1 / 30
序章:風に誘われたのは
序章:風に誘われたのは
しおりを挟む
高い空に、風に運ばれた花弁が舞い上がる――。
岬を臨む村唯一の教会はかつて、軍の通信基地として機能していたことは、この村の住民の記憶にまだ、新しく残っている。
「レオン」
柔らかなしゃがれた声。
ステンドグラスに差し込んだ日の光が色とりどりに傷んだ床に降り注ぐ、室内。祭壇に向かっていた一人の神官が体を起こして振り返る。
白を基調にした神官服が多い中、彼だけは、まるで喪に服するように紺色の神官服を身にまとっていた。
「司祭様」
さっぱりと刈り上げた黒髪に、まだ、壮年にはなり切っていない若い面。
神の御許にいと近き場所。として村の人々の信仰の拠点になっているこの場にはいささか鋭すぎるように思える茶色い瞳に、司祭、と呼ばれた老人よりずっと日に焼けた肌。
「止めなさい」
やわらかくたしなめながらも、鋭いその一言に、青年の表情がすっと堪えるものになる。
「そのために、私は君をここに誘ったわけではない」
一歩近づいていた老人に青年は切り替えるように小さくため息をついて、見せた感情を隠すようにアルカイックスマイルを浮かべて会釈をしてその脇を逃げるように立ち去る。
「許されることより、許すこと。それは結構なことです。レオン」
その背中に投げられる言葉は、いつもの言葉。
「許されることを受け入れる、ということもまたそれは大事なことですよ」
ありがたい説教に何も言わずに、立ち止まるだけにとどめた青年を振り返り、老人はやり切れなさそうにため息をついて、立ち去る足音を聞いた。そして、彼の気配が遠ざかったころ祭壇の上に坐す磔の像を見やり、十字を切った。
「光は常に傍らにあるということを。求めれば与えられることを。そのことを彼が見出すように。主よ、導きをお与えください」
ロザリオを手にしてそっと祈った司祭は、また、勤行へ戻っていくのだった。
外に出ていった若い彼には、いつも訪れる場所がある。
「……」
教会の裏手の共同墓地。一番隅にある、海に面した崖の近くにそれはひっそりとたたずんでいた。
風雨にさらされた巨大な岩石が無造作に立てられ、そのすぐ真下には、綺麗に整形された石が埋められている。
今ではこの石に祈る人は少なくなった物の、この石碑が真新しいころは、祈る人も大勢いた。
この国は、つい数年前までひどい侵略戦争に合い、防衛戦を強いられた。今では見事に復興を遂げている町は多いものの、終戦直後は軍靴に踏み荒らされ敗戦に終わったのかと勘違いする旅人も多かった。
戦争は結局、調子に乗った相手の国が隣の国の国境を踏んだために見事に蹴散らされて、この国も無事だった。というのだが、隣の国の将軍から見事な戦いだったという賛辞を送られて、それからというものの、隣の国とは友好な関係を築いていて、大国であるそして、優れた将軍が多数在籍する隣の国の恩恵にあずかり平和な日々を送ることができるようになった。
この墓地にある石碑は、その激しかった戦地にて、勇敢に散り、国の礎になった軍人たちの魂を慰めるために。
迷いなく、神の御許へ向かえるように。
あまたの人が祈ることができるように。
どんな些細な村にも、規模の大小があるが、こうした共同墓地に、国の英雄をたたえるために建立された石碑の一つだ。
まだ、建立されて数年しか経っていないにもかかわらず、この街の石碑は、厳しい潮風、嵐にもまれて、すっかりと、この墓地になじむように削られていた。
石碑の前に、適切な処置を受けられずに死んだ仲間を悼むための薬草を使った小さなブーケを。水を、と願いながら死んだ後輩への水筒を、そして、上官がよく吸っていた煙草ひと箱の中身を握ってまとめて火をつけると、その隣に供える。
