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第2部
驚愕事態、発生(勃発編)
しおりを挟む【From】橘ちひろさん
【Sub】Re:ご連絡ありがとうございます
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葵ちゃん、おはよう!
特典収録の件、本決まりになりそう。
慧徳のお店を使いたいってことは、
事務所と局からクロカワフーズさんに
打診中。でも渋られているみたい。
葵ちゃんからも石頭マネージャーに
言ってやってよ。
損な話じゃないでしょ?って。
たぶん、相当いい宣伝になるはず。
監督も住吉さんもアーコレードには
行ったことがないから、すごく楽しみに
してるの。
そーだ、今度、一緒にご飯食べましょ。
葵ちゃんにイイことたくさん教えてあげ
る♪
また連絡するね!
========END========
いつもの起床時間より早く葵を起こしたのは、有名女優様からのメール着信。
寝ぼけ眼で文面をなぞれば、思わず目をこすってしまうほどのフランクさ。……芸能人なのに……女優様なのに……
携帯を閉じて枕の中に突っ伏し、葵はむぐむぐと言葉にならない言葉を呻いた。
――んんぅ……そんなことわたしにいわれてもこまるんですぅ……
起き抜けの働かない頭に、これはなかなかの覚醒作用だ。
今回を含めて彼女からのメールは三通目なのだが、逆にこちらは、着信するたびどう返信したものかとしこたま悩んでしまう。
突っ伏した顔だけを捻り、閉じて手に持ったままの携帯をボーっと眺めた。
昨日からの着信はこれ一件のみ。メールも電話着信も、他に無し。
――公衆電話からの着信も、無し。
昨日だけではない。その前の日もその前も……いや、はっきり言おう……月会議の日を境に、葵の携帯へ入ってくる不審な着信はぱたりと途絶えた。諸岡から教えてもらったネットワーク設定とやらをしてもいないのに、だ。
これの意味するところは――、
「んー……ぅおおっしゃぁっ!」
ぐるぐると撹拌される澱んだ思考を振り払うように、葵は跳ね起きた。
もう考えまい。なくなったのなら、それでいい。
たった一つ失敗したなと思うのは、あの日、諸岡に余計な相談をしてしまったことか。着信拒否の仕方など尋ねなければよかったと思う。
その直後に、あんなものを見るとは思わなかったのだ。
諸岡は一見、牧草地に安住する草食動物のような風貌だが、視点は鋭く洞察力に長けている。
あの場に走った衝撃と動揺を見抜き、葵の心に芽生えた小さな疑惑に勘付いてしまったのだろう。『ただの間違い電話です』と言い張った葵の弁を、彼はおそらく信じていない。
しかし、この先たとえ誰に何を聞かれようとも、葵は “ただの間違い電話” で通そうと決めている。自分は何も見ていないし、何も気づいていない。第一、何の確証もない。
確かな証拠もないのに疑うのは、彼女に対して失礼なことだ。
――だからもう、考えない。考えたくない。
手早く身支度を整えて外に出れば、冷たく乾いた秋の空気がその身を取り巻いた。
葵はほんの少し身震いした。
* * * * *
久しぶりのマネージャー来店は、その日のランチタイム後であった。
颯爽と裏の事務室に入ってくる侑司の後ろには、四角四面といった新マネージャー柏木の姿がある。ということは、いよいよ本格的な引き継ぎ業務に取り掛かるのだろう。
前回の “杉浦→侑司” の引き継ぎはわずか一日……否、数時間で済んだので、今回も今日中に済ませてしまうのかもしれない。
異動を控え、ますます忙しそうな侑司は慧徳店に来るのもご無沙汰で、葵と顔を合わせるのは月会議の日以来のことである。
顔を合わせたとて、冷淡でそっけない態度はここ数か月のデフォルトだ。もう慣れた……そう言えればどんなにか楽なのに。
葵に挨拶を返した侑司は、その一瞬さえも視線を合わさず、すぐに柏木と共にパソコンへ向かう。こうして繰り返される小さな落胆を、葵は意識して意識しないように努めなければならない。
高揚感と期待感はすぐさま失望と諦観にすり替わる……まさに不毛。
そんな浮沈を繰り返す自分が、葵はほとほと情けなかった。
「――ここの店に取材要請が来ているそうですね。何でもお客様から水奈瀬店長へ、直にコンタクトがあったとか」
と、ツーポイントフレームを光らせた柏木が尋ねてきたのは、賄い休憩も終わりディナー準備をし始める時間だ。
発注ボードを取り落しそうになった葵は、内心「情報はや!」と舌を巻きつつ、従順に頷く。
葵自身がすでに本社へ報告済みであるし、先方様も本社の方へ直接要請しているというので、柏木が知っていてもおかしくはないのだけれど。
「一度来店してくださったお客様です。有名な女優さんだそうで、ありがたいことにうちの店を気に入っていただいたんですが……」
今朝のメールも含め、葵に直接何度か連絡を取ってきた橘ちひろ。
『葵ちゃんにお願いがあって』と切り出された今回の件は、さすが女優様だけあって、一筋縄ではいかない “お願い” であった。
