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第四章
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しおりを挟む美知江は、月子の手を膝に引きあげて握った。
そうしていないと、また畳に拳を叩きつけて、月子が自らの腕を折ってしまいそうに危うく思ったからだ。
障子が細く開き、山里の村から同行していた茅野という家の夫人が、ちらりと顔を覗かせた。うずくまった月子の背を撫でながら振り返った美知江が、彼女に目配せをして、それに頷いて、そのままその茅野夫人は去った。眉を寄せて、痛ましいような顔をしていた。
月子は美知江の膝にすがって、声を殺して泣いている。
(まだ、十七なのですものね……)
気丈で、物静かで、若いのに落ち着いた娘だと美知江は月子の事を思っていた。
(そうなの。……好きな人が、居たの)
声に出さずに、美知江は涙に震える月子の背中に語りかけた。
どういう経緯かはわからぬが、月子がそういう事をしているところにその好きな男が現れてしまったのだろう、と言葉の端から察した。
美知江は細く長い溜息を吐いた。
見られたくなかった、と月子は言った。泣いている月子の気持ちが、痛いほどに解る。
途方に暮れて、やり場のない思いに暮れて、あとはもう、確かに泣くしかない。いかに気丈な月子でも、涙が出るのを抑えられない気持ちは、よく解る。
しばらくして、月子が身体を起こした。
まだ目のふちが紅く濡れているが、取り乱した様子は消えた。 激しい昂りも嘆きも、ほんの少しの時を経て自ら抑え得る月子は、その気丈さゆえに美知江にはいっそう痛々しく見える。
「……二階に、お戻りなさい。月子さん」
濡れた睫毛を見つめて、美知江は言った。忌避するように月子は首を横に振る。
「でも、もう、……私はこんな」
「解ります。言いたい事は解っています。でもね、……貴方の気持ちはどうなのです? 好きな人、とおっしゃったでしょう?」
月子は美知江の言わんとすることが分からずに困惑した。
「でも、だからこそ、こんな私には……」
「好き、ってどういう意味なのでしょうね?」
美知江は月子の手を取って、立ち上がった。
「外を歩いてきたのなら、裏手に行水の用意をしてもらいましょう。……綺麗にして、それから、お戻りなさい」
源治を残して部屋を後にしてから、月子がそこに戻るまで四半刻ほどは経っただろうか。
一度、下働きの小男が蚊遣りを運んで来て源治の傍らに置いて行った。
窓を背にして、源治は座っている。
両膝を立て、その膝の上に腕を投げ出して、項垂れて座っていた。
気温が高く、首筋には汗が湧いた。窓からの風が、時折、その首筋から温度を払っていく。
何を見て、何を聞いたのか。
何をしようとしていたのか、何を言おうとしていたのか。
いつだったか、月子が自らを「汚らわしい」と言った。源治は、そんな汚れなどどこにあるか、と否定した。月子ほど心の綺麗な人は居ない、とそう言った。
嘘ではない。本当にそう思っていた。
だが、月子があのどこか淫靡な様子の藤崎家の離れで鎮目に押さえつけられていた姿を見て、その現実を見て、源治は何を思ったか。
湧きあがった苛立ちは、嫌悪に似ていなかったか。
哀れな身の上への同情や、藤崎への怒りの前に、ふと胸に湧き上がった不快は、それは月子への感情であった。
そうせざるを得ない事情は、源治も良く知っている。月子がそんなことを望んで為してるいるのではないと、痛いほど良くわかっている。
それなのに、源治はあの一瞬、月子を、不快に思ってしまった。
何もかも月子のせいではないとわかっている。
何度も、月子があの辻に立っていたという話も聞いていた。月子自身も自らが汚れたと言っていた。
それが事実だと、すべては現実の事なのだと、言葉では何度も聞いていたのに、目の当たりにするまで、源治は、何か悪い冗談のように考えていたのかもしれない。頭の中では勝手に忌避していたのかもしれない。
あの場に月子が居たことを、責めるのは間違っている。
なぜあのようなところに居たか、あのような姿であのような男と居たか、それを咎めるのは筋が違う。解っている。
だが胸に湧き上がるのは、憤りばかりだ。
誤りだとわかっているのに、怒りが源治の胸を焼く。その感情が、情けない。己を責める気持ちがさらに胸を焼く。
階段を上がる音がした。
他の誰でもない、月子の足音に違いない。そしてその予想は当たっている。
敷居の向こうに膝をつき、静かに頭を下げてから入ってくる。このような猥雑な場所でさえ折り目正しいのは、畑野の躾のせいだろうか。
襖のすぐ前に、源治に斜めを向くように月子が座した。顔を、彼に向けようとしない。少し俯いた横顔だけを見せている。唇を結んで、表情を消している。
その横顔の奥にどんな思いがあるのか、源治には見えない。
立てた両膝の上に腕を投げ出したままの姿勢で、源治は月子を見ている。見ているというより、ただ目に映している。
源治の方に顔を向けずに、少し下を見たままの月子の横顔を。
蝉の声が吐息の隙間に割り込んだ。窓の下を通る物売りの声がする。どこの家からか、子供を叱りつける母親の声も遠く聞こえていた。
ぬるい風が源治の首筋を撫でる。
窓辺の蚊遣りの匂いが月子の鼻腔にも届いている。
互いに沈黙し続けていたのは、僅かな時間だったのかもしれない。
空の色も変わっていない。少し白い雲が湧いたくらいだろうか。
ふと顔を上げた月子の目の前に気付けば源治が居た。
わずかに息を止めた月子の唇を、源治のそれが覆う。腕が月子の背を抱く。源治の胸の辺りを月子の手が掴んだ。麻の生地の感触が掌に固い。薄く開いていた目蓋を固く閉じた。
強く押し付けられた唇の中で、源治の舌が月子の舌を探り当てて、離れない。息苦しいほど、絡め取る。
跪坐になった源治が月子を膝の上に引きあげて、動く事も出来ないような強さで、その腕に抱きしめている。
どれほどの間、そうしていただろう。
唇から互いが溶け合ってしまうのではないかと思うほどに、源治は月子のそれを貪り続けた。
「もう、やめましょう……」
ようやく少し離れた唇の隙間からひそやかな声が呟く。
疲弊したようにその言葉がかすれていた。
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