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朝の作業灯が点く音を、コトは聞き分けられるようになっていた。
金属が噛み合う乾いた音。
少し遅れて、梁の奥で別の灯が点く気配。
風に煽られて揺れる光と、揺れない光。
最初の数日は、どれも同じだった。音も、光も、匂いも、怒鳴り声も、全部がひとつの塊で、コトの頭の中を鈍く殴ってきた。
だが今は違う。違いが分かる。どの通路が軋みやすいか、どの梁が冷えやすいか、どの結び目が解けやすいか――体が覚えはじめている。
便利だった。
同時に、怖かった。
作業区画には、最初から人が混ざっていた。全員が黙々と、ただそれぞれの工程を回している。
ヒオは、欠けた滑車の下で索を撚り直していた。指の動きは速いのに、不器用に見えるのは、力任せだからだ。結び目が固くなりすぎて、次に解くときに時間を食う。分かっていても、今は固く締めたいのだろう。締めれば安心できる。安心は、ここでは貴重品だ。
「ヒオ、次あっち」
ユーカだった。
投げやりで語気もやや強い。優しく穏やかな表情が沈黙し、鋭い眼光が周囲を拾っていく。
「コト、こっち」
この雰囲気のユーカは、コトには少し怖かった。目が合っているのに、こちらを見ていない。人を見ているというより、危険を見ている目だった。
「そこ、近づかないで」
低く冷たい一言だが、合理的な形をしている。
コトが一歩でも間違えた場所に足を置けば、声より先に手が伸びて引き戻される。短く、強く。叱るでもなく、慰めるでもなく、ただ修正する。
「ユーカ~! 今日顔怖いよ~!」
そんなやり取りを見ていたのか、イシュリアが身を乗り出すようにして声を飛ばした。
彼女はさらに奥の梁で、焼けた固定金具を交換していた。動きに無駄がない。口は軽いが、それが作業に異常をきたすことはない。
「コト! 今日もかわいいぞ~」
イシュリアのそんな明るさが、作業場の消耗を緩和しているようだった。
軽口は、ここでは防具だ。防具を着ていないと、体の中身が外に出てしまう。
コトは、まだ仕事は覚えきれていない。工具の名前も、装置の正式な呼び方も曖昧だ。
「これはどこ?」
「あっちの通路」
分からなければ聞き、出来る範囲で手を動かす。
余計なことはしない。足手まといにならないように、それだけを守る。
しかし時々、反射的に体が止まる。
梁の継ぎ目に黒い染みが見えたとき。
鉄骨の隙間に、乾いた布の端が絡まっていたとき。
匂いが、ふと変わったとき。
それが昨夜の残りだと分かってしまう。
分かった瞬間、喉の奥が冷えて胃が動く。吐くほどではないが、吐ける余裕がないことも分かっている。
コトは手を動かすしかない。
動かせば、色々と考えなくて済む。
「板、そこ、内側」
ヒオが言った。声はいつもより柔らかかった。
コトが板をずらすと、ヒオは頷いた。
「そう。……あぁ、ごめん。言い方雑だったね」
謝る必要はない、とコトは思う。
だが、ヒオはよく謝る。自分が間違っていなくても反射的に口にする癖があった。
表面的には優しさに見える。
だが同時に、怖さでもある。優しい人間は、ここで長く生きない。
コトは、ヒオに聞きたいことがあった。
昨夜のことではない。匂い槽のことでもない。もっと小さいこと――ヒオの手の震えだ。
朝は震えていなかった。
今は、ほんの少しだけ震えている。
力を入れすぎたときの震えではない。寒さでも、恐怖の類にも見えない。もっと内側から来る揺れに感じた。
コトは口を開きかけて、ゆっくり閉じる。
聞けば、踏み込むことになる。踏み込めば、距離が変わる。距離が変わることは、この場所では時々、死より重い。
ユーカが、無言でロープ束を差し出した。
必要な長さだけ切り、端を焼くための火種を寄せる。
コトはそれを受け取り、端を炙った。焦げ臭さが指に残る。
ほんの少しだけ、気が楽になる気がした。
「コト! 早くなったね」
イシュリアが、遠くから声を飛ばした。
彼女はこうして、コトを気にかけていた。
「……」
コトは無言で首を振った。
イシュリアは掠れたように笑った。
「そうか? いいね……じゃあ、まだ大丈夫だな~」
まだ大丈夫。
その言い方が、コトには引っかかった。大丈夫じゃなくなる前提が、最初からそこにあった。
作業が少し落ち着いた頃、イシュリアが近づいてきた。
汗の匂いに、油と錆が混じっている。ここでは誰も同じ匂いをしているはずなのに、イシュリアの匂いだけが少しだけ「人間」に近い気がする。体温が残っている匂いだ。
「ねぇコト」
「はい」
「ここで“良い人”を探すなよ? 良い人ほど、壊れるからな」
イシュリアの声は小さかった。ただ、たしかに忠告の形をしていた。
優しさではなく、経験の刃。
コトは頷いた。頷くしかない。
「それと――」
イシュリアが視線を一瞬だけ流した。
コトも、つられて目を向ける。
ラニーダがいた。
作業着の袖が擦り切れている。体つきは悪くない。動きは無駄がなく手際もいい。役割としてはC担当の男だ。装置や索の扱いに慣れている。つまり、必要な人間でもある。
なのに、周囲が微妙に距離を取っている。
それは偶然ではなく、導線が自然に避けられている。
「ああ、ねえペル……今日は来るかな?
そう問われたペルは、何も言わずに駆け足で去っていった。
それに不満を漏らすわけでもなく、歪な笑みを浮かべる姿がただただ不気味だった。
ラニーダは誰かの背後を通るとき、必要以上に近い。すれ違いざま、肩が触れそうな距離を選ぶ。悪意というより、距離感が壊れている感じたった。それはここでは、刃物より厄介なことがある。
「あいつには近づくなよ」
イシュリアは、短く言った。
「仕事はできる。でも信用はするな。夜、一人で歩くな」
「……なにかされたの」
コトが訊くと、イシュリアは首を振った。
「……いいや。まぁ一応な」
イシュリアの目は攻撃的だった。
コトは一瞬、ラニーダを見た。
目が合った気がしたが、正確には分からない。分からないことが、気味が悪かった。
――異常だ。
そう思った。
危険だと分かっている人間が、ここでは「注意事項」で済まされる。排除も改善もされない。ただ、気をつけろと言われるだけ。
コトは、それがとても嫌だった。
嫌だと感じる自分が、まだ残っていることが少しだけ救いだった。
「コト」
見上げると、そこにはヨルが立っていた。
「体調は平気か?」
言葉は確かに、コトを気遣うものだった。
だが、ただの確認のようにも聞こえてしまう。
「へいき」
それだけ口にした。
「ああヨル。コトの服、少しだけあったかいの用意してやれよ」
イシュリアがそう言った。
二人の距離は近すぎず、だが他人過ぎない。
長い付き合いなのだと、コトはなんとなく感じ取った。
「ああ? なんでだよ」
「コトは女の子なんだから……冷えるもんね~」
そんなことはない、と言いかけた。
だが、徐にヨルの顔を覗くと、何故か目を見開いていた。
「女……?」
「は!?」
イシュリアの顔が歪む。
ほんの僅かな沈黙が落ちた。
「男、じゃないのか?……お前」
「うん」
コトは小さく頷く。
「最低ね、あんた。
女の子かどうか見間違うなんて」
「いやそれは……」
「目が悪いのか? 竜の目でも突っ込んでやろうか?」
「目はいい方だ」
コトの目に映るヨルは、思ったていたより人間らしかった。イシュリアに詰められ、困ったような顔をするヨルの姿は、思っていたイメージよりも柔らかい。
「ヨル……かみ、きったほうがいい」
ポンポンと、自分の頭に手を置くコト。
「ん?」
「みえないなら、きったほうがいい」
少し遅れて、ヨルは目にかかった前髪をかきあげる。
「別に、髪で見えてなかったわけじゃねえよ」
イシュリアが高らかに笑う。
「いいじゃん! コトが切ってあげなよ!」
「まかせて」
クウォーターでは珍しく、軽さと緩さを含んだ会話だった。
ぶつくさ文句を垂れながら踵を返すヨルも、別に悪い気がしたようにも見えない。細やかで、穏やかな、とても小さな時間だった。
作業は続いている。
ヒオの震えが少しずつ増えていく。
指先が落ち着かない。言葉が短く、強い。
目がやけに明るいようだった。
コトが板を運び終えたとき、ヒオは息を吐きながら笑った。
「……今日は、やれる気がする」
笑い方が、薄かった。
自分に言い聞かせるような笑いだ。
「むりは――」
コトが言いかけると、ヒオは遮った。
「無理じゃない。取り戻さないと」
取り戻すとは、何を。
昨夜の遅れか、恐怖で止まった手か。それとも死んだ誰かの時間なのか。コトには分からない。
ヒオは焦っていた。
焦りはここでは火に近い。燃え広がるのが異常に早いのだ。
「あ、そこ、まだ――」
コトが言った。
足場の板を渡す。
梁と梁を繋ぐ仮設の通路。手順では、二箇所を留めてから渡る。留めれば安全になる。留める時間が、命になる。
「時間がない、平気だ」
ヒオは言い切った。
コトは反射的に手を伸ばした。
止めたい。止めるべきだ。
だが、止める言葉が見つからない。どれを選んでも、ヒオの顔が変わってしまうと分かっていたからだ。それは怒りではなく、壊れてしまいそうな顔。
ヒオは足を乗せた。
板が、ずれた。
ほんの数センチ。
それだけで世界は傾く。
コトの体が浮いた。
恐怖が胸に来るより先に、頭が動いた。
ロープ。
掴める梁。
声。
「……っ!」
ヒオが手を伸ばしてきた。助けようとしたのだろう。
だが、その手は正しい角度ではない。掴めば、二人とも引きずられる。
コトは手首を捻って、掴まれないように避けた。
避けたことに、自分でも驚いた。
――躊躇しない。
昨夜までの自分なら手を伸ばしていた。
そしておそらく、一緒に落ちていた。
コトの足が滑り、膝が板にぶつかった。痛みが走る。痛みのせいで現実に引き戻される。
(おちる……っ)
落ちるのは、ここでは終わりだった。
次の瞬間、横から力が入った。
イシュリアが、コトの背中を押し戻す。腕が伸び、ロープが張られる。
ユーカが無言で索を投げた。
手が正確だった。誰よりも早く、誰よりも無駄がない。
ヒオの足元が戻り、板がようやく留められた。
その間、作業場の空気は止まらない。止まらないまま、必要なところだけが動く。まるで事故が、工程の一部であるかのように。
そこに、ヨルがいた。
いつから見ていたのか分からない。
気配が薄いというより、最初から「居る」人間だ。気づいたときにはいつも居る。
ヨルはヒオを見た。
責めも、慰めも、怒鳴りもしない。
ただ、事実だけを置く。
「次は死ぬぞ」
それだけ。
ヒオの顔が歪む。
怒りでも反発でもない。恐怖と悔しさと、自己嫌悪が混ざった顔だ。目の奥が揺れている。ヒオの身体のことは、コトには分からない。ただ、ヒオが今、壊れそうだということだけが分かる。
「……ごめん」
ヒオは言った。
声は震えていない。震えているのは、背中だった。
誰も「大丈夫」と言わない。
誰も「よかった」とも言わない。
ここでは、生き延びたことは祝福ではなく、次の工程へ移る条件だ。
作業が再開される。
板は正しく固定され、二人は別の場所へ回される。事故は“処理”され、残りは日常の中に埋められていく。
コトは手を動かしながら、心臓の音を聞いていた。
まだ速い、まだ強い。生きている証拠だった。
だが、その音の下に別の音がある。
自分の中で、何かが削れていく音。
ヒオは優しいし、面倒見もいい。
不器用で、指示が雑で、それでも最後までコトを見捨てない。
そんなヒオが、たったひとつのミスで二人を殺しかけた。悪意でも慢心でもなく、ただの焦りによるものだった。
視線の端、一人の大きな男が横切った。
ラニーダだ。何もしていないのに、誰もが距離を取っていた。危険は行動ではなく存在に滲むことがある。
コトは、ふと考える。
ユーカは救った。
無言で。正確に。
救ったあとも、何も言わない。
イシュリアは押し戻してくれた。
軽口の裏で、刃のように状況を読んでいた。
ヨルは、言葉を一つだけ落とした。
それ以上は何もしない。
何もしないまま、全員を生かす。
――やっぱり、おかしい。
コトはそう思った。
人が死にかけて仕事が続く。
優しい人ほど危険になる。
危険な人が、そこにいる。
それを誰も問題にしない。
まだ幼いコトは、それをはっきり認識しているわけではない。
だが、それらが違和感として積み上がっているのは確かだった。
作業灯が揺れる。
風が鳴る。
鉄骨が鳴る。
コトは自分の膝の痛みを確かめた。擦り傷程度で、血は出ていない。出ていたとしても拭けば済む話である。
滑るなら拭く。滑らないなら放っておく。そういう判断が、もう当たり前になりかけている。
ここは異常だと、そう思えなくなる日が来るのだろう。その時、ここでの生存が少しだけ楽になるのかもしれない。
良いか悪いかは、別の話だ。
コトはまだ、それを知らない。
そしてここは、それを知った者たちで溢れている。
金属が噛み合う乾いた音。
少し遅れて、梁の奥で別の灯が点く気配。
風に煽られて揺れる光と、揺れない光。
最初の数日は、どれも同じだった。音も、光も、匂いも、怒鳴り声も、全部がひとつの塊で、コトの頭の中を鈍く殴ってきた。
だが今は違う。違いが分かる。どの通路が軋みやすいか、どの梁が冷えやすいか、どの結び目が解けやすいか――体が覚えはじめている。
便利だった。
同時に、怖かった。
作業区画には、最初から人が混ざっていた。全員が黙々と、ただそれぞれの工程を回している。
ヒオは、欠けた滑車の下で索を撚り直していた。指の動きは速いのに、不器用に見えるのは、力任せだからだ。結び目が固くなりすぎて、次に解くときに時間を食う。分かっていても、今は固く締めたいのだろう。締めれば安心できる。安心は、ここでは貴重品だ。
「ヒオ、次あっち」
ユーカだった。
投げやりで語気もやや強い。優しく穏やかな表情が沈黙し、鋭い眼光が周囲を拾っていく。
「コト、こっち」
この雰囲気のユーカは、コトには少し怖かった。目が合っているのに、こちらを見ていない。人を見ているというより、危険を見ている目だった。
「そこ、近づかないで」
低く冷たい一言だが、合理的な形をしている。
コトが一歩でも間違えた場所に足を置けば、声より先に手が伸びて引き戻される。短く、強く。叱るでもなく、慰めるでもなく、ただ修正する。
「ユーカ~! 今日顔怖いよ~!」
そんなやり取りを見ていたのか、イシュリアが身を乗り出すようにして声を飛ばした。
彼女はさらに奥の梁で、焼けた固定金具を交換していた。動きに無駄がない。口は軽いが、それが作業に異常をきたすことはない。
「コト! 今日もかわいいぞ~」
イシュリアのそんな明るさが、作業場の消耗を緩和しているようだった。
軽口は、ここでは防具だ。防具を着ていないと、体の中身が外に出てしまう。
コトは、まだ仕事は覚えきれていない。工具の名前も、装置の正式な呼び方も曖昧だ。
「これはどこ?」
「あっちの通路」
分からなければ聞き、出来る範囲で手を動かす。
余計なことはしない。足手まといにならないように、それだけを守る。
しかし時々、反射的に体が止まる。
梁の継ぎ目に黒い染みが見えたとき。
鉄骨の隙間に、乾いた布の端が絡まっていたとき。
匂いが、ふと変わったとき。
それが昨夜の残りだと分かってしまう。
分かった瞬間、喉の奥が冷えて胃が動く。吐くほどではないが、吐ける余裕がないことも分かっている。
コトは手を動かすしかない。
動かせば、色々と考えなくて済む。
「板、そこ、内側」
ヒオが言った。声はいつもより柔らかかった。
コトが板をずらすと、ヒオは頷いた。
「そう。……あぁ、ごめん。言い方雑だったね」
謝る必要はない、とコトは思う。
だが、ヒオはよく謝る。自分が間違っていなくても反射的に口にする癖があった。
表面的には優しさに見える。
だが同時に、怖さでもある。優しい人間は、ここで長く生きない。
コトは、ヒオに聞きたいことがあった。
昨夜のことではない。匂い槽のことでもない。もっと小さいこと――ヒオの手の震えだ。
朝は震えていなかった。
今は、ほんの少しだけ震えている。
力を入れすぎたときの震えではない。寒さでも、恐怖の類にも見えない。もっと内側から来る揺れに感じた。
コトは口を開きかけて、ゆっくり閉じる。
聞けば、踏み込むことになる。踏み込めば、距離が変わる。距離が変わることは、この場所では時々、死より重い。
ユーカが、無言でロープ束を差し出した。
必要な長さだけ切り、端を焼くための火種を寄せる。
コトはそれを受け取り、端を炙った。焦げ臭さが指に残る。
ほんの少しだけ、気が楽になる気がした。
「コト! 早くなったね」
イシュリアが、遠くから声を飛ばした。
彼女はこうして、コトを気にかけていた。
「……」
コトは無言で首を振った。
イシュリアは掠れたように笑った。
「そうか? いいね……じゃあ、まだ大丈夫だな~」
まだ大丈夫。
その言い方が、コトには引っかかった。大丈夫じゃなくなる前提が、最初からそこにあった。
作業が少し落ち着いた頃、イシュリアが近づいてきた。
汗の匂いに、油と錆が混じっている。ここでは誰も同じ匂いをしているはずなのに、イシュリアの匂いだけが少しだけ「人間」に近い気がする。体温が残っている匂いだ。
「ねぇコト」
「はい」
「ここで“良い人”を探すなよ? 良い人ほど、壊れるからな」
イシュリアの声は小さかった。ただ、たしかに忠告の形をしていた。
優しさではなく、経験の刃。
コトは頷いた。頷くしかない。
「それと――」
イシュリアが視線を一瞬だけ流した。
コトも、つられて目を向ける。
ラニーダがいた。
作業着の袖が擦り切れている。体つきは悪くない。動きは無駄がなく手際もいい。役割としてはC担当の男だ。装置や索の扱いに慣れている。つまり、必要な人間でもある。
なのに、周囲が微妙に距離を取っている。
それは偶然ではなく、導線が自然に避けられている。
「ああ、ねえペル……今日は来るかな?
そう問われたペルは、何も言わずに駆け足で去っていった。
それに不満を漏らすわけでもなく、歪な笑みを浮かべる姿がただただ不気味だった。
ラニーダは誰かの背後を通るとき、必要以上に近い。すれ違いざま、肩が触れそうな距離を選ぶ。悪意というより、距離感が壊れている感じたった。それはここでは、刃物より厄介なことがある。
「あいつには近づくなよ」
イシュリアは、短く言った。
「仕事はできる。でも信用はするな。夜、一人で歩くな」
「……なにかされたの」
コトが訊くと、イシュリアは首を振った。
「……いいや。まぁ一応な」
イシュリアの目は攻撃的だった。
コトは一瞬、ラニーダを見た。
目が合った気がしたが、正確には分からない。分からないことが、気味が悪かった。
――異常だ。
そう思った。
危険だと分かっている人間が、ここでは「注意事項」で済まされる。排除も改善もされない。ただ、気をつけろと言われるだけ。
コトは、それがとても嫌だった。
嫌だと感じる自分が、まだ残っていることが少しだけ救いだった。
「コト」
見上げると、そこにはヨルが立っていた。
「体調は平気か?」
言葉は確かに、コトを気遣うものだった。
だが、ただの確認のようにも聞こえてしまう。
「へいき」
それだけ口にした。
「ああヨル。コトの服、少しだけあったかいの用意してやれよ」
イシュリアがそう言った。
二人の距離は近すぎず、だが他人過ぎない。
長い付き合いなのだと、コトはなんとなく感じ取った。
「ああ? なんでだよ」
「コトは女の子なんだから……冷えるもんね~」
そんなことはない、と言いかけた。
だが、徐にヨルの顔を覗くと、何故か目を見開いていた。
「女……?」
「は!?」
イシュリアの顔が歪む。
ほんの僅かな沈黙が落ちた。
「男、じゃないのか?……お前」
「うん」
コトは小さく頷く。
「最低ね、あんた。
女の子かどうか見間違うなんて」
「いやそれは……」
「目が悪いのか? 竜の目でも突っ込んでやろうか?」
「目はいい方だ」
コトの目に映るヨルは、思ったていたより人間らしかった。イシュリアに詰められ、困ったような顔をするヨルの姿は、思っていたイメージよりも柔らかい。
「ヨル……かみ、きったほうがいい」
ポンポンと、自分の頭に手を置くコト。
「ん?」
「みえないなら、きったほうがいい」
少し遅れて、ヨルは目にかかった前髪をかきあげる。
「別に、髪で見えてなかったわけじゃねえよ」
イシュリアが高らかに笑う。
「いいじゃん! コトが切ってあげなよ!」
「まかせて」
クウォーターでは珍しく、軽さと緩さを含んだ会話だった。
ぶつくさ文句を垂れながら踵を返すヨルも、別に悪い気がしたようにも見えない。細やかで、穏やかな、とても小さな時間だった。
作業は続いている。
ヒオの震えが少しずつ増えていく。
指先が落ち着かない。言葉が短く、強い。
目がやけに明るいようだった。
コトが板を運び終えたとき、ヒオは息を吐きながら笑った。
「……今日は、やれる気がする」
笑い方が、薄かった。
自分に言い聞かせるような笑いだ。
「むりは――」
コトが言いかけると、ヒオは遮った。
「無理じゃない。取り戻さないと」
取り戻すとは、何を。
昨夜の遅れか、恐怖で止まった手か。それとも死んだ誰かの時間なのか。コトには分からない。
ヒオは焦っていた。
焦りはここでは火に近い。燃え広がるのが異常に早いのだ。
「あ、そこ、まだ――」
コトが言った。
足場の板を渡す。
梁と梁を繋ぐ仮設の通路。手順では、二箇所を留めてから渡る。留めれば安全になる。留める時間が、命になる。
「時間がない、平気だ」
ヒオは言い切った。
コトは反射的に手を伸ばした。
止めたい。止めるべきだ。
だが、止める言葉が見つからない。どれを選んでも、ヒオの顔が変わってしまうと分かっていたからだ。それは怒りではなく、壊れてしまいそうな顔。
ヒオは足を乗せた。
板が、ずれた。
ほんの数センチ。
それだけで世界は傾く。
コトの体が浮いた。
恐怖が胸に来るより先に、頭が動いた。
ロープ。
掴める梁。
声。
「……っ!」
ヒオが手を伸ばしてきた。助けようとしたのだろう。
だが、その手は正しい角度ではない。掴めば、二人とも引きずられる。
コトは手首を捻って、掴まれないように避けた。
避けたことに、自分でも驚いた。
――躊躇しない。
昨夜までの自分なら手を伸ばしていた。
そしておそらく、一緒に落ちていた。
コトの足が滑り、膝が板にぶつかった。痛みが走る。痛みのせいで現実に引き戻される。
(おちる……っ)
落ちるのは、ここでは終わりだった。
次の瞬間、横から力が入った。
イシュリアが、コトの背中を押し戻す。腕が伸び、ロープが張られる。
ユーカが無言で索を投げた。
手が正確だった。誰よりも早く、誰よりも無駄がない。
ヒオの足元が戻り、板がようやく留められた。
その間、作業場の空気は止まらない。止まらないまま、必要なところだけが動く。まるで事故が、工程の一部であるかのように。
そこに、ヨルがいた。
いつから見ていたのか分からない。
気配が薄いというより、最初から「居る」人間だ。気づいたときにはいつも居る。
ヨルはヒオを見た。
責めも、慰めも、怒鳴りもしない。
ただ、事実だけを置く。
「次は死ぬぞ」
それだけ。
ヒオの顔が歪む。
怒りでも反発でもない。恐怖と悔しさと、自己嫌悪が混ざった顔だ。目の奥が揺れている。ヒオの身体のことは、コトには分からない。ただ、ヒオが今、壊れそうだということだけが分かる。
「……ごめん」
ヒオは言った。
声は震えていない。震えているのは、背中だった。
誰も「大丈夫」と言わない。
誰も「よかった」とも言わない。
ここでは、生き延びたことは祝福ではなく、次の工程へ移る条件だ。
作業が再開される。
板は正しく固定され、二人は別の場所へ回される。事故は“処理”され、残りは日常の中に埋められていく。
コトは手を動かしながら、心臓の音を聞いていた。
まだ速い、まだ強い。生きている証拠だった。
だが、その音の下に別の音がある。
自分の中で、何かが削れていく音。
ヒオは優しいし、面倒見もいい。
不器用で、指示が雑で、それでも最後までコトを見捨てない。
そんなヒオが、たったひとつのミスで二人を殺しかけた。悪意でも慢心でもなく、ただの焦りによるものだった。
視線の端、一人の大きな男が横切った。
ラニーダだ。何もしていないのに、誰もが距離を取っていた。危険は行動ではなく存在に滲むことがある。
コトは、ふと考える。
ユーカは救った。
無言で。正確に。
救ったあとも、何も言わない。
イシュリアは押し戻してくれた。
軽口の裏で、刃のように状況を読んでいた。
ヨルは、言葉を一つだけ落とした。
それ以上は何もしない。
何もしないまま、全員を生かす。
――やっぱり、おかしい。
コトはそう思った。
人が死にかけて仕事が続く。
優しい人ほど危険になる。
危険な人が、そこにいる。
それを誰も問題にしない。
まだ幼いコトは、それをはっきり認識しているわけではない。
だが、それらが違和感として積み上がっているのは確かだった。
作業灯が揺れる。
風が鳴る。
鉄骨が鳴る。
コトは自分の膝の痛みを確かめた。擦り傷程度で、血は出ていない。出ていたとしても拭けば済む話である。
滑るなら拭く。滑らないなら放っておく。そういう判断が、もう当たり前になりかけている。
ここは異常だと、そう思えなくなる日が来るのだろう。その時、ここでの生存が少しだけ楽になるのかもしれない。
良いか悪いかは、別の話だ。
コトはまだ、それを知らない。
そしてここは、それを知った者たちで溢れている。
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