橘ちひろが主演を務めて話題となったドラマ『ツグミ鳴く空に』が、近々DVD化されるという。それに伴い、特典映像の収録をすることになったそうだ。
その中に、主演の橘ちひろと相手役の住吉基也という俳優、そして監督の三人が、ロケ地などを回りながらドラマ撮影の裏話を披露する一編があるらしく、いくつかあるロケ地の中で絶対にはずせない “鶴の宮公園” でも追加撮影することになった。
“鶴の宮公園” は、慧徳学園前の町と隣町の境にある大きな緑地公園で、季節ごとに変わる花木や公園内の大池に集まる野鳥などが唯一の見どころといった、特に何の変哲もない公園なのだが、ドラマの中では重要なシーンに使われたということで、今では知名度も上がり、ファンの間では “聖地” と呼ばれるほどなのだ。
その “鶴の宮公園” での撮影後、『アーコレード』慧徳学園前店で食事を取らせてもらいたい、というのが橘ちひろからの “お願い” だった。
もちろん、ただの会食ならば喜んで予約を承るのだが、簡単に承諾できない難点があった。
その会食自体を特典映像として利用したい……つまり、店の中にカメラを入れて撮影したい、というのである。
話がそうなると、葵が簡単に了承することはできない。
実はクロカワフーズという会社、培ってきた歴史と伝統、格式を重んじるためなのか、あるいは、訪れる顧客の特異性と機密性保持のためなのか、店舗の宣伝広告における規制が多く厳しい。
テレビや雑誌の取材にもほとんど応えることがなく、『櫻華亭』本店はその昔、世界的に有名な某ガイドブックの掲載要請でさえ断った――というのは有名な噂。
例外として、黒河紀生総料理長がほんの数回のみ、とある料理専門雑誌の取材に応じたことがあり、その際、本店の厨房にカメラが入ったこともあったようだが、それも十年近く前の話でここ近年は全くないらしい。
そしてもう一つ、実はまだ葵が入社する前の話なのだが、黒河家長男である黒河和史が、社の許可なく写真付きで雑誌に載ってしまい、大問題になったことがあるのだ。
何でもその雑誌というのが、料理や飲食業界とは全く関係のない、いわゆる女性ファッション誌で、掲載された記事が『街で見つけたイケメン料理人特集!』というようなものだったらしく、掲載後、本社に問い合わせの電話が殺到したこともあり、あわや訴訟か黒河和史はクビか――まで発展しかけたという。
その一件以来、クロカワフーズではさらに一層メディアに対する警戒心を強めてしまった。
このご時世、メディアへの露出を完全に防ぐことなど不可能なのだが、それでもクロカワフーズ傘下の店はどこも徹底して、取材お断りのスタイルを貫いており、当然、慧徳学園前店においても、今回頂いた話に「喜んで承ります」と受け付けるわけにはいかなかったのである。
「――徳永GMには事のあらましを全部報告しています。今後、店や私の元にそういった打診があっても、すぐに本社へ回すよう言われています」
神妙に葵が答えれば、柏木は眼鏡の奥の瞳をすっと面白げに細めた。
「……なるほど。かの女優とやらは、この店同様、貴女のこともよほど気に入ったようですね」
その声音に小さな揶揄を感じた気がして、葵は思わずムッとする。だが柏木は気にした様子もなく流れるような仕草でブリッジを軽く押し上げた。
「ここはずいぶん自由な風潮があるようですが……そもそも顧客と個人情報をやり取りすること自体、ギャルソンとしての自覚に欠ける振る舞いだったのではないかと、私は思いますね。貴女一人の軽はずみな言動が、社の風評を貶めることにもなりかねない」
これにはさすがに葵も反論しかけたが、そこへ低い声が割り込んだ。
「――柏木、四月からのデータはこれで全部だ。後期分は前年ので見てくれ。杉浦さんが出したものだが問題はないだろう。こっちのデータ管理は『櫻華亭』で使っているものと若干違う項目がある。今のうちに把握しておくといい」
侑司が柏木の肩越しに書類を差し出す。
不意を突かれたらしい柏木は、それでもすぐに受け取って「ありがとうございます、では早速……」と、踵を返しデスクに向かった。
見上げる葵に、侑司はほんのわずか目線を動かす。
行け、という意味なのだと理解し、葵はさっと一礼して事務室を出た。
発注ボードを抱え、バックエリアの備品在庫チェックに取り掛かるも、悶々とする心情はなかなか消えそうにない。
―― “ギャルソンとしての自覚” ? “軽はずみな言動” ? ……あんな言い方しなくてもいいのに。
葵の唇は尖り、眉間には深いしわが寄る。
新しい担当マネージャー、柏木英毅。『櫻華亭』本店前支配人。確か二十九歳。若くして本店支配人を務めたのだから、さぞ有能な人物なのだろう。
しかし、ずいぶんお固い考えをお持ちのようだ。確固とした理想を持つのは結構だが、それを自分以外に強く求めるのはどうなのか。しかもかなりの皮肉屋。
彼との仕事はまだ始まってもいないが、あの厭味な言い回しだけは慣れる気がしない。
――そりゃ、黒河さんが新しく来た時も、ダメ出しされたけどさ。厳しい言い方されたけどさ。でも、あんな厭味な言い方しなかったし。……黒河さんはあんなにカチコチな考え方じゃないし!
