忠義の方法

春想亭 桜木春緒

文字の大きさ
上 下
8 / 12

しおりを挟む

 傍らで、弥平次は喉の傷を調べていた。首の真ん中より少し右寄りに、刃を上にした傷が口を開けていた。
「こちらは一寸、いや二寸はあろうか?」
「おおむね胸の傷から血がずいぶん出ておりますから、こちらは、何でしょうな、苦し紛れに刺しただけかもしれません」
 いや、と弥平次は呟きつつ、顎に手を当てて、唇を閉ざす。
「喉の傷のほうが、長いように見えますが、どうでしょう」
「何と? どれ、見てみようか」
 弥平次が、小三郎の喉の傷に笄を沿わせて幅いっぱいのところに指を置き、胸の下の傷の横に並べて長さを比べた。小指の爪の先ほど、胸の傷が短い。この差は何なのだろう。
「もうよろしいか?」
 動作を止めたのを見計らったように、塚田が急かす。煩わしい、忌々しい、と言い出しそうな声音が、丈次郎の気に障った。先ほどからの塚田の態度も不快だった。
「何をそれほど焦っておいでですか」
 とげとげしい口調で丈次郎は言い捨てた。頼りない見た目の丈次郎からそういう態度が出てくると思わなかったのか、塚田は怯んだように視線を空に泳がせた。
「焦ってなど」
「我々は検使としてお役目を果たしているところです。横から急かすようなことを言うのはやめて頂きたいものだ」
「冬木様」
 弥平次は苦笑している。まあまあ、と子どもをなだめるように、唇を尖らせた丈次郎を見た。なだめつつも、よく言ってくれた、と弥平次の目が語る。
「用人殿、おおむね検死は済みました。刺し傷による死亡に間違いござらん。凶器は、小三郎が握っていた脇差ししかここにはないゆえ、それであろうかと」
「左様でしょうな。それがしは昨日からそう思っておりました」
「小三郎の身体を一通り改めたら、着物を直すように。不審があったら言ってください」
 丈次郎は塚田に返事をせず、弥平次に指示を出した。先刻承知だった、と鼻で笑うような塚田の態度が気に入らない。だが塚田は、丈次郎に言葉を聞き流された事を気にする様子もなく、ふてぶてしく苛立っていた。
「絹物なんか着て」
 惣七が、小三郎の衣類を検分しながら呟く。胸の辺りに裂け目があった。それは傷の場所とおおむね一致していて、不審な点はなかった。ただ絹の物を纏っていたということが、惣七の気に障ったらしい。黒羽二重の紋付きは、小三郎程度の身分にしては贅沢品だ。
 作業を間近に見ていた丈次郎は、弥平次の手元でガサガサと聞こえた気がした。衣擦れより硬い音だ。おますの着物に触っていたときはそんな音はなかった。
「それは何の音だね? 何かガサガサ言っていただろう? その襦袢の襟辺り」
 丈次郎と弥平次、惣七が顔を見合わせた。
「襟を開けてみましょう」
 と丈次郎が言ったときには、既に弥平次が小柄を抜いていた。襟を縫い付けた糸を切り、布を開いて中から音の正体を取り出す。
 紙だ。墨の跡が裏にも透けている。手紙だった。細く折りたたまれている。丈次郎も弥平次の手元を覗き込む。惣七は二人の向かいから、信吾は小三郎の足元の方で眺めていた。
 端が少し血に汚れた手紙を、弥平次が開いていく。手紙は文の最後を外側にして巻かれていた。書かれた文字を見守りながら、気付けば丈次郎も何故か息を詰めていた。
「阿部小三郎殿」
 丈次郎は、声に出して読んだ。末尾の宛名は、当然ながら小三郎であった。
「当家養子と為すことを約す……、阿部小三郎殿――、織江。おっ……? 奥様」
 筧家の奥方の名が、おりえ、ではなかったか。
 膝を返して、丈次郎は身体ごと塚田の方へ振り向いた。弥平次も惣七も、少し離れたところに居た信吾も、ほとんど同時に丈次郎と同じ方に顔を向ける。塚田は険悪な眼差しで丈次郎達を睨み、噛みしめた唇を震わせている。青黒いと見えた顔色が、今度は乾いて白くなった。
「ひぃっ……」
 と、頭上の方で聞こえた。
 小三郎とおますを横たえた場所のすぐ側に屋敷の壁があり、上部に小窓が開いていた。先ほど、人が来た気配があったところだ。
 立ち上がった丈次郎の目に、窓の中で、すう、っと下に下がっていく女の髷が見えた。
「奥様、奥様!」
 悲鳴のようなか細い声は、始めて聞く女のものだ。これまでの話からすると、その声はお実乃という女中のものだろう。織江と一緒に、そこにいたらしい。
 丈次郎は台所の戸口に走った。塚田が丈次郎を遮るように、戸の前に立つ。
「通せ!」
「いや、通しません」
 押し合うと、華奢な丈次郎は塚田に敵わなかった。突き飛ばされて、後ずさる。塚田が先に屋内に入って行く。丈次郎は後を追った。
 台所の右奥の戸の先が、小三郎達の死んでいた小部屋である。反対の、左側の奥の壁にも障子があり、その中に塚田が消えていったのを見た。後を追う。
 左手の突き当たりのほうに織江が着ていたような葡萄色の小袖が見えた。上の方の小窓で外が見える部屋がそこにあった。織江と女中が居た。倒れた織江の傍らに、塚田が跪いている。傍らで頼りなげな女が織江の上体を膝に載せ、ひしゃげたように座り込んでいた。
 織江を支えた女は、地味な藤色のお仕着せに黒い帯をしている。これがお実乃という女中らしい。十八歳くらいで、顎と目が細かった。
「奥方は?」
「気を失ってしまわれました」
 塚田の声は、安堵に似ている。もっと良くない事態を想像して、そうではなかったことを喜んでいるようだった。
「検分は、もうよろしいか?」
 丈次郎は、塚田の顔に微笑みを見た。

しおりを挟む

処理中です...