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第三章
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その後、三番町から栄町へ帰る道すがらに、得意先をまわった。
二軒目に訪れた安住という家は、先年隠居した六斎という初老の剣客が居る。江戸に出て一刀流を修め、国許の屋敷を改築して道場を開いていた。門弟の数は他の城下の道場のいずこかよりも多くはないが、恐らくどこの剣術道場よりも精強な武士がそろっているのではないかという評判だった。
激しい稽古に耐え切れずに逃げ出す門弟も多かった。
それゆえに、残っている門弟達の評価は高い。
貸本屋としての源治にしてみれば、道場というのは便利な場所だ。一軒一軒を訪れなくても人が集まっている。
安住家の他にも、源治の得意先の道場はある。そちらのほうが繁盛していて人も多い。だが、彼はどうも安住の道場の男達が好きであった。
「お邪魔いたします」
通用門を門番に開けてもらい、庭先に入る。
「おう、まる井さんか」
源治の持つ荷物を包んだ風呂敷には丸の中に井を書いてある。源治が持ってくる本の末尾にも丸に井の字を記した判を押しても有る。そういう屋号であると名乗ったことはないが、たいていの客には「まる井」と呼ばれている。
「江戸から今日着いたところです」
源治の持ってくる書物には、四書の改題や古今の和歌の解説、その他の漢籍なども含まれる。戸沢藩の城下のみならず、藩士の学問は奨励されているものだ。勉強熱心な者は、江戸で発行されたそういう書物を喜んで借りていく。
無論、源治が持参する本の大半は黄表紙などくだけた物で、やはりそういう面白おかしい本が人気ではある。
井戸端で四十年配の男が声をかけてくれた。まあそこらに、と縁を示して、荷を下ろすといい、と言ってくれた。彼は、青木三左衛門という。笑顔を絶やさない気さくな性格であるが、安住道場では筆頭の腕前の持ち主だ。
道場からもろ肌を脱いだ大柄な逞しい男が出てきた。汗ばんだ肌をして、手ぬぐいを首にかけている。見知っている男である。
「水城様」
と声をかけた。決して小柄なほうではない源治も、見上げる長身である。
その体格もあって、精強な男が揃っている安住道場の中でも恐らく今最も強いのではないかと評判の男だ。年のころは源治より少し若いくらいだろう。
眉尻が跳ね上がり、余分なところを削いだような頬の線が鋭くはあるが、風貌に似合わず穏やかな男であることも先ごろから知っている。
二百石の家の当主で、水城新兵衛という。物静かに、源治にそっと会釈を返した。
「はは、これはさすがに持って帰れないなあ」
縁に出した書物のうち、艶本を捲りながら青木が笑っていた。男女の秘所があからさまに交わった図が大きく描かれている。
「前に借りた物を、持って来ては居ないのだが……」
井戸端で手ぬぐいを濡らして身体をぬぐって、肌を入れた水城がひっそりと言う。
「よろしければ明日にでも、お屋敷に参りましょう」
「そうしてもらおうか」
家のものに言付けておく、と言って水城はまた道場に戻って行った。
そのあと道場の門人の数人が書物をあさりに現れた。中に戻った水城が話してくれたのだろう。
道場主の安住六斎も現れた。彼は漢籍などをよく読む人である。それがあって源治は安住道場に出入りを始めたのだ。
文武両道は、武士の理想ではある。師匠の安住がそうして読書を好む人柄であるから、門人達もそれに倣っているらしい。
にこやかな温顔の安住であるが、どことなくやはり気配が独特である。鋭さはあまりない。春風のようにふわりとそこにいて、とらえどころのない姿が、非凡であった。
(かする事さえできまいよ)そんなことを源治は思う。
安住に仕掛けても、その雰囲気どおりにふわりと、突き出した切っ先は彼にかすることもなく、避けられてしまうことだろう。
書物を入れる行李の横に仕込み杖を立てかけてあり、その傍らに源治は立っている。
本を入れる行李は二重底になっている。今はそこは空だが、人目を忍ぶ書物を入れていることもある。事情を知らぬ他者に触れられたくはない。
源治は、十歳くらいのころから剣術の修行をした。鳥越の世話で、彼の兄弟子が開いた小さな道場に、浪人の子と偽って通った。先々の役目のために源治を鍛えておくべきだという鳥越の意図が無論あった。
