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逸が、帰ってくるのか。
ふと浮き立った心を、諦観と共に捨てる。蟄居の身で、逸に会えるわけでもあるまい。
それでも、逸が、江戸よりはずっと近い、同じ城下に帰ってくるということを知って、新兵衛は表情を少し明るいものにする。
しかし何日か経ってから、ふとその手紙を読み返し、もしや縁談が生じたための帰国ではないかという疑いを抱き、暗澹となった。そんな疑いで落胆したことに、また新兵衛は自らを叱ったりもした。
逸には、幸せな話なのではないだろうか。それを新兵衛はずっと祈っていたはずだったのだ。
そうなったらそうなったで、逸を祝ってやるべきではないのか。
その後十日ほど、新兵衛は寝込んだ。
無理からぬことかもしれないが、春ごろから食が細り、些か痩せてきていた。そのために体力が落ちたのだろう。暑気に負けたようだ。
松尾と和子、それに留吉やいね、喜八もお咲も、幼いミツも喜一も、かわるがわる新兵衛の枕辺を訪れてくれた。
それを見張りの役人は見逃してくれた。皆が新兵衛を心配していた。
気温は暑いのに、床の中でひどく寒気を覚えながら、そうそう寝込んではならないものだと、見舞いに来た皆の顔を見て思ったものだ。ただでさえ彼等に気苦労をかけているのだ。それ以上は、いかに主の立場といえども、申し訳がないと新兵衛は思う。
仰向けに天井を見上げながら、水城家に住む彼らのことを考える。
逸に礼を言わねばなるまい、心の底からそんな気持ちが湧き上がった。
あの時、自害していたら、皆をさぞ悲しませたことだろう。新兵衛があの場で死んでいたら、彼等はどうしただろうか。
あの時は、それでも構わない、と思いつめていた。恨みという感情の中に凝り固まって周囲を慮るゆとりなどなかった。
今は、違う。新兵衛に思いやりを寄せてくれる彼等を、途方に暮れさせるような事態を招かずに済んで良かったと、心から思った。
しかしその感謝を逸に伝える機会は訪れまい。
解りきっているのに、落胆する自分に新兵衛は苦笑する。
永蟄居という罰は、生きていながら死者を装わせるものだ。だが、生きていて考える力を持っているのに、それを死なせることはできない。それが苦しい。
それでもその苦しさに、ずいぶんと慣れてきた。
逸が三国峠を越えたのは、八月の末のことだった。
雨のために川止めとなった。そのため川口の宿で城下を目前にして二~三日を過ごした。
川を越えたところで、道連れとなっていた隠居の一行とは別れることになる。
そこからは逸の足でも一日で城下の自邸に着くだろう。そのくらいの距離ならばと、一人での道中になる予定であったが、逸たちの一行が川口の宿に足止めされている間に同宿になった商人の一行が、城下町の向こうの港町まで行くと言うので同行することになった。
高井屋という薬種問屋の番頭と手代であった。番頭は逸の父親と同じ世代であろうか。
早めに家庭を持つことを許されたというその番頭は、逸よりも五歳ほど年下の娘が居るというような話である。
江戸から戸沢領には頻繁に行き来しているとのことであった。
ようやく晴れたその朝、川口の渡しを渡りきり、隠居の一行と別れた。
江戸からの道中の半月にも足らぬ日数の付き合いであったが、老妻が泣いて別れを惜しんでくれたことが、逸の目頭を熱くした。
「貴方様が、逸子様ですか」
高井屋の番頭は、逸の名を聞いたときにそう言った。
「お父上やお兄上から幾度かお便りをお預かりしましたから、お名前だけはよく存じておりますよ。そういえば、どこかお父上に似ていらっしゃる」
「そうだったのですか」
逸が鳥越に宛てて書いた手紙は、いつも父親に託していた。
それを、頻繁に江戸と戸沢領を行き来するという高井屋に預けて、鳥越まで届けさせていたということらしい。高井屋は、鳥越と親しいのだそうだ。
「奥勤めをされていると伺っていましたが、この度のご帰国は、ご縁談ですか?」
「お勤めをしくじったのですよ」
道中にそんなことを訊かれて、逸は笑いながら否定した。
諏訪町に差し掛かって、逸は、申し出て高井屋の一行と別れた。
