Fail 少年少女は興味本位で失敗する

春想亭 桜木春緒

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 奈恵は、年明けの二日から風邪を引いた。
「頭痛い」
 と母親に訴えて熱を測ったところ、その時点で三十八度になっていた。
 冷却シートを額に貼り、氷枕を頭の下に敷いている。
「よく寝なさいね」
 朝、母親が雑炊を奈恵に出しながら、そんなことを言ってくれた。

 天井をぼんやり眺める。
 ぼんやりと。ずっとぼんやりしている。


 あの日。
 ぼんやりと開いた目に、見たこともない天井が映った。
 傍らにモスグリーンのカーテンがあって、天井からぶら下がったレールに掛かっているようだった。
 ベッド、というには小さな台で、その上に寝て、毛布を二枚掛けられていた。
(……病院?)
 そうか、と奈恵は思い出した。

 救急車に乗った。
 さおりの出血を見て、それからの記憶がない。気を失っていたらしい。
「赤ちゃん、死んじゃう」
 悲鳴のような声が耳から離れない。
 はあ、と溜息を吐いた。両手で口元を押さえる。
 死んじゃったのかな、と思う。さおりの、お腹に宿った命は、どうなったのだろう。考えるのも怖い。

(いつか母になるんだ)
 そんな気持ちは、奈恵にも漠然とある。
 ほんの小さな頃には、大人になったら何になりたいか、と訊かれて「お母さん」と答えていた。今でも、その気持ちは変わってはいない。なりたいものというよりは、そうなるのだろうという気持ちの方が大きいのかもしれない。
 しかし、さおりの、というよりは圭介の年齢ではまだ親となるには早過ぎはしないだろうか。
「は……」
 仰向けの奈恵の、目の端から涙が伝う。

 好きな人が出来て、手をつないだり、キスをしたり。……それから。
 そんなことを、つい半年くらい前までは漠然と、憧れるように思っていた。考えることさえも後ろめたいような、そんな気分でどきどきしながら思い浮かべた。
 人が、どうやって母親になるのか。子供を作るには、何をするのか。そんな事も学校で聞いた。そういうことなのだ。

 つまり、そういうことなのだ。
 圭介は、そうなのだ。

「やだ……。もう、やだよ」
 生殖の行為としての交わりであり、あるいは心の愛情を確かめるための行為でもある。どちらも同じ事であり、どちらもそれなりの心の動きがなければなしえない事ではあるのだろう。
 身体だけで言うなら、奈恵の身体ももう母親になる支度は備えている。それでも社会的な立場で言えば、まだ奈恵には無理なことだ。
 それは、さおりも同じだろう。圭介も、そうだ。父親にはまだ成れるはずがない。
 父親にも母親にも成れないのに、それでも身体だけ、そんな風になってしまった。求めることも応えることも、もう出来てしまう。
 それも、驚くような快感を伴って。
「……気持ち良い」
 圭介はそう言った。
(私だけじゃない。圭ちゃんにも、気持ちよかったんだ)
 何度となく、奈恵の中を往来しながら、恍惚とするように圭介は言った。
 そうなのか。そのときは夢中でわけがわからないようになるが、ふと思い出すと、耳の底にそんな言葉が残っている。
 何度も、圭介は奈恵を求めていた。それは、やはり気持ちが良かったからなのだろう。

(でも、私だけじゃない……)
「やだ……」
 泣くのは嫌いだ。それなのに、一度流れ始めたら止まらない。

 あれ? そういえば奈恵は、どうしたいって言ってた?
 そんな言葉を、いつもよく聞く。
 何でも良いよ、みんなと同じで大丈夫。ママと同じで平気。
 あら、居たの? 気づかなかった。
 いつも静かだね。
 
 居ないみたいに。

 奈恵は、体育が嫌いだ。
 身体が小さく、運動神経も鈍い。それもあるが、最も嫌なのは「二人組に別れて」とか「三人組に」と言われることだ。他の授業でもたまにそういう指示はあるが、そんなときは座席の隣り合わせで組み合わされるから苦労はない。
 体育は、違う。奈恵は、あぶれる。いつもそうだ。誰も奈恵と組もうとしない。そういう相手は居ない。
 誰か、余ってないか。先生の指示でやっと奈恵は組み合う相手を見つける。
 その瞬間の惨めさは、きっと誰にも解らない。
(やっぱり私は要らないんだ)
 誰からも、要らない。そう思われている。
 いつもそうだ。
 必要とされたことがない。存在を、真っ先に確かめられたことなどない。
「あれ、居たの?」
 最後に、そう気づかれるような。

 必要とされたい。
 だから母親になりたいと思った。母親なら、少なくとも赤ちゃんからは無条件に必要とされる存在になれる。
 だから。

 夏に、不意に圭介が奈恵を襲った。
 奈恵の身体に触り、奈恵の身体を犯した。気持ちが良いと言って、恥ずかしいようなことを、強引にした。
 何度も。
 意味がわからなかった。何をされているのか、どうしてそうなるのか、行為の名称とそのことだけは解るが、圭介が奈恵にそうする意味がわからない。
 ただ、興味があるだろうと言われて、確かに、興味があったから否定しなかった。
 ただそれだけだった。
 それでも、その間は気持ちが良かった。
 圭介の掌が、唇が、奈恵の身体を隈無く触れた。
(あのときの私は、全部が圭ちゃんの……)
 あのときの圭介には、奈恵の身体は絶対の存在だ。それは揺るぎないことだ。
 普通にしている時は、つまらないと馬鹿にして、うつむくなと叱りながら、それでも裸になった圭介には奈恵の身体が絶対に必要だと、今は確信に近い思いがある。

 歪んでいる思いなのかも知れない。
(でも、嬉しかったのに……)
 そんなことでも、身体だけでも、奈恵を圭介が必要としてくれることが。
 年上の、誰が見てもすごくかっこいいと言う自慢の従兄が、奈恵を求めて、貪った。身体だけなのかも知れないけれど、すごく、必要としてくれた。それが嬉しかった。
(私を……、私なんかをこんなに)
 圭介を楔のように受け入れながら、脳髄まで突き上げられるようにその思いが奈恵を何度も貫いた。
 だから、気持ちが良かったのだと思う。
 だから、すごく嬉しかったのだと思う。だから好きだった。
 もっと好きになって欲しかった。

 足音が近づいてくる。
 看護師だろうか。
「奈恵……?」
 カーテンの向こうに、圭介の声がした。

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