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2章 初恋のおわり
26話
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目を開けずともわかる程にまだ日の上らぬ時間。背後からは相変わらずな寝息が響いている。そんななか、僕は外から聞こえた楽し気な声とガサガサというなにやら大きな物音に起こされた。地面の硬さ故だろか。満足に寝足りない感覚によりこのまま二度寝してしまいたい気持ちを抑え、眠たい目を擦りながら寝袋から這い出る。
暗い枕元に手をついたとき、ふと何か柔らかいものが当たった。それは、寝るときはひなたの腕の中にいたはずのクマのぬいぐるみだった。彼の寝相の悪さ故に、いつの間にか僕の方まで飛んできてしまったであろう。僕はそれを彼の腕の中へ戻してから、テントの出口へと向かった。
そこにあるチャックを開けると、外からは夏場とは思えない冷気が僕を襲う。
寝起きの少し高めだった体温が、一気に芯から冷やされていく気がする。眠気が冷めるどころかあまりの寒さに身の危険を感じた時、暗闇で音をたてていたうちの一人がこちらに気づいて、手にしていたものを放り出して駆け寄ってきた。
「おはよー楓。山の朝は寒いよ、これ着て」
詩音くんは起床した僕を見て少し嬉しそうにそう微笑みかけると、自分の厚手のアウターを脱いで、有無を言わさずに僕の肩へそれをかける。彼が温めておいてくれたためだろう。やけに暖かいそれに、思わず強張っていた体の力が抜ける。
とはいえ。詩音くんが寒いかもしれない。一瞬そう考えてそれを拒みかけた。しかし、そのまま袖を捲り手の甲で額の汗を拭う彼を見て、僕は彼の貸してくれたアウターに腕を通した。
「楓、もうすぐ日が昇るよ」
詩音くんはそう言って暖かい、そして少し汗ばんだ手で僕の手を優しく握り、外の世界へと引っ張った。慌てて靴を履く僕を、彼はニヤニヤしながらじっと見つめていた。
「なしたん」
「なんにもっ」
理由は教えてくれないがなにやら上機嫌な彼に見守られながら靴ひもを結び終わる。彼はそれを見計らい、思い切り僕を引き上げた。なにがなんだか分からないままその場に立ちあがらされる。そして次の瞬間、決して小さくはないはずの体が一瞬にして宙に浮いた。なんだなんだと混乱する僕を他所に、詩音くんは僕を横向きに抱き上げたまま楽しそうにハハと笑って、くるりとその場で一回転をした。
「うわっ! なんやねん……!」
万が一にでも彼に吹き飛ばされないように、慌てて彼の体へしがみつく。
「っふふ、目、覚めた?」
彼は朝から愉快そうに笑った後、一切の重さを感じさせぬさわやかな表情で少し歩いて僕を少し離れた場所の椅子へ降ろした。
「そこであっち見てな? 綺麗だから」
そして彼は椅子に座った僕と同じ目線までしゃがみこんでそう空を指さした後、僕の頭をぽんぽんと二度撫でてから元気に昨日使ったキッチンテーブルの方へと駆けて行った。
「一茶~、ただいまぁ。今楓起きてきたよ~」
「あぁ、知ってる。聞こえてた」
「寝ぐせついてたんだよ。珍しくない!?」
「……詩音くん、テンション高くね?」
珍しくあの一茶よりも大きな声で騒ぎながらテーブルを片づける詩音くんと、キッチンで何やら作業をする一茶。彼らの話を聞いて自分の頭へ触れてみると、確かに後頭部のすこし跳ねた毛が手に当たる。僕はアウターのフードを被り寝癖を隠してから、ふぅと息をついてから腰を上げ、彼らの元へと向かった。
そこには、バターや焼き魚などの美味しそうな香りが広がっていた。
「俺、何手伝えばええ?」
楽しそうにお話をする彼らの会話を遮らないように、手前で釣り道具などの片づけをしていた詩音くんのそばへ行って小さく声をかける。しかし、彼は僕の意思とは反して目を丸くして顔を上げ、わざわざ大きな声で反応した。
「え、びっくりした。なんでいるの。見てて、って言ったのに」
