おぼろ月

春想亭 桜木春緒

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第三章

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 源治は江戸への旅路につく。
 待ち合わせをしていた人物と川口の渡し場で落ち合い、侍姿の人物を先に立て、連れとわからぬように少し離れ、付いて行く。

 胸の中に乾いた風がある。時折、湿る。
 一回りも若い少女への恋などと。
 かつて思いもよらぬものが心に宿っていると知った。
 別れ際に見た月子の笑顔が、脳裏を明滅してついに消えない。強いて作った笑みだと解っている。
 そうして笑顔を作った月子の心の在り処に、源治は惹かれてやまない自分を知った。
 ふと脚が止まる。
 戻りたくなった。しかしそれはできない。源治の荷の書物にまぎれさせた知らせを、江戸に居る領袖の鳥越が待っている。同行の人物も居る。使いを急がねばならないのだ。
 しかし。
 今宵はどうなる。月子は。
 全身が総毛立つような悪寒が、源治を苦しめた。
 月子を何故連れ去らなかったのだろう。そんな後悔が胸の隅にある。
 何故、とはもう解っていることだ。
 怖いのだ。

 月子を連れて去るということは、源治自身が役目も何もかもを捨て去るということでもある。それが、怖い。
(情けないが、怖い……)
 二度と戸沢領には入れないだろう。江戸にも入れまい。
 わずかだが仕事に対する自負もある。他の人間に、自分ほど上手く役目をこなすことはできないだろう。その仕事を投げ出すことにも、抵抗があった。
 そしてなお考えた。
 月子を連れてどこかへ消えたとして、日々の糧をどうするのか解らない。未知のものは怖い。
 半ば生業のようになっている貸本屋という職は、役目のために密かな援助を受けて商いを行っているものだ。藩から離れて、その商売を続けることは出来ない。
 藩の中での暗闘を、(小さいことだ)と醒めた目で見てみても、その中での役割を失うことが、それ以外の生き様を知らない源治には、逸脱することが恐ろしくてたまらない。
 その恐れに、負けている。
 負けているために、既に逃げないと覚悟を決めた月子に、逃げようとは言えなかった。月子の意志を、覆す覚悟が源治にはなかった。
 強いて逃げたとして、家族の窮乏を見捨てたことを、将来きっと月子は悔いるだろう。そしてやがて源治を憎むかもしれない。何より源治には、それが恐ろしかったのかもしれない。月子に憎まれるかもしれない予感が、恐ろしかった。

 だが、逃げないと決めた月子には、対峙しなければならない事が有る。
 家族の為に、弟妹の糧の為に、病の母と弟の医薬の代価の為に、月子はその身をもって、金を得なければならないのだ。

 誰が彼女を汚すだろう。彼女は誰に、どんな風に、汚されるのだろう。
 虚空に獣のように咆えてしまいたくなる。
(無力だ)
 愕然と思う。
 既に旅の空に有る自分が如何に悔いていようとも、もう月子に伸ばされる手を阻むことは出来ないのだ。
 どうして、こんなことになってしまったのだろうか。
 そもそも月子の父親は、その父の朋輩達は、城下の下士たちは、どうして日々の糧に事欠くほどに貧しさに沈まなければならなくなったのか。
 娘や若い嫁達が糧を得るために身を売らねばならないほどに、何故、困窮してしまったのか。
 誰もが、欲をかいて無駄な浪費をしたということではないだろう。それなのに、誰もが一旦沈んだ窮乏から浮かび上がれない状況とは何なのだ。

 正義とは何なのだと源治は空に問う。
 鳥越や、笹生、そして月子の父である畑野の言う意味が、解らない。
 確かに、藩の中ではその富が偏っていることぐらいは源治にもわかっている。彼らが敵視している現執政の藤崎は確かに富んでいる。その屋敷に貸本屋として招き入れられて、足を踏み入れた建物の片隅の柱でさえ銘木だったのもわかった。庭に奇岩が配されているのも見た。
 その一方で、今は辺境の代官所勤めなどという端役に落とされている畑野をはじめ、それと似たり寄ったりの立場の者達の困窮がある。
 おかしいとは、源治も思わないではない。
 それを是正すべきだという鳥越達の言うことはもっともだと思う。

