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断崖の朝は曖昧だ。
霧が薄くなれば朝で、風が強まれば昼。
作業灯が落とされる時間になれば、それが夜だった。
ヨルは、金属の軋む音で目を覚ました。
天井、と呼ぶには低すぎる梁の向こうで、鎖が擦れ、どこかの固定具が緩んだようだ。誰かが補修に入るだろう。入らなければ、いずれ何かが落ちる。人か、資材か、あるいはその両方だ。
寝床から身を起こすと、肺に油と錆の匂いが入ってきた。埃も混じっている。いつものことだ。咳き込むほどではない。ここでは、それが健全な証だった。
うざったい黒髪を雑に掻き上げ、息を吐く。
少しやつれているが目は死んでいない。
ヨルは壁際に掛けていた外套を手に取った。何度も継ぎ当てされた布は、もはや元の色が分からない。留め具の金属は歪み、指で押せば軋んだ。壊れても、直せばいい。直らなければ、別のものを充てがえばいい。人も道具も、その扱いに違いはない。
通路に出ると、クウォーターの朝が充満していた。
街ではない。住居でもない。
ここは、防衛と迎撃と捕獲のために建て増しされ続けた構造体の集合であり、生活はその副産物に過ぎなかった。
足場は歪み、床板は水平を拒む。
斜めに組まれた支柱が視界を切り裂き、梁が低く頭を掠める。
鎖とロープが空間を縫い、渡し板が風で鳴った。
誰も外の景色を見ない。
見るのは担当の人間だけで、多くは、装置と固定具と、落下防止索に意識を向ける。
「おはよう」
誰かが言った。
挨拶というより音の確認に近い。
ヨルは軽く手を上げた。返事はそれで十分だった。
捕獲棟――通称〈竜の墓場〉の方から、作業音が聞こえてくる。ウインチの空回り。天鎖の調整。楔の打ち直し。昨日の竜狩りで消耗した部分を、元に戻しているのだ。
床や壁を伝う振動と、耳に届く埃っぽい金属音が、日常を継ぎ足していく。
昨日は運が良かった。
竜は一体で、作業にも狂いはない。
死者は一人で済んだ。
遺体は既に箱の中。
「済んだ」という言葉が、ここでは成立する。
ヨルは柵に手を置き、断崖の向こうを見下ろした。
霧の下に底はない。少なくとも、誰も見たことがない。
竜は霧の向こうから来る。
音もなく、前触れもなく。
今日は静かだった。
風はあるが、嫌な流れではない。
見張りの動きも過剰ではない。
おそらく、来ない日だ。
あくまで予感に過ぎないが、ここで生き延びる為に身についたものだった。
それが分かって、ヨルは舌打ちをした。
来なければ何も始まらない。
だが、来れば誰かが死ぬ。
クウォーターではこの二つが同時に成立する。
「ヨル」
呼ばれて振り返る。
名を呼ぶ声には、まだ少し余裕があった。
「Bの初動は、次もお前でいいか」
「ああ」
今日、とは言わない。
いつ来るか誰にも分からないからだ。
それは今日かもしれないし、一週間後かもしれない。数秒後の可能性だって否定できない。そんな世界で、彼らの命は息をしていた。
ヨルは主にB班の担当だった。
穴、と呼ばれる落とし床を起動し、楔を打ち込み、最初の拘束を成立させる役目。竜狩りの成否は、ほとんどこの初動で決まる。
成功すれば生き延びる。
失敗すれば死体が増える。
ただそれだけの事だった。
「今日は来ねぇだろ」
誰かが言った。
希望でも予測でもなく、ただの確認だった。
「……まぁな」
ヨルは答えた。
それ以上の言葉を付け足さない。
長くここに居るヨルでさえ、勘や予想が当てにならない。
来ない理由ばかりを考えてしまうのは人間の悪癖だ。
作業の途中で担架が一つ運ばれていった。
布が掛けられており、中身は見えない。
煤で汚れた白が、赤黒く滲んでいた。
落下事故だろう。
固定索の摩耗か、支柱の歪みか。原因はいくらでもある。
誰も立ち止まらない。
数を数える者もいない。
ヨルは一瞬だけその担架を見た。
見覚えのある体格だった気がしたが、確信はない。
「……はぁ」
ほんの僅かな苛立ちを、小さく吐き出す。
竜一体で、約一ヶ月。
肉は食糧になり、骨と鱗は武器や装備に。
内臓は薬に、眼球は視覚を研ぎ澄まし、心臓は力になる。
竜が来れば死人が増えるが、来なければ餓死してしまう。それがクウォーターという場所。
どちらにせよ、人が消耗していくのは事実だった。
ヨルは外套の内側を弄り、煙草のようなものを取り出した。
崖際に生える植物を加工した代用品だ。喉を焼くだけの粗悪品で気休めにもならない。
それでも火を点けた。
煙が霧に溶ける。
風がそれを攫っていく。
――あの竜も、こうして霧の中から現れた。
思い出す顔は既に曖昧だった。
家族の声も故郷の輪郭も。
残っているのは、踏み潰された感触と、逃げ場のない空と、啼き声だけだ。
伸びた灰を切り落とし、目を伏せた。
今日も竜は来ない。
だから明日も生きる。
それだけの理由で断崖の前線は回り続ける。
竜刑は、この断崖で執行される。
いつか来る、その日のために。
