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夏への扉
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俺と猫の格闘が始まった。
といっても殴り合ったわけじゃない。
猫好きの俺は必死に気を惹こうと、猫なで声で誘ってみたり、手拍子したり、ぴゅうぴゅう口笛を吹いたりした。
「ささっ、ほれほれっ! こっちおいで!」
しかし暗闇に佇む猫はまったく俺に興味を示してくれない。耳を掻き掻き、あくびをしたりしている。
だが俺は諦めない。
その思いが通じたのか、両手を広げて猫を抱きしめる準備が整った時、猫の方から動きを見せた。
さっと素早い動作で俺の元に駆け寄ってきた。
━━そう思ったのだが。
猫は何のためらいもなく俺の股の下を素通りしていったのだった。
俺は釣られて、ぱたんと後ろに尻もちをついた。そのまま仰向けになる。
真っ逆さまの世界。ちょうどその時、入り口の襖がすっと開いた。
詠海が戻ってきたのだ。
「あ……」
俺は目を奪われていた。
そこにいるのは確かに詠海だった。だが今や見慣れた制服姿でなくて、淡い藤色の着物を着ていた。旅館の仲居さんや女将さんが着るような服装そのまんまだ。
そして彼女は涼しげな伏し目とかしこまった表情を俺に向けると、
「食事の用意をさせていただきます」
入り口のところで膝をつく少女は、滑らかな所作で頭を下げた。
しとやかな雰囲気。別人のようだった。
その意外な登場に俺は仰向けのまま固まっていた。
例の猫は詠海の足元に擦り寄り、懐いた声で鳴いている。
「あ、ありがとう。まさか、そこまでしてくれるとは」
「ごめんね。待たせて」
「いや、ぜんぜん」
詠海はすっと畳を擦りながら、料理をテーブルの上にのせた。
おばあちゃんの料理というやつだ。並の旅館には及ばないかもしれないが、器は一級品だった。それに素朴な煮物にご飯と味噌汁と漬物と、内容は十分すぎるほどだった。
「ビール飲むでしょ? おじさんだもんね」
「あ、あぁ……」
詠海の額に汗がにじんでいるのがわかった。おまけに少し息を切らしているのを、涼し気な表情で隠しているようだ。
だがそれ以上にビール瓶は汗をかいていた。
……わざわざ外に買いに行ったのか。
それから服を着替えて、料理を準備して。そう考えると時間的には辻褄が合う。
なんだか申し訳ない気持ちになった。
「いや、自分で注ぐから大丈夫だよ」
中瓶の栓を開け、両手で持ち上げた詠海から取り上げようと、俺は瓶を掴んだ。
流石にビールまで注がせるのは悪いと思ったのだ。
「良いの! 私がやるから!」
詠海は語気を強めると、むきになったように俺から瓶を取り返した。
わけもわからず俺は圧倒されていた。
「グラス持って!」
「おっ、おぅ……ゆっくりで良いからな」
「ス、ストップって言ってね」
明らかに慣れてない様子だった。着物の着付けやお辞儀の仕方は相当練習したのだろう。そこまでは完璧だったのだが、酌までは難しいか。
結局俺の方からグラスで迎えにいく形になった。
それでも詠海は何かにつれ自分でやりたがった。配膳やら何やら。まるでそれが若女将の務めと言わんばかりに。
「ごめんね。ビールぬるくなっちゃったよね」
俺がわざとらしく喉を鳴らしてグラスを空にすると、詠海は申し訳なさそうな顔をしてそう呟いた。
なんだか今にも泣きそうな顔でもある。
俺はグラスの口を爪でぴんと弾きながら、
「いや、そんなことないぞ。冷えてて美味い」
「嘘つき」
「ご飯も美味いし、最高だ」
「嘘つき」
「嘘じゃないさ。素晴らしい旅館に泊まれて俺は幸せだよ」
俺が言えば言うほど詠海は暗い顔になった。目に薄っすらと涙さえ浮かんでいる。
俺は完全に混乱してしまい、どうすればいいのかわからなくなっていた。
仕方なく俺は話題をそらした。
「それ飼い猫だよな」
「うん、ぴー太っていうの」
詠海はそう言うと、猫を持ち上げて顔面で押し潰しそうなぐらいぎゅうっと抱きしめた。
やたら胴体の長い黒猫だ。
「ぴー太か。随分とやんちゃな奴だな」
「違うよ。汚れるからぴー太は家から出ちゃ駄目って言われているの」
「おばあちゃんにか?」
「そ。だからぴー太は襖に穴を開けてるんだよ」
「……すまん。意味がわからん」
「外の世界に通じる穴を探しているの」
「外の世界?」
「ずばって開けた穴がもしかすると広い世界に通じているかもしれないでしょ?」
「でしょと言われても。ここは家の中だしな」
「青い海とか高い山とか冒険して、世界のいろんな魚が食べたいよって言ってるの」
「猫と話せるのか?」
「そ。今は駄目でも次の穴なら繋がるかもでしょ。だからぴー太は諦めないんだよ」
「へぇ、そういうものなのか」
なんだか俺は納得していた。俺が異世界から来たんだ。猫が行けない所以などない。
詠海は猫を抱えながら奥の襖のところまで行くと、猫の手を操作して襖にずぼっと穴を開けた。そうして猫と一緒になって、彼女自身も小さな穴を覗き込む真似をしていた。
彼女の見えない目には、奥の暗い部屋はいったいどのように見えているのだろうか。
どっこいしょと言って、俺はお膳を両手に立ち上がった。
「ありがとう。美味い酒と飯だったよ。それで、流しはどこだ?」
「良いの。私が片付けるから、それよりお風呂入るでしょ?」
「こりゃちゃんと金を払わないとだめだな」
「はやく準備して行きなよ。ちょっと古いけどちゃんと温泉だよ」
といっても殴り合ったわけじゃない。
猫好きの俺は必死に気を惹こうと、猫なで声で誘ってみたり、手拍子したり、ぴゅうぴゅう口笛を吹いたりした。
「ささっ、ほれほれっ! こっちおいで!」
しかし暗闇に佇む猫はまったく俺に興味を示してくれない。耳を掻き掻き、あくびをしたりしている。
だが俺は諦めない。
その思いが通じたのか、両手を広げて猫を抱きしめる準備が整った時、猫の方から動きを見せた。
さっと素早い動作で俺の元に駆け寄ってきた。
━━そう思ったのだが。
猫は何のためらいもなく俺の股の下を素通りしていったのだった。
俺は釣られて、ぱたんと後ろに尻もちをついた。そのまま仰向けになる。
真っ逆さまの世界。ちょうどその時、入り口の襖がすっと開いた。
詠海が戻ってきたのだ。
「あ……」
俺は目を奪われていた。
そこにいるのは確かに詠海だった。だが今や見慣れた制服姿でなくて、淡い藤色の着物を着ていた。旅館の仲居さんや女将さんが着るような服装そのまんまだ。
そして彼女は涼しげな伏し目とかしこまった表情を俺に向けると、
「食事の用意をさせていただきます」
入り口のところで膝をつく少女は、滑らかな所作で頭を下げた。
しとやかな雰囲気。別人のようだった。
その意外な登場に俺は仰向けのまま固まっていた。
例の猫は詠海の足元に擦り寄り、懐いた声で鳴いている。
「あ、ありがとう。まさか、そこまでしてくれるとは」
「ごめんね。待たせて」
「いや、ぜんぜん」
詠海はすっと畳を擦りながら、料理をテーブルの上にのせた。
おばあちゃんの料理というやつだ。並の旅館には及ばないかもしれないが、器は一級品だった。それに素朴な煮物にご飯と味噌汁と漬物と、内容は十分すぎるほどだった。
「ビール飲むでしょ? おじさんだもんね」
「あ、あぁ……」
詠海の額に汗がにじんでいるのがわかった。おまけに少し息を切らしているのを、涼し気な表情で隠しているようだ。
だがそれ以上にビール瓶は汗をかいていた。
……わざわざ外に買いに行ったのか。
それから服を着替えて、料理を準備して。そう考えると時間的には辻褄が合う。
なんだか申し訳ない気持ちになった。
「いや、自分で注ぐから大丈夫だよ」
中瓶の栓を開け、両手で持ち上げた詠海から取り上げようと、俺は瓶を掴んだ。
流石にビールまで注がせるのは悪いと思ったのだ。
「良いの! 私がやるから!」
詠海は語気を強めると、むきになったように俺から瓶を取り返した。
わけもわからず俺は圧倒されていた。
「グラス持って!」
「おっ、おぅ……ゆっくりで良いからな」
「ス、ストップって言ってね」
明らかに慣れてない様子だった。着物の着付けやお辞儀の仕方は相当練習したのだろう。そこまでは完璧だったのだが、酌までは難しいか。
結局俺の方からグラスで迎えにいく形になった。
それでも詠海は何かにつれ自分でやりたがった。配膳やら何やら。まるでそれが若女将の務めと言わんばかりに。
「ごめんね。ビールぬるくなっちゃったよね」
俺がわざとらしく喉を鳴らしてグラスを空にすると、詠海は申し訳なさそうな顔をしてそう呟いた。
なんだか今にも泣きそうな顔でもある。
俺はグラスの口を爪でぴんと弾きながら、
「いや、そんなことないぞ。冷えてて美味い」
「嘘つき」
「ご飯も美味いし、最高だ」
「嘘つき」
「嘘じゃないさ。素晴らしい旅館に泊まれて俺は幸せだよ」
俺が言えば言うほど詠海は暗い顔になった。目に薄っすらと涙さえ浮かんでいる。
俺は完全に混乱してしまい、どうすればいいのかわからなくなっていた。
仕方なく俺は話題をそらした。
「それ飼い猫だよな」
「うん、ぴー太っていうの」
詠海はそう言うと、猫を持ち上げて顔面で押し潰しそうなぐらいぎゅうっと抱きしめた。
やたら胴体の長い黒猫だ。
「ぴー太か。随分とやんちゃな奴だな」
「違うよ。汚れるからぴー太は家から出ちゃ駄目って言われているの」
「おばあちゃんにか?」
「そ。だからぴー太は襖に穴を開けてるんだよ」
「……すまん。意味がわからん」
「外の世界に通じる穴を探しているの」
「外の世界?」
「ずばって開けた穴がもしかすると広い世界に通じているかもしれないでしょ?」
「でしょと言われても。ここは家の中だしな」
「青い海とか高い山とか冒険して、世界のいろんな魚が食べたいよって言ってるの」
「猫と話せるのか?」
「そ。今は駄目でも次の穴なら繋がるかもでしょ。だからぴー太は諦めないんだよ」
「へぇ、そういうものなのか」
なんだか俺は納得していた。俺が異世界から来たんだ。猫が行けない所以などない。
詠海は猫を抱えながら奥の襖のところまで行くと、猫の手を操作して襖にずぼっと穴を開けた。そうして猫と一緒になって、彼女自身も小さな穴を覗き込む真似をしていた。
彼女の見えない目には、奥の暗い部屋はいったいどのように見えているのだろうか。
どっこいしょと言って、俺はお膳を両手に立ち上がった。
「ありがとう。美味い酒と飯だったよ。それで、流しはどこだ?」
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