アーコレードへようこそ

松穂

文字の大きさ
上 下
88 / 114
第2部

諸岡良晃、オケカフェなう

しおりを挟む
 
 
 きらびやかなネオンの中を縫うようにタクシーが列をなし、時折そのクラクションがけたたましく自己主張している。多国籍感を醸し出す目抜き通りに、浮かれ切った男女の叫喚が響き渡った。
 ――日付が変わろうとする深夜の、光る東京タワーが見下ろす繁華街。
 諸岡良晃は白い息を吐き出し鼻の頭を赤く染めて、未だ人々が多く行き交う通りを足早に進む。
 時間に迫られているわけじゃない。どこに行くとも決まっていない。でもつい早歩きになるのは、寒いからだ。
 なのに、そんな諸岡の左右でじゃれつきまとわりつく瓜二つの連れ二人。
「いいよなー、モロだけそんなオイシイ話に噛んじゃってさー」わんわんわん!
「ずりぃーよなー、橘ちひろをナマで見られるなんてさー」ばうばうばう!
 ……鳴き声は気のせいだと思いたい。

 只今の時刻、二十三時五十二分。
 この季節のこの時刻、当たり前だが寒いのだ。先ほどまでいた居酒屋で、遅い夕飯と共にアルコールも少々摂取したのだが、はっきり言ってこの寒さには効いてない。
 二軒目に行かないのならさっさと帰りたいのに、わざと駅には近寄らせないこの双子の兄弟。
「モロがそんな奴だとは思わなかったぜー」
「だよなー、自分だけ楽しめればそれでいいんだ」
 この二重音声、本当にしつこい。聞こえないフリでさらに歩く速度を上げれば、ぴったり諸岡を挟み込み「ん?」「ん?」と覗き込んでくるウザさ。
 いい加減うんざりの諸岡は、不機嫌に眉を寄せて足を止めた。
「……だから、仕事だよ。慧徳でイベント企画の検証実験をやるっていうからそのお手伝い。たまたまその客が芸能関係で、橘ちひろの事務所関係だったの。……ていうかお前たち、芸能人なんて見慣れているだろ? こないだだってナントカっていうモデルがナントカっていう歌舞伎役者とお忍びで来たとか言っ――、」
 言いかけた口を、モガッ、と四本の手でもみくちゃに抑え込まれる。
「おいおい、そーゆーことをハッキリクッキリ言うなよ。モロはデリカシーってもんがないねー」
「オレたちの仕事は信用第一なの。そーゆー微妙さと繊細さがモロにはわっかんないかなー」
 窒息死の危機にもがきながら諸岡は、お前たちに言われたくないっ!と心中叫ぶ。
「ま、いっか。葵ちゃん絡みなら許してしんぜよう」
「葵ちゃんのためなら、モロの一つや二ついくらでも」
 解放されて思い切り冷たい空気を吸い込みつつ、諸岡は「ほら行くよー」と歩きだした小野寺双子をうらめしく睨みつけた。
 ……俺、あいつら撃っても許されると思う。

 表参道と広尾にあるダイニングバー『プルナス』の店長をそれぞれ務める小野寺双子兄弟。今時分の深夜は店にいるはずの彼らが、こうして諸岡とブラブラできるのにはわけがある。
 今日のような月定例会議の前日だけは例外なのだ。会議を翌日に控えた夜だけ、双子兄弟に早帰りが許されているらしい。
 『プルナス』の担当(お目付け役)である西條マネージャーは、遊ぶために早く帰らせてあげているわけではないと思うのだが、彼らは “ご厚意の有効活用” と言って、たまの自由時間を大いに楽しんでいる。よって今日のような会議前日の夜、諸岡は必ず誘われる。
 他にも何かと理由をつけて誘ってくる双子だが、最近では乗ることも少なくなった。学生の頃とは違い、仕事を持つ社会人は色々と忙しいのである。
 断る度に「モロ冷たい、モロつれない」と文句を言われ、「もう絶対誘ってやんない」と拗ねる双子は、一週間もたてばコロッと忘れたように連絡してくるので、どれだけ懐かれているんだ俺、と頭を抱えることも多い。
 しかしながら、今日は久しぶりにこうして誘いに乗ることにした。断り続けた罪悪感からではない。どうにも気になることがあり、双子兄弟にも訊きたいことがあったからだ。

