放課後、学園のアイドルからダンジョン探索に誘われた

LABYRINTH

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【二章】終わらない夏休み

さまよう亡霊

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 虚ろな亡霊のように彷徨っていた。

 光を拒むように漆黒の鎧に身を包み、今いる場所がどこなのかもわからぬまま、上層へ続く階段を探し歩き、上へ上へと進んでいく。

 心というものがもし何かを入れる器であるなら、空になったも同然だ。

 僕の心はどこにあるのか。

 僕の魂はどこにあるのか。


 もしかして完全な魔物になってしまった。のだろうか。

 しかし、僕の腕は遭遇する魔物を躊躇いもなく打ち砕く。オーガの頭蓋を鷲掴みにし、壁に叩きつけ、そのまま脳漿と血液を床に飛び散らす。白銀の毛を持つ狼が襲いかかれば、裏拳で顎を砕き、腹に腕を挿しこみ臓腑を抜き取る。大量に群がってくる紺色や金色や虹色のゼリーマンは、意識せずとも自動生成される魔法陣から噴出する業火に焼かれた。


 己の鎧の下がどうなっているのか、目にするのが恐ろしかった。

 いっそのこと踵を返し、永遠に下層へとくだり続けるのもいい。時折、そんな考えが思考に混じった。


 彷徨い果てた末に、ダンジョンの一部となるのも悪くない。

 たどり着いた先が地獄であるなら、それもいいだろう。

 奇妙な誘惑が人に戻ろうとする意識の邪魔をする。


 でも、逆にそれが、たどり着いた場所が、もし光射す地上だった場合、僕はどんな顔をしてみんなに再会すればいいのだろうかーー。



「どうだ? 俺たちの仲間にならねえか? ちょうどひとり欠員が出たことだしよ」


 あの時、探索者のリーダー格に仲間になることを誘われた。

 当然、首を縦に振ることはできなかった。


「ボウズ、おめぇどうせ童貞だろ。どうだ? こいつに筆下ろししてもらうってのは? 人間よりいいもん持ってるって話だ」


「…………」


「記念に一突き目をくれてやるよ。バコンと一発、晴れて俺たちの仲間だ」


 白髪の男が横の仲間に目で合図を送ると、若い男ふたりが両脇から抵抗する少女ゴブリンの体を持ち上げ、脚を強引に開いた。

 ゴブリンが悲鳴を上げている。


「ほら、ズボンおろしてこっちへこいよ」


 自分の息が荒くなるのがわかった。

 興奮ではない。

 込み上げてくる吐き気をこらえていたのだ。

 僕の目には探索者たちの方がよほど奇怪な生き物に見えていた。


「やめろ! ニンゲン! なんてことをするんだ!」


 ここまでくると、さすがにゴブリンの中に反発する者も現われはじめた。

 目を見開き、威嚇するように牙をむく一匹のゴブリン。

 しかし、次の瞬間、探索者の一人が投げたナイフが声を上げたゴブリンの喉を切り開いていた。血を噴き出しながら緑の肉塊がどさりと地面に崩れ落ちる。

 他の探索者たちはその様子を見向きもしなかった。

 何事もなかったように白髪の男が、


「おいっ、ぼさっとするなボウズ。来いよ」


「……いやだ。行かない」


 ようやく僕の喉から言葉が飛び出た。

 案の定、男は失望というのか、心底つまらなそうな顔をした。彼は手をひらひらと払いながら、


「けっ、それなら消え失せな。まったく興が削がれたぜ」


 完全に興味を失った男は、脚を開かれたゴブリンに向き直った。チームの何人かはそこに期待の眼差しを注ぎ、別の何人かは蔑んだ目でしっしと僕を追い払う動作をした。


 僕はよろめくように後ずさった。そのまま背を向けようとするが、何かが後ろ髪を引く。

 怒りわめくゴブリンたちの群衆がか?

 その中の何匹かが探索者たちに襲いかかるも、あっけなく返り討ちにされ、地面に死体を並べているその光景がか?


