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第3章 寡黙な公爵と託宣の涙

第8話 風吹くとき

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【前回のあらすじ】
 王都の街から行方知れずとなっていた少女ルチア。イグナーツの導きにより、ルチアは母アニサと共に、ダーミッシュ領で過ごすことに。そのアニサも病で帰らぬ人となり、ひとり残されたルチアは、学校へと通う日々を送っていました。
 そこで再会を果たしたカイとルチア。ルチアの腕に龍のあざを確認したカイは、その託宣が、異形の者に命を奪われるというものだと知るのでした。




「申し訳ございません、リーゼロッテ様……」
 馬車の扉が開かれると、強い春風が吹き込んだ。口元にハンカチを当て、よろめきながらエマニュエルが馬車を降りる。

 ここはダーミッシュ領を出て、一時間ほど馬を走らせた道端だ。ほっとした様子でエマニュエルは、何度か深い呼吸を繰り返した。

「エマ様、わたくしこそ申し訳ありません」
「いいえ、これはわたしの不徳のいたすところ。リーゼロッテ様のせいではございません」
「ですが……」

 窓越しにエマニュエルを見やる。幾分かはよくなってはいるが、その顔はまだ青ざめたままだ。ジークヴァルトの守り石を携帯していたものの、エマニュエルはリーゼロッテの力にあてられて気分が悪くなってしまった。いわく、緑の力が強くなりすぎてのことらしい。

「わたしは辻馬車でも拾って公爵家へ戻ります。リーゼロッテ様はこのまま先にお帰りになってください」
「え? でもそれは危ないですわ」
「わたしは元使用人ですので、辻馬車には慣れております。何も心配ありません」

 安心させるように微笑んでくる。だが、エマニュエルは今では立派な子爵夫人だ。上質なドレスをまとったまま辻馬車に乗っては、よからぬやからに襲われる危険もあった。

「でしたらヨハン様もエマニュエル様と一緒に」
「いけません。わたしだけでなく、ヨハン様までリーゼロッテ様のおそばを離れるなど、旦那様に申し訳が立ちませんわ」
「ですが、辻馬車を拾うにしても、ここでは難しいのでは」

 それでもエマニュエルは頑なに引こうとしなかった。しかし、こんな何もない道端に、エマニュエルだけ残していけるはずもない。

『ねえ、リーゼロッテ。困ってるならヴァルト呼んじゃう?』
「え?」

 見上げると、馬車の天井からジークハルトが、顔だけ出して覗き込んでいる。頭が逆さになっているところを見ると、逆立ちしたまま顔を突っ込んでいるようだ。

『最近のリーゼロッテは、そばにいると息苦しくってさ。オレもこの中はちょっと耐えがたいし、もう面倒だからヴァルト呼ぼうよ』
「ヴァルト様を? どうやって?」
 ぽかんとして問うと、ジークハルトはにっこりと笑った。

『少し疲れるけど、この距離なら引っ張ってこれると思うから』

 天井からにゅっと手が出てくる。その手がちょいちょいと手招きをするので、リーゼロッテは立ち上がってジークハルトに近づいた。

『リーゼロッテ、もっと顔近づけて。そうそう、もっともっと』

 言われるがまま顔を寄せていく。見上げるようにすると、ジークハルトもさらに顔を近づけてきた。

 鼻先をくっつけんばかりになったとき、いきなり床が沈んで傾いた。誰かが乗り込んできたかのような振動に、リーゼロッテは驚きに振り返ろうとした。

「お前、ふざけるのも大概にしろ」
「ジークヴァルト様!?」

 腹に腕が巻き付けられ、リーゼロッテは後ろに引き寄せられる。ぎゅっと抱え込んだまま、ジークヴァルトは己の守護者を睨みつけた。

『じゃあ、オレはもうお役御免ってことで』
 ジークハルトはひらひらと手を振って、天井からするりと出ていってしまった。

 その時、一滴の水がリーゼロッテの首筋に落ちてきた。「ひゃっ」と声を上げると、ジークヴァルトが抱えていた体をぐいと遠くに押しのける。

「お前はここにいろ」

 リーゼロッテの首元に流れて落ちた雫を指で拭い取ると、ジークヴァルトは不機嫌そうに顔をしかめて馬車を降りていった。よく見ると髪が濡れている。ほのかに石鹸の香りがしたので、湯でも浴びたところだったのかもしれない。
(ハルト様が勝手に呼んだにしても、わたしのせいでまた迷惑を……)

 どうしてこうなってしまうのだろう。リーゼロッテが小さくため息を落とすと、ジークヴァルトはすぐに戻ってきた。ほどなくして馬車が走り出す。

「あの、エマニュエル様は……?」
「ヨハンと共に近くの街に向かった。そこで馬車を手配するよう言ってある」

 ほっと息をつくも、エマニュエルには申し訳ないことをしてしまった。強風が窓をがたがたと揺らす。車輪が回る音だけが響く馬車の中、リーゼロッテはようやく違和感に気がついた。