「詩音くんたちがなんかやっとるのに僕だけ朝日見とるわけにもいかんやろ」
不満そうな詩音くんの反対をよそに、とりあえず目の前に置いてあったひなたのクーラーボックスを拾い上げる。どうやら中身は乾いているようだ。僕がそれを閉じようとしたとき、僕の背後からひょっこりと一茶が顔を出した。
「楓、お前はのんびりしてていいから」彼は僕の背中をぽんと叩いた。
「でも、そもそもこれ一茶の誕生日祝いやん。一茶がのんびりするべきなんちゃう?」
「いいの。俺ら朝日とか見たことあるから」
そうして再び詩音くんに椅子へと手を引かれて、無理に座らされる。どうやら、僕に手伝わせるつもりは毛頭ないらしい。なぜそんなに気を遣われるのかはわからないが、こうなると何を言おうが追い返されるだけだろう。
朝日を見たことがない僕は、彼らを手伝うのを拒まれてただぼーっと少し白み始めた空を眺めるのだった。
しばらくすると徐々に白んできた空は、山の澄んだ空気も相まって確かに彼らの言う通り美しい。背後ではサラサラと葉が擦れて音を奏でている。起床しだした鳥の鳴き声や遠くを流れる小川の水音は、なんとも言えない安らかな気持ちにさせてくれるけれど、それよりなにより後ろで楽しそうに作業をする詩音くんと一茶の声が羨ましかった。
このままここで眠ってしまうのも決して悪くはないけれど、そうするにはあまりに彼らと一緒に片付けや料理を楽しめないのが心残りで。僕はただそのとんでもなく綺麗な光景を、とんでもなく淀んだ気持ちで眺めていた。
と、その時。急に、フードで制限されていた視界が開けた。
「楓」
ヤツの声と共に、赤茶の髪の毛が頭上から垂れてくる。そして次の瞬間、上下逆さの真ん丸な瞳が僕の顔を覗き込んだ。
「おはよ、朝日見てんの?」
彼は寝起きのくせにやけにさわやかに目を細める。僕は朝からやかましい彼の額へ強く指をはじいて、頭頂を上へ押し返した。鈍い音と共に、彼の「うわぁ」との悲鳴が聞こえる。とはいえ、僕の知ったことではない。また黙って朝日へ視線を戻すと、彼は大人しく僕の元を離れて一茶の元へ逃げて行った、ように思えた。
しかし、彼はまたすぐに戻ってきたかと思えば、隣に椅子を置いてそこへ腰を掛けた。
「なんやねんひなた」と彼を見る。
「なんか機嫌悪い?」とひなたはクスリとした。
普段はあまり負の感情は表に出さないようには努力している。しかし、今だけ、そしてどうせすぐに忘れるコイツ相手になら、構わないかと思えた。左足を右足の上に組んで、右のひじ掛けで頬杖をつく。ひなたは、それを真似するように左のひじ掛けで両手で頬杖をついて、まるで何か面白いおもちゃでも見つけたかのように目を輝かせた。
「なぁに、何かあったの」
まるで面白がるように彼が言った。
「詩音くんと一茶に邪魔者扱いされた」
僕が言うと、彼は目を丸めた後、優しく目を細めた。
「それはひどいね」
「せやろ?」
「うん、ひどい」
彼はただ、そう嬉しそうに繰り返すだけだった。
どうせこいつだって、本当は一茶の味方なくせに。僕はこうしてせっかく話を聞いてくれるひなたにすら腹が立って、ついそっぽを向いて悪態をつく。
「どうせ、俺の勘違いやとでも思っとるやろ」
しかし、ただ単純なだけのガキはふるふると首を横に振って身を乗り出した。
「思ってないよ。楓がそう言うなら、きっとそうだよ」
なるほど、と思う。こいつは相手が大切な恋人だろうがただの友達だろうが、言われたら信じるタイプの阿呆なのだろう。僕ははぁとため息をついて彼の肩を軽くたたく。
「嘘嘘。そんなことするわけないやん」
どうせ、僕の考えすぎなのだろう。ただ僕を休ませたかっただけで、悪意なんてこれっぽっちもないのはわかっている。でも。
「そう? それならよかった」
ひなたが嬉しそうに満面の笑みでそう返すと、やっぱり少しモヤモヤするのだから僕は捻くれたやつだ。僕は再び大きくため息をついて、美しい日の出を眺めるのだった。
「あー、さむっ」
ひなたはろくにそれを見ることもなくそう笑ってひざ掛けを探したり、指のさかむけと戦ったり。そうしているうちに日の出はあっという間に終わってしまい、彼は満足そうに美味しそうな香りの漂う一茶と詩音くんの元へと駆けて行った。
そうして少し冷えた空気の中暖かいトーストやシャウエッセンを食べて、気づいたら全て片付け終わってたテントなどの道具類を車に押し込んで。気づくと初めてのキャンプは終わっていた。
「詩音くん後ろで寝ててええよ、帰りは僕運転するわ」
「え、いいって」
「あかんて、詩音くん眠いやろ」
運転席に乗り込もうとする詩音くんを阻止して後部座席へ追いやり、自分で運転席へ乗り込む。助手席では既に、大きなクマのぬいぐるみを抱えたひなたがシートベルトを着けていた。
「ひなたお前それ邪魔やろ、後ろ置いてきぃ?」
「うわ、最低。俺とこいつには絆があるんだから。邪魔とか言うな」
「子供か」
頑なにクマを離さない彼にしびれを切らして、そのまま運転の準備に入る。座席をずらしてアクセルやブレーキの位置を確認していると、視界の端でひなたがすねたように口を尖らせているのが見えた。
「楓だってクマのぬいぐるみ大事にしてんじゃん」
「あれは詩音くんからもらったからやって。それに、さすがに持ち歩かんし」
「あっそー」
彼はふいとそっぽを向いて車窓へ顔を向ける。どうせ、外の風景になんて興味ないくせに。僕はそんな彼の機嫌をとることもなく、シートベルトをはめてアクセルを踏み込んだ。
しばらく運転していると、騒がしかった後部座席が沈黙する。一茶と詩音くんは朝から片付け作業もしてくれていて、疲れていたのだろう。バックミラー越しに彼らを確認すると、二人は寄り添い合って眠っていた。
「ほんまにちゃんと仲直りしたんやね」
僕は、何気なくぽつりと呟く。安心やら寂しさやら、言い表せない感情がそこにはあった。
「詩音くん楽しそうだったね」
ひなたはふっと笑ってクマを撫でながらそう言った。
僕も、本当にそう思う。なんなら今回の主催であり主役である一茶よりも、彼の方が楽しそうにはしゃいでいた。僕が軽く頷くと、彼はクマから僕へと視線を移してその目を細めた。
「楓と一緒に行けて、よっぽど嬉しかったんだね」
その微笑みはやけに大人びて見えて、少しだけ怖く思う。ガキだガキだと思っていたこいつの瞳には、一体何が見えているのだろうか。
「ごめんね、僕のせいで」
僕が怖気づいている間に、彼は続けてそう言った。何が、とは聞けなかった。ただ黙っている僕を、彼は不思議にも思わずに、いや、敢えて無視をしたのかもしれないけれど。とにかく、そんな僕を気にかけることなく言葉を続けた。
「でもよかった、上手くいってるみたいで」
ひなたは、今度こそ僕の知っている、無邪気な笑顔を浮かべた。
「……そうでもないで」
そんな彼に油断して、少しの間の後にハッと笑って無駄な言葉を返してしまう。
彼は、僕を見つめてこてんと首を傾けた。
こんなこと、こいつに言うつもりはなかった。でも、ずっと彼が黙ってこちらを見つめるものだから。僕はつい、ため込んでいた気持ちを零してしまった。
「詩音くん、お前のこと好きな時は無理に押し倒したりして欲爆発してたくせに、俺には全然やねん」
僕は、ハハッと自嘲気味に笑って言った。笑ってくれと思った。
きっと、こいつのことだ。そんなことか。下ネタか。と、そう笑うと思った。そして、大丈夫だと。詩音くんはただ、僕のことを気にして我慢してくれているだけだと。そんなつまらない、けれど縋りたくなるような慰めの言葉をかけてくれると思った。
とっくに直した寝ぐせや、しっかり固めた前髪を片手で弄る。
ひなたは、まんまるの目を更にまあるく見開いてたっぷり沈黙したあと、その柔らかそうな赤茶の髪の毛をふわりと揺らしてふっと息を漏らした。
「そっか、それは寂しいよね」
僕の方を向いていたひなたは、そう言って正面へ向き直る。クマを撫でる手は止まり、その手はクマの手を強く握っていた。彼は一体今、何を想うのだろう。
「ありがとう、楓」
しかし彼はそう言ったきり、後部座席の二人が起きて騒ぎ出すまでの間、再び口を開くことはなかった。それは少し寂しかった。でも、同時にありがたくもあった。これ以上彼と話していたら、きっと僕は泣いてしまっていたから。
暗い枕元に手をついたとき、ふと何か柔らかいものが当たった。それは、寝るときはひなたの腕の中にいたはずのクマのぬいぐるみだった。彼の寝相の悪さ故に、いつの間にか僕の方まで飛んできてしまったであろう。僕はそれを彼の腕の中へ戻してから、テントの出口へと向かった。
そこにあるチャックを開けると、外からは夏場とは思えない冷気が僕を襲う。
寝起きの少し高めだった体温が、一気に芯から冷やされていく気がする。眠気が冷めるどころかあまりの寒さに身の危険を感じた時、暗闇で音をたてていたうちの一人がこちらに気づいて、手にしていたものを放り出して駆け寄ってきた。
「おはよー楓。山の朝は寒いよ、これ着て」
詩音くんは起床した僕を見て少し嬉しそうにそう微笑みかけると、自分の厚手のアウターを脱いで、有無を言わさずに僕の肩へそれをかける。彼が温めておいてくれたためだろう。やけに暖かいそれに、思わず強張っていた体の力が抜ける。
とはいえ。詩音くんが寒いかもしれない。一瞬そう考えてそれを拒みかけた。しかし、そのまま袖を捲り手の甲で額の汗を拭う彼を見て、僕は彼の貸してくれたアウターに腕を通した。
「楓、もうすぐ日が昇るよ」
詩音くんはそう言って暖かい、そして少し汗ばんだ手で僕の手を優しく握り、外の世界へと引っ張った。慌てて靴を履く僕を、彼はニヤニヤしながらじっと見つめていた。
「なしたん」
「なんにもっ」
理由は教えてくれないがなにやら上機嫌な彼に見守られながら靴ひもを結び終わる。彼はそれを見計らい、思い切り僕を引き上げた。なにがなんだか分からないままその場に立ちあがらされる。そして次の瞬間、決して小さくはないはずの体が一瞬にして宙に浮いた。なんだなんだと混乱する僕を他所に、詩音くんは僕を横向きに抱き上げたまま楽しそうにハハと笑って、くるりとその場で一回転をした。
「うわっ! なんやねん……!」
万が一にでも彼に吹き飛ばされないように、慌てて彼の体へしがみつく。
「っふふ、目、覚めた?」
彼は朝から愉快そうに笑った後、一切の重さを感じさせぬさわやかな表情で少し歩いて僕を少し離れた場所の椅子へ降ろした。
「そこであっち見てな? 綺麗だから」
そして彼は椅子に座った僕と同じ目線までしゃがみこんでそう空を指さした後、僕の頭をぽんぽんと二度撫でてから元気に昨日使ったキッチンテーブルの方へと駆けて行った。
「一茶~、ただいまぁ。今楓起きてきたよ~」
「あぁ、知ってる。聞こえてた」
「寝ぐせついてたんだよ。珍しくない!?」
「……詩音くん、テンション高くね?」
珍しくあの一茶よりも大きな声で騒ぎながらテーブルを片づける詩音くんと、キッチンで何やら作業をする一茶。彼らの話を聞いて自分の頭へ触れてみると、確かに後頭部のすこし跳ねた毛が手に当たる。僕はアウターのフードを被り寝癖を隠してから、ふぅと息をついてから腰を上げ、彼らの元へと向かった。
そこには、バターや焼き魚などの美味しそうな香りが広がっていた。
「俺、何手伝えばええ?」
楽しそうにお話をする彼らの会話を遮らないように、手前で釣り道具などの片づけをしていた詩音くんのそばへ行って小さく声をかける。しかし、彼は僕の意思とは反して目を丸くして顔を上げ、わざわざ大きな声で反応した。
「え、びっくりした。なんでいるの。見てて、って言ったのに」
「詩音くんたちがなんかやっとるのに僕だけ朝日見とるわけにもいかんやろ」
不満そうな詩音くんの反対をよそに、とりあえず目の前に置いてあったひなたのクーラーボックスを拾い上げる。どうやら中身は乾いているようだ。僕がそれを閉じようとしたとき、僕の背後からひょっこりと一茶が顔を出した。