 どうせ魔物だ。さんざんこの手で葬ってきた魔物と同じだ。なにも変わらない。今さらゴブリンに同情しようってのか。少し優しくされたくらいで。

 そう心の中で己に言い聞かせるが、やっとのことで背を向けた僕をさらに前へと進めるだけの意思は湧き上がっては来ない。


 むしろ逆だ。意思に反発する別の声が、言葉にならない感情の声が、胸の中心で黒く渦巻く。

 僕のものではない感情が次第に大きくなりはじめていた。上塗りされるように、自分の意識が支配されるような感覚。

 僕は戸惑うように外の景色と探索者を交互に見つめた。

 自分でもわかる。目が泳いでいるのだ。


「なに気色悪い目で見てんだよ、くそガキ!」


 ガタイのいいひとりが斧を構えて僕に罵声を浴びせる。

 一方の僕は一歩進み、一歩さがるを繰り返していた。完全に挙動不審な人間のそれだった。


 ふと。つい半刻前、服や鎧をくれたおかみさんと鍛冶屋の旦那が視界に入った。

 旦那は腕まくりをして探索者に立ち向かおうとしている。おかみさんは泣きながら必死にそれを引き止めていた。


「やめてくれよ、あんた! 殺されちまうよ!」


「黙って見てられねえだろっ!」


 次に視線を向けた時には、もう二匹の夫婦は赤い血だまりの中に浮かんでいた。

 僕を助けてくれた魔物があっさりと殺された。

 他にも抵抗の意思を見せたゴブリンは一匹残らず殺されていた。生き残った魔物はもう残りわずかだった。

 ゴブリンの女の子の泣きすがるような悲鳴が、断続的に空気を震わせる。


「お前ら……本当に人間なのか……?」


 僕のかすれた疑問は空中をさまよって風に消えた。

 どくどくと心臓が早鐘を打つ。動揺で視線が定まらない。

 頭が混迷するほど、胸の声が輪郭を鮮明になりはじめる。

 それは想像を遥かに凌ぐ、強制力を持った強い言語であった。


 ーー屠れ。その種を。根絶やしにしろ。


 それは魔物に対する同情の念でもなんでもなく。

 極めて純粋で積極性に満ちる、人間に対する明確な殺意だった。


 ぐっと視界がぶれた。直後。


「ひっ」


 血濡れた斧を持つ男が小さな悲鳴を上げた。

 その時、男は首を掴まれていた。黒く染まった僕の手がそうしたのだ。


 視界がぶれた瞬間に、彼らとの距離は詰められていた。

 僕が彼らの領域に踏み込んでいたのだ。

 ゴッと骨が砕ける音がして、男の頭が手折られた花のように萎れた。


「いきなり何すんだ。くそったれ!」


 さすがの反応だ。

 横から別の若い男が瞬時に飛びかかる。

 武器は細身の剣だった。


 僕の手は剣の腹をつまんでいた。そのまま割り箸のように剣をへし折る。

 折れた剣先が回転しながら、男の額に突き刺さった。

 白目を剥いた男は、どさりと後ろ向きに倒れる。


「てめえ……なんて顔をしてるんだ……人狩りは規約違反だろうがよ!」


 引きつった顔をする、また別の男。僕の左手がその男の肩を掴み、右手が頭を掴んだ。

 瓶詰めの蓋をひねる取るようだ。頭が背骨ごと引き抜かれる様を僕の眼球は眺めていた。


 次の男。その口に手を突っ込み、下顎を引きちぎる。下顎についた歯を指で弾き飛ばし、散弾のごとく反対側にいた男に浴びせる。

 ばたりばたりと。ものの数秒で半数以上の探索者たちが死んだ。


「んあ? 気でも狂っちまったか?」


 壁でゴブリンを犯していた白髪の男は、ようやくそこで濁った目を僕に向けた。

 しかし、彼が指示を出すより早く、


「やるぞ。手を出したのは向こうだ。規約だろうがなんだろうが、知ったこっちゃねえ」


 残った四人の探索者たちがアイコンタクトで示し合わせ、武器を構えた。

 同時に飛びかかるという作戦らしい。この状況での落ち着きようは評価に値する。しかし、その程度の浅知恵が地下300階層付近を我が物顔で蹂躙できるチームの弾き出した起死回生の道筋だとするなら。