「あの、ヴァルト様……お膝に乗らなくてもよろしいのですか?」
「今日はいい。濡れるから近づくな」

 そっけなく言ってジークヴァルトは窓の外に視線をやった。そのまま沈黙が訪れる。

 ふたりで馬車に乗るとき、ジークヴァルトは大抵書類に目を通している。リーゼロッテも邪魔しないようにと、いつも黙って座っているのだが、今日はお互いに手持ち無沙汰だ。
(ヴァルト様とは、いつもどんな会話をしてたっけ)

 基本、ジークヴァルトから話しかけてくることはない。リーゼロッテが何かを問いかけたときと、必要事項を伝えるときのみ、その口を開くだけだ。

(わたし、ジークヴァルト様の事、何も知らないんだわ)

 ジークヴァルトは猫舌で、酸っぱいものが苦手で、乗馬がうまくて、何かを誤魔化す時にはすぐに顔をそらす。リーゼロッテが知っているのは、そんな表面的なことばかりだ。

『公爵様のすべてを分かった気でいるのかしら? なんておこがましい女なの』

 茶会でイザベラに言われたことを思い出した。本当に自分は、分かった気でいただけなのかもしれない。会話をするなら今しかない。誰もいないふたりきりのこの場なら、自分の本音も伝えられるはずだ。

「ヴァルト様、わたくしご迷惑でしたら、ダーミッシュのお屋敷でおとなしくしておりますわ」

 屋敷の部屋からほとんど出ることなく、今までもずっと過ごしてきたのだ。その頃にジークヴァルトに負担をかけることは何もなかった。今は、それがいちばんいい方法なのだと思えてくる。

「お手紙も毎日書きますから」
「いや、駄目だ、お前はオレのそばにいろ」

 ぎゅっと眉根を寄せる。こういう時、ジークヴァルトは自分の意見を絶対に曲げない。だが、ここで自分が引いては元の木阿弥もくあみだ。
(少しはルカを見習わなくちゃ)

 ツェツィーリアがへそを曲げたとき、ルカはその思いを受け止めようと、根気よく対話を続けていた。それに、ツェツィーリアのためにいろんな情報を仕入れ、知ろうとする努力を今でも怠らないでいる。それこそ、ツェツィーリアを取り巻くすべてのことを、理解しようとしている勢いだ。

「でしたら、わたくしができることは何かございませんか? ヴァルト様にばかりに負担を強いているようで、わたくし……」
「いい。お前に落ち度はない。ダーミッシュ嬢はそのままでいればいい」
「そのまま……」

 リーゼロッテは口をつぐんだ。ジークヴァルトはいつもそう言う。そう言って、リーゼロッテを遠ざける。

「では、わたくしはこのまま何もせず、当たり前のように守られていればそれでいいと、ジークヴァルト様はそうおっしゃるのですか?」
「ああ、そうだ」

 顔をそらした髪から雫が落ちて、ジークヴァルトのシャツをまだらに濡らしていく。洗いざらしの髪の横顔は、いつもよりもずっと子供っぽく見えた。
 ハンカチを取り出して、リーゼロッテはその雫をぬぐおうとした。その髪に届く前に大きな手に掴まれる。

「いい。お前が濡れる」
 ぐいと押し戻されて、どうしたらいいのかもうわからなくなってしまった。だが、こんなかみ合わないやり取りは、今日に始まったことではない。

「わたくしは、何のためにヴァルト様の横にいるのでしょう」
「……お前は、オレの託宣の相手だ」

 今にも泣きそうな瞳で見上げるリーゼロッテに、そんな言葉が返ってきた。リーゼロッテから目をそらし、風が叩き続ける窓に向き直る。その後ジークヴァルトは、不機嫌そうに黙りこくった。

「そう……でしたわね」

 リーゼロッテも反対の窓に目を向けた。要するに自分である必要はないのだ。託宣の相手だから守りはするが、干渉はされたくない。それならそうと、はっきり言ってくれた方が気が楽なのに。

 だが、リーゼロッテはそれ以上何も言えなかった。言ってしまったら、今度こそ、涙が溢れそうだった。

     ◇
「旦那様、いきなりいなくなるのは、もう勘弁してくださいよ」
「非常事態だ」

 ふいと顔をそらすジークヴァルトに、マテアスはわざとらしく大きなため息をついた。

「そう言ったご事情なら仕方ないですけどね、心配して探し回るこちらの気持ちもお察しください」
「分かっている」

 リーゼロッテが戻ってきたというのに、ジークヴァルトは不機嫌なままだ。予定よりも三時間以上も早く会えたのだ。もっと浮かれていても良さそうなものだった。

「道中、喧嘩でもなさったのですか?」

 戻ってきたリーゼロッテも口数が少なかった。みなに笑顔は向けていたものの、その顔を見たエラの反応を見ると、やはりいつもと様子が違っていたのだろう。

「そんなものはしていない」
「でしたらどうしてリーゼロッテ様は、あんなにも落ち込んでおられたのでしょう?」

 ぐっと眉根を寄せたジークヴァルトに、マテアスは馬車の中でどんな会話をしたのかを問いただした。基本ジークヴァルトは、マテアスの言うことは素直に聞き入れる。従者という立場であるが、子供の頃からマテアスは、ジークヴァルトにとっては兄のような存在だった。

