8 / 8
08
しおりを挟む最初に聞こえたのは、怒鳴り声だった。
金属の擦れる音や、索が張られる音に混じって、明らかに異質な声が跳ねた。
コトは反射的に肩を強張らせ、足元を確かめる。板は固定されている。索も張られている。問題はない――はずだった。
だが、声の大きさそのものが問題だった。
ヒオと二人で行っていたのは、通路脇の索の点検だった。単調な作業で、確認する箇所も少ない。ヒオはいつも通り指示を出し、コトはそれに従って手を動かしていた。
ただ、ヒオの様子が少しだけ違った。
同じ箇所を二度確認する。
結び目を締め直す回数が多い。
指先に力が入りすぎて、索が軋む。
疲れているのだろうと、コトは思った。
彼は夜の見張りも任されており、人よりも疲労が蓄積するのは当然だった。
昨夜の名残は、まだ施設のあちこちに残っている。焼け焦げた金具。歪んだ梁。風が吹くたび、どこかが鳴る。
軋みの音がしただけで、全員が一瞬、動きを止める。
落とした工具が床を打つ音に誰かが息を詰める。
竜は来ていない。
だが、来ていないだけだ。
「――ちょっと待ってて」
ヒオが言った。
別の区画から声がかかっていたらしい。ヒオは一度だけコトを振り返り、「すぐ戻る」と言って、足早にその場を離れた。
コトは一人になった。
索を持ったまま、ヒオの背中を見送る。
遠くで、声がぶつかり始めた。
最初は低く、抑えた調子だった。
内容は聞き取れない。だが、語尾の硬さから、穏やかなやり取りではないことだけは分かる。
しばらくして、相手の名前が飛んだ。
「ヤズ」
ヒオの声だった。
次の瞬間、金属を叩く音がした。
誰かが何かを置いたのか、蹴ったのか。いずれにせよ、無駄な音だった。
コトは思わず索を握り直した。
この程度の音で警戒する自分を、少し情けなく思う。
だが、ここでは音が命取りになる。
竜が来ていない今でさえ、音は敵だった。
ヤズと呼ばれた少年とヒオの口論は、少しずつ熱を帯びていった。
正論と正論がぶつかっているのが、声の調子だけで分かる。
怒鳴り合いではない。だが、互いに引く気配もない。
ヒオの声が、次第に上擦り始めた。
コトは遠目に、ヒオの姿を探す。
視界の端で、ヒオが身振りを大きくしているのが見えた。
手が震えている。
最初は気のせいかと思った。
だが、震えは止まらない。ヒオの指先が小刻みに揺れている。
瞳孔が、妙に開いていた。
コトは喉が鳴るのを感じた。
これは、まずい。
竜の気配はない。
だが、ここでは人間の異変も、事故と同じ重さを持つ。
「うっせえんだよ!」
怒号が飛んだ。
イシュリアの声だった。
それまで黙っていた空気が、一気に裂ける。
イシュリアは現場の端から声を張り上げていた。言葉は荒い。だが、怒りというより苛立ちに近い。
「今それやってる余裕あんのか! 手動かせ!」
だが、口論は止まらなかった。
声量では止まらない。
それは誰もが分かっている。
「……はぁ」
ヨルが姿を見せたのは、その直後だった。
またか、と言わんばかりにため息を吐きながら、気怠そうに歩いていた。
ヨルは落とし穴の補修をしていた。
竜の墓場近く、意図的に大きく開けられた空間の縁で、歪んだ床板を外し、内部の機構を確かめている最中だったらしい。
土と鉄の匂いをまとったまま、ヨルは現場に入ってきた。
「ヒオ」
声は低く、よく通った。
命令ではない。ただ名前を呼んだだけだ。
ヒオが振り向く。
その瞬間、コトにもはっきり見えた。
ヒオの手が、制御できていない。呼吸が浅く、異様に速い。目の焦点が、居場所を求め泳ぎ回っている。
ヤズと呼ばれた男も、言葉を止めた。
場の空気が一段階変わる。
「そこまでにしろ」
ヨルはヒオに言った。
声色は柔らかいが迷いがない。
「戻れ。作業は代わる」
ヒオは一瞬、口を開いた。
何か言おうとしたのだろう。
だが、言葉にならなかった。
「……ごめん」
絞り出すような声だった。
ヨルは頷き、ヤズの方を見る。
「でもヨル!こいつが……」
「言いたいことは分かる。後で聞く。今じゃない」
ヤズは不満そうに口を歪めたが、それ以上は何も言わなかった。
正論を言い切った後に残るのは、後味の悪さだけだ。
ヒオはそのまま現場を離れた。
背中が、小さく見えた。
作業は再開された。
まるで何事もなかったかのように。
だが、空気は確実に摩耗していた。
別の場所では、オルダとイシュリア、テリーが集まっていた。
食糧庫の前だ。
「減りが早いな」
オルダが言った。
数字を確認しながら、眉を寄せる。
「計算が合わねえのか」
イシュリアは腕を組んだ。
「誰かがちょろまかしてる」
誰も否定しない。
だが、誰も名前を出さない。
「……いるだろうね。そういうひとも」
テリーが言った。
声に怒りはない。ただ事実を置くだけの口調だ。
犯人探しはしない。
今は、それをする余裕がない。
だが、問題であることも確かだった。
竜は来ていない。
だが、来れば全てが終わる。
