立つ風に誘われて

真川紅美

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4、狙われたのは

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 時は過ぎて、ひんやりとした夜気が教会の壁の隙間から頬を撫でる。ひりひりひりとコオロギの鳴く音が遠くに近くに聞こえていた。
 ふっと瞼を開いたレオンは月明かりが差し込む見慣れた居室の風景に、ため息をついて目を閉じる。痛みよりは熱の塊が痛むだろう部分を覆っているように感じられた。
「レオンさん?」
 小さな聞き落としそうな呼び声に目を開いて向けると、濡れタオルを持ったクロエが覗き込んでいた。
「……クロエ?」
 添え木を当てられて固定された手を伸ばして無事な手の甲で涙の痕にそっと触れると、ぼろぼろと、また涙をこぼして包帯を濡らした。
「……」
 タオルを額に置きなおしたクロエに、レオンは何も言えなかった。
「……」
 拭うこともできずに頬に手の甲を当てたまま、レオンはぼんやりとクロエを見つめていた。しっとりとした頬は涙に濡れて少しだけ冷えている。
「……明日」
 最初に口を開いたのはクロエだった。
「明日の朝いちばんに……病院に搬送だそうです」
「……」
「私は、レイス大佐のお屋敷にお世話になります」
「……」
「…………。レイス大佐から、土産はしっかり受け取った。養生しろ。という言葉を預かりました」
 短い報告の数々にうなずくだけにとどめてレオンは、涙を流しながら声を震わせることのないクロエをしっかりと見ていた。
「どうして、こんなこと、こんな無茶したんですかっ」
 無言でいるのが気に食わなかったらしいクロエが、手を捕まえて語気を強めた。添え木を当てられているとはいえ、まだ痛むものは痛む。
 ぐっと声を詰まらせて顔をゆがませたレオンに、クロエがはっと手を離して握ったあたりを優しくなでた。冷え切ってこわばった手が、どれほど心配かけたのか、言葉にしなくとも訴え掛ける。
「どうして……」
 手の甲に手を添えたクロエが涙声でそう言うのに、レオンは目を閉じた。
 どうして、と聞かれても、それしか方法が思いつかなかった。
 それを素直に伝えてもクロエにはわからないだろう。
「レオ……」
「クロエ……」
 いきなり目を閉じたからか、驚いたように呼んで立ち上がったクロエに、レオンは張り付くのどでその名を呼んだ。
「……あ……」
 それだけでクロエの気配が静まる。
「お水……」
 吸い飲みを手にしてレオンの唇に当てたクロエに、レオンは少しだけ笑みを浮かべて素直に水を飲んだ。吸い飲みが空になって、満足そうにため息をついたレオンに、クロエはうつむいた。
「ごまかさないで」
 まだ、触っても無事そうなすり傷だらけの頬を撫でたクロエに、レオンは困ったように視線を彷徨わせた。浅く息を吸って吐きだす。ため息ですら熱いと思いながら、ぐっと喉に力を入れた。
「無茶だとは思ったさ」
「だったらどうして」
 胸倉をつかんで目をまっすぐと涙を浮かべた目でにらむクロエにレオンは、ふっと笑った。ふわふわとした熱のある感じにクロエの温度の低い手が、微かな呼気を感じられて、今、確かに自分はここにいると、なんとなしに実感できたのだった。
「何を……っ」
「もっと、顔を見せてくれ」
「え……?」
 戸惑いを浮かべる顔が間近なことに、呼吸すら感じ取れる距離に、レオンは体の力を抜いていた。こわばっていた肩が背筋が緩んで体勢が少し変わったことに当たる場所が変わった青あざが痛みを訴える。それでも、レオンは気が抜けたように笑う。
「もう、見られないかと思った」
 とつ。とつぶやかれた言葉にクロエの目が見開かれ、そして大きくゆがんで大粒の涙を流し始めた。
 わっと泣き始めて横たわるレオンに抱き付いたクロエの背に、痛む腕を置いてやる。残念ながらそれ以上動かせずにいたが、ぬくもりにしがみつくようにして声を殺して泣くクロエに、レオンは大きく溜め息をついて、肩口にあるクロエの頭に頬を寄せて目を閉じる。
 そして、だんだん力の抜けていく体に気付いたのか。
 しばらくして体を起こしたクロエが見たのは、ほっとした表情を見せ、目じりから一筋涙を流して眠るレオンの姿だった。
「……ばか」
 涙をぬぐってから背中にある腕をゆっくりと下ろして、まっすぐにしてやって、濡れタオルで涙と汗を一緒に拭ってやる。折れた手足からの発熱がひどいのだ。
 ふうふうと、すぐに苦しそうに息をしながらも、さっきまでとは違う様子の寝顔にクロエはもう一度涙をこぼして拭うと、けが人の搬送用の馬車が到着するまで、看病を続けるのだった。
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