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しおりを挟む昨夜も、新兵衛に乱されて首の後ろで長い髪がもつれている。髷を結うのに時間がかかりそうである。
そんなことを、彼は考えてくれないのだろうか。
あまり遅くに朝の支度に行くのでは、お咲といねと、和子に対して、逸は恥ずかしいと思う。しかし逸がそのつもりでも、どうしても、お咲やいねよりも先に台所に着くことができない日々が続いている。それを彼女たちは少しも咎める事はないが、それでも、逸が嫌なのだ。
母の幸枝は法華町の屋敷に住み始めて健康を取り戻してからは、常に誰よりも先に台所にいた。竈の様子を見て、水場の手入れをして、食器を整えていた。逸も主婦になったのならば、そうあるべきだと思っていた。
今はそれがかなわない。お咲たちが早すぎるのではない。逸が遅いのである。
新兵衛が今は無役であるから、もしかしたら朝の支度など少し遅くても構わないのかもしれないが、今後、彼が何らかの役に就いたとしたら、今よりもおそい支度になったら登城に間に合わなくなってしまう。呑気すぎる習慣をつけてはならないと思う。
逸は唇を噛みながら、櫛で髪を梳いた。
ちがう、と思う。瞼が固く目が乾いている。
今は、幸せなはずではなかったのだろうか。
それなのにどうして、眉間から曇りが取れないのだろう。袂で鏡を拭っても、そこに映る憂いが晴れないのは何故なのだろう。
昨夜は、いったい何刻まで新兵衛に愛されていたのだろう。
彼の逞しい身体に圧し拉がれ、翻弄された。いったいどれほどの時間、新兵衛をその身に受け入れていたのだろう。身体から魂が抜けるような愉悦に、何度も気を失いそうになった。
今も、身体の芯に余韻が痺れるように在る。
嫌、と抗うと、嫌ではあるまい、と反駁される。それも良く解っている。逸は、嫌ではない自分を知ってもいる。
そしていつか、彼の胤を孕む事が出来れば、なお嬉しい。そんな望みを抱くことができるようになるなど、ほんのひと月前には夢のまた夢に思っていたことではなかったのか。
それなのにどうして、苦しいのだろう。望み続けたその夢の中に居るはずなのに。
髷を、うまく結えない。
だらしのない髪のままで、お咲達の前に出たくはない。
どんどん時が過ぎて行くのを感じて、焦る。
やがて肩より上に手を挙げている事がだるいような気持ちになった。髪を、結えない。束ねて握っていた掌から、ばらばらと肩に散るたっぷりの長い髪がうっとうしい。
ぱたり、と身体の横に腕が垂れる。
もう何もできない。そんな気がして、逸は、正座を崩し、膝を抱え込んだ。馬鹿みたいだと思う。髪が結えないだけの事で、どうして、涙など。
「逸?」
と、部屋の外から声がする。
普段ならば、朝餉の支度を終えた逸が着替えの介添えに行くまで大人しく寝間で待っている新兵衛が、何を感応したのか、現れた。
逸の居間として、奥の一室を与えられている。着物を収める箪笥や文机、鏡や髪を結うための油や櫛や化粧道具、それに繕いかけの着物や裁縫の道具などが置いてある。その隣に本来の逸のための寝室もあるが、今のところその部屋で休んだ夜はない。
新兵衛の声がして、逸は慌てて正座に直り、袂で目を拭う。だが髪がざんばらである。
すっと開いた障子の隙間から、冷たい風が来た。
片膝をついた姿勢で新兵衛が居る。踵を返すようにして部屋に入った彼が寒さを遮るために障子を閉めた。
「どうした?」
寝巻に羽織を纏っただけの姿である。厠にでも行った帰りだろうか。逸も、まだ着替えることができていない。ただ現れた新兵衛を見上げた。
日ごろから潤みがちな逸の目が、睫毛まで雫を帯びている。傍らに膝を置いた新兵衛は手を伸ばして逸の頬に触れる。
「身体の具合でも悪いか?」
「いいえ、」
大丈夫だと言いたかったのに、逸の瞼の下から大粒の涙が次々にころりころりと落ちて来る。
「腹でも痛むのか?」
「どこも痛くなんてありません。何でもありません。本当です」
袂で顔を覆って逸は新兵衛に言った。ただ、思うように髷が結えなかった。それだけのことだった。たったそれだけのことで涙が出てきたなど、恥ずかしくて言えない。
そのままの姿勢の逸を、新兵衛は懐に引き寄せる。華奢な肩を温めるように大きな掌が往復する。しばらくそうしていた。
少し待っておいで、と彼は出て行った。