その「来る前」に、食糧が尽きれば、同じことだ。
コトは少し離れた場所で、その会話を聞いていた。
聞いてはいけない気がして、自然と距離を取る。
一人での作業に戻った。
薄暗い区画。
風が抜けるたび、鎖が鳴る。
何かを落とした音がして、思わず身構える。
ただの木片だった。
自分の呼吸音が、やけに大きく聞こえる。
「これ、重いね」
背後から声がした。
振り向く前に、距離の近さで分かった。
ラニーダだ。
「……う、うん」
いつの間にいたのか、分からない。
気配が薄いわけではない。ただ、存在の仕方がずれている。
「落ちたら、死ぬよ」
ラニーダは淡々と言った。
焦点の合わない青い目が、コトを見ているようで、見ていない。
「死んだらどうする? 怖いよね」
長い髪が垂れ、顔はよく見えない。
不健康そうな青白い肌がチラつく。
コトは一歩、距離を取った。
ラニーダはその分だけ近づいた。
触れなくていい距離。
答えずとも、一人での意味不明な会話を並べていた。
「……」
何も言わなかった。
ラニーダは不気味な笑みを浮かべ、しばらくそこに立っていたが、やがて何事もなかったように去っていった。
残された空気が、重い。
竜の影は、どこにもない。
だが、軋み、怒鳴り声、距離の狂い――それらすべてが、同じ方向を向いている。
クウォーターは、少しずつ削れていた。
コトはまだ、それを異常だと思えている。
だが、その感覚がいつまで持つのか、自分でも分からなかった。
風が吹き、どこかで金属が鳴った。
0
この作品の感想を投稿する
あなたにおすすめの小説
わたしの下着 母の私をBBA~と呼ぶことのある息子がまさか...
MisakiNonagase
青春
39才の母・真知子は息子が私の下着を持ち出していることに気づいた。
ネットで同様の事象がないか調べると、案外多いようだ。
さて、真知子は息子を問い詰める? それとも気づかないふりを続けてあげるか?
借金まみれで高級娼館で働くことになった子爵令嬢、密かに好きだった幼馴染に買われる
しおの
恋愛
乙女ゲームの世界に転生した主人公。しかしゲームにはほぼ登場しないモブだった。
いつの間にか父がこさえた借金を返すため、高級娼館で働くことに……
しかしそこに現れたのは幼馴染で……?
敗戦国の姫は、敵国将軍に掠奪される
clayclay
恋愛
架空の国アルバ国は、ブリタニア国に侵略され、国は壊滅状態となる。
状況を打破するため、アルバ国王は娘のソフィアに、ブリタニア国使者への「接待」を命じたが……。
敵に貞操を奪われて癒しの力を失うはずだった聖女ですが、なぜか前より漲っています
藤谷 要
恋愛
サルサン国の聖女たちは、隣国に征服される際に自国の王の命で殺されそうになった。ところが、侵略軍将帥のマトルヘル侯爵に助けられた。それから聖女たちは侵略国に仕えるようになったが、一か月後に筆頭聖女だったルミネラは命の恩人の侯爵へ嫁ぐように国王から命じられる。
結婚披露宴では、陛下に側妃として嫁いだ旧サルサン国王女が出席していたが、彼女は侯爵に腕を絡めて「陛下の手がつかなかったら一年後に妻にしてほしい」と頼んでいた。しかも、侯爵はその手を振り払いもしない。
聖女は愛のない交わりで神の加護を失うとされているので、当然白い結婚だと思っていたが、初夜に侯爵のメイアスから体の関係を迫られる。彼は命の恩人だったので、ルミネラはそのまま彼を受け入れた。
侯爵がかつての恋人に似ていたとはいえ、侯爵と孤児だった彼は全く別人。愛のない交わりだったので、当然力を失うと思っていたが、なぜか以前よりも力が漲っていた。
※全11話 2万字程度の話です。
魔王を倒した勇者を迫害した人間様方の末路はなかなか悲惨なようです。
カモミール
ファンタジー
勇者ロキは長い冒険の末魔王を討伐する。
だが、人間の王エスカダルはそんな英雄であるロキをなぜか認めず、
ロキに身の覚えのない罪をなすりつけて投獄してしまう。
国民たちもその罪を信じ勇者を迫害した。
そして、処刑場される間際、勇者は驚きの発言をするのだった。
ドマゾネスの掟 ~ドMな褐色少女は僕に責められたがっている~
桂
ファンタジー
探検家の主人公は伝説の部族ドマゾネスを探すために密林の奥へ進むが道に迷ってしまう。
そんな彼をドマゾネスの少女カリナが発見してドマゾネスの村に連れていく。
そして、目覚めた彼はドマゾネスたちから歓迎され、子種を求められるのだった。
セクスカリバーをヌキました!
桂
ファンタジー
とある世界の森の奥地に真の勇者だけに抜けると言い伝えられている聖剣「セクスカリバー」が岩に刺さって存在していた。
国一番の剣士の少女ステラはセクスカリバーを抜くことに成功するが、セクスカリバーはステラの膣を鞘代わりにして収まってしまう。
ステラはセクスカリバーを抜けないまま武闘会に出場して……
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる