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第2部
諸岡良晃、頭を抱える
しおりを挟む――ざわめく夜のイタリアン・バール。
芳ばしいグリルの香りとリズミカルなピアノ曲が螺旋を描く陽気な店内。
その一角、四人掛けのテーブル席に、会議終わりのスーツ姿のまま一人ぽつねんと座る諸岡良晃は、手の中の “それ” を糸のように細い目で眺めていた。
……丸く尖った耳に愛らしい手足。オレンジ色の身体にピンクの触覚(角?)がぴょこんと2本。
何の動物を元にしたキャラクターなのかまったくわからないが、まぁ人好きのする可愛らしいマスコットだとは思う。そんな絵がプリントされた、一枚の磁気カード。
――今どき目にするのも珍しい “テレフォンカード” 。
「……君の持ち主は……何が目的なんだろうね?」
ついポソリと呟いてしまった時、――ドンッ!と背中に衝撃を受けて、むせた。
「ヤッホー、モロ。ナニぶつくさ言ってんのー?」
「飲むならそう言えよー、オレら帰っちゃうとこだったじゃん」
「……っほ、……いってーな、お前ら……」
二人がかりで捏ねくり回される容赦ないスキンシップと、聞き馴染みのある二つの同じ声。振り返らなくてもわかってしまう悲しさから、諸岡は、ああ……と項垂れた。
――こいつらがいると、話がややこしくなるんだよな……
思わず頭を抱えそうになった時、本来の待ち人が到着する。
「お待たせー諸岡。ごめん遅くなって。あと、コイツらついてきちゃった」
シンプルなパンツスーツもモードに着こなす『櫻華亭』麻布店のアテンド、大久保恵梨。諸岡が今日、定例会議終わりに急遽呼び出した人物だ。
本当はここに、牧野女史やチャラ上司の杉浦も同席してほしかったのだが、それぞれ都合がつかず叶わなかった。
疲れた様子で正面へ座った大久保に、諸岡はダブル子泣き爺をくっつけたまま「お疲れ。大変だったね」と労う。彼女は諸岡の背後を一瞥して、より一層うんざりしたように「ホントにね」と、吐き出した。
今日の『櫻華亭』店舗会議はかなり時間が押したようだ。無理もないだろう。あの “本部クレーム” があった後では。
大久保がメニューに手を伸ばしたところで、諸岡に絡みついていた小野寺双子兄弟はようやく離れた。
「ったく、水クサいったらないぜ。モロってばオレらに内緒でエリちゃんだけ誘ってさ」
「 “じゃあお先ー” とか言ってなかった? シレッと帰るフリしちゃってさ」
ぶぅぶぅ口を尖らせる二人の文句は一つも間違っていない。今夜諸岡は、この双子を誘うつもりはまったくなかった。
「俺、大久保と真面目な話がしたかったんだよね」
乱れた頭髪を軽く直しながら、そこは率直に告げておく。すると案の定、ニヤリと笑って悪ノリだ。
「ナンだよ、オレらには聞かせたくない話ってこと?」
「もしかして、エリちゃんが女子だってこと、気づいちゃった?」
「もしかして、モロってばそうなのー? 草食だったのにぃー?」
「ついにモロも、ガールをハンティングぅー?」
――ダンッ!
