おぼろ月

春想亭 桜木春緒

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第二章

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 源治は貸本屋として、城下を歩く。
 顧客に、彼の属する一派とは仇敵に当たる現在の執政の藤崎家があるのは皮肉な話である。

「余分なことはしなくて良い」
 江戸に居る領袖の「鳳雛」こと鳥越宗右衛門直宏にも、国許で源治に指示を与える立場である中老の笹生平太夫にもそれは言われていた。鳥越と笹生は、月子の父の畑野と共に、今の殿様がまだ若君だったころに小姓として上がっていた仲間である。
 声がかかって藤崎家に初めて入った後、そのことを笹生に相談した。そのときにそれは厳命されている。江戸に戻って鳥越に復命した後にも強く言われた。あくまで、貸本屋に徹せよ、ということだった。
 裏を返せばそれだけ源治の偽装が上等だということでもあるだろう。彼の話を聞いた笹生にしろ鳥越にしろ、その後に話をした畑野にしろ、ほくそえんだことは想像に難くない。
 藤崎を探るための人員は他に居る。それに源治の役目は江戸と国許を怪しまれずに往復することが最も重要であり、余分な動きをして怪しまれてはならない。藤崎の家に出入りするときはあくまで源治はただの貸本屋になりきっている。

「商売になるのかね?」
 藤崎家の門番が居る小部屋で江戸から持ってきた本などを広げたときに、訊かれたことがある。
「なりますよ。皆様に重宝していただいています」
 往復の旅費を差し引いても、それなりの稼ぎになると重ねた書物を見ながら言い置いた。
 源治が持参するのは田舎では出回らない物も多く、それゆえに商売になる。純粋に本を貸すだけではなく、頼まれて買い付けてくるものを、少しの手数料めいたものを上乗せして売る事もある。鷹揚な客ならばそこに心づけを多分に足してくれることもある。
 書物のほかに、錦絵なども束で持ってきている。ことに淫靡で刺激的な枕絵などは存外な高額にふっかけても買い手は多いものだ。荷としては軽く、高値で捌けるために重宝な品である。むしろそちらを待ち望んでいる客も多いくらいだ。
 とはいえ商売であるから、必ずしも稼ぎが多いとも限らない。たまさかには足が出ることもある。
 しかし源治の場合は江戸と国許を往復するための偽装での稼業であるから、旅費のようなものはもともと彼の負担ではない。収入の多寡はあまり問題にはならないのである。だがそれを関係のない者には悟られないようにするべき気遣いだけは忘れない。
「どうも旅が好きなようでしてね。それに、父がこの近くの出で」
江戸にばかりじっとしていられないので、気が向くと縁のあるこの辺りの地を訪ねるのだと、不審がる者にはそう言っている。

 宵の口に、源治は月子に告げた通り、船宿に再び現れた。また旅籠に荷物を預けて置いてある。
 月子は約束通りにその場に居た。
 その事に安堵を覚えて、源治は少し微笑んだ。微笑んで、すぐに笑みを消す。
 こんな宿に、隣の部屋から乳繰り合う男女の喘ぎ声が聞こえるような場所に、月子が居ることなど、安堵に値することではない。笑える事ではないと思った。
 朝、目覚めた月子と目線が合った。途端に彼女は目を伏せてうつむいた。その頬が、瞬時、桃色に染まったのを源治は知っている。月子が見せた恥じらいの眼差しと、その愛らしさに胸が痛いようだった。嫌われていないと、嬉しくなった。
 浮かれたような心地の中で、それを喜ばしく感じてはいけないと自らを戒める。

「月子さん」
 と、呼ぶ。
 月子、と昨夜は何度、彼女の名を呼び捨てたことだろう。思い出してはいけないことだ。
 それゆえに、わざと源治は他人行儀な口を利いていた。
 目を上げて月子が真っ直ぐに彼を見た。眉の陰に痛いような色がある。
「ずっと、ここに居ましたか?」
「はい……。いえ、部屋の外には出ました」
 掃除をしたのだと言った。
 それでは、と源治は言う。
「何か、召し上がりましたか」
 ひどく丁寧な口調である。月子は唇を結んでただ首を横に振った。

