おぼろ月

春想亭 桜木春緒

文字の大きさ
31 / 44
第四章

4

しおりを挟む

 あれ、という濁声が背後で聞こえた。

「今日はあの娘はいねえよ」
 口元に引き攣れた傷の有る醜い男だ。
 月子が居るときにはこの男が見張りをしているらしい。それゆえに何度か月子の不在時に彼女の所在を尋ねた源治を覚えている。
「残念だったな」
「通りかかっただけだ」
「女のことを考えてた顔をしてるぜ」
 近寄ってきた男が臭う。酒を過ごしているようでろれつが怪しい。
「確かに男のことなんざ、考えやしねえよ」
 相手に合わせた雑な口調で、低く嘲り笑いながら源治はそこを通り過ぎた。

 翌日、城下から外れたところに出かけるために朝早くから出掛けた源治は、夕方に帰ってきてから、路地で女が死んでいたと言う騒動が起きていた事を、旅籠の者に聞いた。
「このところ、こちらに来る度にそんな話を聞くな」
「まったく物騒で……」
 外出から戻った源治の足を濯ぐ下男に銭を渡して、少し話を聞いた。
「解ってるだけで、もう四人は死んでるって言うことですぜ」
 町奉行所のほうでも手をつかねているのだ、と彼は言う。
 被害に遭うのは辻に立って身を売るような女が多く、死体が見つかるのは栄町や港町辺りの色町に近い辺りが多いのだが、どうやら事件が起きているのは繁華な界隈だけではないらしい。
「それだけじゃねえんですよ」
 城下から少し出た農村の、畑の中で見つかった遺体も有るのだそうだ。足軽の女房や娘などが、武家町の外れや寺の中で亡くなっている事という噂も出てきている。

「なに、喧嘩の挙句に刺しちまったとか、暮らしが立ち行かなくて土座衛門になったり、首括ったなんてので死んでるのはいつだって聞く話だがね。どうもここんとこは女が殺されてる話を聞くばっかりで、後生が良くねえ」
「ちょっと待てよ。……殺されたってのは、何でわかるんだ?」
「首」
 下男は自分の首を両手で絞める真似をした。
「手の跡が、こう、ついてるんだとか……。見た奴が言ってたって噂ですぜ。今んとこ、解ってるだけで四人が、同じ手口だって」
「胸の悪くなる話だな。お役人は何をしてるんだ」
「まったくさね」

 灰色の空を見上げて、月子は乾いた浴衣を物干し竿から外した。
 夏になった。

 襷をかけて袖をたくし上げた腕で、額の汗を拭った。蒸し暑かった。
 暑さは、隙間の多い家にも忍び入っている。寝苦しい夜が続き、弟の太三郎の体調がまた少し良くない。
 寝汗で湿った寝巻が、暑さの中でも彼の身体を冷やすようだった。晴れの日にはなるべく太三郎を着替えさせるように務めた。
「近寄ってはいけないよ」
 太三郎は弟の志郎、妹の逸、その下の弟の睦郎、そして一番下の妹の奈那子に言う。
 末っ子の奈那子は穏やかな長兄の太三郎を好きで、看病のためもあっていつも彼の側に居る。炊事や繕い物などの家事については、奈那子よりも上の妹の逸の方が手際が良いために、月子はどうしてもそういう用事は逸に頼む。
 薪を集めたり割ったりする作業は、志郎と睦郎という弟達でことが足りる。
 手が最も回りづらいのが母と太三郎の看病で、奈那子は自然とそのほうに携わることが多くなっていた。

 月子の父の畑野辰之助は、相変わらず何やら書付を作ったり、それを束ねたりする作業に余念が無い。一月ほど置いて現れる源治の他にも、どこからか現れる侍にそういったものを託したり、また託されていたりする。
 以前の月子は、何か書物を写すことが内職なのかと勘違いしていた事もあったが、昨今、ようやく父親が為そうとしていることがわかってきた。
 そしてその一派に源治がいるということも、解ってきていた。
 その動きがせわしない。
(お忙しいのだ……)
 肩が尖るほどに痩せた父の、汗を滲ませる背を見ながら、月子は思う。
「藩の皆のために、このままではいけないと思うのだよ」
 静かでありながら硬質な響きを持って、畑野はまれに、家の者にもそう言う。父親の眼差しには曇りが無く、意志の光がある。
 ならば支えるのが武士たるべき家に生きる者の道なのだと、月子だけではなく弟妹達も考えている。
 父が為そうとしている志が仁であり義であり、忠であるならば、彼の子である月子と弟妹達の抱くべき志は孝であるだろう。
 病に沈んだ嫡子の太三郎は、床に在っても論語などの四書について弟達に聞かせることは止めない。彼の言葉は月子にも妹達にも届く。
 書物の文字の中に存在する人として有るべき道について、語り考え、魂の血肉にするべきだという気持ちを、血を吐きながら太三郎は保ち続けようとしている。その思いは、月子や弟妹達に痛いほど届いている。
 労咳という病は、滋養を付け、温かく穏やかな気候の土地でじっと養生すれば良くなることも有るという。だがその病に冒された太三郎の状況では、完治などほぼ絶望に近かった。
(代わってやれたら良いのに……)
 時折、痛いように月子は思う。

 しかし代わってやったら、その後はどうなるのかとも、思う。
 役所の勤めの傍らで「やらねばならぬ」という事をわき目も振らずに続ける父、血を吐く嫡男、暮らしの転落の為にか、打ちのめされて身も心も弱り果てた母。
 子供の中で最も年嵩の月子が支えなければならない物事は、家の中にあまりに多い。


 梅雨が明けてじりじりと陽の照りつける午後、源治は鳥越の呼び出しに応じて馴染みの料亭に入った。
「由々しきことが有る……」
 鳥越の眼差しが暗い。
「若君のお加減がよろしくないのだ」
 彼の言う若君とは、藩主の嫡男のことだ。江戸の上屋敷で生まれて育った。
 藩主戸沢大和守雅春には男子が三人居る。
 二十三歳の嫡男松之介雅保、二十二歳の次男仙之介雅義、十八歳の三男欣之介和雅である。
 嫡男と三男は、江戸に居る正室の千賀子夫人の腹である。次男のみ、国許の側室の腹から生まれた。
 年齢の順から言えば、嫡男に万一の事があった場合には、次男の仙之介が藩の跡継ぎとなるだろう。しかし側室腹の仙之介よりも、正室の血を受け継いだ三男欣之介こそが、次の嫡子に相応しいという向きもある。
「由々しい」
 と鳥越が言うのは、次男の仙之介の母親が藤崎鎮目の娘であることだ。


しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

JKメイドはご主人様のオモチャ 命令ひとつで脱がされて、触られて、好きにされて――

のぞみ
恋愛
「今日から、お前は俺のメイドだ。ベッドの上でもな」 高校二年生の蒼井ひなたは、借金に追われた家族の代わりに、ある大富豪の家で住み込みメイドとして働くことに。 そこは、まるでおとぎ話に出てきそうな大きな洋館。 でも、そこで待っていたのは、同じ高校に通うちょっと有名な男の子――完璧だけど性格が超ドSな御曹司、天城 蓮だった。 昼間は生徒会長、夜は…ご主人様? しかも、彼の命令はちょっと普通じゃない。 「掃除だけじゃダメだろ? ご主人様の癒しも、メイドの大事な仕事だろ?」 手を握られるたび、耳元で囁かれるたび、心臓がバクバクする。 なのに、ひなたの体はどんどん反応してしまって…。 怒ったり照れたりしながらも、次第に蓮に惹かれていくひなた。 だけど、彼にはまだ知られていない秘密があって―― 「…ほんとは、ずっと前から、私…」 ただのメイドなんかじゃ終わりたくない。 恋と欲望が交差する、ちょっぴり危険な主従ラブストーリー。

ちょっと大人な体験談はこちらです

神崎未緒里
恋愛
本当にあった!?かもしれない ちょっと大人な体験談です。 日常に突然訪れる刺激的な体験。 少し非日常を覗いてみませんか? あなたにもこんな瞬間が訪れるかもしれませんよ? ※本作品ではGemini PRO、Pixai.artで作成した生成AI画像ならびに  Pixabay並びにUnsplshのロイヤリティフリーの画像を使用しています。 ※不定期更新です。 ※文章中の人物名・地名・年代・建物名・商品名・設定などはすべて架空のものです。

【アラウコの叫び 】第1巻/16世紀の南米史

ヘロヘロデス
歴史・時代
【毎日07:20投稿】 1500年以降から300年に渡り繰り広げられた「アラウコ戦争」を題材にした物語です。 マプチェ族とスペイン勢力との激突だけでなく、 スペイン勢力内部での覇権争い、 そしてインカ帝国と複雑に様々な勢力が絡み合っていきます。 ※ 現地の友人からの情報や様々な文献を元に史実に基づいて描かれている部分もあれば、 フィクションも混在しています。 また動画制作などを視野に入れてる為、脚本として使いやすい様に、基本は会話形式で書いています。 HPでは人物紹介や年表等、最新話を先行公開しています。 公式HP:アラウコの叫び youtubeチャンネル名:ヘロヘロデス insta:herohero_agency tiktok:herohero_agency

彼の言いなりになってしまう私

守 秀斗
恋愛
マンションで同棲している山野井恭子(26才)と辻村弘(26才)。でも、最近、恭子は弘がやたら過激な行為をしてくると感じているのだが……。

甲斐ノ副将、八幡原ニテ散……ラズ

朽縄咲良
歴史・時代
【第8回歴史時代小説大賞奨励賞受賞作品】  戦国の雄武田信玄の次弟にして、“稀代の副将”として、同時代の戦国武将たちはもちろん、後代の歴史家の間でも評価の高い武将、武田典厩信繁。  永禄四年、武田信玄と強敵上杉輝虎とが雌雄を決する“第四次川中島合戦”に於いて討ち死にするはずだった彼は、家臣の必死の奮闘により、その命を拾う。  信繁の生存によって、甲斐武田家と日本が辿るべき歴史の流れは徐々にずれてゆく――。  この作品は、武田信繁というひとりの武将の生存によって、史実とは異なっていく戦国時代を書いた、大河if戦記である。 *ノベルアッププラス・小説家になろうにも、同内容の作品を掲載しております(一部差異あり)。

百合ランジェリーカフェにようこそ!

楠富 つかさ
青春
 主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?  ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!! ※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。 表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。

借金した女(SМ小説です)

浅野浩二
現代文学
ヤミ金融に借金した女のSМ小説です。

吊るされた少年は惨めな絶頂を繰り返す

五月雨時雨
BL
ブログに掲載した短編です。

処理中です...