「諏訪神社にお参りをしてから帰ります。お世話になりました」
「お屋敷までお連れ致しますのに」
「いえ、ここまで来れば一人で大丈夫です。商いでお忙しいのでしょう。お気持ちだけいただきます。ありがとうございました」
丁寧では有るが、反論を許さないような強さで逸は親切な申し出を断った。
「それではどうぞお気をつけて……。もしお父上に何かお便りが有りましたら、お預かりしますから」
港町の店までおいでなさい、と言ってくれた。親切な男だった。
九月の初頭。
宙を走るトンボの数もまばらになってきた。
空が高く、青い。
逸は、水城家の門の前に立った。早朝に川口の宿を出て、既に正午が近い。
あれから、もう一年半を過ぎた。
あの日。
梅が香り始めた啓蟄の日。
新兵衛の所在を尋ねて慌ただしくこの屋敷に来た。
新兵衛が仙之介を襲撃した日のことだ。
逸にとっては、あの日は新兵衛の全てを知った日だった。
彼の妻の結が亡くなったその原因と、その下手人のこと。結がそのとき新兵衛の子を身ごもっていたこと。
そして新兵衛が何もかも、命さえ投げ打って、その仇を討とうとしていた事。
仇である藤崎吉太郎を上意の名目を得て討ち果たし、藩主の次男の仙之介は切腹をして果てたが、新兵衛はその介錯をした。見事に仇を討ったと言って良い。
その場で新兵衛は死のうとしていた。
逸は、それを遮った。
その夜、報国寺の庫裏の闇の中で、逸は新兵衛に求められた。何も言うな、と沈黙を強いて、彼は逸を激しく貪った。
あの時、何も考えられないほどに逸は新兵衛を感じた。真っ白に爆ぜた意識の中で、ただ新兵衛が愛しかった。それだけを覚えている。
ありがとう、幸せにおなり。
あの言葉が、今でも、逸の耳の底を常に流れている。
旦那様はお優しい方だから、逸はそう思う。
新兵衛は、あのときには死を覚悟していたはずだ。命までは奪わなかったものの、主君の子を襲い、刺したのだ。到底、死罪を免れるはずもないと考えていたに違いない。
だからこそ、逸を遠いもののようにして、彼はそう言ったのだろう。
「旦那様の居ない幸せは、私にはありません」
閉ざされたままの門を見ながら、逸は小さな声で呟いた。
そして踵を返して、逸はようやく自邸に向かう。
それは、江戸に行ってからもずっと考えていたことだ。
幸せとは、何なのか。
藩主の後継者である欣之介に、側室になれと申し込まれた。
逸の直接の主であった千賀子夫人は、間もなく五十路を迎えようというのに、艶やかで引き締まった頬を持ち、眼差しに瑞々しい光のある美しい女性である。その夫人の子である欣之介は、母親に良く似た美男だった。
侍女達の間でも彼に憧れるものは多かった。
逸も、欣之介を好ましいと思わなかったわけではない。立ち居振る舞いが颯爽としていて、顔立ちも美しく、性格も素直で優しい。彼を見ていると、確かに胸が浮き立つような心地さえする。身分ゆえに人を見下すようなことをせず、気さくで、話をしていても非常に快い青年だった。
その欣之介が、逸に側室になれと言った。つまり、逸を好きだと彼は言ったのだ。
逸がそれを聞いたときに最初に思ったのは、光栄だということだ。
だが次に思ったのは、同じ言葉を新兵衛から聴きたかったということだった。目の前に居て逸に求愛している男が、新兵衛ではない。そのことが逸にはひどく悲しく思えてしまった。
その次に思ったことが、目の前に並べられた贅沢な品々への憤りであった。
そしてその憤りを口に出し、欣之介の怒りを買ったのである。
藩主の側室になるということは、藩という世間の中の女性としてはほぼ頂点を極めるということだ。大勢の人間に傅かれ仰ぎ見られ、贅沢な衣装をまとい、許される限りの美食に満たされる。
幸せ、といえばそれ以上の幸せなど望むべくもない。そういう立場であっただろう。
だが傍らに寄り添う者が想う人ではないのなら、たとえ立場としては頂点を極めたとしても、美衣や美食に満たされたとしても、それは幸せだろうか。逸はそれを疑問に思う。
寄り添ううちに愛しくなるものだと言う人も居る。
それはきっと、他に大切な者が居なかった場合だけだろうと逸は思うのである。