 他の、月子と同じ山奥の里から来た美知江たちと共に、この船宿の清掃を手伝ったのだという。その手伝いと、商売の上がりの何割かが、宿を使用する条件であるらしい。
 黙々と、月子は働いた。わずかな身じろぎの時に、身体の芯に走った疼痛のことを、源治には告げられない。否、誰にも言えないと思う。
 眉間に皺を寄せ、気遣わしげに美知江が月子を見た。少し微笑んで、月子はそのまま何も言わずに労働に従事した。
 食事などは支給されるものではない。女たちは前日に客から渡されたものか、わずかに持参したものか、銭を払ってそれを購っている。
 源治は、監視役の男に金は払ったが、月子には何も渡していない。
 ゆえに月子は、持ち合わせが無かった。黙って白湯だけを飲んでいた。空腹には慣れている。そのことにはさして苦痛を感じなかった。湯が沸いているだけありがたいと思ったくらいだ。

 月子さん、と再び源治が言う。 
 源治の丁寧な言葉遣いが、月子には遠くに聞こえる。寂しさを覚えた。
「よろしかったら……」
 そう言って、懐から竹皮の包みを取り出す。白米に塩を振って握って海苔を巻いただけの握り飯だ。旅籠を出るときに、宿の者に依頼して作ってもらった。
(きっと空腹でいるだろう)
 辻で客を拾って身を売るような女のおおむねの事情は、三十路手前の年頃である源治は世間知としてわかっている。それを思い出したのが昼を過ぎた頃で、それゆえに月子に直に銭を渡さなかったことを後悔した。
 そっと腕を伸ばして、月子にそのお結びを差し出した。源治は、月子から四尺くらい離れて座っていて、それ以上は近寄るまいとしている。
「源治さんの分は?」
「食べてきました。それは月子さんに。どうぞ召し上がってください」
 食事を摂ってきたのはうそではない。
 それでも月子は怪訝な顔をして源治を見ている。眉根を少し曇らせて、潤んだような大きな目が彼を捉えている。
「本当ですよ。お腹は一杯ですから、どうぞ遠慮なさらず召し上がってください」
「では、頂きます」
 月子は、源治が空腹を我慢して自分に食料を譲ったのかと疑っているのだろうと、彼は思った。
 大きな口を開けた月子の白い歯が、お結びに噛み付いた。
 あどけない食べっぷりに、思わず源治は破顔する。

 源治は、食餌を月子に与えたら旅籠に帰ろうと思って来ている。もういけない、と思っている。
 昨夜のことも、あれは本当では無かったことにしてしまわなければならないだろう。
 月子にはもう会ってはいけない。仮に会ったとしても、触れるべきではない。何もしてはいけないと思う。
 しかし。源治は、彼を制止する心の上澄みの下の、澱みの声を微かに聞いた。
 欲しくは無いのか、と。

 その言い訳に、お結びを持ってきている。そういう善意の皮で、どろりと沸き上がる欲望めいたものを包んだ。
 月子が食べ終わるのを見届けたら、旅籠に帰ろうと源治は思って来ている。米を頬張る彼女の顔を、見守りながら、心の上澄みのほうでそう思っているつもりでいる。

「おいしいです」
 そんな源治に向かって、月子が笑いかけた。可愛らしい笑顔だった。

 旅籠に帰ろうとか、もう手を出してはならないとか、そんなことを理性まがいの意識で考えている源治の上っ面を張ってあざ笑うかのように、月子の愛らしさが胸をかき回す。
 一回りと少し、月子は源治より若い。
 そんな少女らしいあどけない笑顔が、彼女の頬にずっと在ればいい。そのためにできることを何でもしてやりたい。

 この娘が、好きなのだ。

 溜息を吐くように、源治は不意に自覚してしまった。

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