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波の声
しおりを挟む「参ったな……」
炎天下。ただ立っているだけでも汗がとめどなく溢れ出てくる。
とりあえず旅館を出たものの、迂闊に歩き回るのは危険だ。そう思って、ネットで付近の旅館の空室情報を調べてみるが、どこも満室になっていた。
さすが世は夏休みだ。
「かくなる上は……」
最終手段だ。電話でいくつかの旅館に問い合わせてみることにした。
ピッポッパッ、トゥルルルル━━━━
「……あ、はい。そうですか。わかりました……」
ドタキャンした客は誰一人いなかった。
無念だ。こういう時は何をしても駄目らしい。
打つ手なしだ。
もうどうすることもできない。
こうなったら箱根を出てアバホテルにでも泊まるか。
そんなことを考えながら、海沿いの塀沿いを歩いていると、
「そこに誰かいるの?」
その辺りは高波対策として、海沿い一面がコンクリートの堤防で仕切られていた。
建物が立ち並ぶ場所と青い海は目の鼻の近さにあるものの、その灰色の壁は、両者をはっきりと区切るようにどこまでも続いている。
そんな堤防の上から女の声がした。風鈴のように涼しく響く声だった。
「…………なにやつ」
俺は視界を遮る鋼の兜を脱ぎ、声がした方向を見上げた。
目を焼く鮮烈な太陽光。
視界が真っ白に霞んだ。
背中か。
眩い世界の中で何者かの背中が見える。
若い女性のようだった。
高校生だろうか。地元の高校のものと思われる制服を着て、足を投げ出すような形で堤防の上に座っていた。
白いブラウスに紺色のスカートが、鮮やかな空と雲の色と重なる。
「ねえ、そこにいるんでしょ? ガシャガシャガシャって何の音?」
「…………」俺は目を細めて、額を拭う。
「ねえってば」
「…………鎧だ」
「鎧?」
女の子は不機嫌そうな口調で返した。馬鹿にしていると思ったのかもしれない。
宿の一件から立ち直れていない俺は俺で不機嫌になりながら、
「信じられないなら見ればいいだろ」
しばらくの沈黙。
それから少女は、ゆっくりと振り返った。
波の音。
寄せて返す波と岸壁に打ち砕ける水飛沫の音だけが俺の耳の中で鳴っていた。
少女は少し薄めの赤い唇を半開きにして、気だるげな目で俺を見下ろしていた。
その目の色は、海の底で眠り続ける宝石のような淡い緑色をしていた。
その儚げな色に俺は思わず目を奪われる。
「目が、見えないのか……?」
「…………」
女の子は頷きもしなかった。
肩まである黒い髪が潮風に揺れている。
俺は軽い目眩を覚えた。
午後のうたた寝で見る夢の世界の中にいるような不思議な心地がした。
率直すぎる質問だったろうか。ひょっとすると失礼な事だったのかもしれない。そう思って俺は質問を変えた。
「そんなところで何をしている?」
「……波の声を聞いてたの。あなたこそ何をしてたの?」
「波の声」
波の声……。
その現実離れしたような詩的なフレーズを口の中で繰り返す。
不思議ちゃんか?
それとも気取っているのか?
いや、不思議ちゃんかもしれないが、気取っているようには響かなかった。
それは多分、彼女が本当に海と会話ができるような、どこか浮世離れした雰囲気をまとっているからなのかもしれないと、思わず俺は考えていた。
ふと俺と彼女を取り巻く何もかもが、世間で流れる時間から遅れている。そんな気がした。
「ねえってば。聞いてるの?」
少し強めに言われて、はっと我に返った。
「……まあ、何ていうか。旅だな」
「旅? 鎧を着て?」
真面目に答えたつもりが、笑い声で返ってきた。気を抜けば見逃してしまいそうなぐらい、くすくすと小さな声だった。
「そうだよ。鋼の鎧と兜、それに剣もある。伝説の鍛冶屋ダンヴァスが鋳造した一振りだ」
「なにそれ」
「笑わないでもらいたい」
「変な人。魔王でも倒しに行くの?」
「いや、もう倒したんだよ」
「あなたが?」
「だから笑うなって。なんていうか……いや、俺じゃない。俺のライバルというか、まぁ、そんな感じだ」
「それは残念ね」
「俺だって魔王まであと少しだった。あのくそったれに先を越された」
女の子は口元は半笑いのまま、訝しげに眉をひそめている。
会話を打ち切りたかった。少なくとも話題を変えたいと思った。
俺は潮の香りがする空気をすっと吸いこんでから、
「そんなところにいると日焼けするぞ」
「日焼け止め塗ってるから大丈夫」
「日焼け止め?」
「うそ。そんなことも知らないの?」
馬鹿にしたように彼女は言いつつも、少し興味が出たのだろうか。彼女は「よっ」と言って、コンクリートの上から飛び降りてきた。
一瞬スカートが揺れて、白い脚がちらりと見えた。頭の中がその白色に染められた。
「よくそんな高いところから飛べるな……」
俺はあきれたような口ぶりで頭の中のイメージを吹き消した。
海の上を気持ち良さそうに飛ぶ鳥たちに視線を移す。
「その鎧さわってもいい?」
少女は面白そうに顔を近づけてきた。
これだけの日差しの中でも透き通るように肌が白かった。陶器のようだ。
俺は一歩後ずさりながら、
「やめとけ」
「なんで?」
「太陽光で熱くなってる。一瞬で目玉焼きができるぐらいにな」
「けち」
「けちで結構。文句なら太陽に言うんだな。それじゃあ、俺はいくぞ」
やはり目が見えないのだろう。少女は片手に視覚障害者が使う白い杖を持っていた。
だが俺はこの時、面倒なことにならない内に立ち去ろうということしか考えてなかった。
相手は女子高校生。こんな路上でべらべらと会話しているところを警察に見られたら、なんて説明していいかわからない。
突然この子の友だちやらなんやらが出てきて“揺すられる”可能性だってある。
女絡みの濡れ衣は魔王よりも怖い。俺が日本で学んだ教訓だった。
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