ふと浮き立った心を、諦観と共に捨てる。蟄居の身で、逸に会えるわけでもあるまい。
それでも、逸が、江戸よりはずっと近い、同じ城下に帰ってくるということを知って、新兵衛は表情を少し明るいものにする。
しかし何日か経ってから、ふとその手紙を読み返し、もしや縁談が生じたための帰国ではないかという疑いを抱き、暗澹となった。そんな疑いで落胆したことに、また新兵衛は自らを叱ったりもした。
逸には、幸せな話なのではないだろうか。それを新兵衛はずっと祈っていたはずだったのだ。
そうなったらそうなったで、逸を祝ってやるべきではないのか。
その後十日ほど、新兵衛は寝込んだ。
無理からぬことかもしれないが、春ごろから食が細り、些か痩せてきていた。そのために体力が落ちたのだろう。暑気に負けたようだ。
松尾と和子、それに留吉やいね、喜八もお咲も、幼いミツも喜一も、かわるがわる新兵衛の枕辺を訪れてくれた。
それを見張りの役人は見逃してくれた。皆が新兵衛を心配していた。
気温は暑いのに、床の中でひどく寒気を覚えながら、そうそう寝込んではならないものだと、見舞いに来た皆の顔を見て思ったものだ。ただでさえ彼等に気苦労をかけているのだ。それ以上は、いかに主の立場といえども、申し訳がないと新兵衛は思う。
仰向けに天井を見上げながら、水城家に住む彼らのことを考える。
逸に礼を言わねばなるまい、心の底からそんな気持ちが湧き上がった。
あの時、自害していたら、皆をさぞ悲しませたことだろう。新兵衛があの場で死んでいたら、彼等はどうしただろうか。
あの時は、それでも構わない、と思いつめていた。恨みという感情の中に凝り固まって周囲を慮るゆとりなどなかった。
今は、違う。新兵衛に思いやりを寄せてくれる彼等を、途方に暮れさせるような事態を招かずに済んで良かったと、心から思った。
しかしその感謝を逸に伝える機会は訪れまい。
解りきっているのに、落胆する自分に新兵衛は苦笑する。
永蟄居という罰は、生きていながら死者を装わせるものだ。だが、生きていて考える力を持っているのに、それを死なせることはできない。それが苦しい。
それでもその苦しさに、ずいぶんと慣れてきた。
逸が三国峠を越えたのは、八月の末のことだった。
雨のために川止めとなった。そのため川口の宿で城下を目前にして二~三日を過ごした。
川を越えたところで、道連れとなっていた隠居の一行とは別れることになる。
そこからは逸の足でも一日で城下の自邸に着くだろう。そのくらいの距離ならばと、一人での道中になる予定であったが、逸たちの一行が川口の宿に足止めされている間に同宿になった商人の一行が、城下町の向こうの港町まで行くと言うので同行することになった。
高井屋という薬種問屋の番頭と手代であった。番頭は逸の父親と同じ世代であろうか。
早めに家庭を持つことを許されたというその番頭は、逸よりも五歳ほど年下の娘が居るというような話である。
江戸から戸沢領には頻繁に行き来しているとのことであった。
ようやく晴れたその朝、川口の渡しを渡りきり、隠居の一行と別れた。
江戸からの道中の半月にも足らぬ日数の付き合いであったが、老妻が泣いて別れを惜しんでくれたことが、逸の目頭を熱くした。
「貴方様が、逸子様ですか」
高井屋の番頭は、逸の名を聞いたときにそう言った。
「お父上やお兄上から幾度かお便りをお預かりしましたから、お名前だけはよく存じておりますよ。そういえば、どこかお父上に似ていらっしゃる」
「そうだったのですか」
逸が鳥越に宛てて書いた手紙は、いつも父親に託していた。
それを、頻繁に江戸と戸沢領を行き来するという高井屋に預けて、鳥越まで届けさせていたということらしい。高井屋は、鳥越と親しいのだそうだ。
「奥勤めをされていると伺っていましたが、この度のご帰国は、ご縁談ですか?」
「お勤めをしくじったのですよ」
道中にそんなことを訊かれて、逸は笑いながら否定した。
諏訪町に差し掛かって、逸は、申し出て高井屋の一行と別れた。
「諏訪神社にお参りをしてから帰ります。お世話になりました」
「お屋敷までお連れ致しますのに」
