竜刑は断崖にて

房児黒壱

文字の大きさ
2 / 8

02

しおりを挟む
 クウォーターの朝は、音で始まる。

 風が梁を舐め、鎖が擦れ、どこかで金属が鳴ってしまう。
 あれは生活音ではない。構造体が悲鳴を上げる前の、薄い予兆だ。

 ヨルは通路を進みながら、足場の癖を足裏で確かめた。水平を信じる者から死んでいく。ここでは、床は平らであるべきものではなく、落ちないために選ばれた角度であった。傾いた梁、歪んだ渡し板、斜めに組まれた支柱。誰かが真っ直ぐにしようとした痕跡は、だいたい折れて補修痕になる。

 補修は、仕事ではない。
 呼吸のようなものだ。

 捕獲棟〈竜の墓場〉へ向かう途中、ヨルは工具箱の蓋を指で弾いた。中身は揃っていない。欠けている分だけ、別の何かで代用する癖がつく。人間も同じだ。欠けた役割は、誰かが埋める。埋められなければ、工程が崩れる。崩れた瞬間、竜狩りは狩りではなく事故になる。

 今日の空気は、事故の匂いがしなかった。
 だからといって安心できるわけでもない。ただ、竜の気配が薄い。見張りの連中も、喉の奥で鉄を噛むような緊張はしていない。

 来ない日だ。
 来ない日は来ない日で問題はある。
 竜が来なければ生き残ってしまう。生き残ったぶんだけ、腹が減る。装置が消耗する。人が擦り減る。死なないことは、延命の手間を増やすだけだ。

 ヨルは外套の襟を立て、竜の墓場の縁に立った。

 空間は、意図的に大きく開いている。
 竜を誘い込むための空洞。
 生活の中心に竜の死が置かれていること自体が、この場所の倫理だった。

 梁から垂れる鎖の張り具合を見て、ウインチの固定を指で触れ、落とし床の継ぎ目に目を走らせる。昨日の狩りで削れた箇所は、まだ熱を持っているように見えた。実際には冷えている。それでも、ヨルの目には消耗の色が残る。

「ヨル」

 背後から声がした。軽いが、軽薄ではない。
 ヒオだった。

 二十歳くらい。若いのに、目の奥が古い。クウォーターに来るのが早かった人間は、だいたいそうなる。薬に手を出して流された、と本人は笑うが、笑い方は上手くない。

「こっち、索の通し直し。昨日、擦れてる」

 ヒオが指さしたのは天鎖の一部だった。擦過痕が白く残っている。刃物で削られたような筋。竜の動きに引きずられ、梁の角に噛んだのだろう。

「替えは?」

「ある。……いや、あるって言っていいか分かんない。短い」

「短けりゃ継いどけ」

 ヨルが言うと、ヒオは少しだけ笑った。

「継げば、どっかが弱くなるよ?」

「お前が覚えておけばいいだろ」

「そんな、無茶だよ」

「でなきゃ死ぬだけだ」

 その会話に意味はない。慰めでも、警告でもない。
ただ、工程の確認だ。

 ヒオが索を引き、ヨルが固定具を締め直していると、足場の向こうから声が飛んできた。

「おーい、ヨルー! そこ、まだ生きてる?」

 ユーカだった。
 細い声のくせに、言葉は刃物みたいに刺さる時がある。彼女は二重人格だと自分で言う。臆病な自分と、攻撃的な自分。その区別をヨルは信じていない。ここでは、誰だって切り替わる。生きるために。

「生きてるぞ」

 ヨルが返すと、ユーカは渡し板を渡って近づいてきた。足取りは軽いが、軽率ではない。B担当として落とし床と楔を扱う以上、臆病だけでは務まらない。

「今日、落とし床の起動試験やる? さっき、噛みが鈍い気がした」

「見たのか」

「見た。……いや、気がしただけかも」

「やっておこう」

 ヨルは床板の継ぎ目を指で叩いた。空洞の音が返る。内部の滑車がどこかで引っかかっているのかもしれない。竜が来ない日こそ、こういう確認をやる。竜が来る日は、確認している暇がない。

 ユーカはヨルの指先を見ていた。
 何かを言いたそうで、言わない。
 言葉を出した瞬間に、別の自分が出てくるのを恐れているのかもしれないし、恐れていないのかもしれない。

「オルダは?」

 ヨルが聞くと、ユーカは肩をすくめた。

「上。指揮ごっこ。どうせ来ないでしょ」

「来ないって言うな」

「言うよ。言わないと落ち着かないから」

 そう言って、ユーカはふいに目を逸らした。
 目を逸らした先に、担架が置いてある。布がかけられたまま、端の暗がりに寄せられていた。昨日の死体のうちの一つ。解体室へ運ぶ順番待ち。竜の死体だけが解体されるわけじゃない。人も解体され、匂い槽に入れられる。

「人の解体って必要?」

「まぁ……解体したほうが、食・い・つ・き・がいいらしい」

「最悪ね」

 ユーカは吐き捨てる。
 おそらく、この地獄に対しての言葉だったのだろう。

 二人は運び込まれる担架を見ていた。
 誰もが、いつかは至る最期の姿。
 ヨルは何も言わなかった。
 言うべき言葉は、ここにはない。







 昼に近い時間、風の匂いが少し変わった。

 油と錆と血の匂いに混じって、遠い金属の匂いがした。
 新しい鉄。濡れたロープ。木材の匂い。

 ヨルは手を止めた。ヒオも、ユーカも、同じように止まった。
 クウォーターでは、止まる理由が二つしかない。

 竜か、物資だ。

 そして今日は、竜の気配が薄い。
 なら、もう一つだ。

 上の見張りから、短い合図が飛んだ。声じゃない。金属を叩く音。決められた回数。決められた間隔。誰が聞いても分かる。

 定期便。

 誰も歓声を上げない。誰も走らない。
 ただ、自然に人が集まり、ロープウェイの受け口へ向かっていく。

 ヨルは階段を上がりながら、ふと考えた。

 定期便。
 定期なのに、久しぶりだ。

 その矛盾は、ここでは矛盾ですらない。
 外の世界は、クウォーターを「運用している」ことになっている。帳簿上は、規定の頻度で補給が行われ、規定の人数が入れ替わり、規定の成果が上がる。竜は狩られ、資源が回収され、前線は維持される。

 実際は、風が強ければ箱は来ない。
 部品が欠ければ装置は止まる。
 人が死ねば工程は歪む。
 竜が来れば、全部が崩れる。

 それでも「定期」だ。
 言葉が制度を保つ。
 制度が人間を縛る。
 人間は縛られたまま、ここで刑に処されるのだ。

 受け口には、すでにオルダがいた。
 名目上のリーダー。目つきだけは偉そうだが、足元は落ち着かない。竜を前にすると固まるくせに、竜がいない時だけ指揮を取る。そういう男は、クウォーターでは嫌厭される。

「来たか」

 オルダが言った。
 それは「良かったな」ではない。確認だ。
 箱が来なければ設備が消耗する一方だ。そうなれば死者が増える。死者が増えれば、ここも終わる。

「……久しぶりだな」

 誰かが呟いた。
 オルダではない。別の男だ。
 その一言だけで、空気が締まる。

 クウォーターにいる人間は補充される。
 死ぬための人間だけが送られてくる。
 そういう世界だと、改めて確認する言葉だった。

 ロープウェイの音が、断崖を切って近づいた。
 遠い滑車が唸り、ロープが空を裂く。霧の向こうから、黒い箱が一つ、また一つと現れる。

 箱は貨物だった。
 水、食材、木材、金属部品、薬品。

 そして――人。

 最後の箱は、揺れ方が違う。

 人間が入っている箱は、微妙に重心が動く。
 無意識の揺れ、呼吸、体温。
 死体とは少し違う。

 ヨルは柵越しに、その箱を見下ろした。
 木箱には簡素な刻印がある。番号。規格。内容物。
 水の箱と、食材の箱と、部品の箱と、ほとんど同じ書式。
 違うのは、最後の欄に書かれている文字だけだ。

「竜刑者」

 オルダが顎で示した。
 二人、だと。
 数字が書かれている。

 二人。
 少ない。
 外の世界は、クウォーターを維持する気があるのかないのか分からない。維持する気があるなら、もっと送る。維持する気がないなら、送らない。だが、送ってくる。それも中途半端に。

「開けるぞ」

 誰かが釘抜きを持ってきた。
 木材の軋み、釘が抜け、蓋が外れる。

 最初に出てきたのは、物資の匂いだった。水と、乾いた穀物と、油紙に包まれた部品。外の世界の匂いは、ここより少しだけ清潔だった。清潔な匂いほど、ここでは気持ち悪い。

 そして、最後の箱が開いた。

 中には少女がいた。
 小柄で、痩せている。だが、骨だけではない。筋がある。手首に擦り傷。足首に縄の跡。運搬の間、動かないように縛られていたのだろう。

 目が開いていた。
 涙も悲鳴も動揺もなかった。

 またか、と言いたげな瞳。
 地獄に慣れているかのような、荒んだ瞳だった。
 ただ、その目は箱の外の構造をなぞっていた。梁、鎖、斜めの支柱、歪んだ床。まるで、落ちる角度を探すように。