ふざける双子にいち早くキレたのは、諸岡ではない。
「さっさとドリンク決めちゃいなよ」
「「……あい」」
しおしおと縮むツインズ二匹。
……大久保って最近、牧野女史に似てきたなー……
心の声は心の声のままにしておく。
ドリンクメニューを取ろうと手を伸ばした小野寺弟が、あれ?と諸岡の手元に目を止めた。
「何それ、テレフォンカード? ほえー、久しぶりに見たぜ」
弟がひょいと取り上げたカードを、小野寺兄も興味深げに覗き込む。
「あ、オレこのキャラ知ってるー。何だっけほら、映画でさ……」
すると、メニューをなぞっていた大久保も、ちらと目を上げた。
「ああ、それ……諸岡ももらったの?」
「え? もらった、……って?」
見開いた細目に、大久保はさらりと黒髪を揺らした。
「違うの? それと同じやつ、私も何枚かもらったんだけど。もう半年以上前かな、本店の常連さんで映画製作会社のプロデューサー……名前なんて言ったっけ……あー、忘れた。その人がね、映画のオリジナルグッズをたくさん、本店のスタッフに配ったんだって。そのマスコットのストラップとかクリアファイルとか……テレフォンカードもね。でも結構数が多くて本店スタッフだけじゃ配り切れなくて。で、『櫻華亭』の各店舗にもおすそ分けで流れてきたの」
諸岡の鼓動がにわかに大きくなった。
「……ねぇ、それって……ホテル店舗にも回った……?」
「そのはずだよ? 松濤にもうちにも配ったけどまだ余っててね。特にそのテレカ、今どきテレカなんて欲しがる人いないでしょ? 鶴岡さんが赤坂や日比谷にも配るか……って困ってたの覚えてる。私だって欲しくないのに五枚くらい押し付けられたし。『アーコレード』には回らなかった? ……あ、私 “ミモザ” ね」
パタンとメニューを伏せた大久保嬢のために、諸岡は店員を呼ぶ。そこへタイミングよく合わせてくる双子兄弟。
「えー、『プルナス』には回ってこなかったぞー、の “ガット・ネロ” グラスで」
「いっつも『櫻華亭』ばっかりズルぅーい、の “ガット・ビアンコ” 同じくグラスで」
どこかで聞いたようなセリフ回しに、大久保が半眼でねめつける。
「あんたたちだってテレカなんか使わないでしょ? 私ももらったやつ、結局いまだに使わないままだし」
「金券ショップに持ってけば? オレならソッコー行くけど」
「度数によっちゃ、数百円程度にはなるんじゃない?」
「あのね、一応お客様から頂いたやつだよ? 即換金ってのも気が引けない?」
「「ぜんぜん」」
案外律儀な大久保恵梨に対し、不浄さ丸出しの双子兄弟である。
ほどなくして頼んだドリンクが到着し、カプレーゼだのスピエディーニだのラザーニャだのを次々と注文していくメンバーに交じらず、諸岡はテレフォンカードを手元に取り返し、何となく呟く。
「……テレフォンカードって……何に使うのかな……」
諸岡以外の三人が、一様にこちらを向いた。
「は? モロッち、おかしくなったの?」
「テレフォンするカードだよ? まさか知らないとか?」
……さすがにオレらでも知ってるぜ?モロってオレらと同い年だよな?知らないはずねーよ、だってあいつ意外と昭和だし。だよな、カラオケで懐メロばっかじゃん?だろ?しかもあいつレンタルチョイスも古くね?そうそう、つーかあいつ銀河系多いよな。そうそうマジそれ多過ぎ、つーかあいつんちヨーダいるしな。ああメーテルのテレビシリーズだってボックスで揃えてんだぜ?マジで?今度借りよーぜ……
小野寺双子の聞えよがしなコソコソにも反応せず、諸岡は薄い磁気カードを、あたかもそれと交信するかのように凝視する。
大久保が訝しげに片眉を上げた。
「なに、諸岡、どうしたの?」
「……コレで電話をかけるとしたら、やっぱり……公衆電話?」
「そりゃそうでしょ? って言っても公衆電話自体、ほとんど見かけないけどね。コンビニの外に置いてあるのも少なくなったし、あるとしたら駅とか病院とか公共施設とか……」
……そうだよな、と諸岡は思う。
携帯電話の普及に伴い、街中にある公衆電話設置場所は近年減少している。そこで、使用頻度の減ったテレフォンカードの有効活用方法の一つとして、電話料金の支払いに充てることもできると聞いたことがある。
……だけどさ、と内心唸りながら、諸岡はテーブルに置いたカードの、ある一点を人差し指で押さえた。
――穴が、開いているんだよな。ってことは、使ったんだ。公衆電話で。少なくとも一回以上は。
今日、午後会議の前に見聞きした出来事が、諸岡の脳裏で次々とザッピング再生される。
『――公衆電話からの着信を拒否するのって、やり方わかります……?』
『――私の携帯なんですけど……あ、いえ、たぶん間違いだと思うんですよね……』
『――今どき珍しいもの持ってるね。テレフォンカード?』
『――……ち、違う……! 違いますっ! それ、私のじゃないっ――』
色を失った蒼白な顔、滑稽なほど頑なに否定して叫ぶ声、カードを残して逃げるようにして走り去った後ろ姿。……そんな彼女を、途方に暮れたように見送り立ち尽くす、もう一人の彼女。
あの時、木戸穂菜美は必死の形相で否定していたが、このカードは彼女のもので間違いない。
何故ならこのカード、床に落ちた彼女の手帳を拾った時、そこから半分だけはみ出していたのだから。何の気なしに諸岡はカードを引き抜いてしまったが、元々手帳に挟まっていたのは確かだ。決して、このテレフォンカードが単独で落ちていたのではない。
最初、それを拾った時点では、諸岡も気づかなかった。すぐに結びつかなかった。
情けないことに、私のじゃないと叫んで否定した木戸と、どこかショックを受けたような顔の水奈瀬を見て、初めてピンときた次第だ。そもそも、公衆電話からの着信の件も彼女の言葉通りに受け取っていた。数日に一回程度、着信が入るくらいの、ただの間違い電話だと。
けれどもし、一日に何回もかけてくるのだったら……?
間違い電話ではなく、嫌がらせ目的の電話だったら――、
あの後、会議が始まるまでのわずかな時間、諸岡は『さっきの公衆電話云々の話、もう一度詳しく話せ』と水奈瀬葵に詰め寄ったのだが、結果は空しく空振りに終わった。
彼女は “ただの間違い電話” である見方を一ミリたりとも曲げなかった。……諸岡の視線を避けるようにしていたくせに。
結局タイムアップ、会議が始まり、諸岡は溜息交じりに追究を諦めるしかなかった。
せめて、どのくらいの頻度でかかってくるのか、時間帯はいつが多いのかなど、具体的な状況を聞いておくべきだった。確か、先月くらいから着信するようになった……と言っていたが、それだけでは何の証明にもならない。
そして会議終了後、予算資料の些細なミスを指摘された水奈瀬は、訂正してから帰りますと言って、総務のパソコンを借りるためいち早く会議室を出て行った。……おそらく半分は口実だ。また諸岡が話を蒸し返し、再び問い詰めてくることを察知して、それとなく身をかわしたのだ。
まったくどうしたものか、諸岡は実に複雑な気分だ。
――答えは合っているはずなのにどうしてか丸がもらえない……そんな理不尽な心地。
「うっそー、木戸さん、また泣いたの?」
「すげー、ある意味、女優じゃね?」
「豊島がしつこいんだよ。『本当は君が聞き間違えたんだろう?』とか、今更追及したってしょーがないのにさ。毎度のことながら、あの男の無能さと無益さにはウンザリだわ」
次々と運ばれてくる料理をつつきながら、大久保が双子相手に愚痴っている。
どうやら今日の店舗会議の様子についてらしい。思った通り、『櫻華亭』の会議室は大荒れしたようだ。
「豊島うぜぇ。コンダヌキに取り入りたい下心が丸見えじゃん。あいつアッタマ悪いからさ、コビコビでやってかなきゃ生きていけないんだよ」
「こないだ、またワインの銘柄を間違えて発注したらしいぜ。 “ワイン通” が聞いて呆れるよな。誤発注したワインを並べて土下座するがいい」
双子もなかなかの毒吐きっぷりだ。
「ホントにホテル店舗、大丈夫なのかな。売り上げも下がり傾向だし、利益も取れないし、なーんかヤバい気がするんだよね……」
はぁ、と大久保が溜息を吐けば、双子がシンメトリーに腕を組んだ。
「日比谷は元々悪いけどさ、最近赤坂もダダ落ちだよな」
「そうそう、売り上げも評判も。それってさ、木戸さんがアテンドに就いてからじゃね?」
「蜂谷支配人、ますます痩せ細っていくな」