「楓、お前はのんびりしてていいから」彼は僕の背中をぽんと叩いた。
「でも、そもそもこれ一茶の誕生日祝いやん。一茶がのんびりするべきなんちゃう?」
「いいの。俺ら朝日とか見たことあるから」
そうして再び詩音くんに椅子へと手を引かれて、無理に座らされる。どうやら、僕に手伝わせるつもりは毛頭ないらしい。なぜそんなに気を遣われるのかはわからないが、こうなると何を言おうが追い返されるだけだろう。
朝日を見たことがない僕は、彼らを手伝うのを拒まれてただぼーっと少し白み始めた空を眺めるのだった。
しばらくすると徐々に白んできた空は、山の澄んだ空気も相まって確かに彼らの言う通り美しい。背後ではサラサラと葉が擦れて音を奏でている。起床しだした鳥の鳴き声や遠くを流れる小川の水音は、なんとも言えない安らかな気持ちにさせてくれるけれど、それよりなにより後ろで楽しそうに作業をする詩音くんと一茶の声が羨ましかった。
このままここで眠ってしまうのも決して悪くはないけれど、そうするにはあまりに彼らと一緒に片付けや料理を楽しめないのが心残りで。僕はただそのとんでもなく綺麗な光景を、とんでもなく淀んだ気持ちで眺めていた。
と、その時。急に、フードで制限されていた視界が開けた。
「楓」
ヤツの声と共に、赤茶の髪の毛が頭上から垂れてくる。そして次の瞬間、上下逆さの真ん丸な瞳が僕の顔を覗き込んだ。
「おはよ、朝日見てんの?」
彼は寝起きのくせにやけにさわやかに目を細める。僕は朝からやかましい彼の額へ強く指をはじいて、頭頂を上へ押し返した。鈍い音と共に、彼の「うわぁ」との悲鳴が聞こえる。とはいえ、僕の知ったことではない。また黙って朝日へ視線を戻すと、彼は大人しく僕の元を離れて一茶の元へ逃げて行った、ように思えた。
しかし、彼はまたすぐに戻ってきたかと思えば、隣に椅子を置いてそこへ腰を掛けた。
「なんやねんひなた」と彼を見る。
「なんか機嫌悪い?」とひなたはクスリとした。
普段はあまり負の感情は表に出さないようには努力している。しかし、今だけ、そしてどうせすぐに忘れるコイツ相手になら、構わないかと思えた。左足を右足の上に組んで、右のひじ掛けで頬杖をつく。ひなたは、それを真似するように左のひじ掛けで両手で頬杖をついて、まるで何か面白いおもちゃでも見つけたかのように目を輝かせた。
「なぁに、何かあったの」
まるで面白がるように彼が言った。
「詩音くんと一茶に邪魔者扱いされた」
僕が言うと、彼は目を丸めた後、優しく目を細めた。
「それはひどいね」
「せやろ?」
「うん、ひどい」
彼はただ、そう嬉しそうに繰り返すだけだった。
どうせこいつだって、本当は一茶の味方なくせに。僕はこうしてせっかく話を聞いてくれるひなたにすら腹が立って、ついそっぽを向いて悪態をつく。
「どうせ、俺の勘違いやとでも思っとるやろ」
しかし、ただ単純なだけのガキはふるふると首を横に振って身を乗り出した。
「思ってないよ。楓がそう言うなら、きっとそうだよ」
なるほど、と思う。こいつは相手が大切な恋人だろうがただの友達だろうが、言われたら信じるタイプの阿呆なのだろう。僕ははぁとため息をついて彼の肩を軽くたたく。
「嘘嘘。そんなことするわけないやん」
どうせ、僕の考えすぎなのだろう。ただ僕を休ませたかっただけで、悪意なんてこれっぽっちもないのはわかっている。でも。
「そう? それならよかった」
ひなたが嬉しそうに満面の笑みでそう返すと、やっぱり少しモヤモヤするのだから僕は捻くれたやつだ。僕は再び大きくため息をついて、美しい日の出を眺めるのだった。
「あー、さむっ」
ひなたはろくにそれを見ることもなくそう笑ってひざ掛けを探したり、指のさかむけと戦ったり。そうしているうちに日の出はあっという間に終わってしまい、彼は満足そうに美味しそうな香りの漂う一茶と詩音くんの元へと駆けて行った。
