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第四章
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しおりを挟む仙之介はつまり、藤崎の孫に当たる。
嫡男に万一の事があったとき、家中で力のある藤崎がその血を受け継ぐ仙之介を跡取りに成そうとすることは十分に考えられた。
「もしや毒ではないかと思われる節があってな……」
「それは」
「いずれにせよ恐ろしいことではあるよ」
ついては、と鳥越は言った。
「仙之介ぎみとは、どんな若君だろう?」
「……さて。あまりこれといった評判は耳にしておりませぬが」
「いや、良い。つまりそこをこれからは気にして欲しいのだ。それなりに噂話めいたものは耳に入っているが、今後はそなたの見聞きしたことも報せてほしい」
「噂とはどのようなものでしょうか」
「女好きらしい。……血だろうな」
ああ、と源治は溜息めいた声で呟く。
「知っているのかね?」
「いえ……。彼の家で艶本と枕絵の注文がありました。値にはこだわらないから、と言っていますので、おそらく……」
主の藤崎鎮目か、嫡男か、いずれにしても家来の言う言葉ではないだろう。
なるほどな、と鳥越は微妙な顔をして笑った。
「まあ気をつけて運んでやってくれ。……手には入りそうか? お咎めを食わない程度のものをそろえてやると良い」
昨今は、淫らな絵や草紙の規制も厳しくなっている。注意するようにとは、役目のことが有るから、うっかり手鎖などの罰を公儀から喰らわないようにということなのだろう。
鳥越にとって父の代からの政敵の藤崎鎮目は、六十代も後半にさしかかった老執政である。彼は好色であると評判が高い。昔は、藤崎は美男だったという話だ。それについては源治も聞いたことがあった。
藤崎の孫である若君の仙之介について、源治の目と耳で得た事も知らせろと鳥越は言っている。
(要はつけ込む隙を俺にも探せということか)
そう思ったのだが、鳥越の意図はそれだけではない。
「まあ、そうだ。疑問に事寄せて、それとなく、そういう話をしてくれぬか」
源治が貸本屋として立ち回る武家の界隈で、仙之介について、これこれこういう評判だがそれは本当だろうか、知っているだろうか、そのように質問せよというのだ。
つまり悪評を広めろということを、鳥越は要請していた。
「……承知いたしました」
陰口を言いふらすような仕業は好ましい役柄ではないが、割り振られたように踊らねばなるまい。それも仕事のうちだと胸の中で自らを納得させた。
暑い時季の旅は辛いものだ。
肌に冷やりと触れる麻の物を選んで着ているが、歩き続けていると、それでも汗が引かない。喉も渇くために、頻繁に水を飲んだ。
畑野のところへ立ち寄り、川口の宿場に泊まる。
(居なかったな……)
月子の不在に、源治の胸がさざめく。
冷たい、と老人は言った。
月子の肌は心と同じに冷えていた。
「触り心地の良いことだ」
その大きな掌が汗ばんで熱く、気持ちが悪い。
この年をとった男は、それでも家の者達に「旦那様」と呼ばれているからには、隠居している立場ではないのだろう。
彼は月子をこよなく気に入っているようだった。
老人の広い屋敷の離れに居る。
つやつやと光沢を放つような漆で塗られた違い棚の横に、華やかな鉄線の掛け軸を提げた床の間が有る。存外、身分の高い者をもてなすための部屋ではないのかと、明るくなったときに月子は思った。
風が通るのは、老人が障子を開け放っているからだ。誰も、外を通ってくれるなと、虚しいような祈りを胸に抱く。
誰も、この広壮な屋敷の母屋の障子を開けてくれるなと、唇をかみ締めて願う。
身体に、卑猥なような緋色の襦袢を纏っている。白い肌に艶やかに映えるそれを着ろと命じたのは老人だ。
酒を、唇の中に注がれた。
嫌、と何度も言うが、聞き入れられたことなど、無い。当然だろう。そのために購われた身なのだ。
華奢な顎を掴まれ、半ば開いた唇にまた酒が注ぎ込まれる。飲み込めずに咽び、胸を波打たせて咳き込む肢体を、好色に笑う顔が引き寄せる。唇に収まらずに喉元に流れた酒を、音を立てて吸う。
嫌、という声は部屋の隅の暗闇に呑まれて消えた。
黄昏時に城下に入り、そのまま笹生の屋敷に足を向ける。
「……そういう次第です」
鳥越から聞いた、戸沢家嫡男の病状についての話をした。
「病とは、確かににわかなことだな。鳳雛の懸念もわからんではない。やりかねないことではある。したが仙之介ぎみか……。なるほどな。年頃もあろうに未だご養子の口も探さぬのは、その含みであったか」
仙之介は二十二歳になる。藩主の次男であるということは、跡取りではない。以前に妻を得たこともあったが、半年で相手が亡くなった。その後は、他家への養子の話も、婚姻の縁談も無い。いずれ今の嫡男を除き、仙之介を跡取と成す腹積もりが藤崎に有るからこそ、そういう縁組を断ってきたのだと観て、当たっているのかもしれない。
「どのようなお方でしょうか」
「さてな。近習は藤崎の者で固められているために、お人柄についてはあまり聞こえてこぬ。ただ遠望する限りでは、見栄えのする押し出しの良い若者では有るよ。剣の方の腕もおありだということは、人の口に広められているようだな」
「左様で……」
何か落胆したような顔色を見せた源治に、笹生は怪訝な目を向けた。その視線の色合いに気づいて、鳥越に命じられたことを、話してみた。
「それは面倒な」
ほろ苦いような顔で、笹生は笑う。
「笹生様の口から何かそれらしいお話があれば、私も少し罪を感じずにいられようかと思ったのですが」
「いや、まあ、そうだな。……共犯にしたいのか」
いえ、と言いながら苦笑して源治は頭を振った。
「女好きは確かに、そうかもしれんな。この一、二年ほど、仙之介様の屋敷には年若い侍女が数多(あまた)雇われているようだ」
「ああ、そういう裏づけがあるなら」
根も葉もないことを言い立てるわけではないと思うと、少し源治は胸が軽くなった。
敵側と言って良い仙之介ではあるが、本当の人となりを知らないうちに悪評を広めることに源治は気がとがめていたのである。
(良い奴だ)
笹生は、そういう源治の気性を好んでいる。
「奥が、甘酒を冷やしていたよ。台所に回って、それから行くと良い」
「忝い……」
笹生は七百石を取る中老職だ。源治の身分からいえば雲の上のような存在であるのに、思いもよらぬ優しみを示してくれる。
それに彼は暮らしぶりも質素だ。笹生が屋敷に居るときに絹物を身につけた姿を源治は見たことが無い。外から見受ける限りだが、調度の類も華やかなものは無い。第一、物が少ない。欲の淡い人柄が表れている。
そういえば笹生がいま着ている物も、昨年一昨年、見覚えのある麻の物だった。
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