「いい加減、キレてんじゃん? そのうち『シャーッ!』って牙むくぜ」
「ぶっは! 長~い舌の先が割れてんだよな」
「いやアレだよ、飛んでるハエをピェッ!と……」
「やめなって」
増長する双子を、大久保が面白くもなさそうに窘める。
「赤坂の業績が不振なのは、木戸さんがアテンドになる前からだよ。……ほら、諸岡も食べなよ。こいつらに全部持ってかれちゃう」
「ああ、ありがと」
小皿に取り分けてくれたイタリア風串焼きに手を伸ばしながら、諸岡の思考は再び彷徨う。双子のふざけた会話には彼らが意図しないまま、不穏な様相がチラついている。
近年確かに、赤坂、日比谷、汐留の三店舗は、他に比べて伸び率が悪い。特に赤坂は、初のホテルテナント店として大々的に繁盛した過去を持つだけにその落差が際立つ。
誰のせいでもないだろうと思う。そもそも長引く不景気や時代の流れによって、高級レストランそのものの需要が減ってきている厳しいご時世なのだ。
だけれどこの先、小野寺双子が口にしたような、木戸穂菜美を疫病神扱いする見解は、冗談話では済まされなくなるかもしれないのだ。
木戸穂菜美――歳は諸岡より一つ下で、水奈瀬葵と同期だ。木戸は中途採用されているので、入社は水奈瀬葵より半年ほど後となる。
噂によれば、かなり裕福な家庭で育ったらしい。おそらく甘やかされ世間を知らないまま社会に出たのだろう。いかにも世間知らずのお嬢さん、という感じだ。
ただ興味深いことに、その環境は彼女を傲岸不遜にはしなかったようで、引っ込み思案……というより、むしろ対人関係に怖気を震う性質があるらしい。
見た目はどうなのか……異性を恋愛感情で見る感覚がパステルカラー並みに薄い(と言われたことがある)諸岡としては何とも言えないが、いつだったか杉浦が「ある種の男どもから、守ってやりた~い、なーんて思われちゃうタイプだよねー」と言っていたので、そうなのかなと思う程度。諸岡自身、特に目を惹かれる容姿ではない。
牧野女史情報によれば、木戸穂菜美は今田顧問の紹介でクロカワフーズに入社したという。もともと給仕人ではなく、『櫻華亭』のパティシエを希望していたらしい。とはいえ、製菓関係の専門学校に通ったわけでもなく、どこかの店で経験があるわけでもない。
面接で『 “お菓子作り” ができると聞いたので……』と真顔で言ったとか言わなかったとか。……本店も舐められたものだ。
果たして、家庭単位での “お菓子作り” レベルでは雇えない、と本店の現パティシエ、そして国武料理長が断ったところ(おそらく理由はそれだけでない)、それに憤慨した今田顧問が、半ば意地になって赤坂店への雇用をゴリ押しし、彼女の採用に至ったという。
しかし、そんな悶着を経て採用された当の本人は、接客給仕など自分に向いていない、と思い続けているのか、今でも腰が引けたまま仕事をしているのだそうだ。副支配人というポジションにも、今田顧問の推薦によってほぼ強引に就けられたせいか、アテンドとしての責務はほとんど果たしていないという。
それどころか彼女は、仕事中でも叱責されればすぐに泣き、そして怖気づいて仕事から逃げてしまう。社会人としてあるまじき脆弱さなのだ。
いつだか、『櫻華亭』松濤店アテンドの坪井が怒り心頭で話してくれたことによれば、何か月か前の店舗会議において、配られた会議資料に配布ミスがあったらしい。配ったのは木戸穂菜美。坪井他、何人もがその目で見ている。
運悪く日比谷の豊島支配人がそれを見つけてしまった。しかも、その配布ミスを即、大久保のせいだと決めつけた。豊島は今田顧問の腹心を気取る男だ。大久保は今もなお、今田氏一派によく思われていない。
そこで『すみません私です』の一言を、木戸穂菜美が言えばよかったのだ。人間誰しもミスはある。資料の配布間違いくらいで目くじらを立てるほどのこともない。
だが木戸は、大久保が濡れ衣を着せられていることを目の前で見ていながら、そこから目を逸らし知らぬふりをした。当然、そこは大久保も黙っていない。
自分ではないことをきっちり主張した大久保に続き、坪井や他の面々が配布したのは木戸であることを指摘した。その途端、木戸穂菜美は泣き出したという。
――なんか、俺たちが泣かしたみたいになっちゃって!
そう憤っていた坪井に、諸岡は心底同情する。
結局、鶴岡マネージャーが呆れ返りながらもその場を執り成し、会議はつつがなく続行したそうだが、そんなことで泣くか?と、誰もが胸中ツッコみまくっただろう。
これはほんの一例だ。赤坂店での通常業務においても、一事が万事、こんな感じらしい。
おそらく、不本意な仕事をさせられているという意識が、木戸自身の中から抜けきらないのだ。よって小さなミスが無くならない。そこを突かれてすぐに気持ちが折れてしまう。
しかし、迷惑を被るのは他の従業員である。泣いた顔で接客をさせるわけにはいかず、結局帰らせるか、裏に引っ込ませるしかなくなり、結果、彼女が抜けた分、他のスタッフに負担がかかってしまう。
今田顧問のコネという辛うじてのバリアが効いているのか、かつて大久保がされたような表立っての苛めなどはないようだが、会議の時に諸岡が感じるだけでも、彼女を囲む雰囲気は決して良いものではない。
そこへ勃発した今回の本部クレーム……赤坂はもとより、ホテル店舗の従業員が今後、彼女のことをどう扱っていくのか、それこそ疫病神的存在として忌み嫌われるのではないか。
彼女が『櫻華亭』で使えないとなれば、『アーコレード』に回されてくる可能性もゼロではない……考えるだけでドッと疲労感が増す。
こうして諸岡の思考は再び、手元のそれ――テレフォンカードに戻ってくるのである。
彼女の人となりを吟味すればするほど、諸岡の中で彼女への疑念は強くなるばかり、“公衆電話からの着信” と “落としたテレフォンカード” がガッチリ結びついて離れない。
しかもだ。諸岡はその “動機” についても、心当たりがある。
――だってさ……考えられる理由は、一つしかないじゃないか……
「――だからさ、なーんかムカつくんだよね、黒河マネ」
今まさに思い浮かべた人物の名が耳に入って、諸岡は密かにドキッとした。
「最近ずっとあーんな感じだよなー。葵ちゃんに対して当たりがキツイってゆーか」
いつの間にか、話が移り変わっている。今度はうちの店舗会議か。
「……黒河さんが? どういうこと?」
諸岡が口を開くより早く、大久保が二人に問う。
すると反応されたのが嬉しいとばかり、小野寺双子はそろって身を乗り出した。
「慧徳が社員二人しかいなくて、しかも佐々木チーフが会議に出て来ないのなんて、今に始まったことじゃないじゃん? なのに今日もさ」
「そうそう、メニュー新案のことや厨房機器のメンテナンスだって、葵ちゃんが詳しくわからないの知っててさ、『店長のお前がなぜ知らない?』みたいな」
「あれは葵ちゃんが可哀想だよ」
「なんつーか八つ当たりだよな完全に」
「八つ当たり? 黒河マネージャーが葵ちゃんに、何の八つ当たりをするっていうの?」
眉根をひそめた大久保に、双子は全く同じタイミングで、ピンと人差し指を立てる。
「「ドロ沼不倫劇場」」
「……は?」
ポカンと口を半開きにしたのは大久保だ。彼女は結婚披露パーティーの二次会には来なかった。だから、この双子が見返りをねだってまで披露した極秘(?)情報を知らない。
そんな彼女に、小野寺兄弟は嬉々として説明する。
――夏祭りン時さ、木戸さんと……そうそう屋上の片隅で……しかも人妻にも言い寄られて……赤坂に入った宴会でさ……高校の同級生って話でさ……モテる男はツラいよな……――
あまりのぶっ飛んだその内容に、さすがの大久保も口が半開きのままだ。そんな彼女をちらと見やって諸岡は深々と嘆息する。