鼻息も荒く、いささか乱暴な手つきで備品を数えれば、ふと葵の脳裏にポンと浮かぶ。
「…… “石頭マネージャー” 」
橘ちひろのメールにあった言葉だ。以前、店に来た時も帰りがけにそんなことを言っていたような記憶がある。
……頭が固い……カチコチの……石頭。
「――店長? 今なにか言いましたか?」
「……えっ? あ、いや何も、あはははは……」
篠崎が不審げな顔でグラスのラックを表に運んでいく。
その背を見送って、葵ははぁ、と隠すことなく盛大に息を吐き出した。
「……石頭、マネージャー……か」
橘ちひろのその言葉には、薄っすらと、慣れ親しんだ者への気安さみたいなものを感じたのだけれど。……気のせいだろうか。
そして葵は何となく、それは柏木のことではないと思った。
* * * * *
――ディナータイム、オープン。
その晩は金曜日ということもあって、なかなか盛況な客足である。
葵と篠崎、池谷の三人で忙しく店内を回る最中、珍しい客が来店した。
「こんばんわ、葵ちゃん。三名なんだけど、空いてるかな」
屈託ない笑顔を見せるその男性――片倉は、前に来店した時より幾分髪が伸びて、ほんの少し日に焼けたようだ。その背後で大きな機材を抱えた若い男性二人が、興味深げに店内を覗き込んでいる。
「いらっしゃいませ、片倉さん。お久しぶりですね」
葵は内心の動揺をおくびにも出さぬように、来店した彼を笑顔で出迎える。素早くフロア内を確認し、ちょうど空きそうなテーブルに目星を付けると、「すぐにお席をご用意します。お待ちくださいね」と告げてフロアに戻った。
前回来店してくれた時、葵は彼に対して少々失礼な態度を取ってしまった自覚がある。今思い出しても、ついムキになって反論してしまった自分が恥ずかしい。
それでも、こうしてまた来てくれたことは、素直に嬉しくホッと安堵した。
後でタイミングを見計らって、きちんと謝ろうかな……それとなく様子を窺いながら、葵は片倉たちをテーブル席へと案内する。
「ずっと来たかったんだけど、仕事が忙しくてね」と言いながらメニューを広げる片倉は、特に前回のことを気にしている様子もなく、後輩らしき男性らと何を食べるか大いに悩んでいる。
「ダメだ。タンシチューしか選べない」
「どうせ初めっからそのつもりだったじゃないっすか」
片倉と後輩のやり取りに、葵もつい微笑んだ。
――おや……?という、一抹の違和感を抱いたのは、ディナータイムの一番忙しい時間帯であった。
フロアは満席、待ち客三組。
入口玄関とレジ前をつなぐスペースに待ち客用の椅子がいくつか並べてある。そこに座る一組の客。
その二人連れの客は一見どこにでもいそうなカップルで、男性は中肉中背の三十代半ば、目深に被ったキャップから赤茶けた髪がはみ出しており、迷彩柄のスタジアムジャンパーを着ていた。一方の女性は、明るいブラウンの長い髪を巻いてあり、モフッとしたニットコートを羽織っている。化粧が濃い目のせいか年齢は二十代とも三十代とも見えた。
他の待ち客と同じように待つそのカップル客に、なぜか葵の目は何度か留まった。
どこがおかしいのか何が引っ掛かるのか、その時ははっきりと認識できなかった。ただ、何となく他の客と違うような印象を持っただけだ。
そのカップル客を空いたテーブルに案内したのは篠崎だ。
彼らが待った時間はおよそ十分から十五分程度であったろうか。案内した席は4番テーブル、3番テーブルに座る片倉たちの一つ奥である。篠崎は待たせたことをお詫びし、誠実な態度でテーブルまで案内した。
次いで、その客のオーダーを取ったのは葵だ。
メニューを広げてすぐ、ほとんど考えることなく「メンチカツ二つ、ライスで」と男性の方が不愛想な声で注文した。
飲み物など他の注文はないか、念のため確認を取ったあと、葵は丁寧に一礼してテーブルを離れた。連れの女性はメニューを広げることさえしなかった。
料理を運んだのは池谷だ。