霧が薄くなれば朝で、風が強まれば昼。
作業灯が落とされる時間になれば、それが夜だった。
ヨルは、金属の軋む音で目を覚ました。
天井、と呼ぶには低すぎる梁の向こうで、鎖が擦れ、どこかの固定具が緩んだようだ。誰かが補修に入るだろう。入らなければ、いずれ何かが落ちる。人か、資材か、あるいはその両方だ。
寝床から身を起こすと、肺に油と錆の匂いが入ってきた。埃も混じっている。いつものことだ。咳き込むほどではない。ここでは、それが健全な証だった。
うざったい黒髪を雑に掻き上げ、息を吐く。
少しやつれているが目は死んでいない。
ヨルは壁際に掛けていた外套を手に取った。何度も継ぎ当てされた布は、もはや元の色が分からない。留め具の金属は歪み、指で押せば軋んだ。壊れても、直せばいい。直らなければ、別のものを充てがえばいい。人も道具も、その扱いに違いはない。
通路に出ると、クウォーターの朝が充満していた。
街ではない。住居でもない。
ここは、防衛と迎撃と捕獲のために建て増しされ続けた構造体の集合であり、生活はその副産物に過ぎなかった。
足場は歪み、床板は水平を拒む。
斜めに組まれた支柱が視界を切り裂き、梁が低く頭を掠める。
鎖とロープが空間を縫い、渡し板が風で鳴った。
誰も外の景色を見ない。
見るのは担当の人間だけで、多くは、装置と固定具と、落下防止索に意識を向ける。
「おはよう」
誰かが言った。
挨拶というより音の確認に近い。
ヨルは軽く手を上げた。返事はそれで十分だった。
捕獲棟――通称〈竜の墓場〉の方から、作業音が聞こえてくる。ウインチの空回り。天鎖の調整。楔の打ち直し。昨日の竜狩りで消耗した部分を、元に戻しているのだ。
床や壁を伝う振動と、耳に届く埃っぽい金属音が、日常を継ぎ足していく。
昨日は運が良かった。
竜は一体で、作業にも狂いはない。
死者は一人で済んだ。
遺体は既に箱の中。
「済んだ」という言葉が、ここでは成立する。
ヨルは柵に手を置き、断崖の向こうを見下ろした。
霧の下に底はない。少なくとも、誰も見たことがない。
竜は霧の向こうから来る。
音もなく、前触れもなく。
今日は静かだった。
風はあるが、嫌な流れではない。
見張りの動きも過剰ではない。
おそらく、来ない日だ。
あくまで予感に過ぎないが、ここで生き延びる為に身についたものだった。
それが分かって、ヨルは舌打ちをした。
来なければ何も始まらない。
だが、来れば誰かが死ぬ。
クウォーターではこの二つが同時に成立する。
「ヨル」
呼ばれて振り返る。
名を呼ぶ声には、まだ少し余裕があった。
「Bの初動は、次もお前でいいか」
「ああ」
今日、とは言わない。
いつ来るか誰にも分からないからだ。
それは今日かもしれないし、一週間後かもしれない。数秒後の可能性だって否定できない。そんな世界で、彼らの命は息をしていた。
ヨルは主にB班の担当だった。
穴、と呼ばれる落とし床を起動し、楔を打ち込み、最初の拘束を成立させる役目。竜狩りの成否は、ほとんどこの初動で決まる。
成功すれば生き延びる。
失敗すれば死体が増える。
ただそれだけの事だった。
「今日は来ねぇだろ」
誰かが言った。
希望でも予測でもなく、ただの確認だった。
「……まぁな」
ヨルは答えた。
それ以上の言葉を付け足さない。
長くここに居るヨルでさえ、勘や予想が当てにならない。
来ない理由ばかりを考えてしまうのは人間の悪癖だ。
作業の途中で担架が一つ運ばれていった。
布が掛けられており、中身は見えない。
煤で汚れた白が、赤黒く滲んでいた。
落下事故だろう。
固定索の摩耗か、支柱の歪みか。原因はいくらでもある。
誰も立ち止まらない。
数を数える者もいない。
ヨルは一瞬だけその担架を見た。
見覚えのある体格だった気がしたが、確信はない。
「……はぁ」
ほんの僅かな苛立ちを、小さく吐き出す。
竜一体で、約一ヶ月。
肉は食糧になり、骨と鱗は武器や装備に。
内臓は薬に、眼球は視覚を研ぎ澄まし、心臓は力になる。
竜が来れば死人が増えるが、来なければ餓死してしまう。それがクウォーターという場所。
どちらにせよ、人が消耗していくのは事実だった。
ヨルは外套の内側を弄り、煙草のようなものを取り出した。
崖際に生える植物を加工した代用品だ。喉を焼くだけの粗悪品で気休めにもならない。
それでも火を点けた。
煙が霧に溶ける。
風がそれを攫っていく。
――あの竜も、こうして霧の中から現れた。
思い出す顔は既に曖昧だった。
家族の声も故郷の輪郭も。
残っているのは、踏み潰された感触と、逃げ場のない空と、啼き声だけだ。
伸びた灰を切り落とし、目を伏せた。
今日も竜は来ない。
だから明日も生きる。
それだけの理由で断崖の前線は回り続ける。
竜刑は、この断崖で執行される。
いつか来る、その日のために。
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