忠義の方法

春想亭 桜木春緒

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 はあ、とお実乃が深い深いため息をついた。
 織江はまだ失神から目覚めない。お実乃の膝に力なく首を載せた織江は、丈次郎がふと見とれたように美しい。気を失った白い首筋や額が無防備で、閉じた瞼の睫毛も長い。幽かに開いた唇は珊瑚のように紅く、高い鼻が繊細に息づいていた。
 小三郎がどういう縁で筧家に雇われたかは知らない。勤めている内に、子のない主人夫婦を見て、養子という口を思いついたのだろう。その手段として、彼は美しい妻女を手籠めにするというやり方に至った。もしかしたら、美しい奥方を見て、彼女を汚すことを先に考えついたかもしれない。順序は、どちらが先だっただろう。
 女の立場は弱い。力尽くであれば男に敵うはずがないのに、被害に遭えば女の落ち度となる。加害者の男以上に、被害者の女のほうが、世間に知られれば拭えぬ恥を負い非難を受ける。
 小三郎はそうして織江の落ち度を作り、脅迫し、金品を強奪し、養子にしろと強要したことになる。悪人だ、と塚田もお実乃も言っていた。
 生前は小綺麗だったらしい小三郎の、苦悶に歪んだ死顔を思い出した。
 懐に残っていた紙を取り出し、懐剣を描いた。鞘から抜くと、刃に曇りが筋状に残っていた。血脂はそう簡単に拭いきれる物ではないらしい。柄にこびりついた血らしき跡も描き、血である、と文字で書き添えた。それからお実乃に聞いたことを文にした。小三郎が織江を陵辱したことについては省く。奥方の弱みを盾に強請った、ということだけにしておいた。報告と言うには雑だが、一通りの事を揃えて紙を束ねた。
 筧太郎助の登城に合わせて、小寺が城内の目付の元に報告に行くことになり、丈次郎は絵と文を記した物を託した。小三郎の襟から出てきた書き付けも、持って行った。あれらを、目付がどう判断するだろう。
 どうして欲しい、ということも丈次郎には考えつかなかった。
 阿部小三郎が話に聞いたとおりの悪人ならば、自分がやった、と言う塚田を罪とするのは正しいことなのか、どうか。

