日照雨

春想亭 桜木春緒

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 静かな朝は、雪化粧の中にあった。

 雪が積もっても、逸は裾をたくし上げて、藩邸の隅の祠に新兵衛のことを祈りに行く。
 旦那様、胸のうちで唱える。この先、声に出してそう呼ぶことは叶わないのだろうかと思いながら。

 江戸の雪は、消えるのが早い。
 そんなことを逸は手紙に書いている。

 手紙は、濡れないようにという心遣いか、わざわざ油紙に包まれて、門の下に差し込まれていた。
 確かに江戸の雪は消えるのが早いな、と、新兵衛は外に降り積もる雪のかすかな音を聞き分けて思う。
 こちらはまだ、降り止まない。

 四月になって藩主戸沢大和守が参勤で江戸へ出府した。
 同じ月の吉日に、嫡子欣之介和雅の婚儀があった。
 
 逸は、それらの準備は煩瑣だが面白かったと、その後の手紙に書いていた。
 新兵衛の居室の棚にひっそり置いてある文箱が、二つになっている。

 逸の手紙を初めて受け取ったときほどの動揺は薄れてきた。だが新しい手紙が届くたびに新兵衛はかさぶたの端を爪で捲ったような痛みを未だに感じる。
 それでも手紙を見たいと思う。逸のことを知りたいと思う。その心で、乾いた紙をそっと開く。
 その手紙に、誰か知らぬ男に嫁ぐという知らせがいつか記されるのではないかと、新兵衛はそんなことを恐れながら、逸の文字を追う。
 読み書きは得意か、と尋ねたときに、真似事程度だと逸は言っていた。とんだ謙遜だったと思う。漢語もよく知っているようだ。文字は両親に習ったと話していたが、貧しくしていた中でこれだけのことを娘に学ばせた逸の親に、新兵衛は尊敬の念を抱いた。
 
 初夏の声を聞いてずいぶん過ぎた頃のことだ。
 逸に事件があった。

 梅雨のはしりであろうか。
 降り出した雨のせいか、その日は夏を示す暦とは裏腹に冷え込んでいた。

 江戸家老笹生平太夫の耳に、妙な話が入ったのはそのことが起きた日の夕暮れのことだった。ははあ、と廊下で奥向きの侍女の話を聞きながら、曇天の下に放たれた雨粒を目で追っている。

「畑野には言ったのか?」
「え? ……いえ」
 笹生は苦笑しながら、ことの一方の当事者である奥方付き侍女の逸の父親である畑野の居る御用取次役の部屋に行く。
 同役の者達と共に、書付の山に埋もれていた畑野を、笹生は廊下に呼び出し、奥の侍女が話したことをそのまま告げた。
 畑野が、笹生の話を聞いて、ふっと笑いを噴き出した。
「笑い事ではあるまいよ」
「いや、とんだ笑い事ですよ」
 ただ畑野は笑顔を浮かべている。
 痩せて老け込んで見えるものの、繊細に整った顔立ちである。にもかかわらず其処に浮かんだ笑みには、笹生が気圧されるようなふてぶてしい剛毅さが漂う。
 屋敷の敷地の隅に蔵がある。
 たすきがけをした侍女がなぎなたを持ってその前に立っている。傍らに番士も控えていた。
 藩主の家族を除き、藩邸の中で最も身分の高い江戸家老の笹生を認め、彼らは拝跪した。傍らに畑野が居るのを見て、少し気兼ねしたような顔をする。
「少し良いかね」
 蔵の扉の横にある、格子の付いた小窓を開け、笹生は畑野を呼び寄せた。
 夕暮れの僅かな光に気づいたか、暗闇の中で人が動く気配がする。
「ふっ」
 と中を見て笑ったのは畑野である。
 いきさつからすると、蔵の中の闇に閉じ込められているのは彼の愛娘であるというのに、何が可笑しかったものか。笹生は眉を顰めた。
「寒くはないか、逸?」
「大丈夫です、父上」

 二の句を次げずに立ちすくんだ笹生を振り返って、
「奥方様の所へ参ります」
 と畑野は言った。
 仕方なく笹生は彼の背中を追った。
 笹生は江戸家老として動いている。ことは、世子の欣之介和雅が絡んでいる。屋敷内ではそれなりに大事件であるといえた。

 藩主の正室千賀子夫人は快く笹生と畑野の面会の申し出を承諾してくれた。
「奥方様のお耳をお騒がせいたし申し訳ありませぬ」
 と畑野は謝した。
 千賀子夫人は二人の家臣に面を上げるように言った。
 畑野は堂々と背を伸ばして夫人と相対する。彼の斜め前に座す笹生は少し視線を落としたまま。笹生の姿勢のほうが、臣下としては礼にかなっている。
「伝聞にてお伺いしたことばかりです。奥方様はどのようにお聞き及びでしょうか」
「わたくしも、伝聞でのみ聞き及びます」
 と、夫人はことのいきさつを話し始めた。