「笑止千万」


 歪んだ笑みを浮かべているのは、本当に僕なのだろうか。

 地面に投射される自分の影はいびつな形をしていた。

 僕の指先からピンと白く細い光線が放たれる。それを横に滑らせると、胴体をまっぷたつに焼き切られた四体の骸が地面に折り重なって積み上がった。

 あまりに呆気ない。


「ったく。俺の命令も聞かずにみんな死んじまったじゃねえか」


 最後に残った白髪の男は使用済みの少女ゴブリンを脇へ叩き飛ばすと、気だるげな目を僕に向けた。既にいきり立っていたものは萎え、迷彩柄のボトムスは上げられていた。

 少しだけ、僕はほっとしていた。男の目はまだ人間を見る目だったからだ。でも、ほっとしているはずのその僕という存在は一体この世界のどこにいるんだ。


「どう落とし前つけてくれるんだよ。この状況をよ!」


「……」


「なんとか言えよ、くそがき。なんで魔物ごときに肩入れする? 俺がなんかしたか? 理解できねえ。理解できねえよ。完全にイかれてやがる」


 男はぐだぐだと話しながら、懐からタバコの箱を取り出した。

 白い棒を一本取り出し、口にくわえる。


「ふっ!」


 男が鋭く息を吐いた次の瞬間、ちくりと腹に痛みが走った。


「感じたか? 毒針だよ。こいつは吹き矢だ。熊だろうがライオンだろうがものの数秒で……げぁっ」


 拳が男の頬骨を砕いていた。

 家屋の壁に穴を開けて破壊しながら、男の体が吹き飛ぶ。

 ぱらぱらと砂埃の向こう側で男がげほげほと咳き込んでいる。

 どうやら反対側の壁も突き抜けて、再び外に出たらしい。


「なっ、なにひゅんはよ。くそぉ、いへえ……」


 男は両手で顔を抑えながら、地面をのたうちまわっている。

 僕は壁の穴を抜け、ゆっくりとゴブリンの家の中を進み、また反対側の壁から外に出た。


「ひっ、ひいっ⁉ 来るな! なんなんだよお前は? なぜ動ける?」


 男は砕けた頬骨をかばうよりは、この場から逃げたいらしい。目に涙を浮かべ、地を這いつくばって、少しでも距離を取ろうと足掻いていた。


「な、なんだんだよ。くそっ、くそっ本当に人間か、お前⁉」


 小刻みに動く男の目に黒い何かが映しこまれている。

 震える声の男。

 その頭に手を伸ばす。


「があっ、やめろ! 頼む。やめてくれ!」


 手足をばたつかせ抵抗する様子はまるで無力な赤子だ。

 持ち上げられた男の頭はゆっくりと水車の方へと近づいていく。


「おいっ、離せ! こいつを離せってんだよ」


 回転する水車の水受けと男の鼻との距離が徐々に縮まっていく。


「がああああああああああああああああ」


 男の悲鳴が上がった。僕の手はそれでも押し付ける力を弱めない。

 がっがっがと水車のひとつひとつ水受けが壊れる音とともに別の何かが不可逆的に壊れゆく音が混じっていた。

 その下を流れる川の水が赤く染っていく。

 やがて水車は、観覧車のようにぐったりと力なくなった男の体を運び去っていった。


 元の場所に戻ると、がたがたと震えるゴブリンの少女がまだそこにいた。

 彼女を助ける勇気のあった者は死に、勇気のなかった者は僕の姿を見て逃げ出したのだろう。


「……立てるか」


 少女に手を差し伸べる。

 彼女は震えたまま怯えた目で僕を見上げ、この手を取ることはなかった。

 僕は地面に視線を落とし、それから背を向けた。


「……どうか、人間を恨まないでくれ」


 喉から溢れた言葉。僕は他に何も言えず、その場を立ち去った。


 村を立ち去る途中、足元に転がる探索者の死骸が再び視界に入った。

 そこで僕はあることに気づく。

 彼らは皆同じように、首から金属のチェーンを下げていた。

 つま先でチェーンを弾き出すと、番号の書かれた金属のプレートが服の下から出てきた。

 兵士が持つドッグタグのようなものだろうか。

 ふと、その時、こめかみのあたりに鋭い視線を感じた。

 どこからだ。大木の陰からだろうか。だが、そこに視線を走らせても、それらしき存在を見出すことはできなかった。

 それどころではないと思い直す。


「行かなくちゃ」



 こうして僕はダンジョンを徘徊する魔物へと成り果てた。

 脳の片隅にぺったりとわずかに貼りつく、地上に戻らなくてはという思いだけが、僕の無秩序になりかけた足取りに、一筋の法則を与えていた。


 やがて地上への希望が現実のものになり始めたころ、僕の胸に宿る聖痕が、思い出したようにこの身を焼き始めた。ついにタイムリミットが訪れたのだ。


 一枚の紙の中心部にライターの火をかざしたように、肉体がじわじわと黒く燃え広がっていく。

 それはデーモンに支配された精神を解放する、救いの炎であることは間違いなかった。


 小瓶の水はまだ少しだけあったが、自らの意志で使わないことに決めた。

 しかし、その理由までは自分でもわからなかった。人を殺めた者にそれを使う資格はないと考えたからなのかもしれない。あるいは賭けをしたかったのか。自らの行いは許されるものなのか、ダンジョンという名の巨大な意思の天秤に判決をゆだねたかったのかもしれない。


 そして、判決はくだされた。


【地下5階層】


 この体は隅々まで焼き尽くされ、ただの黒い炭の塊として地に倒れ伏したのだった。
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