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その目蓋に、思わず逸は触れた。
熱があるのだと、気づいた。見れば、新兵衛の解かれた髷の辺りに手拭らしきものが落ちており、部屋の奥のほうに桶があった。そこに水が入っている。
とりあえずはその桶で手拭を絞り、新兵衛の額に乗せた。
そしてその桶を携えて逸は廊下に出る。新しい水を汲もうとし、井戸を探した。
水を汲んで戻ると、先程と変わりなく新兵衛は眠っていた。
和子が渡してくれた新しい晒を少し裂き、細く丸めて桶の水に先端を浸し、それを新兵衛の乾いた唇に当てた。少しでも潤うと良い。
やがて医師が現れ、新兵衛を診た。
その時には彼も目覚めていた。
医師が腹に巻かれた晒を外し、薬を塗った油紙を当ててある傷口を診る。わずかに新兵衛が苦鳴を洩らす。
逸は目を背けた。自分の腹までが痛いような心地になる。
「少し熱も出るだろうが、縫い目も良く付いている。しばらく動けないが心配は無用でござろう。臓器(はらわた)に損傷はないし、何、浅手ですよ。ご安心なされ」
「…忝い」
「なるべく重湯か、白湯を、少しずつ口にされますように」
「ときに、どのくらいで元通りに動けるようになりますか」
「元通りとなると、ひと月か、ふた月は掛かりましょうか。」
「解りました」
再び薬を塗るなどの処置をして、医師は去って行った。
「来ていたのか」
と、仰臥したままの新兵衛が言った。
「つい、先ほどです」
「びっくりしただろう」
「それは、もう……。でも大丈夫でございます」
新兵衛の声に力がない。かすれていて痛々しかった。それでもいつもの彼のように、穏やかで優しい口調であった。
逸は、新兵衛の負傷を耳にしてから初めて安堵を覚えた。安堵のあまり、涙が出る。
そんな逸の様子を、新兵衛はただ天井を見つめながら、聴いていた。
ひと月か、ふた月か。というようなことを考えている。不覚なことだったと後悔が湧く。それほどの期間、動けないとすると、腕も落ちるだろう。そうすると完全に元に戻るにはもっと月日がかかるだろう。
あの時、狭窄した視野の中で、血だまりの中に沈んだ吉太郎の刀に、紙片が貼り付いていたのを見た。あれは、懐に入れていた、結の戒名を記した物だ。
守られたのかもしれない。
ぼんやりと天井を眼に映しながら、結、と胸の中で呼びかけた。
あと一人だ。
新兵衛はまた目を閉じた。唇の端が少し、上がっている。
逸は新兵衛の口元に去来した笑みを、不思議と不安なものに観た。彼が遠い。そんな心地がして、涙が止まった。
昼八つごろであっただろうか。
今や多忙を極めているはずの鳥越が、新兵衛の見舞いに来た。
見るからに重きをなして見える鳥越が、一人室内に入り、新兵衛の床の足元を回って彼の枕辺に坐したとき、逸はすっと頭を下げて、
「控えております」
と言って出て行った。
鳥越は、新兵衛と初めて会った時と変わらない温和で寛活な笑みを口元に漂わせている。
「起き上がれませぬゆえ、このままで失礼仕ります」
「そんな気を回さなくてよろしい。傷の具合はいかがです?」
「医師の話では、良いようです」
「左様ですか。何よりの事ですな」
響きのいい鳥越の声が、暖かく和らぐ。
「時に、今の娘ごを呼んで差し支えないだろうか?」
「構いませぬが」
判然とせぬまま、新兵衛は頷く。
鳥越は身軽に移動し、廊下につながる障子を開け、外に控えていた従者に其れを命じた。
やがて逸が現れた。
「失礼いたします」
「お入り」
と答えたのは鳥越だった。
逸は部屋の隅に平伏し、
「お呼びと伺いましたので参じました」
と挨拶をする。
「顔をお上げなさい。……よく見せておくれ」
逸にしてみれば、初めて会う鳥越の、その親しげな表情には戸惑いだけを覚える。
