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第3章 寡黙な公爵と託宣の涙
第8話 風吹くとき
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【前回のあらすじ】
王都の街から行方知れずとなっていた少女ルチア。イグナーツの導きにより、ルチアは母アニサと共に、ダーミッシュ領で過ごすことに。そのアニサも病で帰らぬ人となり、ひとり残されたルチアは、学校へと通う日々を送っていました。
そこで再会を果たしたカイとルチア。ルチアの腕に龍のあざを確認したカイは、その託宣が、異形の者に命を奪われるというものだと知るのでした。
「申し訳ございません、リーゼロッテ様……」
馬車の扉が開かれると、強い春風が吹き込んだ。口元にハンカチを当て、よろめきながらエマニュエルが馬車を降りる。
ここはダーミッシュ領を出て、一時間ほど馬を走らせた道端だ。ほっとした様子でエマニュエルは、何度か深い呼吸を繰り返した。
「エマ様、わたくしこそ申し訳ありません」
「いいえ、これはわたしの不徳のいたすところ。リーゼロッテ様のせいではございません」
「ですが……」
窓越しにエマニュエルを見やる。幾分かはよくなってはいるが、その顔はまだ青ざめたままだ。ジークヴァルトの守り石を携帯していたものの、エマニュエルはリーゼロッテの力にあてられて気分が悪くなってしまった。いわく、緑の力が強くなりすぎてのことらしい。
「わたしは辻馬車でも拾って公爵家へ戻ります。リーゼロッテ様はこのまま先にお帰りになってください」
「え? でもそれは危ないですわ」
「わたしは元使用人ですので、辻馬車には慣れております。何も心配ありません」
安心させるように微笑んでくる。だが、エマニュエルは今では立派な子爵夫人だ。上質なドレスを纏ったまま辻馬車に乗っては、よからぬ輩に襲われる危険もあった。
「でしたらヨハン様もエマニュエル様と一緒に」
「いけません。わたしだけでなく、ヨハン様までリーゼロッテ様のおそばを離れるなど、旦那様に申し訳が立ちませんわ」
「ですが、辻馬車を拾うにしても、ここでは難しいのでは」
それでもエマニュエルは頑なに引こうとしなかった。しかし、こんな何もない道端に、エマニュエルだけ残していけるはずもない。
『ねえ、リーゼロッテ。困ってるならヴァルト呼んじゃう?』
「え?」
見上げると、馬車の天井からジークハルトが、顔だけ出して覗き込んでいる。頭が逆さになっているところを見ると、逆立ちしたまま顔を突っ込んでいるようだ。
『最近のリーゼロッテは、そばにいると息苦しくってさ。オレもこの中はちょっと耐えがたいし、もう面倒だからヴァルト呼ぼうよ』
「ヴァルト様を? どうやって?」
ぽかんとして問うと、ジークハルトはにっこりと笑った。
『少し疲れるけど、この距離なら引っ張ってこれると思うから』
天井からにゅっと手が出てくる。その手がちょいちょいと手招きをするので、リーゼロッテは立ち上がってジークハルトに近づいた。
『リーゼロッテ、もっと顔近づけて。そうそう、もっともっと』
言われるがまま顔を寄せていく。見上げるようにすると、ジークハルトもさらに顔を近づけてきた。
鼻先をくっつけんばかりになったとき、いきなり床が沈んで傾いた。誰かが乗り込んできたかのような振動に、リーゼロッテは驚きに振り返ろうとした。
「お前、ふざけるのも大概にしろ」
「ジークヴァルト様!?」
腹に腕が巻き付けられ、リーゼロッテは後ろに引き寄せられる。ぎゅっと抱え込んだまま、ジークヴァルトは己の守護者を睨みつけた。
『じゃあ、オレはもうお役御免ってことで』
