口付けたるは実らざる恋

柊 明日

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0章 オーヴァチュア

1話 出会い

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 僕、朝陽橙花あさひとうかが彼と出会ったのは、とある春。卒業式が終わって日も浅く、まだ桜も咲かぬ頃。見知らぬ土地に引っ越してきたばかりの僕の部屋には、まだ段ボールが積んである。しかし、手伝うと言った親の申し出を断った手前、何日も放置しておくわけにもいかなくて。
 音が立たぬよう細心の注意を払いながら、深夜まで荷解きやこの一人暮らしの身に余る無駄に広い部屋の掃除を行っていた。そんなときだった。

 隣の部屋から、壁越しにふと音が聞こえた。何の音かはわからない。ただそれは、なにか音楽を奏でようとしている楽器の音色であることは僕にもわかった。そういえば、入学が決まっている大学の近くにもう一つ、大きな音楽の大学があるんだっけと思いだす。きっとそこの学生なのだろう。
 るんるんと身体を横に揺らしたくなるような、そんな曲だった。
 しかし、それは何度も同じフレーズを演奏しては止まり、少し進んではまた戻って。戻ったときにはさっき演奏された音とはどこか違うもので。きっと、今まさに作曲段階なのだろう、と音楽のおの字も知らない僕が勝手に予想する。

 ふと、考える。この曲を演奏しているお隣さんは、どんな人なのだろうか。こんな夜中に楽器を演奏している人なのだから、少し変わった人であることは間違いない。でも、と僕は思う。
 きっといい人だ。

 こんなに明るい曲を奏でるのだからきっと元気で、明るくて。それはもう、僕と正反対な人なのだろう。
 とはいえ、だ。せっかくの一人暮らしなんだ。僕だって変わってみせる。お隣さんのように元気で明るく、大学生活を謳歌するようなキラキラ人になろう。
 僕はそう意気込んで、染めたてほやほやの真っ白な前髪を黒色のピンでパチンと止めて、再び荷解きを再開した。

 音楽なんてまともに聞いたことすらほとんどないけれど。いいや、正確にはそんな機会を与えられなかっただけだけれども。とにかく、僕はその生まれて初めて娯楽として耳を傾けることのできる音楽に鼓舞されて、夢中になって作業を進めていった。
 気が付いたときにはもう時計の短い針は天井をも超えていて、音楽ってすごいと。そう気づいたのが、僕が都会に出てきて初めての学び。



小春こはるも、音楽なんて聞いたことなかったよね。どう?」

 僕の問いかけに、小春は大きくあくびをしながらそっぽを向いた。でも。そんな気ままさがまたたまらなく愛おしい。
 移ったあくびをかみ殺しながら頭を撫でると、彼女はにゃー、と満更でもなさそうにそのまだ小さな頭を僕の手へと摺り寄せるのだった。



 これが、僕が引っ越してきてわずかな頃のお話。



 そして。
 こうして僕が新たな世界に瞳を輝かせていたのも、初めの内だけだたった。



 初めてのコンビニ弁当は、嬉しかった。お肉とお米しか入っていないお弁当は何より背徳感が凄まじくて、ワクワクした。でも。やっぱり、毎日食べているとお母さんのご飯の方が美味しかったことに気づいてしまった。
 夜中に一人で行ったゲームセンターは思っていたよりも人が多くて。更に大きな音も相まって、僕は入店してすぐに踵を返した。帰り道にはまだお酒の飲める歳でない僕を誘う居酒屋のキャッチも怖くて、もう夜に外には行かないでおこうと決めたのもあの日だった。
 数日かけて一人で片づけたお部屋は、人生で初めて与えられたプライベートな空間と言っても過言ではないものだった。でも。そんな新鮮なはずの環境でも、結局散々やりたかったことをやってみてたどり着いた生活は、以前のものと変わらなかった。

 毎日机に向かって、もう表紙すらもとっぱらってしまった分厚い参考書との睨めっこ。これも、もう三周目だ。やっと自由に遊べると思ったのに、気が付くと親といる時より参考書に向かう時間が増えたのは皮肉なものだ。