「――なぁ、お前たちさ……何を探っていた?」
 先行く二人に追いついてそれとなく尋ねれば、ツインズはわざとらしくキョトンと首を傾げた。
「ナニって?」
「ナニが?」
とぼけなくていい。お前たちが杉さんの命令で、あれこれ嗅ぎ回っていたのはわかっているんだ。……日比谷で発覚したリカーの横領について」
 すると、双子は揃ってO字にした口から白い息を吐き出した。
「うそー、モロも知ってたの?」
「それならそうと早く言えってー」
 トボけて損したぜ、とブツブツ言う二人に、やっぱり惚けてたんだな、と諸岡はいささかムッとする。

『――不正横領疑惑についてはさ、西條さんから小野寺ツインズを借りて、今、外部調査をさせてるんだよねー』
 諸岡がずいぶん前に、杉浦から引き出せた数少ない情報の一つだ。
 あのFAX騒動の翌日、汐留にある『紫櫻庵』へ大久保と共に押しかけたあの後からずっと、もやもやジリジリとした鬱屈を小脇に抱えていた諸岡は、繁忙期に入ってからも時間を見つけては杉浦に電話し、捜査の進展具合や新たな怪しい動きはないかなど、逐一探りを入れてきた。
 しかしさすが杉浦という男、のらりくらりとかわす術に長けていて、なかなか目ぼしい情報を与えてくれない。
 小野寺双子の外部調査に関しても、その内容さえ訊き出すことができなかった。

「何を調べていたんだよ」
 諸岡の細い目に剣呑とした光が見えたのか、双子はシンメトリーな動きで顔を見合わせ、ひょいと肩をすくめた。
「簡単に言えば “裏取り” だね。リカー卸業者をひたすら回って、ワインの不正入手と横領における物的証拠・証言の収集」
「有益な証言はいくつか取れたよ。今のところ内部に加担者がいるかどうかはわかんないけどさ、少なくとも主犯は豊島で間違いないな」
「マジか……」
 ――やはり、豊島支配人が。
 目下の者にパワハラを仕掛けるような低次元の人間であることは知っていたが、加えて不正に横領とは。大久保じゃないけれど、放送禁止用語を吐き捨てたくもなる。

「結構大変だったんだぜ? リカー専門卸業者って意外に数が多いし。オーバージュに三善乃リカー、アルチュセール、山中屋、オネスタ・セー二……」
 小野寺兄が指折り挙げていけば、小野寺弟が口をへの字に文句を言う。
「『プルナス』と取引があるところなら簡単だけどなー、そうじゃないトコにも調べに行かされてさ、……ったく、杉さんの無茶振りにオレたちハゲそうだぜ」
 ちょっとお前キテんじゃない?……いやお前こそキテんじゃない?
 ……向かい合って生え際チェックとか、どーでもいい。

「……それで、有益な証言って?」
 問いながら、ふと目に入ったコインパーキング横の自動販売機に方向転換。双子も素直についてくる。
「まぁ、豊島が正真正銘の外道だったってことはわかったよ」
「それに、ヤツが間違いなくクビになるってことも確定したな」
 だからそこを詳しく知りたいんだよ、とぼやきつつ、諸岡は心中、それか?――と首を傾げた。
 どうも引っ掛かっていたのだ。――明日の会議の開始時間繰り下げ。
 数日前に送られてきた連絡メールは間違いなく本社からだったが、どうにも解せなかった。諸岡が入社してから今まで、定例会議が午後から始まったことなど一度もないのだ。
 さらに言うなら、慧徳で行われた模擬実験的営業の特殊性といい、あの夜様子を見に来たマネージャー三名の険しすぎる表情といい、あちこちが不可解に思えて仕方がない。
 諸岡の眼には、クロカワフーズ上層部が策を巡らせ、動かない何かを、、、、、、、動かそうとしている、、、、、、、、、ように見えた。そして、ようやく動きがあった、、、、、、のではないか、と思えてならない。
 ――リカーの不正入手と横領、主犯は豊島……ならばその他の件も、、、、、、、豊島ってことか……?
 しかし、それはそれでしっくりこない。