ジークハルトはひらひらと手を振って、天井からするりと出ていってしまった。
その時、一滴の水がリーゼロッテの首筋に落ちてきた。「ひゃっ」と声を上げると、ジークヴァルトが抱えていた体をぐいと遠くに押しのける。
「お前はここにいろ」
リーゼロッテの首元に流れて落ちた雫を指で拭い取ると、ジークヴァルトは不機嫌そうに顔をしかめて馬車を降りていった。よく見ると髪が濡れている。ほのかに石鹸の香りがしたので、湯でも浴びたところだったのかもしれない。
(ハルト様が勝手に呼んだにしても、わたしのせいでまた迷惑を……)
どうしてこうなってしまうのだろう。リーゼロッテが小さくため息を落とすと、ジークヴァルトはすぐに戻ってきた。ほどなくして馬車が走り出す。
「あの、エマニュエル様は……?」
「ヨハンと共に近くの街に向かった。そこで馬車を手配するよう言ってある」
ほっと息をつくも、エマニュエルには申し訳ないことをしてしまった。強風が窓をがたがたと揺らす。車輪が回る音だけが響く馬車の中、リーゼロッテはようやく違和感に気がついた。
「あの、ヴァルト様……お膝に乗らなくてもよろしいのですか?」
「今日はいい。濡れるから近づくな」
そっけなく言ってジークヴァルトは窓の外に視線をやった。そのまま沈黙が訪れる。
ふたりで馬車に乗るとき、ジークヴァルトは大抵書類に目を通している。リーゼロッテも邪魔しないようにと、いつも黙って座っているのだが、今日はお互いに手持ち無沙汰だ。
(ヴァルト様とは、いつもどんな会話をしてたっけ)
基本、ジークヴァルトから話しかけてくることはない。リーゼロッテが何かを問いかけたときと、必要事項を伝えるときのみ、その口を開くだけだ。
(わたし、ジークヴァルト様の事、何も知らないんだわ)
ジークヴァルトは猫舌で、酸っぱいものが苦手で、乗馬がうまくて、何かを誤魔化す時にはすぐに顔をそらす。リーゼロッテが知っているのは、そんな表面的なことばかりだ。
『公爵様のすべてを分かった気でいるのかしら? なんておこがましい女なの』
茶会でイザベラに言われたことを思い出した。本当に自分は、分かった気でいただけなのかもしれない。会話をするなら今しかない。誰もいないふたりきりのこの場なら、自分の本音も伝えられるはずだ。
「ヴァルト様、わたくしご迷惑でしたら、ダーミッシュのお屋敷でおとなしくしておりますわ」
屋敷の部屋からほとんど出ることなく、今までもずっと過ごしてきたのだ。その頃にジークヴァルトに負担をかけることは何もなかった。今は、それがいちばんいい方法なのだと思えてくる。
「お手紙も毎日書きますから」
「いや、駄目だ、お前はオレのそばにいろ」
ぎゅっと眉根を寄せる。こういう時、ジークヴァルトは自分の意見を絶対に曲げない。だが、ここで自分が引いては元の木阿弥だ。
(少しはルカを見習わなくちゃ)
ツェツィーリアがへそを曲げたとき、ルカはその思いを受け止めようと、根気よく対話を続けていた。それに、ツェツィーリアのためにいろんな情報を仕入れ、知ろうとする努力を今でも怠らないでいる。それこそ、ツェツィーリアを取り巻くすべてのことを、理解しようとしている勢いだ。
「でしたら、わたくしができることは何かございませんか? ヴァルト様にばかりに負担を強いているようで、わたくし……」
「いい。お前に落ち度はない。ダーミッシュ嬢はそのままでいればいい」
「そのまま……」
リーゼロッテは口をつぐんだ。ジークヴァルトはいつもそう言う。そう言って、リーゼロッテを遠ざける。
「では、わたくしはこのまま何もせず、当たり前のように守られていればそれでいいと、ジークヴァルト様はそうおっしゃるのですか?」
「ああ、そうだ」
顔をそらした髪から雫が落ちて、ジークヴァルトのシャツをまだらに濡らしていく。洗いざらしの髪の横顔は、いつもよりもずっと子供っぽく見えた。
ハンカチを取り出して、リーゼロッテはその雫をぬぐおうとした。その髪に届く前に大きな手に掴まれる。
「いい。お前が濡れる」
ぐいと押し戻されて、どうしたらいいのかもうわからなくなってしまった。だが、こんなかみ合わないやり取りは、今日に始まったことではない。
「わたくしは、何のためにヴァルト様の横にいるのでしょう」
「……お前は、オレの託宣の相手だ」
今にも泣きそうな瞳で見上げるリーゼロッテに、そんな言葉が返ってきた。リーゼロッテから目をそらし、風が叩き続ける窓に向き直る。その後ジークヴァルトは、不機嫌そうに黙りこくった。
「そう……でしたわね」
リーゼロッテも反対の窓に目を向けた。要するに自分である必要はないのだ。託宣の相手だから守りはするが、干渉はされたくない。それならそうと、はっきり言ってくれた方が気が楽なのに。
だが、リーゼロッテはそれ以上何も言えなかった。言ってしまったら、今度こそ、涙が溢れそうだった。
◇
「旦那様、いきなりいなくなるのは、もう勘弁してくださいよ」
「非常事態だ」
ふいと顔をそらすジークヴァルトに、マテアスはわざとらしく大きなため息をついた。
「そう言ったご事情なら仕方ないですけどね、心配して探し回るこちらの気持ちもお察しください」
「分かっている」
リーゼロッテが戻ってきたというのに、ジークヴァルトは不機嫌なままだ。予定よりも三時間以上も早く会えたのだ。もっと浮かれていても良さそうなものだった。
「道中、喧嘩でもなさったのですか?」
戻ってきたリーゼロッテも口数が少なかった。みなに笑顔は向けていたものの、その顔を見たエラの反応を見ると、やはりいつもと様子が違っていたのだろう。
「そんなものはしていない」
「でしたらどうしてリーゼロッテ様は、あんなにも落ち込んでおられたのでしょう?」
ぐっと眉根を寄せたジークヴァルトに、マテアスは馬車の中でどんな会話をしたのかを問いただした。基本ジークヴァルトは、マテアスの言うことは素直に聞き入れる。従者という立場であるが、子供の頃からマテアスは、ジークヴァルトにとっては兄のような存在だった。
「なるほど、わかりました。要するに旦那様は、公爵家の呪いを発動させたくなくて、リーゼロッテ様にわざとそっけなくされたというわけですね?」
ふいと顔をそむけるジークヴァルトに、マテアスは困ったような顔を向けた。その努力は褒めてやりたいが、話を聞いた限りでは、リーゼロッテが誤解するのも無理はないだろう。ジークヴァルトがこんなにも及び腰になるのは、リーゼロッテに対してだけだ。普段の判断能力が嘘のように思えてくる。
「なんにせよ、ヴァルト様は圧倒的に言葉が足りないですね。少しは努力をしないと、本当に嫌われますよ」
マテアスの苦言に、ジークヴァルトはただ言葉を詰まらせた。
◇
深夜、寝台の上で目をつぶる。だが、眠気はなかなかやってこない。
壁を隔てた隣の部屋に、穏やかな彼女の気配を感じる。安堵と共に、胸の奥が不満を訴えて、暗闇の中ジークヴァルトは幾度目かの寝返りを打った。
もうすぐ彼女に会える。今朝目覚めてそう思うと、いてもたってもいられなくなった。書類の文字も上滑りして、領地仕事にまったく手がつかない。そうこうしているうちに、執務室からマテアスに追い出されてしまった。
自室に戻り、気晴らしに湯を浴びた。彼女は託宣の相手だ。大切にしなければという思いと裏腹に、体だけが彼女をむさぼりたいと要求してくる。もう何日も顔を見ていない状態で、今、彼女に会うのは非常に危険に思えた。
理性を失わないようにとジークヴァルトは、浴室でひとり欲を吐き出した。頭に彼女を思い描きながら――
彼女を汚しているようで、自分に向けられる感情は嫌悪ばかりだ。
だが、まるであの日の続きを夢想するかのように、彼女を求める邪念は止まらない。
そんな時に、いきなりジークハルトの思念がねじ込まれてきた。
慌てて服を身に纏い、ジークヴァルトは守護者の力に身を任せた。次に見えた光景は、馬車の中にいた彼女の小さな背だ。
柔らかい肢体を抱き込むと、ふわりといい匂いがした。熱が籠ったままの体が、すぐに反応しそうになる。濡れた髪の雫が落ちて、彼女が声を上げなかったら、そのまま暴走していたかもしれない。
すぐに馬車を降りた。一度、冷静にならないと、彼女のそばにはいられない。その体を鎮めるように、強い風がジークヴァルトの熱を奪っていった。
長い息を吐いて、ジークヴァルトは再び寝返りを打つ。その時、彼女の気がわずかに跳ねた。反射的に飛び起きる。くしゃみでもしたのだろう。すぐに落ち着いた気配を確かめると、ジークヴァルトは小さく安堵の息を漏らした。
『ねえ、ヴァルト。そんなにため込んでいるなら、リーゼロッテの所に行ってくれば? そこにも扉あるんだし』
めずらしく近くで浮いていた守護者に、ジークヴァルトは顔をしかめた。この壁を隔てた隣は彼女の寝室だ。すぐそこに隠し扉があって、行こうと思えばいつでも行ける。だが、ジークハルトの言葉を無視して、寝台に再びその身を沈めた。
『なんかさ、そう悶々とされると、こっちもつらいんだけど』
守護者と託宣を受けた者は、その意識がつながっている。ジークヴァルトが見知ったことから、今何を思っているかまで、ジークハルトにはありのままに伝わっていた。
「そう思うならどこかへ行け」
心底嫌そうにジークヴァルトは答えた。最近では近くにいることもなかった守護者は、今夜はなぜかそこにいる。
『昼間に結構力使ったからさ、今離れる気力はないな~。アレ、どこまでの距離できるんだろ?』
ジークハルトは常に、ジークヴァルトの元へと戻ろうとする引力を感じている。植え付けた不信感から、そのそばを離れることはできるようにはなったが、それでもこの絆が切れることはない。
本来ならば、ジークハルトが引き戻されるところを、逆にジークヴァルトを自分の元にひっぱってくるのだ。引力と、ジークヴァルトが守護者の元に行きたいという、強い思いがシンクロしてこそ、為せる荒業だった。
『そんなに我慢することはないと思うけど。体に悪いよ?』
「駄目だ。誓約を破るわけにはいかない」
『ああ、ダーミッシュ伯爵と約束したんだっけ。こっちに来させる代わりに、絶対に婚前交渉は行わないって』
「分かっているなら黙っていろ」
『真面目だなぁ。そんなの、言わなければ分からないだろうに。って、最もあのリーゼロッテじゃ、顔に出てすぐにバレそうだね』
楽しそうに笑うジークハルトを睨みつけて、ジークヴァルトは寝台から身を起こした。上着をはおり、そのまま部屋を出ていく。
『いってらっしゃい。とりあえず、オレはここでリーゼロッテを見張ってるよ』
宙であぐらをかいたままひらひらと手を振って、ジークハルトはその不機嫌な背を見送った。
王都の街から行方知れずとなっていた少女ルチア。イグナーツの導きにより、ルチアは母アニサと共に、ダーミッシュ領で過ごすことに。そのアニサも病で帰らぬ人となり、ひとり残されたルチアは、学校へと通う日々を送っていました。
そこで再会を果たしたカイとルチア。ルチアの腕に龍のあざを確認したカイは、その託宣が、異形の者に命を奪われるというものだと知るのでした。