「なぁ、お前らさ……それ、本気で信じているわけじゃないだろ?」
黒河侑司を巡る昼ドラ的ドロ沼劇場、とやらは、諸岡に言わせれば脚色過多の眉唾物だ。そして双子兄弟は、それを百も承知で口にしている。
伊達にこの双子とつるんで馬鹿をやってきたのではない。時折無秩序で無軌道な思考言動をひけらかす双子ではあるが、そこには彼らなりの “理由” が必ずあるのだ。
諸岡には、ある確信があった。
「お前たち、ホントは気づいているんだろ?」
「……は? ナーンのことかなモロちゃん」
「ナンだよモロ、ワケわかめー」
とぼけた振りで誤魔化しても無駄だ。双子のギクリとした気配は手に取るようにわかってしまう。
諸岡はゆっくりと子供に言い聞かせるように、努めて落ち着いた口調を心がけた。
「水奈瀬と黒河さんのことだよ。お前たちはそういった男女の機微に、俺より数倍敏感だ。あの二人の微妙な感じに気づいていないわけがないんだよ。なのに、黒河さんの印象を落とすような話をわざと広めようとする。まさか、水奈瀬を黒河さんに取られたくないとか、そんな幼稚な理由からじゃないだろう?」
すると、小野寺兄がハッ、と馬鹿にした笑いを吐き出した。
「バッカだなーモロ。オレらがそんな外道な目で葵ちゃんを見るわけないじゃん」
次いで、小野寺弟が首を突き出し挑発じみた声で言う。
「そうそう、オレらの葵ちゃんはみんなのものだぜ? 取られるとかワケめかぶー」
「……もはや立派な “親衛隊” だね」
大久保が呆れたように天を仰ぐ。
この双子が水奈瀬葵に対し、少々行き過ぎた好意を抱く気持ちもわからないではない。何度も彼女からワインやリカーについて教えを請われ、彼女らしい素直で純粋な尊敬の目を向けられたこともあって、すっかり気心を許しているのだろう。
あくまでも人としてであり、そこに恋愛的感情はない。その辺は、アイドルを擁護するファン心理に似ているのでは、と諸岡は思っている。
しかし、いくらお気に入りのためといえども、人を中傷しくだらない噂を流し、闇雲に引っ掻き回していい理由にはならない。
「とにかく、これ以上根も葉もないガセネタをばら撒くのは止めるんだ。俺たちだけなら笑って済ませるけど、もしこれがクロカワフーズの上役か……もしくは当の本人にバレてみろ、お前らが名誉棄損で訴えられても文句は言えないんだぞ? そんなリスクを冒してまでこんな馬鹿げたゴシップ話をひけらかすのは、例えどんな理由があっても賢いやり方じゃない。……俺は、お前らがそこまで愚かな人間だと思いたくはない」
そこまで言った時、二人の同じ顔が同じように歪んだ。
小野寺兄が言う。
「……別に、葵ちゃんが幸せになれるんなら、誰だっていいよ」
小野寺弟も言った。
「ああ……、オレら、葵ちゃんを泣かせたいわけじゃないし」
「だったら」
言いかけた諸岡を二人は遮る。
「でも、今の黒河マネはダメだ。葵ちゃんにあんな顔をさせるなんて」
「あの人は最近おかしい。わざと葵ちゃんを突き放してる。葵ちゃんが可哀そうだ」
「だからそういうのは当人同士の問題だ。お前らが首を突っ込んでつまらない噂を流していいってことには――、」
――と、またしても遮られた。今度は軽快なジャズ曲。双子の携帯メール着信音、二重音声。
同時にポケットから携帯端末を取り出し、同じ動きで画面を確認した二人は、まったく同じ言葉を叫んだ。
「「タモンさんだ!」」
