竜刑は断崖にて

房児黒壱

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 ここでは、崖際に立たない人間ほど長く生きる。

 それは教訓でも規則でもなく、単なる経験則だった。誰かが言い出したわけではない。落ちた者が多かった、ただそれだけだ。

 ヨルは補修線の内側を歩きながら、足場の端に近づきすぎないよう無意識に距離を取っていた。風は穏やかだが、穏やかな風ほど信用ならない。ここでは、強い風より、突然向きを変える風が人を殺す。

 背後で、工具が金属に触れる音がした。

「それ、逆」

 短く言うと、少女は一度だけ手を止めた。
 振り返らず、言い返しもせず、黙って工具の向きを変える。

 コトだった。
 淡く短い桃色の頭髪。肌も白く華奢で、幼く見える。

 今日から、補修と修繕の補助に入っている。
 索管理までは任せない。まずは“近くで見る”役割だった。

「そこ、踏むなよ」

 ヨルが言うと、コトは視線を落とし、床板の色の違いを見て半歩退いた。踏めば抜ける、というほどではない。だが、抜け“かけている”。その差がここでは命取りになる。

「ここは補修線だ」

 ヨルは言った。
 説明というより、名前を与えただけだ。

 補修線。
 迎撃線。
 捕獲棟。
 墓場。

 役割の説明はしない。
 名前だけあれば、あとは察するだろうという、ヨルの無関心さの表れでもある。

 コトは周囲を見回し、梁の組み方、鎖の通し方、支柱の角度を黙って追った。
 質問はしない。だが、何も分かっていない顔でもない。分からないまま動く人間の足取りは、もう少し迷う。

「落ちたら、すぐに拾わない
 足場を確認してからにしろ」

 ヨルが言うと、コトは一瞬だけこちらを見た。

「……うん」

 声は小さいが震えてはいない。
 肯定でも理解でもなく、ただの受領のようだった。

 補修は地味な仕事だ。
 派手に血は出ないし、成果も見えない。
 だが、ここが崩れれば、その先の工程が全部死ぬ。

 ヒオが索の端を引き、ヨルが固定具を締め直す。
 コトはその横で、外した部品を受け取り、指定された箱に入れる。

「次、これ」

 ヒオがそう言って、短い金属棒を差し出す。

 コトは受け取り、重さを確かめてから、箱に納めた。
 一つ一つの動作が慎重すぎるほどだった。急げば怒鳴られるが、急がなければ死ぬわけでもない。

「新人、静かだね」

 ヒオがぼそりと言った。
 声を潜める必要はない。ここでは、音は常にある。

「うるさいよりは……いいんじゃないか?」

 ヨルは答えながら、視線をずらす。

「さっさとしろよー!」

「そっちの方が遅えじゃねえか!」

 打って変わって、騒がしい連中も一定数いた。

「ああいうのは、案外長生きしない?」

「そうかもな」

 ヒオは口の端だけで笑った。

 少し離れた足場で、ユーカが別の補修をしている。
彼女は作業の合間に、時折外を見ていた。断崖の向こう、霧の下。何も見えないはずのところだ。

 見張りでなくても、外を見る癖は抜けない。
 竜は、来るときは前触れなく来る。
 だからこそ、人は前触れを探し続ける。

 コトも一瞬、外を見た。
 ただし長くは見なかった。
 吸い込まれるような気がしたからだ。

「あんま見るな」

 ヨルが言う。
 コトはすぐに視線を戻した。

「気にするなって意味じゃない」

 ヨルは付け足した。

「見るなら足場を覚えろ。外は逃げない」

 コトは小さく頷いた。
 理解したかどうかは分からない。

 昼に近づくにつれ、補修線の空気が変わる。
 人が増え、音が増え、作業が重なる。
 誰かが落とした工具が、拾われないまま放置される。
 拾うために屈むのが危険だからだ。

 オルダが上から指示を飛ばしていた。

「今日はここまでだ。無理するな」

 無理するな、という言葉ほど、ここで信用できないものはない。
 無理をしなければ竜は殺せない。

 それでも今日はここまでだった。





 夜になると、食事が配られる。

 一日二回。
 量は決まっている。増えもしないし、減りもしない。たまに増える時があるが、それは決まって人が死んだときだ。

 今日の肉は、先日獲った竜だった。
 骨の近くの硬い部位を雑に切り分け、鉄板で焼いただけ。
 香辛料も味付けもない。焼けた脂の匂いだけが強く飛んだ。

 ヨルは皿を受け取り、壁際に腰を下ろした。
 コトも同じように少し離れた場所に座る。

 食べ方に迷いはなかった。
 躊躇なく口に運び、噛んで飲み込む。

「慣れてるな」

 ヒオが言った。

「……」

 コトは何も言わない。

「まぁ、食わなきゃ死ぬからな」
 
 ヒオが笑う。ただの事実を口にして。
 だが、その言葉は外の世界にいる時よりも、重く感じられた。

 ユーカは少し離れたところで、皿を睨んでいる。
 彼女は時々、食べられなくなる。理由は本人にも分からないらしい。

「新人はどうだ」

 オルダの声。評価というより確認に近い。

「さぁ……まだ分からん」

 ヨルは言った。

「分からん、は長生きする答えだ」

 オルダは満足そうに頷いた。

 食事の間も、誰も崖際には近づかない。
 風の音が少し強まると自然に距離が開く。

 竜が見えなくても、竜のために動く。
 それが、ここで生きるということだ。

 夜になり寝床に戻ると、コトは簡易寝台に横になった。

 天井は低く梁が近い。
 風に煽られ、柱や梁がみしみしと囁く。
 作業灯が落とされ闇が広がった。
 灯りを失えば、途端に寝台の硬さを強く感じる。

 ヨルは外套を畳み、横になる前にもう一度だけ外を見た。

 霧は濃い。
 何も見えない。

「………」

 それで良いはずだった。
 だが、ヨルの中に安堵する気持ちは湧いていない。

 後ろで、コトが小さく息を吐いた。
 眠りにつく音だった。

 今日も竜は来なかった。
 それでも全員が来る前提で一日を終える。

 ヨルは目を閉じる。

 来るかもしれない。
 来ないかもしれない。

 どちらにしても、やることは変わらない。




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