「申し訳ございません、リーゼロッテ様……」
馬車の扉が開かれると、強い春風が吹き込んだ。口元にハンカチを当て、よろめきながらエマニュエルが馬車を降りる。
ここはダーミッシュ領を出て、一時間ほど馬を走らせた道端だ。ほっとした様子でエマニュエルは、何度か深い呼吸を繰り返した。
「エマ様、わたくしこそ申し訳ありません」
「いいえ、これはわたしの不徳のいたすところ。リーゼロッテ様のせいではございません」
「ですが……」
窓越しにエマニュエルを見やる。幾分かはよくなってはいるが、その顔はまだ青ざめたままだ。ジークヴァルトの守り石を携帯していたものの、エマニュエルはリーゼロッテの力にあてられて気分が悪くなってしまった。いわく、緑の力が強くなりすぎてのことらしい。
「わたしは辻馬車でも拾って公爵家へ戻ります。リーゼロッテ様はこのまま先にお帰りになってください」
「え? でもそれは危ないですわ」
「わたしは元使用人ですので、辻馬車には慣れております。何も心配ありません」
安心させるように微笑んでくる。だが、エマニュエルは今では立派な子爵夫人だ。上質なドレスを纏ったまま辻馬車に乗っては、よからぬ輩に襲われる危険もあった。
「でしたらヨハン様もエマニュエル様と一緒に」
「いけません。わたしだけでなく、ヨハン様までリーゼロッテ様のおそばを離れるなど、旦那様に申し訳が立ちませんわ」
「ですが、辻馬車を拾うにしても、ここでは難しいのでは」
それでもエマニュエルは頑なに引こうとしなかった。しかし、こんな何もない道端に、エマニュエルだけ残していけるはずもない。
『ねえ、リーゼロッテ。困ってるならヴァルト呼んじゃう?』
「え?」
見上げると、馬車の天井からジークハルトが、顔だけ出して覗き込んでいる。頭が逆さになっているところを見ると、逆立ちしたまま顔を突っ込んでいるようだ。
『最近のリーゼロッテは、そばにいると息苦しくってさ。オレもこの中はちょっと耐えがたいし、もう面倒だからヴァルト呼ぼうよ』
「ヴァルト様を? どうやって?」
ぽかんとして問うと、ジークハルトはにっこりと笑った。
『少し疲れるけど、この距離なら引っ張ってこれると思うから』
天井からにゅっと手が出てくる。その手がちょいちょいと手招きをするので、リーゼロッテは立ち上がってジークハルトに近づいた。
『リーゼロッテ、もっと顔近づけて。そうそう、もっともっと』
言われるがまま顔を寄せていく。見上げるようにすると、ジークハルトもさらに顔を近づけてきた。
鼻先をくっつけんばかりになったとき、いきなり床が沈んで傾いた。誰かが乗り込んできたかのような振動に、リーゼロッテは驚きに振り返ろうとした。
「お前、ふざけるのも大概にしろ」
「ジークヴァルト様!?」
腹に腕が巻き付けられ、リーゼロッテは後ろに引き寄せられる。ぎゅっと抱え込んだまま、ジークヴァルトは己の守護者を睨みつけた。
『じゃあ、オレはもうお役御免ってことで』
ジークハルトはひらひらと手を振って、天井からするりと出ていってしまった。
その時、一滴の水がリーゼロッテの首筋に落ちてきた。「ひゃっ」と声を上げると、ジークヴァルトが抱えていた体をぐいと遠くに押しのける。
「お前はここにいろ」
リーゼロッテの首元に流れて落ちた雫を指で拭い取ると、ジークヴァルトは不機嫌そうに顔をしかめて馬車を降りていった。よく見ると髪が濡れている。ほのかに石鹸の香りがしたので、湯でも浴びたところだったのかもしれない。
(ハルト様が勝手に呼んだにしても、わたしのせいでまた迷惑を……)
どうしてこうなってしまうのだろう。リーゼロッテが小さくため息を落とすと、ジークヴァルトはすぐに戻ってきた。ほどなくして馬車が走り出す。