 こうして結局元の生活に落ち着いた僕は、長時間机に向かう日々を淡々と過ごすのだった。そうしているうちに気が付けば僕の唯一の娯楽、僕の自由の象徴であったはずの音楽が聞こえる時間すら減っていって。入学式が間近に迫る頃にはもう、楽器がなることすらなくなっていった。まだ、完成した様子もなかったというのに。



「うあぁあああ!」

 思わず大きく声を上げ、手にしたペンを放り出して強く頭を掻きむしる。せっかく染めたこの髪も、まともに目を向けてくれたのは精々小春と最寄りコンビニの店員さんだけだ。もっとも、両者とも物珍しいものに目がいっただけだろうが。

 これじゃあなにも変われない。なにか、しなくては。

 にゃー、と。膝で寝ていた小春は声をあげる。そして、気でも狂ったかのような飼い主を哀れむように一度頭を摺り寄せた後、ひょいと床へ飛び降り部屋を出た。
 でも。最愛の小春に蔑まれようとも、僕はめげない。変わるんだ。



 そう。今思い出せばぞっとする。僕はあの時、完全に狂っていた。若気の至りとでも呼べばいいのだろうか。
 僕はふかふかの立派な椅子から立ち上がり、そしてその足で家を出た。
 向かった先は、想像に容易いだろう。僕の自由が象徴される場所。そこだ。



 『望月もちづき』と。扉にはそう可愛いフォントでアヒルのイラストと共に表札が掲げられていた。
ひと時の迷いもなくチャイムを押し込むと、彼はすぐに扉を開けた。



 扉の向こうでは、僕の想像とは正反対な男が訝し気に僕を見上げていた。どうやらこの人が僕のあこがれの、あの音楽の創造主、望月さん、らしい。

 決して一般的には小柄ではない人だった。しかし、僕から見るとどうしても華奢に見えるというのが第一印象だった。
 玄関に散らばる踵の踏まれた靴の様子やボロボロのサンダルを踏んづけてドアノブを握るさまからは、彼の性格が垣間見えた気がする。



 そんな望月さんは、僕を見ても怯むこともなくしばらく見つめた後ゆっくりと瞬いて、扉を開けた姿勢のまま首を右に傾ける。ふわりと、少し癖のある耳元まで伸びた真っ黒な髪が風に揺れた。



 綺麗だ、と。そう思った。

 ヨレたTシャツの、明らかに彼の腕よりも長い袖から覗く細くて不健康なまでに真っ白な指からは、とても毎日聞こえてきていた音楽のような陽気さは感じられない。
 パタパタと長い睫毛が動く奥で僕を見据える真っ黒な瞳には、僕の瞳以上に生気が宿っていないように見えた。
 なるほど、と思う。気づけば僕は、肩の力を抜いていた。
 彼は案外、“こっち側”の人間だ。

 彼が首を傾げながら僕に送る気だるげな視線は多分、何の用かと、そう聞いているのだと思う。それは分かっているけれど、勢いで会いに来たに過ぎない僕には初対面の人相手にこの状況で、怪しまれない回答を用意できるほどのコミュニケーション能力は備わっていない。唯一の取柄である頭をフル回転させるが、痺れを切らした彼は僕より先に口を開いた。



「お前、誰?」

 儚げな見た目に反して、低い声だった。でも。そのゆっくりとしていて低い声は、どうにも耳心地がいい。
 なんとなく、思う。この人のこと、好きだ。

「早く、あの曲完成させてください。毎晩弾いてたやつ」

 気が付けば、自然と口から零れていた。
 僕のおかしな主張を聞いて、彼はただゆっくりと瞬いた。そして。
 たっぷりと沈黙した後、彼の口が開く。



「やめたよ、音楽は。俺には向いてない」





 喜怒哀楽、そのどれもが感じられない無の表情だった。
 あんなに毎日たくさんギターを弾いていたんだ。思い入れがないはずもなかった。もう、彼が何を考えているかなんて僕にはこれっぽっちも理解できなかった。

 こんな最悪な空気感こそが、僕たちの出会い。そして僕の初恋の始まりだった。
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