「あ、オレこの “コクうま焙煎” がいい」
「オレはこっちの “挽きたて微糖” がいい」
 自販機の前で遠慮なく指差す二人に、諸岡は意識を戻した。
 はいはい、とボディバッグから財布を取り出した時、小野寺弟が何かに気づいたように「あ」と声を上げる。その目線を追って、小野寺兄と諸岡も同じものに気づいた。
「……なぁ、あれって……」
「……え、なんでこんなトコに……」
 フラフラとした足取りで、こちらに向かってくる一人の女性。
 どこかで見たような……と思うのとほぼ同時に、その名前が出てきた。
「……木戸、穂菜美……」

 ぼんやり虚ろな目、紅く上気した頬、一歩一歩投げやりに進める千鳥足。酔っぱらっているのだ、とすぐにわかる。
 手触りの良さそうな淡いクリーム色のコートを着ているが、妙に寒々しく見えた。それが、素足にパンプスを履いているせいだと気がつく。
 ――と、揺らぐその身体が、脇の小路から出てきた何かとぶつかった。
 大柄な体躯の若い男性二人……外国人だ。赤ら顔の金髪と褐色肌のスキンヘッド。ぶつかってきた小柄な女性を覗き込んで、二人の外人はヒューと小気味いい音を鳴らす。
 悪人ではないと思う――が、そちらもおそらく酔っている。木戸の身体を挟み込むようにして囲ってしまったその外国人たちは、今にも彼女を連れ去っていきそうだ。放っておくのは少々マズい。

「――おい……っ、モロ!」
 背後で双子のどちらかが叫んだ。
 諸岡は財布をコートのポケットに突っ込んで、真っ直ぐ足早に、木戸穂菜美と男たちのもとへ進んだ。


* * * * *


「……それで? ナニがドウなってコウいう状況になったわけ?」
「……オレたちだって聞きたい」
「……だってすぐゲロったんだぜ?」
 ブツブツとブスッくれた顔で答える小野寺双子は、仁王立ちする次期番長――大久保恵梨を恨みがましく見上げた。

 ――すでに夜中の一時を回っている。
 場所は地下鉄駅すぐそばの “ネカフェ” ならぬ “オケカフェ” ――なんと、カラオケ屋でありながらネットもできるし、コミック読み放題、ドリンク飲み放題、シャワー設備まで完備してあるというのだから恐れ入る。二十四時間営業で料金も驚くほどの高額ではない。諸岡も入った瞬間、その広さと綺麗さに、へぇー、と感心したものだ。
 今いるのは、十人ほど収容できそうな広い個室である。半分ほど絞られた照明の中、正面のご立派な液晶画面に、最新ソングと人気アーティストの紹介が映し出されている。
 何故、諸岡たちに加え、大久保恵梨までがこんな場所に来る羽目になったのかというと、今、合皮革張りのソファの上で昏々と眠る木戸穂菜美のせいなのである。

 酔っぱらった外国人男性に挟まれる、酔っぱらった木戸穂菜美を助けるべく、諸岡が果敢にその間へ入ったのだが、陽気な二人の大きな男どもは何を勘違いしたのか、諸岡まで一緒に連れ出そうと肩を抱き腕を引っ張り出した。
 どうやらその早口の英語は、この先にいい店がある、一緒に飲みに行こう、と誘っているらしく、諸岡がつたない英語で、結構です、この女性は自分の連れです、今から帰るのです、と必死に訴えても、まったく聞いちゃいない。
 そこで助けてくれたのが、小野寺ツインズである。
 さすが、大使館密集地でダイニングバーを任される店長だけのことはあった。二人はネイティブには及ばずも、はっきりとした態度と口調で、もみくちゃにされつつある諸岡と木戸を外国人の手から穏便に奪還してくれたのであった。
 バーイ!と手を上げ去っていく外国人二人を見送り、諸岡と双子はホッと息を吐いたのだが、安心するのはまだ早かった。それまでゆらゆらフラフラしていた木戸が、グッと詰まった音を喉奥で鳴らして嘔吐してしまったのだ。
 彼女が両手で口元を抑えたので、諸岡たちに被害はなかったが(双子は恐るべき敏捷さで飛びのいた)、木戸のコートも中に来ていたニットもだいぶ汚れてしまった。何よりうんざりなのは、彼女がメソメソ泣き始めたことだ。
 気持ち悪い……もうやだ……助けて……、そんなことをエグエグと繰り返し、冷たいアスファルトに座り込んで泣く彼女を、双子は、ほったらかして帰ろうぜ、と本気で去りかけた。
 そんな彼らを宥めすかし、諸岡は一縷の望みとばかりに大久保へ電話した後、双子が見つけてきた “オケカフェ” へ、ぐにゃぐにゃする木戸の身体を支えつつ向かったのだ。

 諸岡たちが待つ個室に合流した大久保恵梨は、細身のジーンズにロングブーツ、モコモコのダウンコートを着込み、顔の下半分をマフラーでぐるぐる巻きにしてやって来た。
 いくらここから自転車で来られる場所に住んでいるからといっても、真冬の夜中、訳の分からない理由で呼びつけられたのだ。こめかみにはこれ以上ない太さの青筋がくっきりと浮かび上がっている。
 それでも諸岡の要求通り、簡単な着替えやタオル、汚れた服を入れるビニール袋や紙袋などを持ってきてくれて、メソメソ泣き続ける木戸穂菜美を、シャワー室で着替えさせてくれた。
 その後、一旦彼女を暖房の効いた個室に戻し、彼女が脱いだコートやニットの汚れてしまった部分を軽く手洗いまでしてくれた大久保だったが、戻って来てみれば木戸は個室のソファの上で丸まって熟睡中。
 そりゃあ、いい加減色んなものがブチブチッと切れてもおかしくない。

「……ったく、このお嬢さん、どういうつもり? 無断欠勤に連絡つかず、みんなに迷惑かけまくった挙句、夜の六本木で飲み歩いてるなんてさ!」
 目を吊り上げて怒る彼女の肌は、つるりとした茹で卵みたいだ。おそらくすっぴんなのだろう。
 激怒するのも無理はない。諸岡が電話した時、彼女は大好きなアクション映画鑑賞の真っ最中だったようだ。
 そんな彼女の怒号にも反応せず昏々と眠る木戸穂菜美。
 寝てしまった時は一瞬、急性アルコール中毒の昏睡を疑ったが、見る限り呼吸は安定して浅くも速くもなく、表情も穏やかであったので、寝入ってしまっただけだろうと思われた。ただ紅潮していた頬は、吐いたせいか色味が失せている。

「どーする? このヒトの家とか知らないよ?」
「明日会議だし、早く帰りたいんだけどー」
 関わり合いたくない、という文字が双子兄弟の顔中に張りついている。
「……明日は午後からって、連絡あったよねぇ?」
 ドスの入った低い声で上から見下ろされた二人は、それでもブツブツと未練がましく訴えた。
「……会議資料、まとめたり、とか……」
「……来月の予算、練り直したり、とか……」
「――アンタら今までそんなことしたためしなかったでしょーがっ!」
 うがぁっ!と双子両方に掴みかかる大久保。
 やっぱり牧野女史に似てきたなー、と諸岡は暢気に思う。