「あの、エマニュエル様は……?」
「ヨハンと共に近くの街に向かった。そこで馬車を手配するよう言ってある」
ほっと息をつくも、エマニュエルには申し訳ないことをしてしまった。強風が窓をがたがたと揺らす。車輪が回る音だけが響く馬車の中、リーゼロッテはようやく違和感に気がついた。
「あの、ヴァルト様……お膝に乗らなくてもよろしいのですか?」
「今日はいい。濡れるから近づくな」
そっけなく言ってジークヴァルトは窓の外に視線をやった。そのまま沈黙が訪れる。
ふたりで馬車に乗るとき、ジークヴァルトは大抵書類に目を通している。リーゼロッテも邪魔しないようにと、いつも黙って座っているのだが、今日はお互いに手持ち無沙汰だ。
(ヴァルト様とは、いつもどんな会話をしてたっけ)
基本、ジークヴァルトから話しかけてくることはない。リーゼロッテが何かを問いかけたときと、必要事項を伝えるときのみ、その口を開くだけだ。
(わたし、ジークヴァルト様の事、何も知らないんだわ)
ジークヴァルトは猫舌で、酸っぱいものが苦手で、乗馬がうまくて、何かを誤魔化す時にはすぐに顔をそらす。リーゼロッテが知っているのは、そんな表面的なことばかりだ。
『公爵様のすべてを分かった気でいるのかしら? なんておこがましい女なの』
茶会でイザベラに言われたことを思い出した。本当に自分は、分かった気でいただけなのかもしれない。会話をするなら今しかない。誰もいないふたりきりのこの場なら、自分の本音も伝えられるはずだ。
「ヴァルト様、わたくしご迷惑でしたら、ダーミッシュのお屋敷でおとなしくしておりますわ」
屋敷の部屋からほとんど出ることなく、今までもずっと過ごしてきたのだ。その頃にジークヴァルトに負担をかけることは何もなかった。今は、それがいちばんいい方法なのだと思えてくる。
「お手紙も毎日書きますから」
「いや、駄目だ、お前はオレのそばにいろ」
ぎゅっと眉根を寄せる。こういう時、ジークヴァルトは自分の意見を絶対に曲げない。だが、ここで自分が引いては元の木阿弥だ。
(少しはルカを見習わなくちゃ)
ツェツィーリアがへそを曲げたとき、ルカはその思いを受け止めようと、根気よく対話を続けていた。それに、ツェツィーリアのためにいろんな情報を仕入れ、知ろうとする努力を今でも怠らないでいる。それこそ、ツェツィーリアを取り巻くすべてのことを、理解しようとしている勢いだ。
「でしたら、わたくしができることは何かございませんか? ヴァルト様にばかりに負担を強いているようで、わたくし……」
「いい。お前に落ち度はない。ダーミッシュ嬢はそのままでいればいい」
「そのまま……」
リーゼロッテは口をつぐんだ。ジークヴァルトはいつもそう言う。そう言って、リーゼロッテを遠ざける。
「では、わたくしはこのまま何もせず、当たり前のように守られていればそれでいいと、ジークヴァルト様はそうおっしゃるのですか?」
「ああ、そうだ」
顔をそらした髪から雫が落ちて、ジークヴァルトのシャツをまだらに濡らしていく。洗いざらしの髪の横顔は、いつもよりもずっと子供っぽく見えた。
ハンカチを取り出して、リーゼロッテはその雫をぬぐおうとした。その髪に届く前に大きな手に掴まれる。
「いい。お前が濡れる」
ぐいと押し戻されて、どうしたらいいのかもうわからなくなってしまった。だが、こんなかみ合わないやり取りは、今日に始まったことではない。
「わたくしは、何のためにヴァルト様の横にいるのでしょう」
「……お前は、オレの託宣の相手だ」
今にも泣きそうな瞳で見上げるリーゼロッテに、そんな言葉が返ってきた。リーゼロッテから目をそらし、風が叩き続ける窓に向き直る。その後ジークヴァルトは、不機嫌そうに黙りこくった。