だが、新兵衛は天井を見上げながらある予感が脳裏に湧いていた。
ふと眉をしかめて目を閉じる。
「愛らしい。目も口も、あの畑野に似ているのに、な。逸子殿」
「……父を御存じなのですか?」
目を見開いて問いかける逸に、深く頷きながら、共に学んだ仲であった、と鳥越は言った。
「こたびの事は、そなたの父が居らねば成されなかったことだ。……苦しい日々であっただろう。畑野の家のものは皆、今時分はもう笹生の屋敷に着いたころだろう」
わずかに潤んだような声であった。
「水城殿」
「は」
「逸子を、父のもとに返してやってくれぬか」
鳥越は、逸の事を正しく逸子、と呼ぶ。
「それは、無論」
新兵衛の返事はかすれて乾いている。それは負傷のためと鳥越は思っただろう。
「すぐに、で、しょうか」
逸はひどく強張った声で切れ切れに言った。鳥越が居なかったら、新兵衛にすがって嫌だと訴えただろう。
ここに居たいと、言ったであろう。
「よろしいか?」
鳥越が、新兵衛に訊く。
そうせよ、と新兵衛は言った。早いほうが良い。天井を向いたまま、かすかな沈黙の後に、逸に向けて彼は告げる。
「逸、……一年足らずであったが、誠に世話になった…」
「私こそ、誠に……」
逸は、泣いているのかもしれない。だが身を起してそれを目で確かめる術もなく、仰臥のまま新兵衛は逸が出て行った気配だけを聞いた。
鳥越は、新兵衛に逸の父親の事を少し語り、医師とその弟子を優先的に新兵衛に付けると約して、帰って行った。
「ご養生なされ」
その優しげな物腰を、新兵衛は初めて憎く思い、そう思ったことを後悔した。鳥越には何の悪気もないのだ。
これでよかったのだ。
逸にとっては何よりの事だ。
今回の事変の大立者の鳥越が、逸の父を辺境の地から呼び返したと言っていた。このたびのことは逸の父がいなければ成らなかったとも言っていた。
逸の父はそもそもは三百石を取る上士で、「鳳雛」と徒名された鳥越と並び「臥龍」と呼ばれた俊才だったそうだ。そもそも鳥越の鳳雛というあだ名も、そこに臥龍と言われた逸の父が居たからこそ付けられたものだった。そういう間柄なのだと言っていた。逸の父はすぐにでも旧禄に復されるのだろう。
逸は、もう下働きなどしなくて良いのだ。
(好色な雇い主に慰まれたことなど、早く忘れてしまえよ)
自嘲を込めて、新兵衛はそう思った。
ふ、と笑い出しそうになって、傷の痛みに全身がこわばった。
畑野辰之助が、ほぼ一年前に娘の逸を手放そうとしたとき、中老笹生平太夫がその相談に乗った。
二十年前に禄を大幅に削られた上、藩境の山深い辺鄙な代官所に左遷されてからは、文でのやり取りしかしていなかったから、突然の訪問に笹生は驚いた。
娘を預けたいと彼は言った。
「下働きにでも雇ってもらいたい」
昔の事はいざ知らず、今の畑野の立場から言えば、笹生家に入るのならばそのくらいの身分でちょうど良い、というのだ。
しかし友の娘を下働きになど出来かねるが、大切に預かろうと笹生が申し出ると、
「であれば、雇ってくれる人物を見つけてほしい」
と畑野は言った。甘えさせるつもりはないし、現状ではあまりにも格が違う中老の家などで大切にされては、却って逸は戸惑い、居心地が悪かろう。そう言って彼は笹生の好意を断った。
畑野の申し出のほんの少し前に、水城家からも笹生のところに問い合わせが来ていた。下働きの小娘が嫁に行くために、代わりに雇って差し支えないものを探してほしいという要望であった。
「そこでいい」
畑野はそれを決めて帰って行った。
後日、逸が家を出る少し前に畑野のところに、水城家からの三両の支度金が届けられてきた。鷹揚な家であるようだ、と既知ではない水城家の主に少し好感を覚えたものだ。
いずれにせよ、畑野は逸が強欲で好色な代官らの食い物にされることは避け得たと、そればかりは安堵したのだった。
