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制服と征服
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今日もまた、無味乾燥が流れていく。
私達の詰め込まれている部屋には窓が一つしかない。それも隣のビルに光を塞がれていて、換気をする以外にはまず役に立たない木偶の棒だ。目前、長大にそびえるホワイトボードには文字も数式も書かれておらず、まるでユーラシアに根を張る長城が厳しく私達を監視しているかのよう。青白い発光ダイオードの蛍光灯に温もりはないし、紙に何やら書き込む音、鼻をすする音、分厚い壁を通り抜けて時折聞こえてくる踏切の警笛以外には何も聞こえてこない。
私の机の上には国語の解答用紙があって、残り時間は五分。これが今月から始まった諸々の、三回目の試行であって、私はこの後も寒々とした部屋に居残って、数学と社会科の試行に参加しなければならない。
あと三ヶ月。そうだ、もう一年が終わろうとしているのだ。そんな些細で大切なことに、意識しないと気付けないくらいには余裕がない。
時はあっという間に過ぎ去って、押し黙った静寂と焦った筆圧の中に声が響いた。
「試験を終わります。解答用紙を後ろから回して、私のところまで持ってきて」
試験監督はこの空間を統べる長に一任されていた。
やや小柄で細身の彼女はもう還暦くらいか、白髪交じりの頭に飾られた厳格そうな表情をいつ何時も崩さない。普段は数学などを教えているが、彼女の課す問題や宿題の難易度にはやや度の行き過ぎている所があって、しかもそれらの難題を私達が解けないとなると癇癪を起こして止まらないものだから、私達は心の中で密かに彼女の存在を殺している。
はっきり言おう。殺している。
彼女の悲願は私達の成績の伸長とか合格とか、そんな温かみを持ったものではなくてもっとアルプス級の、例えるならば全員が合格するのは当然として、その内実すらも完璧であることだった。彼女は徹底した完璧主義者であって、失敗を許すような風ではない。
しかし、きっと彼女も、厳しい受験戦争である、だからそんな悲願など成し得ないと心の中では思っているはずで、それ故にかえって自らのエゴイズムを押し付けてしまっているのかもしれない。
それに、受験が終わってみれば、仏のようにやさしいかもしれないし。
そう考えて、かつての私はなんとか彼女を悪者に仕立て上げないように努力した。しかし、彼女のエゴの苛烈さが極まって、私自身の精神が蝕まれていくのに従って、私は反動的な感情を抱いた。
死んでしまえ、と。
私はクラスの全員分の解答を代表して預かり、冷淡で横暴な小世界の長に渡した。顔を見るのも嫌な相手と社会距離まで肉薄して、私は少し気分が悪くなるのを感じた。
彼女は私の手からやや荒っぽく用紙の束を奪い取ると、一番上に重なっていた解答───それは、私の解答に間違いなかった───を隅から隅までつぶさに読んで、それから湿り気を含んだ鼻息をひとつ吐き出すと、何も言わずに部屋を出ていってしまった。
「う、わ…。感じ悪っ」
私が席に戻ると、いつも後ろの席に座っているカエデがぼそっと呟いた。
彼女は私とは別の中学校に通っている子で、私なんかと違って背が高く、スタイルもいい。美人さんだ。彼女の学校の制服はリボンが可愛らしくて、私はそれを少し羨ましく思っていた。
「アイツ、なんなの。貴重な時間を削ってまで、親が受験勉強しろってうるさいからここまで来てやってるだけなのに、ねぎらいの言葉の一つもないわけ?」
「カエデ、落ち着いて…」
「ああもうやだ。本当に、嫌だ…。今の時間、家にいたなら歌番組が観れて、ドラマが観れて、他には。なんだってできたはずなのに。ああ、もう嫌!」
「まあまあ…。気持ちはわかるけどさ、とりあえず、落ち着こうよ…」
私がなだめ続けると、カエデはふうふうと息の中に怒りを吐き出しながらも、しぼんでいった。
「…あと、三ヶ月だよ」
「私はあと一ヶ月」
「そうだった。カエデは私立だったっけ」
「そうよ、そう。そうだった。あと一ヶ月で全部、全部終わるんだった…、ううっ」
カエデのやり場のない怒りは収まったかと思うと、今度は突然おんおんと泣き出した。
情緒が完全に乱れている。カエデの隣に座っているメガネをかけた男の子が見かねてティッシュを差し出すと、カエデはそれを奪い取るようにして受け取って、部屋中に鼻をかむ音を立て続けた。並外れた美貌をたたえるカエデの顔が涙に歪み、下品にすら聞こえるような音を出している姿は、とてもかわいそうで見ていられなかった。
私は心の中で叫んだ。
狂っている。なんて酷い世界なんだろう、此処は。
嗚咽と罵詈雑言とを背中に浴び続けながら、私は、受験という戦争のことを心から恨んだ。こんな酷くて醜いものがなければ、カエデは───。