「そう……でしたわね」
リーゼロッテも反対の窓に目を向けた。要するに自分である必要はないのだ。託宣の相手だから守りはするが、干渉はされたくない。それならそうと、はっきり言ってくれた方が気が楽なのに。
だが、リーゼロッテはそれ以上何も言えなかった。言ってしまったら、今度こそ、涙が溢れそうだった。
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「旦那様、いきなりいなくなるのは、もう勘弁してくださいよ」
「非常事態だ」
ふいと顔をそらすジークヴァルトに、マテアスはわざとらしく大きなため息をついた。
「そう言ったご事情なら仕方ないですけどね、心配して探し回るこちらの気持ちもお察しください」
「分かっている」
リーゼロッテが戻ってきたというのに、ジークヴァルトは不機嫌なままだ。予定よりも三時間以上も早く会えたのだ。もっと浮かれていても良さそうなものだった。
「道中、喧嘩でもなさったのですか?」
戻ってきたリーゼロッテも口数が少なかった。みなに笑顔は向けていたものの、その顔を見たエラの反応を見ると、やはりいつもと様子が違っていたのだろう。
「そんなものはしていない」
「でしたらどうしてリーゼロッテ様は、あんなにも落ち込んでおられたのでしょう?」
ぐっと眉根を寄せたジークヴァルトに、マテアスは馬車の中でどんな会話をしたのかを問いただした。基本ジークヴァルトは、マテアスの言うことは素直に聞き入れる。従者という立場であるが、子供の頃からマテアスは、ジークヴァルトにとっては兄のような存在だった。
「なるほど、わかりました。要するに旦那様は、公爵家の呪いを発動させたくなくて、リーゼロッテ様にわざとそっけなくされたというわけですね?」
ふいと顔をそむけるジークヴァルトに、マテアスは困ったような顔を向けた。その努力は褒めてやりたいが、話を聞いた限りでは、リーゼロッテが誤解するのも無理はないだろう。ジークヴァルトがこんなにも及び腰になるのは、リーゼロッテに対してだけだ。普段の判断能力が嘘のように思えてくる。
「なんにせよ、ヴァルト様は圧倒的に言葉が足りないですね。少しは努力をしないと、本当に嫌われますよ」
マテアスの苦言に、ジークヴァルトはただ言葉を詰まらせた。
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深夜、寝台の上で目をつぶる。だが、眠気はなかなかやってこない。
壁を隔てた隣の部屋に、穏やかな彼女の気配を感じる。安堵と共に、胸の奥が不満を訴えて、暗闇の中ジークヴァルトは幾度目かの寝返りを打った。
もうすぐ彼女に会える。今朝目覚めてそう思うと、いてもたってもいられなくなった。書類の文字も上滑りして、領地仕事にまったく手がつかない。そうこうしているうちに、執務室からマテアスに追い出されてしまった。
自室に戻り、気晴らしに湯を浴びた。彼女は託宣の相手だ。大切にしなければという思いと裏腹に、体だけが彼女をむさぼりたいと要求してくる。もう何日も顔を見ていない状態で、今、彼女に会うのは非常に危険に思えた。
理性を失わないようにとジークヴァルトは、浴室でひとり欲を吐き出した。頭に彼女を思い描きながら――
彼女を汚しているようで、自分に向けられる感情は嫌悪ばかりだ。
だが、まるであの日の続きを夢想するかのように、彼女を求める邪念は止まらない。
そんな時に、いきなりジークハルトの思念がねじ込まれてきた。
慌てて服を身に纏い、ジークヴァルトは守護者の力に身を任せた。次に見えた光景は、馬車の中にいた彼女の小さな背だ。