「……お前たち、帰りたければ帰っていいよ。大久保も、来てくれて助かった。ありがとな。この先は俺が見るよ」
 すると、大久保の左右の手でそれぞれ喉元を締め上げられている双子兄弟が、パチクリと目を瞬いた。
「うっそ、モロちゃん……もしかして、食べちゃう気……?」
「酔い潰れの女、頂いちゃう気……?」
「違うよ! ……彼女に色々聞きたいことがあるんだって。このまま黙って帰すのは納得がいかない。とりあえず、目が覚めるまで待ってみる」
「目が覚めるまで、って……」
 四人の目が何となくソファへ向けられる。すると、その視線を感じたのかどうか、当の彼女がわずかに身じろぎした。そして顔をしかめつつ、薄らと目を開ける。
 開かない目を何度も眩しそうに瞬いて、やっと焦点があったのか戸惑うような顔になった。見知らぬ場所と混沌とした記憶の残骸に、頭がついて行かないのだろう。

「――気分はどう?」
 つっけんどんに、それでも大久保が気遣う言葉をかけると、木戸は上体を起こしてゆっくりと周りを見回した。声の主、大久保と目が合った瞬間、ぎくりと身体を強張らせ、ぼんやりとした表情に明らかな怯えが走る。逃げ場所を探すように視線を巡らせれば、自分を見つめる諸岡と小野寺兄弟の姿も認めてしまい、さらに縮こまった。

「木戸さん、何があったか覚えてる? ずいぶん酔っていたみたいだけど」
 諸岡も静かな声で尋ねてみた。
 下手すれば、この状況に至るまでの経緯をさかのぼって説明しなければならないと思っていたが、彼女は自分が酔って吐いたことも、朦朧としながら着替えさせられたことも記憶にあるらしい。自分が着ている、少しサイズが大きめのパーカーを見下ろして、小さな声で「ご迷惑をおかけしました……」と呟いた。
 となれば、黙っていないのは双子兄弟だ。
「……ねぇ、アンタ、自分が何したかわかってる? 無断欠勤したまま連絡も取れないなんてさ」
「どんだけ周りの人に迷惑かけたかわかってるの? 社会人として最低だよね?」
「しかもあんなFAXバラまくとか、人として終わってるぜ」
「オレ、アンタのこと許せないよ。マジで」
 辛辣な言葉に、木戸は怯えた顔を必死に振った。
「ち、ちがう……っ! あれは、私じゃないっ! 私、あんなFAX送ってません……っ、送ってないもの……っ!」
「じゃあ、なんで送信されたFAX見た途端、店から逃げ帰ったんだよっ!」
「あの次の日から無断欠勤してんだろ! アンタ以外の誰が犯人だっていうんだよっ!」
「――違う違うっ! 私じゃないっ、あれは私じゃない……っ、……本当に、私じゃないの……!」
 ほとんど悲鳴みたいな声で泣き叫んで、木戸は両手で顔を覆ってしまう。
 諸岡は妙に冷静な自分を自覚しながら、静かに口を開いた。
「……落ち着いて、木戸さん。お前たちもちょっと待って」
 彼女を問い詰めたい双子の気持ちも、痛いほどよくわかる。しかしこのままゴリゴリ追い込んでも、却って真実は引き出せないだろう。
 今こそ彼女から事実を訊き出す絶好のチャンスで、諸岡はそれを逃したくないのだ。
 以前、 “木戸穂菜美=黒幕” という推論を打ち立てたのは他でもない自分である。けれど、それは穴だらけの推論であった。
 彼女が忽然と姿を消し、無断欠勤をした挙句音信不通となっている――この事実が、諸岡の推理を打ち崩したのだ。
 何故なら、今双子が糾弾した通り、FAX騒動の真っ最中に姿を消して翌日から無断欠勤するなど、怪しいにもほどがあるだろう。むしろ「FAX送信の犯人は私です」と名乗り上げるようなものだ。現に今、クロカワフーズの中でそう勘ぐっている人間は多い。
 もし本当に木戸穂菜美が犯人だったなら、自分に疑いが向くような行為はしないはずだ。――つまり少なくとも、FAX送信の犯人は木戸穂菜美じゃない。
 此処で会ったが百年目……ではないが、こんな偶然は滅多にあることではない。
 彼女が何をしたのか、何をしなかったのか、、、、、、、、ここではっきりさせたいのだ。