「いえ、ここまで来れば一人で大丈夫です。商いでお忙しいのでしょう。お気持ちだけいただきます。ありがとうございました」
丁寧では有るが、反論を許さないような強さで逸は親切な申し出を断った。
「それではどうぞお気をつけて……。もしお父上に何かお便りが有りましたら、お預かりしますから」
港町の店までおいでなさい、と言ってくれた。親切な男だった。
九月の初頭。
宙を走るトンボの数もまばらになってきた。
空が高く、青い。
逸は、水城家の門の前に立った。早朝に川口の宿を出て、既に正午が近い。
あれから、もう一年半を過ぎた。
あの日。
梅が香り始めた啓蟄の日。
新兵衛の所在を尋ねて慌ただしくこの屋敷に来た。
新兵衛が仙之介を襲撃した日のことだ。
逸にとっては、あの日は新兵衛の全てを知った日だった。
彼の妻の結が亡くなったその原因と、その下手人のこと。結がそのとき新兵衛の子を身ごもっていたこと。
そして新兵衛が何もかも、命さえ投げ打って、その仇を討とうとしていた事。
仇である藤崎吉太郎を上意の名目を得て討ち果たし、藩主の次男の仙之介は切腹をして果てたが、新兵衛はその介錯をした。見事に仇を討ったと言って良い。
その場で新兵衛は死のうとしていた。
逸は、それを遮った。
その夜、報国寺の庫裏の闇の中で、逸は新兵衛に求められた。何も言うな、と沈黙を強いて、彼は逸を激しく貪った。
あの時、何も考えられないほどに逸は新兵衛を感じた。真っ白に爆ぜた意識の中で、ただ新兵衛が愛しかった。それだけを覚えている。
ありがとう、幸せにおなり。
あの言葉が、今でも、逸の耳の底を常に流れている。
旦那様はお優しい方だから、逸はそう思う。
新兵衛は、あのときには死を覚悟していたはずだ。命までは奪わなかったものの、主君の子を襲い、刺したのだ。到底、死罪を免れるはずもないと考えていたに違いない。
だからこそ、逸を遠いもののようにして、彼はそう言ったのだろう。
「旦那様の居ない幸せは、私にはありません」
閉ざされたままの門を見ながら、逸は小さな声で呟いた。
そして踵を返して、逸はようやく自邸に向かう。
それは、江戸に行ってからもずっと考えていたことだ。
幸せとは、何なのか。
藩主の後継者である欣之介に、側室になれと申し込まれた。
逸の直接の主であった千賀子夫人は、間もなく五十路を迎えようというのに、艶やかで引き締まった頬を持ち、眼差しに瑞々しい光のある美しい女性である。その夫人の子である欣之介は、母親に良く似た美男だった。
侍女達の間でも彼に憧れるものは多かった。
逸も、欣之介を好ましいと思わなかったわけではない。立ち居振る舞いが颯爽としていて、顔立ちも美しく、性格も素直で優しい。彼を見ていると、確かに胸が浮き立つような心地さえする。身分ゆえに人を見下すようなことをせず、気さくで、話をしていても非常に快い青年だった。
その欣之介が、逸に側室になれと言った。つまり、逸を好きだと彼は言ったのだ。
逸がそれを聞いたときに最初に思ったのは、光栄だということだ。
だが次に思ったのは、同じ言葉を新兵衛から聴きたかったということだった。目の前に居て逸に求愛している男が、新兵衛ではない。そのことが逸にはひどく悲しく思えてしまった。
その次に思ったことが、目の前に並べられた贅沢な品々への憤りであった。
そしてその憤りを口に出し、欣之介の怒りを買ったのである。
藩主の側室になるということは、藩という世間の中の女性としてはほぼ頂点を極めるということだ。大勢の人間に傅かれ仰ぎ見られ、贅沢な衣装をまとい、許される限りの美食に満たされる。
幸せ、といえばそれ以上の幸せなど望むべくもない。そういう立場であっただろう。
だが傍らに寄り添う者が想う人ではないのなら、たとえ立場としては頂点を極めたとしても、美衣や美食に満たされたとしても、それは幸せだろうか。逸はそれを疑問に思う。
寄り添ううちに愛しくなるものだと言う人も居る。
それはきっと、他に大切な者が居なかった場合だけだろうと逸は思うのである。
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