おぼろ月

春想亭 桜木春緒

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第四章

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 月子は振り返らなかった。腕を掴まれたまま顔を背けて無言。
 源治も、何も言わない。

 ただ、呼気だけが互いに速い。
 互いの吐息を三十ほど数えたときに、源治が歩き出した。月子の右腕を掴んだままだ。わずかに抗いながら、しかし源治の歩む力に敵うことはなく、おぼつかない足取りでそのまま月子は彼に従って足を進める。
 目の先に、船宿がある。打ち水をされて地面が濡れていた。
 風を入れるために開け放たれた戸をくぐる。
 物音に気付いて女将が現れた。汗ばんだ襟元をだらしなく抜いて、おくれ毛がうなじに貼り付いている。

「上がるぞ」
「へぇ……」
 源治に腕を掴まれて途方に暮れたような月子の顔を見やりながら、曖昧な返事をした。
 陽の高い時刻だ。
 だからと言って客が居ないわけではない。
 そういう宿だ。逢引きを楽しむ男女の気配はそこかしこから聞こえている。
 懐から一分金を一粒を出して女将の手に握らせた。それを掌の上に眺めながら、彼女は壁際に背で寄り掛かって、通り道を空けた。おくれ毛を指先で避けつつ、含み笑いを漏らして、月子を見た。
 その視線が、奇妙に粘っこい。

 源治は仕事中だった。
 背負った四角い荷を入口のたたきに置き、草鞋を外してつま先に皮を張った紺足袋を脱ぐ。
 その間、月子は呆然と立ちすくんでいる。表情を失って、焦点の合わない目で宿の廊下の奥を見つめていた。
 山里の村の女たちが今回は五人ほど一緒だった。この宿には月子のほかに、顔なじみの、佐伯家の若い嫁である美知江と、あまりなじみのない茅野という家の三十歳の嫁が居る。
 奥の暗い廊下に、掃除の途中であるらしい美知江がたたずんでいる。源治の姿も彼女に見えただろう。髪に手拭いを掛けた彼女が、怪訝な、痛々しいような表情になったようだった。

 右手に荷物と杖を持ち、左の手で月子の手を再び掴んで、宿に上がる。
 黙って階段を上り、二階の奥へと進んだ。無言で、月子は従っている。

 忘れもしない。秋の、あの夜に居た部屋だった。
 朝日が見えたその部屋は、午後には日が差し込まない。だがつい先ほどまでの日差しの名残か、蒸れるような暑気がこもっていた。
 窓を大きく開け放ち、風を入れた。少し、海の匂いがする。
 船宿の目の前の水路は、そこを伝って港まで出て行ける。満潮のときには海水も流れ込んでくるのだろう。
 この土地には小さな港がある。
 漁港でもあり、多少は商売にも使っているところである。
 北前船が、風向きによっては立ち寄ることもある。そんな時は少しばかり港町は華やぐようだった。が、今日はそんな華やぎには遠い。

 窓辺に荷物を置き、杖を置き、埃が白く舞い上がる外を見ながら、源治は呆然とした。
 月子の気配を背後に感じる。

 どうするつもりだったのか。

 先ほど、目にしたものが、意識の中でひどく遠い。
 あれは本当だったのか。あるいは暑熱に浮かされて錯覚したものだったのか。
 だとしたら、振り向いたその場に居るのは月子ではない娘か。
 だがまさか、見まごうはずはない。

 ゆっくりと振り返った源治の眼には、部屋の入り口で立ちすくんでいる月子のか細い姿が映った。
 まぎれもない。
 小柄で、折れそうなほど華奢で、小さな卵型の輪郭の中に水を張った様な凛とした眼差しが、伏せられている。果実のような唇を噛みしめて、長い睫毛が血の気の薄い頬に濃い影を落としている。
 可憐な美貌は、まぎれもない月子だった。

 ほんの二歩で、月子に手が届いた。
 引きよせて、胸に抱いた。

 月子が息を呑んだのが聞こえる。襟元を抑えて、身を固くしていた。掌が源治の胸に在る。押し離そうとしている。
 しばし揉み合った後、どん、と月子の手が源治の胸を突き放した。
 潤んだような眼を見張って、眉を寄せ、噛みしめた唇を震わせながら、月子は源治を見ている。
 源治は途方に暮れている。
 いま、月子に、何をしようとしたのか、何を言おうとしたのか、己にもわからない。

 月子が踵を返して、部屋を出て行った。
 隣の壁から、互いを貪りあう男女の気配が聞こえている。
 膝ががくりと折れた。そのまま、窓辺に背を預けて、源治はただ座った。

 月子は階段を下りる。押さえた襟元の下の、鼓動が速い。
 眼下に、家の近所の佐伯家の嫁である美知江が居た。
「月子さん……」
「美知江様……」
 足早に美知江のところへ駆け寄った。思わず、その胸に飛びついていた。
 丸く柔らかな美知江の顔を見て、月子は胸の中の何かが融けたのを感じる。五歳ほど年嵩の彼女は、月子にとっては姉のように感じる存在である。
「どうなさったの?」
月子より頭半分くらいは背が高く、体格も良い。
 食事の事情は月子の畑野家と変わらないのかもしれないが、不思議と、美知江は胸元も豊かに膨らんでいる。その膨らみに、月子は頬を押しつけた。
 頬を寄せた柔らかな乳房は、どこか安堵に似た感触だった。
「嫌な、客なのですか……?」
 宥めるように、月子の肩をそっと叩きながら、美知江は問いかけた。月子は震えていた。
「違うんです。……違うの」
 頭を小刻みに振りながら、幼子になった様に、舌足らずに月子が言う。

 取り乱した様子を心配したのか、美知江は、彼女たちが身支度をしたり寝泊りをしたりする陽の当らない狭い布団部屋へと月子をいざなった。
「今の人は、怖い方なの?」
 美知江は、今ほど月子を連れて船宿に入って、二階に上がって行った源治を、そういう客だと思い込んでいる。それを恐れて、月子が逃げ出してきたのだと思っているようだ。
「違うんです……」
「それでは……」
しゃがみこんで、月子は顔を両手で覆った。

「……好きなんです」

「え?」
 月子の傍らに同じように身をかがめた美知江の耳に、小さいが鋭い月子の声が届く。

「私、あの人が、好きなんです。本当に、どうしようもないのに、……好きなんです」

 噛みしめた奥歯の下から、絞り出すような声が、震えていた。
「もう、でも、どうしたらいいのか解らない!」
「月子さん……」

「見られたくなかった! あの人にだけは、あんなところ見られたくなかった! なのに、どうして……!」

 どうして、どうして、と繰り返しながら、月子は膝をついてうずくまって、両手の拳ですすけた畳を打った。拳が傷つくのではないかと心配した美知江に手を押さえられるまで、何度も、何度もそうしていた。

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