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第五章

黒い豚

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「そ、それよりあの声の人を助けなくちゃ!」
「あ、そうだったわね」
「う~…せめて着替えたい…」
 三人は頭部を失った大蛇の胴体に駆け寄った。下手をすればすでに消化されているかもしれない。そう怪訝しながら三人は胴体の断面を覗いた。

「ふぅ~…危なかったぜオイ」

 そう呟きながら胴体の断面から何かが這い出てきた。それは大蛇の体液にまみれながらとぼとぼと四本脚でリエル達の目の前に姿を現した。

「…ぶ…豚…?」

 真っ黒の体毛に丸々とした体形。短い脚。短い尻尾に特徴的な鼻はまさに豚そのものであった。しかし、その背中には悪魔を彷彿させる羽が生えている。どう見ても普通の動物ではない。

「な…何よコイツ…?」
「これは…魔物…なんですか?」

 大蛇の腹の中から聞こえた声の主は間違いなくこの豚なのであろう。豚は雨に濡れた犬のように身体をブルブルと震わせてまとわりつく体液を払った。

「お?あんた達が助けてくれたのか?」
 豚は頭を上げてリエルに目を向けた。

「や…やっぱり喋ってる…誰なのアンタ?」
 目を凝らしながらビオラは黒い豚に尋ねた。

「おいおい、人に名前を尋ねる前に自分が名乗るのが礼儀だろう。お嬢ちゃん」
「な…!」

 その姿から想像もつかない不遜な言葉にビオラは思わずカチンときた。

「まともな挨拶もできねぇとは最近の若い奴は礼儀がなっちゃいねぇなオイ」
「あんだとこらぁ!」
 立て続けな言葉にビオラは殴りかかろうとするが、すぐさまアズキに取り押さえられた。
「お、落ち着いてください!」
 アズキはビオラをなだめたが、そのビオラは鼻息荒く、身体を離したとたんに襲いかかりそうな表情だ。

「ご、ごめんね。私はリエル。あなたは?」
 リエルは丁寧に名乗ったあと、黒い豚に名を尋ねた。

「俺の名はトニー。それ以外は知らん」
 トニーと名乗った豚はそう断言した。

「…え?知らん?」
「そうだ」
 トニーはふんぞり返るように顎を上げた。
「おい!知らんなんてことはないでしょうが!」
 ビオラはトニーの頭を掴み、ギリギリと力をこめた。アイアンクローだ。
「あだだだだ。ほ、本当だって!デワフ山に行かなくてはならない。それしか思い出せねぇんだ…」
「デワフ山に…?」
 ビオラはトニーの頭から手を離した。
「思い出せないって…記憶喪失?」
「ああ。その手掛かりを求めてこの辺をぶらついていたらあの蛇に丸呑みにされちまったってわけよ。ブヒッ」
 トニーは得意げに鼻を鳴らした。
「何よその顔…なんか腹立つわね」
「でも、本当に記憶がないの?」
 目線を合わせるように屈んでリエルはトニーに尋ねた。
「ああ。この平原に来る前のことは何も思い出せねぇ。せめて、デワフ山に行けば何かわかるかもしれない。たのむ。一人で行くのもしんどいし、連れて行ってくれ」
「…なんて言ってるけどさぁ…どうする?」
 頭を下げるトニーを指さしながらビオラはリエルに尋ねた。
「…うーん……」
 リエルは顎に手を当て、目を閉じて一考した。
「こんな奴ほっといた方がいいと思うんだけどあたしは」
「ちょ…ちょっとビオラさん…」

 一考を終えたのか、リエルは目を開いた。

「…わかったわ。ちょうど私達もデワフ山に行くところだったし、一緒に行きましょう」
 リエルは頷きながら答えた。
「ええ?本気?」
 思わぬ回答にビオラは驚愕した。アズキはともかく、こんな得体の知れない豚を同行させるリエルの思考が正直理解できなかったのだ。
「だ、大丈夫なんですか?」
 アズキにとっても意外だったらしく、彼女はリエルに尋ねた。
「大丈夫じゃない?害はなさそうだし、こんな姿でも困ってるみたいだから放っておけないかなと思ってさ」
「まったく…ホントお人よしなんだから…」
 左手で頭を抱えながらビオラは溜息をついた。
「ありがとよお嬢ちゃん。どこぞの乱暴ツインテとは大違いだぜ」
「おいコラ」
 睨み付けるビオラをよそにトニーはリエルにお辞儀するように頭を下げた。
「それじゃ、気を取り直して行きましょう」
「はいはい」
 三人は改めてデワフ山の方角へ歩き出した。
「あ、ちょっと待ってくれ」
 トニーは目の前のビオラに背後から声をかけた。
「…何よ?」
「歩き疲れたからおぶってくれねぇか?」

自分てめぇで歩け!豚野郎!」

 昼下がりの平原にビオラの怒号が響いた。
 
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