 しかし、何かがおかしい。
 源治は首をかしげる。彼らが成そうとしていることが正しいのなら、何故その動きが鈍重であるのか。鈍重なあまり、窮乏がきわまって畑野の家では月子が身を売りに出た。
 何故、もっと早く是正できないものなのか。
(殺せばいいじゃないか)
 短絡的に考えた。窮乏に喘ぐ藩士のいる傍らで、明らかに独り肥え太っている藤崎鎮目は悪なのだろう。
 だったら斬ればいいのだ。納得できる理由など後からつければいい。
 それをしようとしない鳥越らにもどかしさを覚えた。
 そんなことを考えるようになったのは、多分、月子のためなのだろう。
 とにかく、と源治は足を速める。
 速やかに江戸に戻って、畑野家への援助について領袖の「鳳雛」こと、鳥越宗右衛門直宏という男に掛け合いたかった。

 江戸に到着したその日に、戸沢領から源治が同行した人物を鳥越に引き合わせた。笹生家の家臣である。鳥越や笹生たちの考えに同意し、彼らを後押しする領内の庄屋たちの連判状を彼は懐に持っていた。
 少なからぬ援助の申し出もあるというその目録が、鳥越を喜ばせたことだろう。
 無論、見返りの期待も添えられている。
 今は、藤崎の手先といえる商人の大森屋が一手に握っている藩の諸々の産物の専売権を、解体して各地の庄屋にもその権利を分配せよというものだ。
 それは鳥越が彼らを説得するためにちらつかせた条件でもある。念を押すように、書状にはその文言が含まれていた。

 その数日後、呼び出しがあって源治は鳥越とまた会った。会って、畑野家への援助について、彼にそっと提案した。
 それを受ける男ではない、と鳥越は源治に言った。
「しかし」
「私もそう思ったことはある。しかし畑野は受けなかった。今の、代官所の同輩は畑野と境遇が同じだ。その彼らと同じでなければならないと……。己のみ旧知を頼って特別に過ごすことは出来ないと、言った。欲しいものは、紙と墨、子らに学ばせるための書物、そして筆、それだけで良いと言った。そういう男だ」
(愚直だ)
 胸の中で源治は吐き捨てるように呟いた。愚かな正しさに何故、畑野が従おうとしているのか、理解の外だ。
 源治と鳥越が会っているのは当然ながら戸沢藩邸ではない。
 深川八幡裏の料理屋である。微服で鳥越は訪れて来ている。繁華な岡場所もある深川は、たびたび訪れてもとくに怪しまれる土地ではない。
 源治の住まいに深川は近い。地本問屋がある界隈の長屋には、行商で貸本業を営む者が源治のほかにも住んでいた。
「頼まれたわけではないのだろう。畑野がそれを頼むはずが無い。何故急にそんなことを言う?困窮であると、見て思ったのか?」
「は、」
 源治は言葉に詰まる。
 月子が困窮のあまりに身を売りに出たと、鳥越にいえるものではない。ましてその月子を買ったなどと、口を裂かれても言えない。
「だが考えておこう。」
「是非に」
 鳥越は目鼻立ちの大振りな、温かな表情を持っている。
 国許への往復を繰り返す源治に、ねぎらいの言葉を忘れたことが無い。鳥越に比すれば木っ端のような立場の源治にさえも、明朗で丁寧な態度を崩さない男である。
 鳥越を、源治は嫌いではない。
「また来月には発ってもらうことになると思う。それまで、英気を養っておいてくれ。こちらの藩邸にも来てくれるように」
「ありがとうございます」
「仕事の話になるかな。この間見た草紙が面白かったのだそうで、家人が続きを楽しみにしているのだよ」
「なるほど」
 わかりました、と源治は言った。
 どことなくはぐらかされたような気が、しないでもない。
 だが柔らかい表情で笑う鳥越には反駁し難いものがあると感じた。

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