パッと顔を輝かせた双子は互いに頷き合って、同時にグラスを手に取り残っていたワインを一気に煽る。タン、と空のグラスを置くのも見事なシンメトリー。
「こないだ言ってた “ボーデール・ガロア” だぜ、きっと!」
「オレは “ヴィニョン・ペール” だと思う! もちろん “レゼルヴ” で!」
いきなりウキウキと立ち上がり、そそくさ帰り支度を始める双子に、諸岡も大久保もポカン、だ。
「悪いけど、オレたち帰るわ」
「エリちゃん、また今度ね」
それぞれ左手と右手を対称に上げた双子は、くるりと背を向けいそいそと去っていった。
勝手についてきた双子兄弟は、帰る時も勝手気ままである。彼らが去っていった後に、ひゅるりと風が吹いて枯れ葉が舞った気がした。
「……たぶんアレ、あいつらが尊敬しているバーテンダーさんだよ。多聞さん」
テーブルに並んだ食べ残しの料理を眺め、諸岡が今日一日最大の溜息を落とせば、大久保は「ああ」と頷いて苦笑する。
「聞いたことある。……確か西條さんがやってるバーに昔からいる人だよね。『プルナス』はそのお店を手本にしてオープンしたんでしょ?」
「そう。それ」
まぁ、あの双子の奇行は今日に始まったことではない。
遊んでいる途中でもその “多聞さん” からメールが入ると、双子はああして即座に立ち去っていく。諸岡も何度か経験済みだ。
おそらく何か珍しいワインやリカーが手に入った、とかそんな類の知らせなのだろう。勉強熱心なのは結構なことだが……
「……金払ってないよな、あいつら」
「あとで五割増し請求しなよ。……それより」
空いた皿をいくつか重ねながら、大久保が言う。
「さっきのドロ沼ナントカ、って話、どういうこと? いや、信じてはいないけど、全部が全部マルっと作り物ってわけじゃないんでしょ」
「その辺もひっくるめて、色々相談したかったから今日誘ったんだよ」
「……諸岡がそのテレカを気にしている理由も?」
大久保は冴えたその瞳を真っ直ぐ諸岡に向ける。
頭のいい人間は話が早くて助かるよ……諸岡は肯定と感謝の意を込めて、笑んで見せた。
あの双子に言い渡した手前、諸岡自身も他人様の恋愛事情に首を突っ込むつもりはない。
ことさら冷たく当たるサイボーグ上司のことも、それに傷つく幼気な後輩のことも、気にならないわけではないが、とりあえず、今は静観すべきだと思っている。
けれどあの杉浦が、黒河侑司と水奈瀬葵の周辺に気をつけておいてほしい、と言っていた。どんなに小さなことでも、気づいたことは知らせてほしい、と。
今日、諸岡が目にしたあの出来事は、おそらく杉浦が是非とも欲しがる類のものだ。あのチャラ上司がそう言うのなら、何かある。
もちろん今回のことは彼に報告するつもりでいるが、その前にあと一手の後押しが欲しい。
恋愛的な観念が薄い自分は、恋する女の――木戸穂菜美の行動心理が今一つ上手く解析できない。……果たしてそれは、動機となりえるのか。
目の前の才女が恋愛に詳しいかどうか、いまいち確証はないが、少なくとも諸岡よりは分析力に長けているだろう。何といっても、女性だ。
「長くなるけど、いい?」
「じゃあ、これもう一杯」
空になったグラスを掲げる大久保に、諸岡は「了解」と告げて、自分のグラスも飲み干した。
――まったくどこから話せばよいのやら……
首を伸ばして店員を探しながら、諸岡の手は依然として、一枚の磁気カードを弄んでいた。
応援ありがとうございます!
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