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第三章
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月子は、疲労した。
何よりも心が消耗したように感じる。口数はそもそも多くも無いが、さらに寡黙になったようだ。
うつむいて、爪先を見つめながら歩みを進める。
懐に金は出来た。それを以って、薬や滋養のつく鶏卵、それに妹達のための古着など、必要なものを購い、風呂敷に包んでいる。胸に抱えるその荷の意味が、ただ月子の傷みをかばう物のようだった。
思い出したくも無いのに、身体の感覚に残滓がある。それが何よりも耐え難く、月子の意識をさいなんでいる。
月子達が川を渡る渡し場は、源治が通った川口の宿より一里ほど上流にあった。表街道に当たる繁華な宿場の渡しを、彼女達が使うことはないのである。
川原のススキが風にそよいでいる。
空が青く、高い。雨が降って、上がった。
まだ地面にはぬかるみが残り、砂埃は上がらない。洗ったような空気が、いっそう空を澄み渡った青に見せていた。
ススキの穂が開いて白い。ほわほわと光をまとい、ゆらゆらと揺れている。
黄金に色を変えた葉がわずかにそよいでかさかさと言う。音が重なり、小波のようになって月子の耳をくすぐった。
(忘れられる)
目に映る景色は月子に冷たいものではない。日にそよぐ草木は枯れていても美しい。
闇にあった出来事を、嘘だと思わせてくれるほどには、陽光が明るい。
だから、と月子は唇をかみ締めた。涙を流すまいと、あのときに決めたはずだった。
あの朝に。
源治が「強い、な」と言って去った、あの朝に。
そうだ。と月子は己に言い聞かせた。強いのだ。自分はとても強い。だから、何事も怖くはない。辛くもない。
早く帰って、抱えているものを弟妹達に渡したい。喜ぶ顔を早く見たいと思うようにした。
今朝までは、居た。
絶望のように源治はそれを聞いた。
「すまぬが」
昼間の閑散とした時間に、見覚えのある船宿の戸を引いて声をかけた。
居ぎたない姿の女将の顔にも記憶がある。
「すまぬが、訊きたい。あの娘は……」
「すみませんがねえ。あの娘って言われたって解りませんよ。女の子なんか何人だって居るんだから」
午睡を妨げられたことへの苛立ちか、客をあしらう女将とも思えぬような言い草である。
月子は、と言いかけて源治は黙った。本名を名乗っては居ないだろう。
「先月、居たんだ。あの、若くて華奢で小柄で、目が大きくて」
「へぇ! ご執心ですのねぇ」
あざけるように言われて、源治は向かっ腹が立った。
「もういい」
「ああ、兄さんあれだよな」
宿の廊下の奥から男のだみ声が聞こえた。
「へぇえ。よっぽど気に入ったんだなぁ。ほら、例のさ……」
先月に、源治はこの男に五両を渡して月子を買ったのだ。そのときの話を、汚らしい男がにやにやとしながら、唇を憎憎しげに歪ませた女将にしゃべる。
「あらあ。これはざんねんでしたねぇ。……今朝まで居たんだけどさぁ」
また今度おいでなさいねえ、としゃがれた猫なで声に送られて、源治は船宿を出た。
まだ昼の日差しが濃い。
夏よりは薄く長い影を見ながら、足を引きずるように源治は港町を行く。急に、江戸から歩いてきた疲労が押し寄せてきたようだった。
居なければそれが何よりだった。だが今朝まで居たと聞いた。居たと言う事は、つまりそう言う事なのだ。
口の中に苦い物がこみ上げた。
一旦、店に戻り、荷を背負ってまた出る。
到着後すぐに慌ただしく出かけ、蹌踉と戻ってきた源治を、店の者たちは怪訝に見た。彼らの視線に気づきはしたが、何も答える気持ちにはなれない。ただ水を茶碗に一杯だけ飲んだ。
「お休みになった方が……」
「いや、行ってくる。得意先を少し回って」
それからまた戻る、と告げて出た。忙しく動いている方が良い。
栄町の店を出て北へ足を向ける。中老の笹生の屋敷へと向かうのである。ちょうど着くころに笹生も下城してくるだろうと予測している。
店を出て程なく、人だかりがしているのが見えた。
大小の料亭のある界隈である。すぐ裏手には色町もある。あまり風紀の良い場所ではない。それらしい女だの、昼日中から酒のにおいをさせた男だの、そういった連中が路地を覗こうと伸び上がっていた。
立ち止まった源治は、見知らぬ酔漢と目が合った。
「若い女さ」
彼は言いながら、己の首を絞める真似をする。
「おい、ちょっとどいてくれ」
源治はある予感に戦慄しながら、野次馬達を掻き分けた。まさか、と思ったのだ。
「見世物じゃねえんだよ」
あまり柄の良くない奉行所の手先の男が両手を広げて見物人の視線をさえぎる。尻端折りをした足のがっしりとした男だが、源治よりは背が低い。彼の頭上から、横たわる女の姿を、見た。
(違う……)
不謹慎にも、源治は安堵した。月子では、なかった。
手の甲にふっくりと脂の乗ったような、そんな体つきの女が、青紫の顔色をして倒れていた。ひどく裾が乱れていて、どこぞで悪戯された後に殺された様子がわかる。安堵の後に、合掌した。殺された若い女にも、無理やりに命を奪われなければならない理由など、無かったことだろう。
町奉行所の者らしい武家の男達が、女の前に身をかがめて青ざめて向き合っていた。
それだけ見て取って、源治はその場を立ち去った。
笹生の屋敷は、栄町から城へ向かう方角にある。その道すがらに、武家の得意先が何軒かある。が、まず、それらは抜かして先に三番町へ向かう。
笹生のもとに、鳥越と畑野から預かった書を置いた。
「一つ報せておこうか」
「何でしょうか」
笹生は小柄で、小気味良く動作する手足を持っている。す、と身軽に立ち上がって巻紙と筆を持って、すぐに源治のところに戻る。
「野田善五郎、四十近く」
「四方幸造 三十越え」
と、二つの人名とその年の頃を笹生がさらさらとしたためた。
「……この者達、江戸のどこぞの道場で剣術を学んだそうだ」
「は……」
「藤崎が、このひと月のうちに雇ったらしい。どちらも強そうだった。物騒なことだ」
ほろ苦いように笑う笹生の小作りな顔を、わずかな緊張を持って源治は見つめ返した。
「おぬしに調べよとは申さぬ。鳳雛に言っておいてくれ。……何、奴のことだからもう知っているかもしれんが」
「かしこまりました」
「くれぐれも、身辺に気をつけるように」
何よりも心が消耗したように感じる。口数はそもそも多くも無いが、さらに寡黙になったようだ。
うつむいて、爪先を見つめながら歩みを進める。
懐に金は出来た。それを以って、薬や滋養のつく鶏卵、それに妹達のための古着など、必要なものを購い、風呂敷に包んでいる。胸に抱えるその荷の意味が、ただ月子の傷みをかばう物のようだった。
思い出したくも無いのに、身体の感覚に残滓がある。それが何よりも耐え難く、月子の意識をさいなんでいる。
月子達が川を渡る渡し場は、源治が通った川口の宿より一里ほど上流にあった。表街道に当たる繁華な宿場の渡しを、彼女達が使うことはないのである。
川原のススキが風にそよいでいる。
空が青く、高い。雨が降って、上がった。
まだ地面にはぬかるみが残り、砂埃は上がらない。洗ったような空気が、いっそう空を澄み渡った青に見せていた。
ススキの穂が開いて白い。ほわほわと光をまとい、ゆらゆらと揺れている。
黄金に色を変えた葉がわずかにそよいでかさかさと言う。音が重なり、小波のようになって月子の耳をくすぐった。
(忘れられる)
目に映る景色は月子に冷たいものではない。日にそよぐ草木は枯れていても美しい。
闇にあった出来事を、嘘だと思わせてくれるほどには、陽光が明るい。
だから、と月子は唇をかみ締めた。涙を流すまいと、あのときに決めたはずだった。
あの朝に。
源治が「強い、な」と言って去った、あの朝に。
そうだ。と月子は己に言い聞かせた。強いのだ。自分はとても強い。だから、何事も怖くはない。辛くもない。
早く帰って、抱えているものを弟妹達に渡したい。喜ぶ顔を早く見たいと思うようにした。
今朝までは、居た。
絶望のように源治はそれを聞いた。
「すまぬが」
昼間の閑散とした時間に、見覚えのある船宿の戸を引いて声をかけた。
居ぎたない姿の女将の顔にも記憶がある。