「この際だから、順序立てて一つ一つ確認していこう。……木戸さんも、違うって言うなら全部正直に答えてほしい。……いい?」
 木戸は恐々と顔を上げて、充血して潤んだ目を諸岡に向けた。怯える瞳は変わらないが、それでもコクンと頷く。
 大久保がこれ見よがしな溜息を吐いた。


 気を利かせた大久保が、五人分のドリンクを調達してきてくれた。コーヒー四つとココアが一つ。そして水の入ったグラスも。
「まず、水を飲んで。ココアはミルク多めだから」
 ぶっきらぼうにグラスを手渡された木戸は、どこか驚いたような目で大久保を見上げて、「ありがとうございます」とモソモソ呟いた。
 照明を明るくして、大型液晶画面の電源を切って、木戸を遠巻きにしつつ各々は適当に座った。どこからか、かすかにカラオケの音が漏れ聞こえてくるがそれは仕方がない。
 恐ろしく薄いコーヒーをすすり、諸岡は口火を切った。

「……まず、もう去年の十月頃の話だけど、水奈瀬の携帯電話に、公衆電話からの不審な着信があった。たぶん、かなりの頻度でね。……それって、木戸さんの仕業?」
 木戸は目にわかるほどの動揺を身体に走らせ硬直した。そして俯いたまま「はい」と、消え入る声で肯定する。
「どうして、そんなことしたの……」
 呆れた口調の大久保に答えたのは、揃って仏頂面の双子だ。
「どーせ、恋する黒河マネージャーに振り向いてもらえない腹いせだろ?」
「そーそー、この女の嫉妬だよ。葵ちゃんを逆恨みしたんだ」
 諸岡が咎めるような目で双子を制した時、木戸がか細い声で言った。
「……う……羨ましかっ、たんです……水奈瀬さんが……」
 真っ赤になった鼻を小さく啜って、俯いたまま彼女は言う。
「……水奈瀬さんは……いつも笑ってて、仕事が楽しそうで、皆にちやほや可愛がられて……、私なんか、いてもいなくてもどうでもいい存在で……仕事も任せてもらえないし……ちょっとミスしただけで叱られて……私のせいじゃないのに、ひどく叱られることだってあって……」
 諸岡以外の全員が一斉に反論の口を開きかける。咄嗟に手を上げ首を振って、諸岡は三人に「続けさせて」と目で訴えた。
 
「……私……『櫻華亭』の仕事、向いてなくて……いつもミスして、怒られて……みんなに、相手にされなくなって……アテンドなんて、本当はなりたくなかったのに……今田顧問が勝手に決めて……」
 途中、何度も鼻を啜りながらポツポツと言葉を連ねる木戸の話は、泣き言が大半で理解するのも骨が折れたが、諸岡なりに組み立て直した結果、大体次のようなことだった。

