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第四章
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しおりを挟むあれ、という濁声が背後で聞こえた。
「今日はあの娘はいねえよ」
口元に引き攣れた傷の有る醜い男だ。
月子が居るときにはこの男が見張りをしているらしい。それゆえに何度か月子の不在時に彼女の所在を尋ねた源治を覚えている。
「残念だったな」
「通りかかっただけだ」
「女のことを考えてた顔をしてるぜ」
近寄ってきた男が臭う。酒を過ごしているようでろれつが怪しい。
「確かに男のことなんざ、考えやしねえよ」
相手に合わせた雑な口調で、低く嘲り笑いながら源治はそこを通り過ぎた。
翌日、城下から外れたところに出かけるために朝早くから出掛けた源治は、夕方に帰ってきてから、路地で女が死んでいたと言う騒動が起きていた事を、旅籠の者に聞いた。
「このところ、こちらに来る度にそんな話を聞くな」
「まったく物騒で……」
外出から戻った源治の足を濯ぐ下男に銭を渡して、少し話を聞いた。
「解ってるだけで、もう四人は死んでるって言うことですぜ」
町奉行所のほうでも手をつかねているのだ、と彼は言う。
被害に遭うのは辻に立って身を売るような女が多く、死体が見つかるのは栄町や港町辺りの色町に近い辺りが多いのだが、どうやら事件が起きているのは繁華な界隈だけではないらしい。
「それだけじゃねえんですよ」
城下から少し出た農村の、畑の中で見つかった遺体も有るのだそうだ。足軽の女房や娘などが、武家町の外れや寺の中で亡くなっている事という噂も出てきている。
「なに、喧嘩の挙句に刺しちまったとか、暮らしが立ち行かなくて土座衛門になったり、首括ったなんてので死んでるのはいつだって聞く話だがね。どうもここんとこは女が殺されてる話を聞くばっかりで、後生が良くねえ」
「ちょっと待てよ。……殺されたってのは、何でわかるんだ?」
「首」
下男は自分の首を両手で絞める真似をした。
「手の跡が、こう、ついてるんだとか……。見た奴が言ってたって噂ですぜ。今んとこ、解ってるだけで四人が、同じ手口だって」
「胸の悪くなる話だな。お役人は何をしてるんだ」
「まったくさね」
灰色の空を見上げて、月子は乾いた浴衣を物干し竿から外した。
夏になった。
襷をかけて袖をたくし上げた腕で、額の汗を拭った。蒸し暑かった。
暑さは、隙間の多い家にも忍び入っている。寝苦しい夜が続き、弟の太三郎の体調がまた少し良くない。
寝汗で湿った寝巻が、暑さの中でも彼の身体を冷やすようだった。晴れの日にはなるべく太三郎を着替えさせるように務めた。
「近寄ってはいけないよ」
太三郎は弟の志郎、妹の逸、その下の弟の睦郎、そして一番下の妹の奈那子に言う。
末っ子の奈那子は穏やかな長兄の太三郎を好きで、看病のためもあっていつも彼の側に居る。炊事や繕い物などの家事については、奈那子よりも上の妹の逸の方が手際が良いために、月子はどうしてもそういう用事は逸に頼む。
薪を集めたり割ったりする作業は、志郎と睦郎という弟達でことが足りる。
手が最も回りづらいのが母と太三郎の看病で、奈那子は自然とそのほうに携わることが多くなっていた。
月子の父の畑野辰之助は、相変わらず何やら書付を作ったり、それを束ねたりする作業に余念が無い。一月ほど置いて現れる源治の他にも、どこからか現れる侍にそういったものを託したり、また託されていたりする。
以前の月子は、何か書物を写すことが内職なのかと勘違いしていた事もあったが、昨今、ようやく父親が為そうとしていることがわかってきた。
そしてその一派に源治がいるということも、解ってきていた。
その動きがせわしない。
(お忙しいのだ……)
肩が尖るほどに痩せた父の、汗を滲ませる背を見ながら、月子は思う。
「藩の皆のために、このままではいけないと思うのだよ」
静かでありながら硬質な響きを持って、畑野はまれに、家の者にもそう言う。父親の眼差しには曇りが無く、意志の光がある。
ならば支えるのが武士たるべき家に生きる者の道なのだと、月子だけではなく弟妹達も考えている。
父が為そうとしている志が仁であり義であり、忠であるならば、彼の子である月子と弟妹達の抱くべき志は孝であるだろう。
病に沈んだ嫡子の太三郎は、床に在っても論語などの四書について弟達に聞かせることは止めない。彼の言葉は月子にも妹達にも届く。
書物の文字の中に存在する人として有るべき道について、語り考え、魂の血肉にするべきだという気持ちを、血を吐きながら太三郎は保ち続けようとしている。その思いは、月子や弟妹達に痛いほど届いている。
労咳という病は、滋養を付け、温かく穏やかな気候の土地でじっと養生すれば良くなることも有るという。だがその病に冒された太三郎の状況では、完治などほぼ絶望に近かった。
(代わってやれたら良いのに……)
時折、痛いように月子は思う。
しかし代わってやったら、その後はどうなるのかとも、思う。
役所の勤めの傍らで「やらねばならぬ」という事をわき目も振らずに続ける父、血を吐く嫡男、暮らしの転落の為にか、打ちのめされて身も心も弱り果てた母。
子供の中で最も年嵩の月子が支えなければならない物事は、家の中にあまりに多い。
梅雨が明けてじりじりと陽の照りつける午後、源治は鳥越の呼び出しに応じて馴染みの料亭に入った。
「由々しきことが有る……」
鳥越の眼差しが暗い。
「若君のお加減がよろしくないのだ」
彼の言う若君とは、藩主の嫡男のことだ。江戸の上屋敷で生まれて育った。
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二十三歳の嫡男松之介雅保、二十二歳の次男仙之介雅義、十八歳の三男欣之介和雅である。
嫡男と三男は、江戸に居る正室の千賀子夫人の腹である。次男のみ、国許の側室の腹から生まれた。
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「由々しい」
と鳥越が言うのは、次男の仙之介の母親が藤崎鎮目の娘であることだ。
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