのだとしたら、そのまま月子は身を売ることをやめることになるだろうか。
だがもし、畑野家への援助を、と源治が申し出たとしてそれが間に合わないのだとしたら、月子は、いずれ、誰とも知らぬ男に身体を売るようになるのか。
もしそうなるのなら、今、月子の言うように源治はするべきなのだろうか。
もし。
わずかの時のあいだに、源治の脳裏には限りなく言葉がさまざまの矛盾を帯びて回った。
もう月子は決めているではないか。源治の胸の奥でそんな声がする。
彼女に手を出さずにいるべき理由がどこにあるだろう。
貴方が良い。
つい先ほど、月子はそう言ったではないか。
ならば。
否。
どうすれば、良い。
この人とのかかわりはいつからだろうと月子は思う。
源治と初めて言葉を交わしたのは、父の在宅を尋ねてきた時だった。
笑顔が優しく、よく陽に焼けた肌に微笑んだ歯が際立って白く、飄然と涼しげな風を纏ったように見えた。月子に向けられる源治の表情は、いつもそんな笑顔だった。
貸本屋であろうとは見知っている。だが、しなやかな体つきの物腰や言葉遣いにどこか節度があった。都会的な口調で話すものの、その贅肉のない風貌に浮薄な雰囲気はない。少女の月子にも敬意を払ってくれていた。そんな彼を商人風情と軽視する気持ちにはならなかった。言葉を交わしていても快かった。
月子の暮らす周囲には見かけない、異質の青年であった。
褥の端で月子はただおののいて立ち竦んでいる。
一旦座して、また立ち上がった源治を震えるような眼差しで見上げていた。
眉を寄せ目をそばめ、唇を引き結んだ顔で、源治は月子を見ている。彼のこんな表情は初めて見るものだ。
恋というものを、月子は知らない。
だが、今、こうして源治と向かい合っていて思う。困惑した彼の顔を見上げて、感じる。泣くほどに目の前の源治に縋り付きたい思いに駆られている。
これは、こういう思いが、恋ではあるまいか。
褥を踏みしめて、ただ沈黙のまま、向き合って立ち尽くして……。
月子の右手が上がる。
緩慢に動く細い指先を、源治は見るともなく目で追った。ゆらりと伸ばされた指は、そっと、源治の袂を捕えて、引いた。
月子の頼りない身体を、源治の腕が抱き寄せた。額に触れ、借り物の頭巾を落とした。露になった頬に両手を置く。
ためらいがまだ胸にある。
塞き上げるような激しさで、源治は月子の唇をむさぼった。乾いた唇が触れる。慄いた硬い感触を、ときほぐすように舌先で撫でた。
膝をついて、横倒しになった。唇の隙間で、月子が呼吸を忘れたような声で呻いた。
「今なら、まだ止められる」
自らに言い聞かせるように、唇を離した源治が言った。
彼の身体の下で、月子の手が自らの胸の上を押さえている。襟元を開かぬように押さえている。それを暴きたい。それを暴いてはならない。相反する思いとともに、源治は月子を見下ろす。慄いた睫毛が震えている。
「怖いか? 怖いだろう? やめよう、やはり」
呼吸の音が耳に付く。眼下の少女を、欲している。
それでも、その欲望を捨てるべきだと心の上澄みの彼が言う。
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