 今田顧問の伝手で入社した木戸穂菜美は、赤坂に配属された当初から、腫物に触るような扱いをされたという。
 曰く付きの新入社員木戸に対し、最初は遠巻きに様子を見る感じだったのが、次第に疎んじられる感が増し、ついにはあからさまな侮蔑と失望の目が強く投げかけられるようになったらしい。
 だから入社して二年後、アテンド昇格の旨を伝えられた時は、木戸本人が耳を疑った。
 ミスしないように、叱られぬようにと、毎日ビクビクしながら耐え抜いてきた。早く辞めたい辞めさせてほしいと、ひたすら念じながら忍んできたのだ。
 他の誰よりも役に立っていないことは、ちゃんとわかっている。役職なんてもらったところで、期待されるような仕事などできるわけがない。
 木戸の心に宿ったのは、底なしの恐怖だけであった。
 それでも、アテンド就任当初は自分なりに頑張ったのだ。メモ帳を用意して、教えられたことはきちんと覚えようと、怖気づく心を必死に奮い立たせもした。しかし、誰も木戸に期待などしないし、認めてくれるわけもない。ましてや、アテンドの仕事というものを懇切丁寧に教えてくれたりはしない。……みんな、忙しいから。
 自分以外の皆が忙しそうで、自分だけが取り残されたようにポツンとしていた。
 そんな彼女に、唯一向き合って叱責してくれたのが、黒河マネージャーだったという。

「……黒河マネージャーは……私を無視しないで、ちゃんと叱ってくれました……与えてくれるのをただ待っているだけでは駄目だ、自分で探せ、って。……それから蜂谷支配人にも、育てるのも仕事です、って言ってくれて。……私……すごく嬉しかったんです。ちゃんと、私の存在を認めてくれたような気がして……」

 恋愛関連に疎い諸岡だけれども、木戸が黒河侑司にオチた経緯はわかるような気がした。
 いつも無表情で怖い人だと思っていた上司が、ほんのわずかに見せた優しさだとか、温かさだとか。そんな些細なものでも、心身弱っていた彼女としては縋りつきたくて仕方なかったのだろう。ほんのり芽生えた恋心が、急速に膨らんでいってもおかしくない。

「それで、恋敵の葵ちゃんを逆恨みしたってこと? ……黒河チーフと宇佐美さんの結婚披露パーティーの時、黒河マネージャーと葵ちゃんがカップルみたいにはやし立てられたよね? あれがきっかけで葵ちゃんを嫉んだの? 悪戯電話で嫌がらせしたのもそれが原因?」
 大久保がジーンズの長い脚を組み替えて言う。木戸はひっぱたかれたような顔をして大きく首を振った。
「……ち、違いますっ、……あの時は……確かにショックでしたし、嫉妬、しないわけじゃなかったですけど……悪戯電話なんて思いつきもしませんでした……」
「じゃあ、何がきっかけでそんなことをするようになったの」
「……それは……発注の勘違いで……大量にワインが納入されて……それも、私のせいにされて……」
「――大量の、ワイン?」
 いきなりワインの話になって諸岡は首を傾げるが、双子兄弟は大きく反応した。
「何それ」
「どういうこと?」
 にわかに身を乗り出した双子兄弟に、木戸は一瞬びくりと怖れを見せたが、ちゃんと話を聞いてくれる雰囲気を感じたのだろう。先ほどよりもほんの少しだけ声量を上げて、彼女は話し始めた。

 ――結婚披露パーティーの数日後、十月の中頃のことだ。
 ディナーオープン前、いつものように鬱々とメニューの差し替えなどしていた木戸は、一本の電話を取った。リカー全般の取引をしているオーバージュという業者からの、問い合わせの電話であった。
『――昨日頂いた追加発注分のFAXの中で、ピノ・ノワールの数量がいつもよりずいぶん多かったもので、一応確認させていただこうかと思いまして……』
 しかし、発注に関することなど木戸にわかるはずもない。普段ならすぐさま蜂谷支配人に取り次ぐのだが、運悪く彼はその日休みであった。
 焦った木戸は、発注書のファイルを引っ張り出し、わからないながらも必死に数字を目で追った。確かに、電話で聞いた名の赤ワインの発注数は『14』となっている。だが、木戸にはこれがいつもより多いのかどうかさえわからない。
 途方に暮れた木戸だったが、ちょうどタイミングよく出勤してきた今田顧問にその旨を伝えて、どうすればいいのかを尋ねた。すると今田顧問は発注書を確認する事もなく、その数で問題ない、来週宴会パーティーがいくつか入っているから多めに頼んであるのだろう、と言ったのだ。
 だから、木戸はホッとしつつオーバージュの人に、それでお願いします、と答えた。ワイン飲み放題の宴会なら、一回につき五、六本……多い時は十本近く出ることがあるのは、木戸だって知っている。宴会予約が入っているのなら十四本くらいは必要なのかもしれない、と疑いもしなかった。
 しかし後日、これがとんでもない間違いであることが判明した。
 その “ラフォルジュ ピノ・ノワール” という赤ワインは、六本セットのケース納入品なのだ。
 六本入り十四ケースということは、計八十四本。それが店の裏口に届いた時、初めて店中が、その発注ミスに気づいた。
 当然叱られたのは木戸だ。今田顧問に確認を取った、と訴えても、ケース販売を知らないのが悪い、発注書にも記載されているじゃないか、と責められた。
 どうやら追加発注分のFAXを勝手に出したのも今田顧問の仕業らしいと、蜂谷支配人は苦々しく言っていたが、今田顧問に面と向かってミスを指摘する者など誰もいない。その分、非難の矛先はすべて自分に向けられるような気がした。