そうして少し冷えた空気の中暖かいトーストやシャウエッセンを食べて、気づいたら全て片付け終わってたテントなどの道具類を車に押し込んで。気づくと初めてのキャンプは終わっていた。
「詩音くん後ろで寝ててええよ、帰りは僕運転するわ」
「え、いいって」
「あかんて、詩音くん眠いやろ」
運転席に乗り込もうとする詩音くんを阻止して後部座席へ追いやり、自分で運転席へ乗り込む。助手席では既に、大きなクマのぬいぐるみを抱えたひなたがシートベルトを着けていた。
「ひなたお前それ邪魔やろ、後ろ置いてきぃ?」
「うわ、最低。俺とこいつには絆があるんだから。邪魔とか言うな」
「子供か」
頑なにクマを離さない彼にしびれを切らして、そのまま運転の準備に入る。座席をずらしてアクセルやブレーキの位置を確認していると、視界の端でひなたがすねたように口を尖らせているのが見えた。
「楓だってクマのぬいぐるみ大事にしてんじゃん」
「あれは詩音くんからもらったからやって。それに、さすがに持ち歩かんし」
「あっそー」
彼はふいとそっぽを向いて車窓へ顔を向ける。どうせ、外の風景になんて興味ないくせに。僕はそんな彼の機嫌をとることもなく、シートベルトをはめてアクセルを踏み込んだ。
しばらく運転していると、騒がしかった後部座席が沈黙する。一茶と詩音くんは朝から片付け作業もしてくれていて、疲れていたのだろう。バックミラー越しに彼らを確認すると、二人は寄り添い合って眠っていた。
「ほんまにちゃんと仲直りしたんやね」
僕は、何気なくぽつりと呟く。安心やら寂しさやら、言い表せない感情がそこにはあった。
「詩音くん楽しそうだったね」
ひなたはふっと笑ってクマを撫でながらそう言った。
僕も、本当にそう思う。なんなら今回の主催であり主役である一茶よりも、彼の方が楽しそうにはしゃいでいた。僕が軽く頷くと、彼はクマから僕へと視線を移してその目を細めた。
「楓と一緒に行けて、よっぽど嬉しかったんだね」
その微笑みはやけに大人びて見えて、少しだけ怖く思う。ガキだガキだと思っていたこいつの瞳には、一体何が見えているのだろうか。
「ごめんね、僕のせいで」
僕が怖気づいている間に、彼は続けてそう言った。何が、とは聞けなかった。ただ黙っている僕を、彼は不思議にも思わずに、いや、敢えて無視をしたのかもしれないけれど。とにかく、そんな僕を気にかけることなく言葉を続けた。
「でもよかった、上手くいってるみたいで」
ひなたは、今度こそ僕の知っている、無邪気な笑顔を浮かべた。
「……そうでもないで」
そんな彼に油断して、少しの間の後にハッと笑って無駄な言葉を返してしまう。
彼は、僕を見つめてこてんと首を傾けた。
こんなこと、こいつに言うつもりはなかった。でも、ずっと彼が黙ってこちらを見つめるものだから。僕はつい、ため込んでいた気持ちを零してしまった。
「詩音くん、お前のこと好きな時は無理に押し倒したりして欲爆発してたくせに、俺には全然やねん」
僕は、ハハッと自嘲気味に笑って言った。笑ってくれと思った。
きっと、こいつのことだ。そんなことか。下ネタか。と、そう笑うと思った。そして、大丈夫だと。詩音くんはただ、僕のことを気にして我慢してくれているだけだと。そんなつまらない、けれど縋りたくなるような慰めの言葉をかけてくれると思った。
とっくに直した寝ぐせや、しっかり固めた前髪を片手で弄る。
ひなたは、まんまるの目を更にまあるく見開いてたっぷり沈黙したあと、その柔らかそうな赤茶の髪の毛をふわりと揺らしてふっと息を漏らした。
「そっか、それは寂しいよね」
僕の方を向いていたひなたは、そう言って正面へ向き直る。クマを撫でる手は止まり、その手はクマの手を強く握っていた。彼は一体今、何を想うのだろう。
「ありがとう、楓」
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