立つ風に誘われて

真川紅美

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終、歩き出したのは

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 入院生活となって、もう二か月が経った。
 その間に政変に近い動乱が王都であったという。
 まず、表向きには療養中で行方をくらましていたヴルト名誉大将の愛娘、クロエが襲撃された一報。そして、それを阻止したのは、ヴルト隊のただ一人の生き残りであるのに行方知れずだったレオン。クロエが無事だったことは軍上層部の胸をなで下ろす結果になったのだが、当然、軍人であるのに今までどこにいたのだという声も上がった。すぐさま事情聴取という名の処分検討会を、とはやし立てる権力の犬たちにレイスは革の袋を提示して黙らせた。
 襲撃の首謀は、クロエの持つヴルトの血、名声を狙った不届きもので、その中の一人に、王国防衛軍の総帥、レオンの母の副官が含まれていた事がわかり、軍舎に激震が走ったという。
 そしてその総帥の目論見を告発したのは、レオンの兄たち、そして、彼女の実の息子という肩書を持ったレイスとディール。
 息子たちの手によって数々の悪行が暴露され、そして、政変を起こし、軍事国家を作り上げようとしていたたくらみが明るみに出た彼女は、瞬く間に立場を追われ、そして、一級の謀反犯として、独房に入れられることになった。
 そして、数日前、極刑に処されることが決定したという情報を、レオンは病院の共有スペースにある新聞で知った。そして、兄たちが全く姿を見せないのはそのせいか、と一人かやの外に置かれているような気分を味わっていた。
 一時は悪くなりかけた足の骨も、順調にくっつき、今では杖をついてなら歩き回ってもいいという診断をレオンは受けていた。そのため、暇さえあれば病室を抜け出し、いろいろなところに顔を出し、知らせを聞いて見舞いに来る上官や軍学校の頃からの知己に挨拶をしていた。
 だが、けがは足だけではない。
 脱臼していた右肩も日常生活には支障がない程度の機能を回復させおそらく脱臼癖もついていないだろう、その他指など細かい骨が折れていたが、そのどれもが正常な位置でくっついている。しかし、軍務に耐えきれるほどになるかは疑問が残るという。
 こんなケガをしていながら、こんなにすぐ普通に立って歩いて生活できる程度に回復したのは偏にレイス隊に所属する軍医の腕が良かったのだと、軍病院でレオンを診ている医者は耳に胼胝ができるほどそう言っていた。
 本来ならば傷によるショックで死んでいてもおかしくなかった。と顔をしかめる医者は、レオンの父であるリカルドと軍学校が同期だったそうだ。
 軍学校の同期というものは、共にたくさんの経験をするからか、兄弟のような独特な結びつきがある。
 まるでうるさい叔父のようにレオンを叱る医者を、レオンは少し苦手だった。
「……はあ」
 少し前に叱られてきた、そんなつまらない日常を過ごす彼の日課は、相も変わらず病院にある慰霊の石碑のある内庭の片隅に足を運ぶことだった。
 もともと病院であるからか、そんな陰気な場所に足しげく通う人はなく忘れ去られたように石は野ざらしになっていた。
「……っ」
 ディールが時たま持ってくる食べられるらしい花から一輪抜いて毎日手向け、しばらく立ち尽くしては踵を返し何事もなかったように部屋に帰る。なぜ、食べられる花を持ってくるのかは謎だ。
 昼食後の散歩とも言える墓参りだが、今日は少しだけ違うものになった。
 踵を返した先にいたのは赤い日傘を差した少女。
 息を呑むレオンに少女は二、三歩近づいて手を差し伸べてきた。
 雪の気配が漂い始める澄んだ空気。冷たい空気を深く吸って吐いて。
 レオンは杖を捨ててまっすぐ歩きだした。
「クロエ」
「遅いから来ちゃいました」
 拗ねたようにそう言うクロエにレオンはふっと笑っていつものように結わえられていない髪をわしわしと撫でてそのまま肩を抱いた。
「杖、大丈夫ですか?」
「ああ。走らなければ痛みはないからね」
 腰を痛めた退役爺ばっか来る軍病院だから杖も爺むさい。と文句を付けたレオンは久しぶりの手の平のぬくもりにかみしめるように笑みを深めて目を閉じる。
「レオンさん?」
「ん?」
 歩き出さないレオンを不思議に思ったクロエが見上げるのにレオンは首を横に振って覗き込むクロエの瞳を見返す。
「話したいことが、あるんだ」
 存外穏やかな声にクロエはぱしぱしと瞬きをしてレオンを見上げたまま首を傾げた。
「今までのこと、これからのこと。いろんなこと」
 一歩踏み出したレオンの腕を取り寄り添うように歩き出すクロエのぬくもりを感じながらレオンは胸が詰まるような気分を味わって、思わず深く息を吸い込んでいた。
「レオンさん?」
「いや、何でもない。すっかり冬になってしまったな。もうそんなに経ったのか」
 葉を落とした木々を見てうっすらと新雪が積もっているのを見てどうりで寒いわけだと苦笑する。まだ早いと思っていたが、雪の頼りはもう届いていた。
「あ……」
 声を漏らしたクロエがどの話に飛ぶか見当ついたことを感じ取って一度レオンは足を止めた。
「部屋に戻ってからな」
 しゅんとした雰囲気を漂わせるクロエの頭を軽くなでてその手を引いてゆっくりと、クロエに会えなかった二か月であった軍内部の動き、兄から聞いたこととして、ことの顛末を説明していた。
「……それじゃあ、総帥は?」
「ああ。処刑が決行されることが確定した。かなり即決に近い形だったが、そうできるぐらいの埃が出るわ出るわでな。どこも異論なしということになったらしい」
「……」
 うつむいたクロエにレオンは深くため息をついた。いつの間にかレオンが滞在する病室の前まで来ていて、部屋にクロエを入れ、備え付けられた給湯室で湯を沸かしてお茶を入れる。
「やっと、解放された気がする」
 静かな声に、クロエは向かいに座ったレオンを見やって目の前に置かれたお茶を見る。
「……お母さまから、ですか?」
「……諸々だな。過去も、母も。この一件で吹っ切れた」
 答えが出るのかと、クロエが表情をこわばらせるのを見て、レオンは手に持っていたカップをローテーブルに置いた。ソーサーとぶつかって澄んだ音を立てたカップの中では紅茶の水面が細かな波紋を描いている。
「隣に座っても?」
 一言断りを入れ、クロエがぎこちなくうなずくのに、レオンは少しだけ表情を緩ませてその隣に座って、髪を撫でた。
「レオンさん?」
 その手がかすかに震えているのにクロエは気づいて、隣に座るレオンを見上げて甘えるように、ゆっくりとその胸に頭を預けた。そして、レオンもふっと笑ってそれを受け止めた。
「やっと、帰ってこれたって、おもう」
 震える手が髪を梳き、肩を抱き、背中をさすり、引き寄せるのをクロエは目を閉じて感じていた。病院にいるからいつもの石鹸の香りはせずにただ、レオンの匂いとぬくもりと、少しだけ痩せたしなやかな体の質感を感じていた。
「怖い思いを、させてしまったね」
 だんだんとクロエの呼吸が引きつれたものに変わっていくのを感じてレオンはただ優しく抱きしめていた。どんな詰りにも、耐えるつもりだった。どんなことを言われても仕方ないと、覚悟は決まっていた。最後の審判を待つそんな気持ちで、レオンはクロエの言葉を待っていた。
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