だが、源治にとっても嫌いな修行ではなかった。筋は悪くない、と師匠にも言われ、上達を、鳥越もまた喜んでいた。
目録を師匠に許された頃に父親が死に、その役割を引き継いだ。ために、修行はそこで終わってしまった。そのことは今でも心残りであった。
今は、貸本屋の姿であるから、剣術の心得などを他人に知られるべきではないと解っている。しかし、安住道場はかつて源治が修行した師匠の道場に風情が似ていて、共に稽古に立ち交じりたい思いにも駆られる。
安住の屋敷をあとにしたとき、夕七つの太鼓を聞いた。
同じ時分。
月子は村の寺の鐘でその時刻を知る。
「逸」
帰宅してすぐに、竃に居た妹に声をかけた。
「お帰りなさいませ、お姉さま」
「今日は卵を頂いたの。お肉も少し」
「ではご馳走ですね」
はじけるように逸が笑った。そうね、と朗らかに月子も笑う。
妹の笑顔が、嬉しかった。
逸はまだ「講」というものの実態を知らない。年頃の娘や若い妻達が某所に集まって、持ち寄ったものを分配したり、とある作業に従事したり、そしてその作業の褒美にいくばくかの物をもらえるのだと、月子は言い置いている。
姉の月子の言うことを、素直な逸は疑いはしない。そういうものとして講を認識し、そこへ月子が行って帰ってきたのだと信じている。
「お帰りなさいませ、お姉さま」
「ただいま戻りました。奈那子さん、お兄様はどう?」
一番下の妹の奈那子に、月子にとっては弟である太三郎の様子を尋ねた。
「先ほどまでおやすみでございましたが、今ほど……」
「お母様は?」
「先ほどまで糸を作っておいででしたが、今はおやすみです」
父親はまだ役所から帰らぬことと、志郎と睦郎の二人は山に行っていることを、奈那子は尋ねられる前に月子に話した。
卵と油紙に包んだ鶏肉を台所に置いて、その他の包みを抱えたままで太三郎の寝床へ行った。
「……姉上」
「起きなくても大丈夫ですよ」
そのまま、と起き上がろうとした太三郎を制して、荷物の中から薬の包みを出した。
「この間の薬と同じですが……」
「良く効いていると思います。ありがとうございます」
太三郎の床の枕元に衝立を回してあり、その向こうに母親の幸枝が横になっていた。
静かな様子から寝入っているのであろうと判断し、声をかけるのをやめて台所へ戻った。
二軒目に訪れた安住という家は、先年隠居した六斎という初老の剣客が居る。江戸に出て一刀流を修め、国許の屋敷を改築して道場を開いていた。門弟の数は他の城下の道場のいずこかよりも多くはないが、恐らくどこの剣術道場よりも精強な武士がそろっているのではないかという評判だった。
激しい稽古に耐え切れずに逃げ出す門弟も多かった。
それゆえに、残っている門弟達の評価は高い。
貸本屋としての源治にしてみれば、道場というのは便利な場所だ。一軒一軒を訪れなくても人が集まっている。
安住家の他にも、源治の得意先の道場はある。そちらのほうが繁盛していて人も多い。だが、彼はどうも安住の道場の男達が好きであった。
「お邪魔いたします」
通用門を門番に開けてもらい、庭先に入る。
「おう、まる井さんか」
源治の持つ荷物を包んだ風呂敷には丸の中に井を書いてある。源治が持ってくる本の末尾にも丸に井の字を記した判を押しても有る。そういう屋号であると名乗ったことはないが、たいていの客には「まる井」と呼ばれている。
「江戸から今日着いたところです」
源治の持ってくる書物には、四書の改題や古今の和歌の解説、その他の漢籍なども含まれる。戸沢藩の城下のみならず、藩士の学問は奨励されているものだ。勉強熱心な者は、江戸で発行されたそういう書物を喜んで借りていく。
無論、源治が持参する本の大半は黄表紙などくだけた物で、やはりそういう面白おかしい本が人気ではある。
井戸端で四十年配の男が声をかけてくれた。まあそこらに、と縁を示して、荷を下ろすといい、と言ってくれた。彼は、青木三左衛門という。笑顔を絶やさない気さくな性格であるが、安住道場では筆頭の腕前の持ち主だ。
道場からもろ肌を脱いだ大柄な逞しい男が出てきた。汗ばんだ肌をして、手ぬぐいを首にかけている。見知っている男である。
「水城様」
と声をかけた。決して小柄なほうではない源治も、見上げる長身である。
その体格もあって、精強な男が揃っている安住道場の中でも恐らく今最も強いのではないかと評判の男だ。年のころは源治より少し若いくらいだろう。
眉尻が跳ね上がり、余分なところを削いだような頬の線が鋭くはあるが、風貌に似合わず穏やかな男であることも先ごろから知っている。
二百石の家の当主で、水城新兵衛という。物静かに、源治にそっと会釈を返した。
「はは、これはさすがに持って帰れないなあ」
縁に出した書物のうち、艶本を捲りながら青木が笑っていた。男女の秘所があからさまに交わった図が大きく描かれている。
「前に借りた物を、持って来ては居ないのだが……」
井戸端で手ぬぐいを濡らして身体をぬぐって、肌を入れた水城がひっそりと言う。
「よろしければ明日にでも、お屋敷に参りましょう」
「そうしてもらおうか」
家のものに言付けておく、と言って水城はまた道場に戻って行った。
そのあと道場の門人の数人が書物をあさりに現れた。中に戻った水城が話してくれたのだろう。
道場主の安住六斎も現れた。彼は漢籍などをよく読む人である。それがあって源治は安住道場に出入りを始めたのだ。
文武両道は、武士の理想ではある。師匠の安住がそうして読書を好む人柄であるから、門人達もそれに倣っているらしい。
にこやかな温顔の安住であるが、どことなくやはり気配が独特である。鋭さはあまりない。春風のようにふわりとそこにいて、とらえどころのない姿が、非凡であった。
(かする事さえできまいよ)そんなことを源治は思う。
安住に仕掛けても、その雰囲気どおりにふわりと、突き出した切っ先は彼にかすることもなく、避けられてしまうことだろう。
書物を入れる行李の横に仕込み杖を立てかけてあり、その傍らに源治は立っている。
本を入れる行李は二重底になっている。今はそこは空だが、人目を忍ぶ書物を入れていることもある。事情を知らぬ他者に触れられたくはない。
源治は、十歳くらいのころから剣術の修行をした。鳥越の世話で、彼の兄弟子が開いた小さな道場に、浪人の子と偽って通った。先々の役目のために源治を鍛えておくべきだという鳥越の意図が無論あった。
だが、源治にとっても嫌いな修行ではなかった。筋は悪くない、と師匠にも言われ、上達を、鳥越もまた喜んでいた。
目録を師匠に許された頃に父親が死に、その役割を引き継いだ。ために、修行はそこで終わってしまった。そのことは今でも心残りであった。
今は、貸本屋の姿であるから、剣術の心得などを他人に知られるべきではないと解っている。しかし、安住道場はかつて源治が修行した師匠の道場に風情が似ていて、共に稽古に立ち交じりたい思いにも駆られる。
安住の屋敷をあとにしたとき、夕七つの太鼓を聞いた。
同じ時分。
月子は村の寺の鐘でその時刻を知る。
「逸」
帰宅してすぐに、竃に居た妹に声をかけた。
「お帰りなさいませ、お姉さま」
「今日は卵を頂いたの。お肉も少し」
「ではご馳走ですね」
はじけるように逸が笑った。そうね、と朗らかに月子も笑う。
妹の笑顔が、嬉しかった。
逸はまだ「講」というものの実態を知らない。年頃の娘や若い妻達が某所に集まって、持ち寄ったものを分配したり、とある作業に従事したり、そしてその作業の褒美にいくばくかの物をもらえるのだと、月子は言い置いている。
姉の月子の言うことを、素直な逸は疑いはしない。そういうものとして講を認識し、そこへ月子が行って帰ってきたのだと信じている。
「お帰りなさいませ、お姉さま」
「ただいま戻りました。奈那子さん、お兄様はどう?」
一番下の妹の奈那子に、月子にとっては弟である太三郎の様子を尋ねた。
「先ほどまでおやすみでございましたが、今ほど……」
「お母様は?」
「先ほどまで糸を作っておいででしたが、今はおやすみです」
父親はまだ役所から帰らぬことと、志郎と睦郎の二人は山に行っていることを、奈那子は尋ねられる前に月子に話した。
卵と油紙に包んだ鶏肉を台所に置いて、その他の包みを抱えたままで太三郎の寝床へ行った。
「……姉上」
「起きなくても大丈夫ですよ」
そのまま、と起き上がろうとした太三郎を制して、荷物の中から薬の包みを出した。
「この間の薬と同じですが……」
「良く効いていると思います。ありがとうございます」
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