柔らかい肢体を抱き込むと、ふわりといい匂いがした。熱が籠ったままの体が、すぐに反応しそうになる。濡れた髪の雫が落ちて、彼女が声を上げなかったら、そのまま暴走していたかもしれない。
すぐに馬車を降りた。一度、冷静にならないと、彼女のそばにはいられない。その体を鎮めるように、強い風がジークヴァルトの熱を奪っていった。
長い息を吐いて、ジークヴァルトは再び寝返りを打つ。その時、彼女の気がわずかに跳ねた。反射的に飛び起きる。くしゃみでもしたのだろう。すぐに落ち着いた気配を確かめると、ジークヴァルトは小さく安堵の息を漏らした。
『ねえ、ヴァルト。そんなにため込んでいるなら、リーゼロッテの所に行ってくれば? そこにも扉あるんだし』
めずらしく近くで浮いていた守護者に、ジークヴァルトは顔をしかめた。この壁を隔てた隣は彼女の寝室だ。すぐそこに隠し扉があって、行こうと思えばいつでも行ける。だが、ジークハルトの言葉を無視して、寝台に再びその身を沈めた。
『なんかさ、そう悶々とされると、こっちもつらいんだけど』
守護者と託宣を受けた者は、その意識がつながっている。ジークヴァルトが見知ったことから、今何を思っているかまで、ジークハルトにはありのままに伝わっていた。
「そう思うならどこかへ行け」
心底嫌そうにジークヴァルトは答えた。最近では近くにいることもなかった守護者は、今夜はなぜかそこにいる。
『昼間に結構力使ったからさ、今離れる気力はないな~。アレ、どこまでの距離できるんだろ?』
ジークハルトは常に、ジークヴァルトの元へと戻ろうとする引力を感じている。植え付けた不信感から、そのそばを離れることはできるようにはなったが、それでもこの絆が切れることはない。
本来ならば、ジークハルトが引き戻されるところを、逆にジークヴァルトを自分の元にひっぱってくるのだ。引力と、ジークヴァルトが守護者の元に行きたいという、強い思いがシンクロしてこそ、為せる荒業だった。
『そんなに我慢することはないと思うけど。体に悪いよ?』
「駄目だ。誓約を破るわけにはいかない」
『ああ、ダーミッシュ伯爵と約束したんだっけ。こっちに来させる代わりに、絶対に婚前交渉は行わないって』
「分かっているなら黙っていろ」
『真面目だなぁ。そんなの、言わなければ分からないだろうに。って、最もあのリーゼロッテじゃ、顔に出てすぐにバレそうだね』
楽しそうに笑うジークハルトを睨みつけて、ジークヴァルトは寝台から身を起こした。上着をはおり、そのまま部屋を出ていく。
『いってらっしゃい。とりあえず、オレはここでリーゼロッテを見張ってるよ』
宙であぐらをかいたままひらひらと手を振って、ジークハルトはその不機嫌な背を見送った。
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その仕事内容とは高貴な身分の方の閨指導のようでした。非常に悩みましたが、家を出るのにお金が必要な私は、その仕事を受けることに決めたのです。
閨指導って、そんなに何度も会う必要ないですよね?しかも、指導が必要には見えませんでしたが…。
でも、高額な報酬なので文句は言いませんわ。
家を出る資金を得た私は、今度こそ自由に好きなことをして生きていきたいと考えて旅立つことに決めました。
その後、新しい生活を楽しんでいる私の所に現れたのは……。
まずは亡くなったはずの旦那様との話から。
ご都合主義です。
設定は緩いです。
誤字脱字申し訳ありません。
主人公の名前を途中から間違えていました。
アメリアです。すみません。
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