「なるほど、わかりました。要するに旦那様は、公爵家の呪いを発動させたくなくて、リーゼロッテ様にわざとそっけなくされたというわけですね?」

 ふいと顔をそむけるジークヴァルトに、マテアスは困ったような顔を向けた。その努力は褒めてやりたいが、話を聞いた限りでは、リーゼロッテが誤解するのも無理はないだろう。ジークヴァルトがこんなにも及び腰になるのは、リーゼロッテに対してだけだ。普段の判断能力が嘘のように思えてくる。

「なんにせよ、ヴァルト様は圧倒的に言葉が足りないですね。少しは努力をしないと、本当に嫌われますよ」

 マテアスの苦言に、ジークヴァルトはただ言葉を詰まらせた。

     ◇
 深夜、寝台の上で目をつぶる。だが、眠気はなかなかやってこない。
 壁を隔てた隣の部屋に、穏やかな彼女の気配を感じる。安堵と共に、胸の奥が不満を訴えて、暗闇の中ジークヴァルトは幾度目かの寝返りを打った。

 もうすぐ彼女に会える。今朝目覚めてそう思うと、いてもたってもいられなくなった。書類の文字も上滑りして、領地仕事にまったく手がつかない。そうこうしているうちに、執務室からマテアスに追い出されてしまった。

 自室に戻り、気晴らしに湯を浴びた。彼女は託宣の相手だ。大切にしなければという思いと裏腹に、体だけが彼女をむさぼりたいと要求してくる。もう何日も顔を見ていない状態で、今、彼女に会うのは非常に危険に思えた。

 理性を失わないようにとジークヴァルトは、浴室でひとり欲を吐き出した。頭に彼女を思い描きながら――

 彼女を汚しているようで、自分に向けられる感情は嫌悪ばかりだ。
 だが、まるであの日の続きを夢想するかのように、彼女を求める邪念は止まらない。

 そんな時に、いきなりジークハルトの思念がねじ込まれてきた。
 慌てて服を身に纏い、ジークヴァルトは守護者の力に身を任せた。次に見えた光景は、馬車の中にいた彼女の小さな背だ。

 柔らかい肢体を抱き込むと、ふわりといい匂いがした。熱がこもったままの体が、すぐに反応しそうになる。濡れた髪の雫が落ちて、彼女が声を上げなかったら、そのまま暴走していたかもしれない。
 すぐに馬車を降りた。一度、冷静にならないと、彼女のそばにはいられない。その体をしずめるように、強い風がジークヴァルトの熱を奪っていった。

 長い息を吐いて、ジークヴァルトは再び寝返りを打つ。その時、彼女の気がわずかに跳ねた。反射的に飛び起きる。くしゃみでもしたのだろう。すぐに落ち着いた気配を確かめると、ジークヴァルトは小さく安堵の息を漏らした。

『ねえ、ヴァルト。そんなにため込んでいるなら、リーゼロッテの所に行ってくれば? そこにも扉あるんだし』

 めずらしく近くで浮いていた守護者に、ジークヴァルトは顔をしかめた。この壁を隔てた隣は彼女の寝室だ。すぐそこに隠し扉があって、行こうと思えばいつでも行ける。だが、ジークハルトの言葉を無視して、寝台に再びその身を沈めた。

『なんかさ、そう悶々もんもんとされると、こっちもつらいんだけど』

 守護者と託宣を受けた者は、その意識がつながっている。ジークヴァルトが見知ったことから、今何を思っているかまで、ジークハルトにはありのままに伝わっていた。

「そう思うならどこかへ行け」
 心底嫌そうにジークヴァルトは答えた。最近では近くにいることもなかった守護者は、今夜はなぜかそこにいる。

『昼間に結構力使ったからさ、今離れる気力はないな~。アレ、どこまでの距離できるんだろ?』

 ジークハルトは常に、ジークヴァルトの元へと戻ろうとする引力を感じている。植え付けた不信感から、そのそばを離れることはできるようにはなったが、それでもこの絆が切れることはない。
 本来ならば、ジークハルトが引き戻されるところを、逆にジークヴァルトを自分の元にひっぱってくるのだ。引力と、ジークヴァルトが守護者の元に行きたいという、強い思いがシンクロしてこそ、為せる荒業あらわざだった。

『そんなに我慢することはないと思うけど。体に悪いよ?』
「駄目だ。誓約を破るわけにはいかない」
『ああ、ダーミッシュ伯爵と約束したんだっけ。こっちに来させる代わりに、絶対に婚前交渉は行わないって』
「分かっているなら黙っていろ」
『真面目だなぁ。そんなの、言わなければ分からないだろうに。って、最もあのリーゼロッテじゃ、顔に出てすぐにバレそうだね』

 楽しそうに笑うジークハルトを睨みつけて、ジークヴァルトは寝台から身を起こした。上着をはおり、そのまま部屋を出ていく。

『いってらっしゃい。とりあえず、オレはここでリーゼロッテを見張ってるよ』

 宙であぐらをかいたままひらひらと手を振って、ジークハルトはその不機嫌な背を見送った。
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