竜刑は断崖にて

房児黒壱

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 最初に聞こえたのは、怒鳴り声だった。

 金属の擦れる音や、索が張られる音に混じって、明らかに異質な声が跳ねた。
 コトは反射的に肩を強張らせ、足元を確かめる。板は固定されている。索も張られている。問題はない――はずだった。

 だが、声の大きさそのものが問題だった。

 ヒオと二人で行っていたのは、通路脇の索の点検だった。単調な作業で、確認する箇所も少ない。ヒオはいつも通り指示を出し、コトはそれに従って手を動かしていた。

 ただ、ヒオの様子が少しだけ違った。

 同じ箇所を二度確認する。
 結び目を締め直す回数が多い。
 指先に力が入りすぎて、索が軋む。

 疲れているのだろうと、コトは思った。
 彼は夜の見張りも任されており、人よりも疲労が蓄積するのは当然だった。

 昨夜の名残は、まだ施設のあちこちに残っている。焼け焦げた金具。歪んだ梁。風が吹くたび、どこかが鳴る。

 軋みの音がしただけで、全員が一瞬、動きを止める。
 落とした工具が床を打つ音に誰かが息を詰める。

 竜は来ていない。
 だが、来ていないだけだ。

「――ちょっと待ってて」

 ヒオが言った。
 別の区画から声がかかっていたらしい。ヒオは一度だけコトを振り返り、「すぐ戻る」と言って、足早にその場を離れた。

 コトは一人になった。
 索を持ったまま、ヒオの背中を見送る。

 遠くで、声がぶつかり始めた。

 最初は低く、抑えた調子だった。
 内容は聞き取れない。だが、語尾の硬さから、穏やかなやり取りではないことだけは分かる。

 しばらくして、相手の名前が飛んだ。

「ヤズ」

 ヒオの声だった。
 次の瞬間、金属を叩く音がした。
 誰かが何かを置いたのか、蹴ったのか。いずれにせよ、無駄な音だった。

 コトは思わず索を握り直した。
 この程度の音で警戒する自分を、少し情けなく思う。

 だが、ここでは音が命取りになる。
 竜が来ていない今でさえ、音は敵だった。

 ヤズと呼ばれた少年とヒオの口論は、少しずつ熱を帯びていった。

 正論と正論がぶつかっているのが、声の調子だけで分かる。
 怒鳴り合いではない。だが、互いに引く気配もない。

 ヒオの声が、次第に上擦り始めた。

 コトは遠目に、ヒオの姿を探す。
 視界の端で、ヒオが身振りを大きくしているのが見えた。

 手が震えている。

 最初は気のせいかと思った。
 だが、震えは止まらない。ヒオの指先が小刻みに揺れている。

 瞳孔が、妙に開いていた。

 コトは喉が鳴るのを感じた。
 これは、まずい。

 竜の気配はない。
 だが、ここでは人間の異変も、事故と同じ重さを持つ。

「うっせえんだよ!」

 怒号が飛んだ。

 イシュリアの声だった。

 それまで黙っていた空気が、一気に裂ける。
 イシュリアは現場の端から声を張り上げていた。言葉は荒い。だが、怒りというより苛立ちに近い。

「今それやってる余裕あんのか! 手動かせ!」

 だが、口論は止まらなかった。
 声量では止まらない。
 それは誰もが分かっている。

「……はぁ」

 ヨルが姿を見せたのは、その直後だった。
 またか、と言わんばかりにため息を吐きながら、気怠そうに歩いていた。

 ヨルは落とし穴の補修をしていた。
 竜の墓場近く、意図的に大きく開けられた空間の縁で、歪んだ床板を外し、内部の機構を確かめている最中だったらしい。

 土と鉄の匂いをまとったまま、ヨルは現場に入ってきた。

「ヒオ」

 声は低く、よく通った。
 命令ではない。ただ名前を呼んだだけだ。

 ヒオが振り向く。
 その瞬間、コトにもはっきり見えた。
 ヒオの手が、制御できていない。呼吸が浅く、異様に速い。目の焦点が、居場所を求め泳ぎ回っている。

 ヤズと呼ばれた男も、言葉を止めた。
 場の空気が一段階変わる。

「そこまでにしろ」

 ヨルはヒオに言った。
 声色は柔らかいが迷いがない。

「戻れ。作業は代わる」

 ヒオは一瞬、口を開いた。
 何か言おうとしたのだろう。

 だが、言葉にならなかった。

「……ごめん」

 絞り出すような声だった。
 ヨルは頷き、ヤズの方を見る。

「でもヨル!こいつが……」
「言いたいことは分かる。後で聞く。今じゃない」

 ヤズは不満そうに口を歪めたが、それ以上は何も言わなかった。
 正論を言い切った後に残るのは、後味の悪さだけだ。

 ヒオはそのまま現場を離れた。
 背中が、小さく見えた。

 作業は再開された。
 まるで何事もなかったかのように。

 だが、空気は確実に摩耗していた。

 別の場所では、オルダとイシュリア、テリーが集まっていた。

 食糧庫の前だ。

「減りが早いな」

 オルダが言った。
 数字を確認しながら、眉を寄せる。

「計算が合わねえのか」

 イシュリアは腕を組んだ。

「誰かがちょろまかしてる」

 誰も否定しない。
 だが、誰も名前を出さない。

「……いるだろうね。そういうひとも」

 テリーが言った。
 声に怒りはない。ただ事実を置くだけの口調だ。

 犯人探しはしない。
 今は、それをする余裕がない。

 だが、問題であることも確かだった。

 竜は来ていない。
 だが、来れば全てが終わる。

 その「来る前」に、食糧が尽きれば、同じことだ。

 コトは少し離れた場所で、その会話を聞いていた。
 聞いてはいけない気がして、自然と距離を取る。

 一人での作業に戻った。

 薄暗い区画。
 風が抜けるたび、鎖が鳴る。

 何かを落とした音がして、思わず身構える。
 ただの木片だった。

 自分の呼吸音が、やけに大きく聞こえる。

「これ、重いね」

 背後から声がした。

 振り向く前に、距離の近さで分かった。
 ラニーダだ。

「……う、うん」

 いつの間にいたのか、分からない。
 気配が薄いわけではない。ただ、存在の仕方がずれている。

「落ちたら、死ぬよ」

 ラニーダは淡々と言った。
 焦点の合わない青い目が、コトを見ているようで、見ていない。

「死んだらどうする? 怖いよね」

 長い髪が垂れ、顔はよく見えない。
 不健康そうな青白い肌がチラつく。

 コトは一歩、距離を取った。
 ラニーダはその分だけ近づいた。

 触れなくていい距離。
 答えずとも、一人での意味不明な会話を並べていた。

「……」

 何も言わなかった。

 ラニーダは不気味な笑みを浮かべ、しばらくそこに立っていたが、やがて何事もなかったように去っていった。

 残された空気が、重い。

 竜の影は、どこにもない。
 だが、軋み、怒鳴り声、距離の狂い――それらすべてが、同じ方向を向いている。

 クウォーターは、少しずつ削れていた。

 コトはまだ、それを異常だと思えている。
 だが、その感覚がいつまで持つのか、自分でも分からなかった。
 
 風が吹き、どこかで金属が鳴った。
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