アルバイト歴が長い池谷は、メイン皿二枚、ライス皿二枚の計四枚を、危なげなく腕に組んで運ぶことができる。
揚げたて盛り付けたての料理を、迅速にかつ丁重に、完璧な配置でその客に提供した。
そこには、ひとかけらの不備もなかった。
――後に明らかとなるのだが、実はこの時フロアで接客していた葵、篠崎、池谷の三人は、口にこそ出さずとも三人三様に、このカップル客に対して奇妙な違和感を抱いていた。
しかし、店は忙しくその客ばかりを注視しているわけにもいかない。
特に、週末の夜はコース料理が入りやすく、それに伴ってアルコールのオーダーも増える。
ベストなタイミングでの給仕が求められるフロアスタッフは、テーブルごとのペースを見計らい、厨房と密に連携を取らなければならないので、その視野を常に広く持つ。
しかも厨房と違い、フロア接客では作業の割り振り固定がないため、スタッフの動きは流動的だ。
バイトも社員も関係なく全員が効率良くオールマイティな動きをするため、フロア内の “目” は代わる代わる入れ替わり、その場一点だけに停止することはない。
――事が起きたのは、常に流動する動きの一瞬の間にできた “隙” を狙って、だったのかもしれない。
「いやー、ホントに美味しかったよ。やっぱりここのタンシチューはテッパンだね。今日こそは他の料理も試そうと思ってたんだけどさ、結局、誘惑に勝てなかったな」
「あはは、先輩、こないだからずっと『タンシチュー食いてー』言ってましたもんね」
「でもマジで旨かったっすよ。俺今度、彼女連れてきます!」
「……んだよ、それは独り身の俺への当てつけか? 葵ちゃん、支払いはコイツが全部持つからね」
「うぇぇっ? そんな先輩っ、奢ってくれるって言ったじゃないっすかっ」
片倉のテーブルで食後のコーヒーを給仕しながら、葵もつい笑顔になる。
仕事仲間で後輩だという若い男性二人はずいぶん片倉に懐いている様子で、会話を聞くだけも微笑ましい。
今日は取材撮影で出回っていたらしく、終わった後ここまでタクシーを乗り付けて来てくれたそうだ。三人それぞれビール一杯に加え、赤ワインのフルボトルを開けて飲み切っている。そのせいか後輩の一人は顔が真っ赤である。
そんな中でも、片倉は顔色一つ変わらず平然としていた。そう言えば、彼が麻実たちと来た時も一人で来た時も、ワインをよく飲んでいたのを思い出す。アルコールに強いタイプなのかもしれない。
「では、ごゆっくりどうぞ」
前回のことを謝らなければ、と思ってはいるのだが、楽しい雰囲気に水を差すのは躊躇われる。お帰りの時でもいいかな……と、葵が一礼しかけた時だった。
「……ねぇ、葵ちゃん」
片倉が小さな声で呼び止め、その指をクイクイと動かす。
「?」と葵が身をかがめれば、片倉は葵に顔を寄せ、声を潜めて言った。
「……そのまま聞いて。俺たちの前のカップル……ちょっとおかしいかも」
何となく心に引っ掛かっていた懸念をズバリ言い当てられたような気がして、葵はドキッとする。
「いやね、あの男の方……どっかで見たことがあるような気がしてさ、つい目がいっちゃったんだけど、何か様子が変なんだよね……さっきも俺がトイレに行く時――、」
目を見張った葵はしかし、最後まで片倉の言葉を聞くことができなかった。
「――ねぇ! ちょっと!」
店内に、異質な声が響き渡った。
一瞬の静寂――、そして葵は誰よりも早く反応した。
瞬間的に顔を上げて片倉たちに軽く頭を下げると、声の主――例のカップルが座るテーブルへと走り寄る。
――ドクンドクン、と心臓が警鐘のように鳴っていた。
「いかがされましたか?」
努めて冷静な声で伺えば、長い髪の女性が「これ、見てよ」とテーブル上のメイン皿を押し出した。
「髪の毛、入ってんだけど」
――あり得ない……あってはならないことが、起きた。
応援ありがとうございます!
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