「名前は」

 オルダが訊いた。
 それは歓迎の言葉ではなく登録だ。

 少女は、一瞬だけ口を開き、閉じた。
 唾を飲み込み、短く答えた。

「コト」

 声は掠れていたが媚びはなかった。
 恐怖も表に出してはいない。
 表に出していないだけで、ないわけじゃない。ヨルにはそれが分かった。

 二人目の箱には、男がいた。二十代半ば。目が合ってすぐ逸らした。生き残るための目だ。コトとは少し違う。

 ヨルは二人を見たあと、すぐに視線を外した。
 見つめることに意味はない。
 ここでは、人が増えるのは祝福ではなく、工程の追加だ。

「編成は明日決める」

 オルダが言った。
「今日は来ない」と同じ種類の言葉。言って落ち着くための言葉。

 ヨルは工具を持ち直し、鎖の張りを確かめた。

 断崖の風が、箱の中の匂いをさらっていった。
 コトはその風を吸い込み、ほんの少しだけ目を細めた。

 泣くでもなく、笑うでもなく。
 まるで、これから先の未来を――「使う」準備をするみたいに。

 ヨルは思った。

 明日まで生きていれば歯車になる。
 生きていなければ、ただの荷物だ。

 クウォーターでは、その境界があまりに曖昧だ。

 そして今日も竜は来ない。
 来ないまま、すべてが竜のために整えられていく。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

転生したら世界一の御曹司だった〜巨乳エルフメイド10人と美少女騎士に溺愛されています〜

まさき
青春
異世界転生した最強の金持ち嫡男、 専属エルフメイドと美少女騎士に囲まれて至福のハーレム生活   現代日本で「地味だが実は超大富豪」という特殊な人生を送っていた青年は、ある日事故で命を落とす。   しかし目を覚ますと、そこは魔法と様々な種族が存在する異世界だった。   彼は大陸一の富を誇る名門貴族―― ヴァン・バレンティン家の嫡男カイルとして転生していたのだ。   カイルに与えられたのは ・世界一とも言える圧倒的な財力 ・財力に比例して増大する規格外の魔力   そして何より彼を驚かせたのは――   彼に仕える十人の専属メイド全員が、巨乳美少女だったことである。   献身的なエルフのメイド長リリア。 護衛騎士でありながら隙あらば誘惑してくる女騎士シルヴィア。   さらに個性豊かな巨乳メイドたち。   カイルは持ち前の財力で彼女たちの願いを叶え、最高級の装備や生活を与えていく。   すると彼女たちの忠誠心と愛情はどんどん加速していき――   「カイル様……今日は私が、お世話をさせてください」   領地を狙う貴族を金と魔力で圧倒し、 時にはメイドたちの愛が暴走して甘すぎる時間に巻き込まれながらも、   最強の御曹司カイルは 世界一幸せなハーレムを築いていく。 最後までお読みいただきありがとうございました。よろしければ応援をお願いいたします。

【短編】淫紋を付けられたただのモブです~なぜか魔王に溺愛されて~

双真満月
恋愛
不憫なメイドと、彼女を溺愛する魔王の話(短編)。 なんちゃってファンタジー、タイトルに反してシリアスです。 ※小説家になろうでも掲載中。 ※一万文字ちょっとの短編、メイド視点と魔王視点両方あり。

JKメイドはご主人様のオモチャ 命令ひとつで脱がされて、触られて、好きにされて――

のぞみ
恋愛
「今日から、お前は俺のメイドだ。ベッドの上でもな」 高校二年生の蒼井ひなたは、借金に追われた家族の代わりに、ある大富豪の家で住み込みメイドとして働くことに。 そこは、まるでおとぎ話に出てきそうな大きな洋館。 でも、そこで待っていたのは、同じ高校に通うちょっと有名な男の子――完璧だけど性格が超ドSな御曹司、天城 蓮だった。 昼間は生徒会長、夜は…ご主人様? しかも、彼の命令はちょっと普通じゃない。 「掃除だけじゃダメだろ? ご主人様の癒しも、メイドの大事な仕事だろ?」 手を握られるたび、耳元で囁かれるたび、心臓がバクバクする。 なのに、ひなたの体はどんどん反応してしまって…。 怒ったり照れたりしながらも、次第に蓮に惹かれていくひなた。 だけど、彼にはまだ知られていない秘密があって―― 「…ほんとは、ずっと前から、私…」 ただのメイドなんかじゃ終わりたくない。 恋と欲望が交差する、ちょっぴり危険な主従ラブストーリー。

性別交換ノート

廣瀬純七
ファンタジー
性別を交換できるノートを手に入れた高校生の山本渚の物語

(完)百合短編集 

南條 綾
恋愛
ジャンルは沢山の百合小説の短編集を沢山入れました。

触手エイリアンの交配実験〜研究者、被験体になる〜

桜井ベアトリクス
恋愛
異星で触手エイリアンを研究する科学者アヴァ。 唯一観察できていなかったのは、彼らの交配儀式。 上司の制止を振り切り、禁断の儀式を覗き見たアヴァは―― 交わる触手に、抑えきれない欲望を覚える。 「私も……私も交配したい」 太く長い触手が、体の奥深くまで侵入してくる。 研究者が、快楽の実験体になる夜。

敗戦国の姫は、敵国将軍に掠奪される

clayclay
恋愛
架空の国アルバ国は、ブリタニア国に侵略され、国は壊滅状態となる。 状況を打破するため、アルバ国王は娘のソフィアに、ブリタニア国使者への「接待」を命じたが……。

完全なる飼育

浅野浩二
恋愛
完全なる飼育です。

処理中です...