熱があるのだと、気づいた。見れば、新兵衛の解かれた髷の辺りに手拭らしきものが落ちており、部屋の奥のほうに桶があった。そこに水が入っている。
とりあえずはその桶で手拭を絞り、新兵衛の額に乗せた。
そしてその桶を携えて逸は廊下に出る。新しい水を汲もうとし、井戸を探した。
水を汲んで戻ると、先程と変わりなく新兵衛は眠っていた。
和子が渡してくれた新しい晒を少し裂き、細く丸めて桶の水に先端を浸し、それを新兵衛の乾いた唇に当てた。少しでも潤うと良い。
やがて医師が現れ、新兵衛を診た。
その時には彼も目覚めていた。
医師が腹に巻かれた晒を外し、薬を塗った油紙を当ててある傷口を診る。わずかに新兵衛が苦鳴を洩らす。
逸は目を背けた。自分の腹までが痛いような心地になる。
「少し熱も出るだろうが、縫い目も良く付いている。しばらく動けないが心配は無用でござろう。臓器(はらわた)に損傷はないし、何、浅手ですよ。ご安心なされ」
「…忝い」
「なるべく重湯か、白湯を、少しずつ口にされますように」
「ときに、どのくらいで元通りに動けるようになりますか」
「元通りとなると、ひと月か、ふた月は掛かりましょうか。」
「解りました」
再び薬を塗るなどの処置をして、医師は去って行った。
「来ていたのか」
と、仰臥したままの新兵衛が言った。
「つい、先ほどです」
「びっくりしただろう」
「それは、もう……。でも大丈夫でございます」
新兵衛の声に力がない。かすれていて痛々しかった。それでもいつもの彼のように、穏やかで優しい口調であった。
逸は、新兵衛の負傷を耳にしてから初めて安堵を覚えた。安堵のあまり、涙が出る。
そんな逸の様子を、新兵衛はただ天井を見つめながら、聴いていた。
ひと月か、ふた月か。というようなことを考えている。不覚なことだったと後悔が湧く。それほどの期間、動けないとすると、腕も落ちるだろう。そうすると完全に元に戻るにはもっと月日がかかるだろう。
あの時、狭窄した視野の中で、血だまりの中に沈んだ吉太郎の刀に、紙片が貼り付いていたのを見た。あれは、懐に入れていた、結の戒名を記した物だ。
守られたのかもしれない。
ぼんやりと天井を眼に映しながら、結、と胸の中で呼びかけた。
あと一人だ。
新兵衛はまた目を閉じた。唇の端が少し、上がっている。
逸は新兵衛の口元に去来した笑みを、不思議と不安なものに観た。彼が遠い。そんな心地がして、涙が止まった。
昼八つごろであっただろうか。
今や多忙を極めているはずの鳥越が、新兵衛の見舞いに来た。
見るからに重きをなして見える鳥越が、一人室内に入り、新兵衛の床の足元を回って彼の枕辺に坐したとき、逸はすっと頭を下げて、
「控えております」
と言って出て行った。
鳥越は、新兵衛と初めて会った時と変わらない温和で寛活な笑みを口元に漂わせている。
「起き上がれませぬゆえ、このままで失礼仕ります」
「そんな気を回さなくてよろしい。傷の具合はいかがです?」
「医師の話では、良いようです」
「左様ですか。何よりの事ですな」
響きのいい鳥越の声が、暖かく和らぐ。
「時に、今の娘ごを呼んで差し支えないだろうか?」
「構いませぬが」
判然とせぬまま、新兵衛は頷く。
鳥越は身軽に移動し、廊下につながる障子を開け、外に控えていた従者に其れを命じた。
やがて逸が現れた。
「失礼いたします」
「お入り」
と答えたのは鳥越だった。
逸は部屋の隅に平伏し、
「お呼びと伺いましたので参じました」
と挨拶をする。
「顔をお上げなさい。……よく見せておくれ」
逸にしてみれば、初めて会う鳥越の、その親しげな表情には戸惑いだけを覚える。
だが、新兵衛は天井を見上げながらある予感が脳裏に湧いていた。
ふと眉をしかめて目を閉じる。
「愛らしい。目も口も、あの畑野に似ているのに、な。逸子殿」