───そして、私は。
私達の詰め込まれている部屋には窓が一つしかない。それも隣のビルに光を塞がれていて、換気をする以外にはまず役に立たない木偶の棒だ。目前、長大にそびえるホワイトボードには文字も数式も書かれておらず、まるでユーラシアに根を張る長城が厳しく私達を監視しているかのよう。青白い発光ダイオードの蛍光灯に温もりはないし、紙に何やら書き込む音、鼻をすする音、分厚い壁を通り抜けて時折聞こえてくる踏切の警笛以外には何も聞こえてこない。
私の机の上には国語の解答用紙があって、残り時間は五分。これが今月から始まった諸々の、三回目の試行であって、私はこの後も寒々とした部屋に居残って、数学と社会科の試行に参加しなければならない。
あと三ヶ月。そうだ、もう一年が終わろうとしているのだ。そんな些細で大切なことに、意識しないと気付けないくらいには余裕がない。
時はあっという間に過ぎ去って、押し黙った静寂と焦った筆圧の中に声が響いた。
「試験を終わります。解答用紙を後ろから回して、私のところまで持ってきて」
試験監督はこの空間を統べる長に一任されていた。
やや小柄で細身の彼女はもう還暦くらいか、白髪交じりの頭に飾られた厳格そうな表情をいつ何時も崩さない。普段は数学などを教えているが、彼女の課す問題や宿題の難易度にはやや度の行き過ぎている所があって、しかもそれらの難題を私達が解けないとなると癇癪を起こして止まらないものだから、私達は心の中で密かに彼女の存在を殺している。
はっきり言おう。殺している。
彼女の悲願は私達の成績の伸長とか合格とか、そんな温かみを持ったものではなくてもっとアルプス級の、例えるならば全員が合格するのは当然として、その内実すらも完璧であることだった。彼女は徹底した完璧主義者であって、失敗を許すような風ではない。
しかし、きっと彼女も、厳しい受験戦争である、だからそんな悲願など成し得ないと心の中では思っているはずで、それ故にかえって自らのエゴイズムを押し付けてしまっているのかもしれない。
それに、受験が終わってみれば、仏のようにやさしいかもしれないし。
そう考えて、かつての私はなんとか彼女を悪者に仕立て上げないように努力した。しかし、彼女のエゴの苛烈さが極まって、私自身の精神が蝕まれていくのに従って、私は反動的な感情を抱いた。
死んでしまえ、と。
私はクラスの全員分の解答を代表して預かり、冷淡で横暴な小世界の長に渡した。顔を見るのも嫌な相手と社会距離まで肉薄して、私は少し気分が悪くなるのを感じた。
彼女は私の手からやや荒っぽく用紙の束を奪い取ると、一番上に重なっていた解答───それは、私の解答に間違いなかった───を隅から隅までつぶさに読んで、それから湿り気を含んだ鼻息をひとつ吐き出すと、何も言わずに部屋を出ていってしまった。
「う、わ…。感じ悪っ」
私が席に戻ると、いつも後ろの席に座っているカエデがぼそっと呟いた。
彼女は私とは別の中学校に通っている子で、私なんかと違って背が高く、スタイルもいい。美人さんだ。彼女の学校の制服はリボンが可愛らしくて、私はそれを少し羨ましく思っていた。
「アイツ、なんなの。貴重な時間を削ってまで、親が受験勉強しろってうるさいからここまで来てやってるだけなのに、ねぎらいの言葉の一つもないわけ?」
「カエデ、落ち着いて…」
「ああもうやだ。本当に、嫌だ…。今の時間、家にいたなら歌番組が観れて、ドラマが観れて、他には。なんだってできたはずなのに。ああ、もう嫌!」
「まあまあ…。気持ちはわかるけどさ、とりあえず、落ち着こうよ…」
私がなだめ続けると、カエデはふうふうと息の中に怒りを吐き出しながらも、しぼんでいった。
「…あと、三ヶ月だよ」
「私はあと一ヶ月」
「そうだった。カエデは私立だったっけ」
「そうよ、そう。そうだった。あと一ヶ月で全部、全部終わるんだった…、ううっ」
カエデのやり場のない怒りは収まったかと思うと、今度は突然おんおんと泣き出した。
情緒が完全に乱れている。カエデの隣に座っているメガネをかけた男の子が見かねてティッシュを差し出すと、カエデはそれを奪い取るようにして受け取って、部屋中に鼻をかむ音を立て続けた。並外れた美貌をたたえるカエデの顔が涙に歪み、下品にすら聞こえるような音を出している姿は、とてもかわいそうで見ていられなかった。
私は心の中で叫んだ。
狂っている。なんて酷い世界なんだろう、此処は。
嗚咽と罵詈雑言とを背中に浴び続けながら、私は、受験という戦争のことを心から恨んだ。こんな酷くて醜いものがなければ、カエデは───。
───そして、私は。
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