 塚田は約束通り丈次郎のところに戻ってきた。そのときには織江が目覚め、傍らの丈次郎を見てひどく怯えた。
「奥様、大丈夫でございますよ」
「源三……」
 織江は、塚田を名で呼んだ。
「お実乃、お部屋に床を。検使どの、しばし外してよろしいか」
「申し訳ないが、おぬしから目を離したくない。共に行かせてもらおう」
 丈次郎は織江を支えて奥へ向かう塚田の後ろ姿についていった。織江は塚田に寄りかかるように身を委ねている。その姿は、他人の間柄とも見えない。
 あとをお実乃に頼み、塚田は丈次郎に台所へ行く、と言った。
「失礼だが、奥方と貴方はずいぶん親しげですな」
「左様、乳兄妹という間柄になります。奥様のお輿入れのすぐ後にこの家の用人が亡くなり跡継ぎもないところ、お使いで何度か行き来したことのあるそれがしを殿が気に入って下さって、こちらに参った次第。無論、奥様のお口添えが強かったとは思いますが」
「やましいことはないと?」
「冬木様はおいくつになられる? その若さでは、まだわかりませんかな」
「何がわからないとおっしゃる」
「やましい関わりのある男女と、そうでないものとの違いが」
 丈次郎は小馬鹿にされた気がして、顔をしかめた。塚田はそんな奥手な風情の丈次郎を見て鼻で笑いつつ、台所を横切り、玄関の方角の戸を開ける。
「あの小娘はずうずうしい好き者で、小三郎が戻ってきてから十日の間に商いを口実に何度か訪れてきましてな。その度に、その小部屋を使っていたずらな真似をしておりました。小三郎が実家に帰ってから、鳥屋の店を手伝っていたおますと出来合ったようでした」
「筧様は気付いていなかったのですか?」
「小三郎はそういうところにぬかりはありません。殿に見つかれば無礼打ちにされても文句は言えない。小三郎の手引きでしょうが、殿が朝番の日にはおますは昼前に来ます。泊まり番の日は泊まっていきます」
「では一昨日は泊まっていたのか? 朝に来たようなことを言っていなかったか」
「それがしが、おますが卵を持ってきたと聞いたのが朝のことでした。恥ずかしながら門番なども居ないことが多いために、出入りに気付かないことがままあります」
 長屋門を構えていても、二百石三百石程度の家柄では門番など雇いかねる懐具合のところが多い。筧家もそうらしい。
「お守りの懐剣を奪われてから、奥様はご心痛でした。ご本家からの賜り物で、万一にも売り飛ばされてはならぬ、返しに来いと、暇を出した後の小三郎にも催促の手紙を幾度か出しました。まあ、その度に奥様から金をむしり取っていくだけの奴でございましたが」
「この十日ほど小三郎が来ていたというのも同じ事情か」
「左様。ただ一昨日になって、とんだことになりました。重大な話があるからと、おトミに、小三郎とおますが言うには、自分が奥様のところに行くか、奥様の方からこっちに会いに来いと。奥様としては、奥の部屋にあのような者達を招きたくもなし、と、こちらに来たのでしょう。話というのは、あのおますが小三郎の子を妊んだと……」
「それは本当か?」
「本当かどうかは解りかねる。だがとにかく、それゆえに小三郎を養子にする手配を早くしろと言うのですよ」
「おますが?」
「あのときは小三郎よりおますがきいきいとよくしゃべっていました。奥様の代わりに跡取りを生んでやる、懐剣はお守り刀として跡取りに伝えるのだからそのままもらっておく、そんなことを言っていたと思います。それでお怒りになった奥様が、剣を取り戻そうと、おますに掴みかかりました」
「懐剣を持っていたのは小三郎ではなくておますだったのか?」
 丈次郎は、あれから懐剣を預かったままでいる。懐に入れていたそれを、着物の上から思わず掴んだ。
「左様です。何故におますが、という理由まではわかりませんが、由緒ありげな守り刀をちらつかせて、小三郎はおますをたぶらかしたのでしょうな」
 奥様は、と塚田は言葉を切った。乳兄妹だという織江に、彼がどのような感情を持っているのか丈次郎には読み取れない。
 忠義なのか、違う気持ちなのか。
「奥様がおますに掴みかかり、おますが取り落とした懐剣をそれがしが拾って、――剣を奪おうとした小三郎を壁に押しつけて、刺しました」
 検分したところ、傷は背まで達していなかった。壁にもそれらしい傷や血の跡などは見えなかった。
「奥様はおますの背に回って、後ろから腕を首に巻き付けていました。狭い場所でのことです。返す刀でそのままおますの胸を刺しました。おますのほうはその場に倒れまして、その上に、壁にもたれて死んだ小三郎を重ねました。相対死に見せかけようと思ったのはそのときでしょうか。ただ奥様の懐剣で死んだのでは困る。それゆえ、小三郎の脇差しでおますを刺し直し、小三郎の喉を突き、その手に持たせました」
 そういえば、織江の手には引っ掻いたような傷があった。猫だ、と言っていたが、あの傷はおますの爪によるものだったのだ。
「そのとき着ていた物などは?」
「焼きました。湿っていたゆえ、焼ききるには今朝までかかったと、お実乃が」
「なるほど」
 そういえば筧家の屋敷に入る前、煙の匂いが漂っていた。
「先ほどもお話ししたとおり、小三郎は悪人でした。ことに奥様への無礼は許しがたかった。当家をあのような悪辣な者どもに好き勝手にされてはならぬと思うのは、家来として当然の忠義……」
 塚田は首を垂れながらおのれの両の掌をじっと見て、然る後にその視線のまま強く拳を握った。唇の両端が頬に引き上げられているのに、目は笑っていない。そんな顔つきの人を見たのは、丈次郎は初めてだ。
「お家の災いであったゆえ二人を殺しました。手を下したのはそれがしでござる。もしお咎めがあるならそれがし一人まで。殿にも奥様にも、何も罪はありませぬ。それでよろしいでしょうな」
 丈次郎はうなずかなかった。うなずいても良いように思ったが、ただ黙って、少し途方に暮れた気持ちで、塚田の髷先を眺めた。
 塚田の言葉は、忠義といえばすさまじいような忠義だ。それは武士らしい潔さだと思うべきなのだろう。

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