「……父を御存じなのですか?」
目を見開いて問いかける逸に、深く頷きながら、共に学んだ仲であった、と鳥越は言った。
「こたびの事は、そなたの父が居らねば成されなかったことだ。……苦しい日々であっただろう。畑野の家のものは皆、今時分はもう笹生の屋敷に着いたころだろう」
わずかに潤んだような声であった。
「水城殿」
「は」
「逸子を、父のもとに返してやってくれぬか」
鳥越は、逸の事を正しく逸子、と呼ぶ。
「それは、無論」
新兵衛の返事はかすれて乾いている。それは負傷のためと鳥越は思っただろう。
「すぐに、で、しょうか」
逸はひどく強張った声で切れ切れに言った。鳥越が居なかったら、新兵衛にすがって嫌だと訴えただろう。
ここに居たいと、言ったであろう。
「よろしいか?」
鳥越が、新兵衛に訊く。
そうせよ、と新兵衛は言った。早いほうが良い。天井を向いたまま、かすかな沈黙の後に、逸に向けて彼は告げる。
「逸、……一年足らずであったが、誠に世話になった…」
「私こそ、誠に……」
逸は、泣いているのかもしれない。だが身を起してそれを目で確かめる術もなく、仰臥のまま新兵衛は逸が出て行った気配だけを聞いた。
鳥越は、新兵衛に逸の父親の事を少し語り、医師とその弟子を優先的に新兵衛に付けると約して、帰って行った。
「ご養生なされ」
その優しげな物腰を、新兵衛は初めて憎く思い、そう思ったことを後悔した。鳥越には何の悪気もないのだ。
これでよかったのだ。
逸にとっては何よりの事だ。
今回の事変の大立者の鳥越が、逸の父を辺境の地から呼び返したと言っていた。このたびのことは逸の父がいなければ成らなかったとも言っていた。
逸の父はそもそもは三百石を取る上士で、「鳳雛」と徒名された鳥越と並び「臥龍」と呼ばれた俊才だったそうだ。そもそも鳥越の鳳雛というあだ名も、そこに臥龍と言われた逸の父が居たからこそ付けられたものだった。そういう間柄なのだと言っていた。逸の父はすぐにでも旧禄に復されるのだろう。
逸は、もう下働きなどしなくて良いのだ。
(好色な雇い主に慰まれたことなど、早く忘れてしまえよ)
自嘲を込めて、新兵衛はそう思った。
ふ、と笑い出しそうになって、傷の痛みに全身がこわばった。
畑野辰之助が、ほぼ一年前に娘の逸を手放そうとしたとき、中老笹生平太夫がその相談に乗った。
二十年前に禄を大幅に削られた上、藩境の山深い辺鄙な代官所に左遷されてからは、文でのやり取りしかしていなかったから、突然の訪問に笹生は驚いた。
娘を預けたいと彼は言った。
「下働きにでも雇ってもらいたい」
昔の事はいざ知らず、今の畑野の立場から言えば、笹生家に入るのならばそのくらいの身分でちょうど良い、というのだ。
しかし友の娘を下働きになど出来かねるが、大切に預かろうと笹生が申し出ると、
「であれば、雇ってくれる人物を見つけてほしい」
と畑野は言った。甘えさせるつもりはないし、現状ではあまりにも格が違う中老の家などで大切にされては、却って逸は戸惑い、居心地が悪かろう。そう言って彼は笹生の好意を断った。
畑野の申し出のほんの少し前に、水城家からも笹生のところに問い合わせが来ていた。下働きの小娘が嫁に行くために、代わりに雇って差し支えないものを探してほしいという要望であった。
「そこでいい」
畑野はそれを決めて帰って行った。
後日、逸が家を出る少し前に畑野のところに、水城家からの三両の支度金が届けられてきた。鷹揚な家であるようだ、と既知ではない水城家の主に少し好感を覚えたものだ。
いずれにせよ、畑野は逸が強欲で好色な代官らの食い物にされることは避け得たと、そればかりは安堵したのだった。
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