「すまぬが、訊きたい。あの娘は……」
「すみませんがねえ。あの娘って言われたって解りませんよ。女の子なんか何人だって居るんだから」
午睡を妨げられたことへの苛立ちか、客をあしらう女将とも思えぬような言い草である。
月子は、と言いかけて源治は黙った。本名を名乗っては居ないだろう。
「先月、居たんだ。あの、若くて華奢で小柄で、目が大きくて」
「へぇ! ご執心ですのねぇ」
あざけるように言われて、源治は向かっ腹が立った。
「もういい」
「ああ、兄さんあれだよな」
宿の廊下の奥から男のだみ声が聞こえた。
「へぇえ。よっぽど気に入ったんだなぁ。ほら、例のさ……」
先月に、源治はこの男に五両を渡して月子を買ったのだ。そのときの話を、汚らしい男がにやにやとしながら、唇を憎憎しげに歪ませた女将にしゃべる。
「あらあ。これはざんねんでしたねぇ。……今朝まで居たんだけどさぁ」
また今度おいでなさいねえ、としゃがれた猫なで声に送られて、源治は船宿を出た。
まだ昼の日差しが濃い。
夏よりは薄く長い影を見ながら、足を引きずるように源治は港町を行く。急に、江戸から歩いてきた疲労が押し寄せてきたようだった。
居なければそれが何よりだった。だが今朝まで居たと聞いた。居たと言う事は、つまりそう言う事なのだ。
口の中に苦い物がこみ上げた。
一旦、店に戻り、荷を背負ってまた出る。
到着後すぐに慌ただしく出かけ、蹌踉と戻ってきた源治を、店の者たちは怪訝に見た。彼らの視線に気づきはしたが、何も答える気持ちにはなれない。ただ水を茶碗に一杯だけ飲んだ。
「お休みになった方が……」
「いや、行ってくる。得意先を少し回って」
それからまた戻る、と告げて出た。忙しく動いている方が良い。
栄町の店を出て北へ足を向ける。中老の笹生の屋敷へと向かうのである。ちょうど着くころに笹生も下城してくるだろうと予測している。
店を出て程なく、人だかりがしているのが見えた。
大小の料亭のある界隈である。すぐ裏手には色町もある。あまり風紀の良い場所ではない。それらしい女だの、昼日中から酒のにおいをさせた男だの、そういった連中が路地を覗こうと伸び上がっていた。
立ち止まった源治は、見知らぬ酔漢と目が合った。
「若い女さ」
彼は言いながら、己の首を絞める真似をする。
「おい、ちょっとどいてくれ」
源治はある予感に戦慄しながら、野次馬達を掻き分けた。まさか、と思ったのだ。
「見世物じゃねえんだよ」
あまり柄の良くない奉行所の手先の男が両手を広げて見物人の視線をさえぎる。尻端折りをした足のがっしりとした男だが、源治よりは背が低い。彼の頭上から、横たわる女の姿を、見た。
(違う……)
不謹慎にも、源治は安堵した。月子では、なかった。
手の甲にふっくりと脂の乗ったような、そんな体つきの女が、青紫の顔色をして倒れていた。ひどく裾が乱れていて、どこぞで悪戯された後に殺された様子がわかる。安堵の後に、合掌した。殺された若い女にも、無理やりに命を奪われなければならない理由など、無かったことだろう。
町奉行所の者らしい武家の男達が、女の前に身をかがめて青ざめて向き合っていた。
それだけ見て取って、源治はその場を立ち去った。
笹生の屋敷は、栄町から城へ向かう方角にある。その道すがらに、武家の得意先が何軒かある。が、まず、それらは抜かして先に三番町へ向かう。
笹生のもとに、鳥越と畑野から預かった書を置いた。
「一つ報せておこうか」
「何でしょうか」
笹生は小柄で、小気味良く動作する手足を持っている。す、と身軽に立ち上がって巻紙と筆を持って、すぐに源治のところに戻る。
「野田善五郎、四十近く」
「四方幸造 三十越え」
と、二つの人名とその年の頃を笹生がさらさらとしたためた。
「……この者達、江戸のどこぞの道場で剣術を学んだそうだ」
「は……」
「藤崎が、このひと月のうちに雇ったらしい。どちらも強そうだった。物騒なことだ」
ほろ苦いように笑う笹生の小作りな顔を、わずかな緊張を持って源治は見つめ返した。
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