「……」
黒い石の前に何かをぽつりつぶやいた彼は、せいぜい神官らしく膝をついて、ロザリオを手にして首を垂れ始めた。
時折高く打ち付ける波を誘う風は、空へと立ち、もうじき訪れる秋の気配を教えていた。それでもまだ居残る夏の熾火は背を焼いて、まるで火刑にあっているようだ。青年は一瞬目を開いて自嘲気味に小さく笑ってからすぐに目を閉じて感情を隠す。
不意に小さな足音が聞こえて彼は体を起こして振り返った。
赤い日傘を差した女性が驚いたように青年を見て一度足を止めていた。
まだ、年若い、少女とも言えそうな彼女は、大きな花束を持っていて、その手にある零れそうなほどの百合が印象的だ。
「あなた……は?」
驚いた顔をした少女のかわいらしい唇が、そうつぶやくのが遠目でも見えた。青年は慌てて立ち上がろうとして、ふらりと、よろめいた。
「あ、待って!」
青年はそんな声を聞きながらも崩れる膝を立て直すこともできず、石碑に寄りかかるようにずるずると、その場に倒れるのだった。
そして、青年が目を覚ましたの自室のベッドの上であった。
「レオン」
穏やかな嗄れ声。体に異常ないことを確認して起きあがると、あきれた顔をした司祭がそこに立っていた。
「日に当たりすぎて倒れたんですよ。軍人だったとはいえ、己の体を過信するのはいけませんよ」
「……はい」
いつになく厳しい言葉に、青年は何も言えずにただうなだれて目を伏せた。そして、はっと、意識を失う前に見た少女を思い出してそれを問おうとすると司祭はふーっとため息をついた。
「彼女のことはまた後で。今は体を休めなさい」
お水はここに置いておきます。
と司祭が出ていくのを言葉もなく見送って、青年は窓から見える夕暮れ時に近い空を見上げ、そして、脱力したようにベッドに体を投げ出すのだった。
岬を臨む村唯一の教会はかつて、軍の通信基地として機能していたことは、この村の住民の記憶にまだ、新しく残っている。
「レオン」
柔らかなしゃがれた声。
ステンドグラスに差し込んだ日の光が色とりどりに傷んだ床に降り注ぐ、室内。祭壇に向かっていた一人の神官が体を起こして振り返る。
白を基調にした神官服が多い中、彼だけは、まるで喪に服するように紺色の神官服を身にまとっていた。
「司祭様」
さっぱりと刈り上げた黒髪に、まだ、壮年にはなり切っていない若い面。
神の御許にいと近き場所。として村の人々の信仰の拠点になっているこの場にはいささか鋭すぎるように思える茶色い瞳に、司祭、と呼ばれた老人よりずっと日に焼けた肌。
「止めなさい」
やわらかくたしなめながらも、鋭いその一言に、青年の表情がすっと堪えるものになる。
「そのために、私は君をここに誘ったわけではない」
一歩近づいていた老人に青年は切り替えるように小さくため息をついて、見せた感情を隠すようにアルカイックスマイルを浮かべて会釈をしてその脇を逃げるように立ち去る。
「許されることより、許すこと。それは結構なことです。レオン」
その背中に投げられる言葉は、いつもの言葉。
「許されることを受け入れる、ということもまたそれは大事なことですよ」
ありがたい説教に何も言わずに、立ち止まるだけにとどめた青年を振り返り、老人はやり切れなさそうにため息をついて、立ち去る足音を聞いた。そして、彼の気配が遠ざかったころ祭壇の上に坐す磔の像を見やり、十字を切った。
「光は常に傍らにあるということを。求めれば与えられることを。そのことを彼が見出すように。主よ、導きをお与えください」
ロザリオを手にしてそっと祈った司祭は、また、勤行へ戻っていくのだった。
外に出ていった若い彼には、いつも訪れる場所がある。
「……」
教会の裏手の共同墓地。一番隅にある、海に面した崖の近くにそれはひっそりとたたずんでいた。
風雨にさらされた巨大な岩石が無造作に立てられ、そのすぐ真下には、綺麗に整形された石が埋められている。
今ではこの石に祈る人は少なくなった物の、この石碑が真新しいころは、祈る人も大勢いた。
この国は、つい数年前までひどい侵略戦争に合い、防衛戦を強いられた。今では見事に復興を遂げている町は多いものの、終戦直後は軍靴に踏み荒らされ敗戦に終わったのかと勘違いする旅人も多かった。
戦争は結局、調子に乗った相手の国が隣の国の国境を踏んだために見事に蹴散らされて、この国も無事だった。というのだが、隣の国の将軍から見事な戦いだったという賛辞を送られて、それからというものの、隣の国とは友好な関係を築いていて、大国であるそして、優れた将軍が多数在籍する隣の国の恩恵にあずかり平和な日々を送ることができるようになった。
この墓地にある石碑は、その激しかった戦地にて、勇敢に散り、国の礎になった軍人たちの魂を慰めるために。
迷いなく、神の御許へ向かえるように。
あまたの人が祈ることができるように。
どんな些細な村にも、規模の大小があるが、こうした共同墓地に、国の英雄をたたえるために建立された石碑の一つだ。
まだ、建立されて数年しか経っていないにもかかわらず、この街の石碑は、厳しい潮風、嵐にもまれて、すっかりと、この墓地になじむように削られていた。
石碑の前に、適切な処置を受けられずに死んだ仲間を悼むための薬草を使った小さなブーケを。水を、と願いながら死んだ後輩への水筒を、そして、上官がよく吸っていた煙草ひと箱の中身を握ってまとめて火をつけると、その隣に供える。
「……」
黒い石の前に何かをぽつりつぶやいた彼は、せいぜい神官らしく膝をついて、ロザリオを手にして首を垂れ始めた。
時折高く打ち付ける波を誘う風は、空へと立ち、もうじき訪れる秋の気配を教えていた。それでもまだ居残る夏の熾火は背を焼いて、まるで火刑にあっているようだ。青年は一瞬目を開いて自嘲気味に小さく笑ってからすぐに目を閉じて感情を隠す。
不意に小さな足音が聞こえて彼は体を起こして振り返った。
赤い日傘を差した女性が驚いたように青年を見て一度足を止めていた。
まだ、年若い、少女とも言えそうな彼女は、大きな花束を持っていて、その手にある零れそうなほどの百合が印象的だ。
「あなた……は?」
驚いた顔をした少女のかわいらしい唇が、そうつぶやくのが遠目でも見えた。青年は慌てて立ち上がろうとして、ふらりと、よろめいた。
「あ、待って!」
青年はそんな声を聞きながらも崩れる膝を立て直すこともできず、石碑に寄りかかるようにずるずると、その場に倒れるのだった。
そして、青年が目を覚ましたの自室のベッドの上であった。
「レオン」
穏やかな嗄れ声。体に異常ないことを確認して起きあがると、あきれた顔をした司祭がそこに立っていた。
「日に当たりすぎて倒れたんですよ。軍人だったとはいえ、己の体を過信するのはいけませんよ」
「……はい」
いつになく厳しい言葉に、青年は何も言えずにただうなだれて目を伏せた。そして、はっと、意識を失う前に見た少女を思い出してそれを問おうとすると司祭はふーっとため息をついた。
「彼女のことはまた後で。今は体を休めなさい」
お水はここに置いておきます。
と司祭が出ていくのを言葉もなく見送って、青年は窓から見える夕暮れ時に近い空を見上げ、そして、脱力したようにベッドに体を投げ出すのだった。
応援ありがとうございます!
0
お気に入りに追加
25
1 / 5
この作品を読んでいる人はこんな作品も読んでいます!
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる