竜刑は断崖にて

房児黒壱

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 朝の作業灯が点く音を、コトは聞き分けられるようになっていた。

 金属が噛み合う乾いた音。
 少し遅れて、梁の奥で別の灯が点く気配。
 風に煽られて揺れる光と、揺れない光。

 最初の数日は、どれも同じだった。音も、光も、匂いも、怒鳴り声も、全部がひとつの塊で、コトの頭の中を鈍く殴ってきた。
 だが今は違う。違いが分かる。どの通路が軋みやすいか、どの梁が冷えやすいか、どの結び目が解けやすいか――体が覚えはじめている。

 便利だった。
 同時に、怖かった。

 作業区画には、最初から人が混ざっていた。全員が黙々と、ただそれぞれの工程を回している。

 ヒオは、欠けた滑車の下で索を撚り直していた。指の動きは速いのに、不器用に見えるのは、力任せだからだ。結び目が固くなりすぎて、次に解くときに時間を食う。分かっていても、今は固く締めたいのだろう。締めれば安心できる。安心は、ここでは貴重品だ。

「ヒオ、次あっち」

 ユーカだった。
 投げやりで語気もやや強い。優しく穏やかな表情が沈黙し、鋭い眼光が周囲を拾っていく。

「コト、こっち」

 この雰囲気のユーカは、コトには少し怖かった。目が合っているのに、こちらを見ていない。人を見ているというより、危険を見ている目だった。

「そこ、近づかないで」

 低く冷たい一言だが、合理的な形をしている。
 コトが一歩でも間違えた場所に足を置けば、声より先に手が伸びて引き戻される。短く、強く。叱るでもなく、慰めるでもなく、ただ修正する。

「ユーカ~! 今日顔怖いよ~!」

 そんなやり取りを見ていたのか、イシュリアが身を乗り出すようにして声を飛ばした。
 彼女はさらに奥の梁で、焼けた固定金具を交換していた。動きに無駄がない。口は軽いが、それが作業に異常をきたすことはない。

「コト! 今日もかわいいぞ~」

 イシュリアのそんな明るさが、作業場の消耗を緩和しているようだった。
 軽口は、ここでは防具だ。防具を着ていないと、体の中身が外に出てしまう。

 コトは、まだ仕事は覚えきれていない。工具の名前も、装置の正式な呼び方も曖昧だ。

「これはどこ?」

「あっちの通路」

 分からなければ聞き、出来る範囲で手を動かす。
 余計なことはしない。足手まといにならないように、それだけを守る。

 しかし時々、反射的に体が止まる。

 梁の継ぎ目に黒い染みが見えたとき。
 鉄骨の隙間に、乾いた布の端が絡まっていたとき。
 匂いが、ふと変わったとき。

 それが昨夜の残りだと分かってしまう。
 分かった瞬間、喉の奥が冷えて胃が動く。吐くほどではないが、吐ける余裕がないことも分かっている。

 コトは手を動かすしかない。
 動かせば、色々と考えなくて済む。

「板、そこ、内側」

 ヒオが言った。声はいつもより柔らかかった。
 コトが板をずらすと、ヒオは頷いた。

「そう。……あぁ、ごめん。言い方雑だったね」

 謝る必要はない、とコトは思う。
 だが、ヒオはよく謝る。自分が間違っていなくても反射的に口にする癖があった。

 表面的には優しさに見える。
 だが同時に、怖さでもある。優しい人間は、ここで長く生きない。



 コトは、ヒオに聞きたいことがあった。
 昨夜のことではない。匂い槽のことでもない。もっと小さいこと――ヒオの手の震えだ。

 朝は震えていなかった。
 今は、ほんの少しだけ震えている。

 力を入れすぎたときの震えではない。寒さでも、恐怖の類にも見えない。もっと内側から来る揺れに感じた。

 コトは口を開きかけて、ゆっくり閉じる。
 聞けば、踏み込むことになる。踏み込めば、距離が変わる。距離が変わることは、この場所では時々、死より重い。

 ユーカが、無言でロープ束を差し出した。
 必要な長さだけ切り、端を焼くための火種を寄せる。

 コトはそれを受け取り、端を炙った。焦げ臭さが指に残る。
 ほんの少しだけ、気が楽になる気がした。

「コト! 早くなったね」

 イシュリアが、遠くから声を飛ばした。
 彼女はこうして、コトを気にかけていた。

「……」

 コトは無言で首を振った。
 イシュリアは掠れたように笑った。

「そうか? いいね……じゃあ、まだ大丈夫だな~」

 まだ大丈夫。
 その言い方が、コトには引っかかった。大丈夫じゃなくなる前提が、最初からそこにあった。


 作業が少し落ち着いた頃、イシュリアが近づいてきた。
 汗の匂いに、油と錆が混じっている。ここでは誰も同じ匂いをしているはずなのに、イシュリアの匂いだけが少しだけ「人間」に近い気がする。体温が残っている匂いだ。

「ねぇコト」

「はい」

「ここで“良い人”を探すなよ? 良い人ほど、壊れるからな」

 イシュリアの声は小さかった。ただ、たしかに忠告の形をしていた。
 優しさではなく、経験の刃。

 コトは頷いた。頷くしかない。

「それと――」

 イシュリアが視線を一瞬だけ流した。
 コトも、つられて目を向ける。

 ラニーダがいた。

 作業着の袖が擦り切れている。体つきは悪くない。動きは無駄がなく手際もいい。役割としてはC担当の男だ。装置や索の扱いに慣れている。つまり、必要な人間でもある。

 なのに、周囲が微妙に距離を取っている。
 それは偶然ではなく、導線が自然に避けられている。

「ああ、ねえペル……今日は来るかな?

 そう問われたペルは、何も言わずに駆け足で去っていった。
 それに不満を漏らすわけでもなく、歪な笑みを浮かべる姿がただただ不気味だった。

 ラニーダは誰かの背後を通るとき、必要以上に近い。すれ違いざま、肩が触れそうな距離を選ぶ。悪意というより、距離感が壊れている感じたった。それはここでは、刃物より厄介なことがある。

「あいつには近づくなよ」

 イシュリアは、短く言った。

「仕事はできる。でも信用はするな。夜、一人で歩くな」

「……なにかされたの」

 コトが訊くと、イシュリアは首を振った。

「……いいや。まぁ一応な」

 イシュリアの目は攻撃的だった。
 コトは一瞬、ラニーダを見た。
 目が合った気がしたが、正確には分からない。分からないことが、気味が悪かった。

 ――異常だ。

 そう思った。
 危険だと分かっている人間が、ここでは「注意事項」で済まされる。排除も改善もされない。ただ、気をつけろと言われるだけ。

 コトは、それがとても嫌だった。
 嫌だと感じる自分が、まだ残っていることが少しだけ救いだった。

「コト」

 見上げると、そこにはヨルが立っていた。

「体調は平気か?」

 言葉は確かに、コトを気遣うものだった。
 だが、ただの確認のようにも聞こえてしまう。

「へいき」

 それだけ口にした。

「ああヨル。コトの服、少しだけあったかいの用意してやれよ」

 イシュリアがそう言った。
 二人の距離は近すぎず、だが他人過ぎない。
 長い付き合いなのだと、コトはなんとなく感じ取った。

「ああ? なんでだよ」

「コトは女の子なんだから……冷えるもんね~」

 そんなことはない、と言いかけた。
 だが、徐にヨルの顔を覗くと、何故か目を見開いていた。

「女……?」

「は!?」

 イシュリアの顔が歪む。
 ほんの僅かな沈黙が落ちた。

「男、じゃないのか?……お前」

「うん」

 コトは小さく頷く。

「最低ね、あんた。
 女の子かどうか見間違うなんて」

「いやそれは……」

「目が悪いのか? 竜の目でも突っ込んでやろうか?」

「目はいい方だ」

 コトの目に映るヨルは、思ったていたより人間らしかった。イシュリアに詰められ、困ったような顔をするヨルの姿は、思っていたイメージよりも柔らかい。

「ヨル……かみ、きったほうがいい」

 ポンポンと、自分の頭に手を置くコト。

「ん?」

「みえないなら、きったほうがいい」

 少し遅れて、ヨルは目にかかった前髪をかきあげる。

「別に、髪で見えてなかったわけじゃねえよ」

 イシュリアが高らかに笑う。

「いいじゃん! コトが切ってあげなよ!」

「まかせて」

 クウォーターでは珍しく、軽さと緩さを含んだ会話だった。
 ぶつくさ文句を垂れながら踵を返すヨルも、別に悪い気がしたようにも見えない。細やかで、穏やかな、とても小さな時間だった。
 





 作業は続いている。
 ヒオの震えが少しずつ増えていく。

 指先が落ち着かない。言葉が短く、強い。
 目がやけに明るいようだった。

 コトが板を運び終えたとき、ヒオは息を吐きながら笑った。

「……今日は、やれる気がする」

 笑い方が、薄かった。
 自分に言い聞かせるような笑いだ。

「むりは――」

 コトが言いかけると、ヒオは遮った。

「無理じゃない。取り戻さないと」

 取り戻すとは、何を。
 昨夜の遅れか、恐怖で止まった手か。それとも死んだ誰かの時間なのか。コトには分からない。

 ヒオは焦っていた。
 焦りはここでは火に近い。燃え広がるのが異常に早いのだ。

「あ、そこ、まだ――」

 コトが言った。

 足場の板を渡す。
 梁と梁を繋ぐ仮設の通路。手順では、二箇所を留めてから渡る。留めれば安全になる。留める時間が、命になる。

「時間がない、平気だ」

 ヒオは言い切った。

 コトは反射的に手を伸ばした。
 止めたい。止めるべきだ。
 だが、止める言葉が見つからない。どれを選んでも、ヒオの顔が変わってしまうと分かっていたからだ。それは怒りではなく、壊れてしまいそうな顔。

 ヒオは足を乗せた。

 板が、ずれた。

 ほんの数センチ。
 それだけで世界は傾く。

 コトの体が浮いた。
 恐怖が胸に来るより先に、頭が動いた。

 ロープ。
 掴める梁。
 声。

「……っ!」

 ヒオが手を伸ばしてきた。助けようとしたのだろう。
 だが、その手は正しい角度ではない。掴めば、二人とも引きずられる。

 コトは手首を捻って、掴まれないように避けた。
 避けたことに、自分でも驚いた。

 ――躊躇しない。

 昨夜までの自分なら手を伸ばしていた。
 そしておそらく、一緒に落ちていた。

 コトの足が滑り、膝が板にぶつかった。痛みが走る。痛みのせいで現実に引き戻される。

(おちる……っ)

 落ちるのは、ここでは終わりだった。

 次の瞬間、横から力が入った。
 イシュリアが、コトの背中を押し戻す。腕が伸び、ロープが張られる。

 ユーカが無言で索を投げた。
 手が正確だった。誰よりも早く、誰よりも無駄がない。

 ヒオの足元が戻り、板がようやく留められた。

 その間、作業場の空気は止まらない。止まらないまま、必要なところだけが動く。まるで事故が、工程の一部であるかのように。

 そこに、ヨルがいた。

 いつから見ていたのか分からない。
 気配が薄いというより、最初から「居る」人間だ。気づいたときにはいつも居る。

 ヨルはヒオを見た。
 責めも、慰めも、怒鳴りもしない。
 ただ、事実だけを置く。

「次は死ぬぞ」

 それだけ。

 ヒオの顔が歪む。
 怒りでも反発でもない。恐怖と悔しさと、自己嫌悪が混ざった顔だ。目の奥が揺れている。ヒオの身体のことは、コトには分からない。ただ、ヒオが今、壊れそうだということだけが分かる。

「……ごめん」

 ヒオは言った。
 声は震えていない。震えているのは、背中だった。

 誰も「大丈夫」と言わない。
 誰も「よかった」とも言わない。
 ここでは、生き延びたことは祝福ではなく、次の工程へ移る条件だ。

 作業が再開される。
 板は正しく固定され、二人は別の場所へ回される。事故は“処理”され、残りは日常の中に埋められていく。

 コトは手を動かしながら、心臓の音を聞いていた。
 まだ速い、まだ強い。生きている証拠だった。

 だが、その音の下に別の音がある。
 自分の中で、何かが削れていく音。

 ヒオは優しいし、面倒見もいい。
 不器用で、指示が雑で、それでも最後までコトを見捨てない。

 そんなヒオが、たったひとつのミスで二人を殺しかけた。悪意でも慢心でもなく、ただの焦りによるものだった。

 視線の端、一人の大きな男が横切った。
 ラニーダだ。何もしていないのに、誰もが距離を取っていた。危険は行動ではなく存在に滲むことがある。

 コトは、ふと考える。

 ユーカは救った。
 無言で。正確に。
 救ったあとも、何も言わない。

 イシュリアは押し戻してくれた。
 軽口の裏で、刃のように状況を読んでいた。

 ヨルは、言葉を一つだけ落とした。
 それ以上は何もしない。
 何もしないまま、全員を生かす。

 ――やっぱり、おかしい。

 コトはそう思った。

 人が死にかけて仕事が続く。
 優しい人ほど危険になる。
 危険な人が、そこにいる。
 それを誰も問題にしない。

 まだ幼いコトは、それをはっきり認識しているわけではない。
 だが、それらが違和感として積み上がっているのは確かだった。


 作業灯が揺れる。
 風が鳴る。
 鉄骨が鳴る。

 コトは自分の膝の痛みを確かめた。擦り傷程度で、血は出ていない。出ていたとしても拭けば済む話である。
 滑るなら拭く。滑らないなら放っておく。そういう判断が、もう当たり前になりかけている。

 ここは異常だと、そう思えなくなる日が来るのだろう。その時、ここでの生存が少しだけ楽になるのかもしれない。
 良いか悪いかは、別の話だ。

 コトはまだ、それを知らない。
 そしてここは、それを知った者たちで溢れている。
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