 この日の午後。鍛錬や講義を終えた欣之介が、逸を呼び出した。
 夫人によると、世子となって忙しい身になったにもかかわらず、この数ヶ月の間、彼は本当に頻繁に母親のところを訪問するようになったらしい。それが、逸が夫人の側に侍るようになってからの時期と一致する。
 欣之介の訪問の際に、茶菓を運んだりするほか、千賀子夫人の側に控えて、時に欣之介とも言葉を交わすこともあるような立場に逸は在った。
(良く勤めていたのだな)
 と要らぬ感慨を催しつつ、畑野は夫人の話に耳を傾ける。

 さて、欣之介は逸を呼び出して、銀細工の簪に鼈甲の笄、螺鈿の蒔絵が施された櫛に、京友禅の縮緬を三反、西陣の帯地を三本、それらを遣わす、と彼女の前に並べ置いた。いずれも娘の心を華やかに弾ませるような美しい品々ばかりだった。
 これらのものをその身に纏い、我が元に来い、と欣之介は言った。
 逸を側室として召したいと申し入れたのである。
「それは、それは」
 畑野は逸の父親として、目を細めながら、光栄なことだと僅かに胸を熱くした。
 不器用な表情を赤く染めながら、逸の目の前でそんなことを直接彼女に言う欣之介の姿が眼に浮かぶ。
 欣之介の立場であれば、家臣の誰かを介して申し入れれば良いものを、誰を頼むこともなくわざわざ自らの口で逸にそう言ったところに、彼の直情の人柄が見て取れる。
 畑野は、欣之介が特に度外れて好色だと思ったことはない。家中の者達も畑野と同様に彼を見ているだろう。
 三男の身で俄かに世子に成ったことで、戸惑いながら諸事に励む姿に、畑野は欣之介の篤実な人柄を見た。賢明で、謙虚であり、人の話を良く聞く健康的な青年だった。
 周囲に勤めるものに間違いがなければ、名君になれる素質はあると、畑野のみならず江戸家老の笹生も、今は国許にいる執政の鳥越もそのように看て、彼に期待をしているのである。
 
 藩の若君が侍女を側女に望む事など、珍しい話でもなんでもない。子孫を必ず残す必要のある立場であれば、むしろ健康な側室の二人や三人は、藩としても歓迎すべき存在でさえあると言えた。
 ただ少し眉を顰めるべきことがあるとすれば、欣之介が正室を迎えたばかりだということだ。彼女の父親は間もなく老中になろうかという実力者である。娶ってからふた月足らずのうちに側室を望んだと知れれば、いささかその父親の機嫌は損なわれることだろう。

 そのとき、並みの娘なら目を輝かせてときめくであろう品々を目の前にし、人柄も男振りも上々の藩の若殿からの求愛を耳にして、逸は、それを言下に断ったのである。
 しかも、怒っていたという。
 申し訳ありませぬ、と平伏した逸に、
「何ゆえ、何が足りぬ?」
 と欣之介は食い下がった。
 しばらくの沈黙の後、逸は下を向いたままでおもむろに口を開いた。
「若君様は、空腹を感じたことがございますか?」
 という奇妙な問いかけだった。
「それは無論」
「では空腹のまま眠ったことはございますか?」
「それもある」
「では、ひと月の間、空腹であったことはございますか?」
 欣之介は沈黙した。
「ずっとずっと、お腹を満たした覚えのないこと、……それを、飢え、と申します。ご存知でございますか?」
 膝の前に手を付いたまま、逸はわずかに眼差しを上げて欣之介を見ている。真冬の湖のように凍てついた光を帯びていた。
「飢えたまま働いたことなどございますまい。冬の凍てつく風の中、満たされぬ腹を抱えて糸を繰り、機を織り、荷を担い、はるかな道を歩くのです。身体を暖めようにも薪もなく、温かな白湯の一椀さえ望むことが困難な……。そんな、下々の暮らしを、若君さまはご存じないのです」
 語りながら逸は激昂したらしい。
「上に立つ身であれば、知らぬものとてご想像下さいませ。想像する努力をお忘れでございましょう。……だからこのような、たかが女子一人の歓心を買うために、愚かしい冗費を使うようなまねができるのです。私は失望いたしました!」
「黙れ、逸!愚かしいとは何じゃ? 冗費だと? ……たかが、じゃと? まねと申したか!」
 烈しい言葉を発した逸に対し、同じくらいの激しさで欣之介は言い返した。
「断るなら断るでよし、だがものの言いようというものがあろう、無礼である!」
 そんな欣之介の怒声を聞きつけて、侍女や側役の者達が駆けつけた。
「逸を捕えておけ」
 と彼は命じた。
 それでもその場で逸が一言でも謝罪したのであれば、彼女が蔵に閉じ込められるようなこともなかったかもしれない。だが、逸は口も開かずただ昂然と顔を上げていたという。
「縄は打たんでよろしい」
 逸の唇を引締めた横顔を見て、欣之介はそう言った。

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