待てと言われたものの、逸はまた焦りながら髪を梳かす。もう涙など構っていられない。障子の外はずいぶんと明るいではないか。ときどき鼻を小さく啜りながら、髪を結おうと試みる。握った毛の根から、すぐにまたばらばらと髪が落ちてくる。今日に限ってどうしてだろう。気持ちが千々に乱れる。
すぐに新兵衛が帰ってきた。
「皆に言ってきた。今朝はもう良いから、もう少し休みなさい」
「でも、本当に何でもないんです」
「逸」
少し咎めるような響きを帯びている。新兵衛が逸の傍らに膝をつき、小柄な体を軽々と腕に掬いあげた。下ろして、と抗う逸を、先ほどまで眠っていた床へと運ぶ。
逸を寝かせて夜着を被せ、その傍らの畳の上に新兵衛も臥した。腹這いになって肘で顎を支えつつ、少し心配そうな顔で逸を見下ろしている。つと手を逸の額に乗せ、熱はないようだが、と言った。
逸は、少し治まっていた涙が再び湧くのを感じた。鼻の奥がつんと痛い。
夜着を目の上まで引き上げた。恥ずかしいと思った。熱はないと新兵衛が言った。その通りだ。本当に体調など少しも悪くはない。頭が痛いわけでもなく、腹が痛いわけでもない。ただ、髪を結えなかっただけだ。それだけで涙まで流して、新兵衛に心配をかけて、朝の勤めを怠けている自分が、逸は嫌だった。
申し訳ありません、と言う。普通に言ったつもりだったが、ほとんど声にならなかった。
「逸? 何?」
逸の言葉を聞き取れなかった新兵衛が訊く。
「申し訳ありません……。こんなこと」
夜着から顔を出して、逸は言う。目の縁を赤くして、その周囲も水気を含んでいる。瞼が熱く重たい。ひどい泣き顔だろうと思う。
「何も謝る事はない」
「いいえ、こんなだらしのないこと…」
逸が再び夜着を目の上に持ち上げて、顔を覆った。それを引いて、新兵衛は逸の顔を外に出させた。
「逸は、少しもだらしなくなどない」
額が付きそうな位置で新兵衛が逸の目を見下ろしている。小春日和の陽だまりのようなぬくもりが、その眼差しに宿る。
暁光に似た光が逸の瞳の上を撫でた。
「だらしないどころか。ずいぶんとしっかりやってくれて、感心している」
「旦那様……」
「慰めで言ってはいない。本当にそう思っている」
逸の視界いっぱいに、新兵衛の優しい微笑みが在る。
耳に届いた言葉を反芻して、逸は再び瞼に涙を覚えた。だが先ほどとは違う。新兵衛の言葉が胸をじわりと熱くする。
嬉しい、そう思った。
「しかし、逸」
少し沈んだような声で新兵衛が言う。嬉しさに熱くなった胸が少し凍えた。
巧く言えないが、と少し、彼は沈黙する。何か不足があるのだろうか。咎められるのかと逸は胸が痛くなるのがわかった。
新兵衛は低い声で言った。
「朝も早く起きて、食事の支度をして、掃除をして、客の相手をして……、本当にこまごました事までよく気が付くし、とても良く努めてくれている。つくづく頭が下がる思いだ。」
逸のまつ毛が震えている。黒目がちな眼差しは、以前と変わらず少女のように愛らしい。その視線が常に、ひたむきに新兵衛を捉えている事を彼はよく知っている。
「俺は逸に、そんな期待をしてはいない」
「……それは」
どういう意味かと逸は尋ねようとした。
その時にちょうど、廊下を歩く気配が聞こえた。新兵衛は逸の傍らから身を起こし、居室へ去った。
「ゆっくり寝ておいで」
それだけを、言って彼は行った。
新兵衛の食膳を提げて現れたのは、用人の松尾の妻の和子だった。めっきり白髪の増えた彼女である。それでも3年ほど前の世を捨てたような脆弱な様子からはずいぶんと元気になった。
寝巻のままでいた新兵衛を見て、手伝おうかと和子は訊いた。
「いや、良い。とりあえずそれを頂こう」
新兵衛の食事の給仕をしながら、和子が逸の様子を訊く。
「奥さまのお加減はいかがです?」
和子の口から、逸の事を奥さまと言うのを聞くと、新兵衛は奇妙に面映ゆい心地になる。
「熱などはないようだ」
「左様ですか。それは良うございました」
そこに、と新兵衛は寝室を示した。
その場所に逸が寝ていると彼は言いたいのだろう。和子は少し笑った。
逸のためのそもそもの居室ではなく、新兵衛の寝所に彼女が居るのが、彼にとっては当然だと言う意識が、可愛らしいと思ったのである。二人が仲睦まじいことは、和子にとっても望ましく嬉しい事だった。
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