「……今田顧問がお店を引っ掻き回すせいで、いつも私が叱られるんです……私のせいじゃないのに、また木戸か、ってみんなが呆れて……私、我慢できなくて、何度も黒河マネージャーに相談しました。でもそうすると、蜂谷支配人が怒るんです……余計な口外は無用です、赤坂の評価を落とす気ですか、って」
 うるうると、再び涙ぐみながら木戸は言う。
 初めて聞くそのエピソードに諸岡が思考を巡らせていると、双子兄弟も釈然としない顔で口を開いた。
「……ねぇ、その発注ミスって上に報告してないよね? ……だってオレら、そんな話聞いてない」
「だよな。リカーでそれだけ余剰在庫になったら、うちに、、、連絡が来るはずなんだ」
 ダイニングバー『プルナス』のリカー保持量は、当然クロカワフーズの中で最も多い。表参道店も広尾店も、店舗の二階がリカー保管倉庫のようになっているのだ。
 であるから、どこかの店でワインの発注が間に合わなかった時や、逆に過剰に余ってしまった時は、必ず『プルナス』に一言かけて、融通もしくは引き取りをお願いしてみる、というのが我が社のセオリーだ。
 同じ『櫻華亭』所属の大久保も眉根を寄せて首を傾げている。ということは、やはり報告されていないということか。

「……私には、よくわかりません。その日は早く帰らされたんです。……次の日店に行ったら、届いたはずのワインケースの半分以上がなくなっていて……どうしたんだろう、って思ったんですけど、それを誰かに聞く勇気もなくて……」
 責められているのかと思ったのか、木戸はまた俯いてしまう。
 不可解さは募るが、ここで詰まっていては先に進まない。
「わかった。それについてはちょっと置いておこう。話を戻すと……その発注ミスがきっかけで、水奈瀬の携帯に電話をかけるようになった……、そういうこと?」
 なるべく柔らかい口調を心がけて問えば、木戸は小さく頷いた。
「……その日、蜂谷支配人に叱られて、泣くなら帰ってください、って言われて……悲しくて悔しくて、ホテル従業員用のロッカールームの隅っこでしばらく泣いていたんです。……そうしたら、うちのスタッフの平野さんと下柳さんが入って来て……私すぐに隠れたんですけど……会話が聞こえてしまって……やっぱり、私のことを散々『使えない』とか、『どうにかしてほしい』とか言ってて」
 木戸の両手が、パーカーの裾をギュッと握りしめた。
「……そのうち話が変わって『そういえばこないだ、黒河マネージャーと慧徳の店長が車に乗っているのを見たの』って……『二人とも私服だったから、デートじゃない?』とか、『やっぱりあの二人ってつき合ってるの?』とか……『残念ながら、木戸さんはフラれたってことだね』って二人で笑って……それを聞いて、私、どうしようもないほどみじめになって……水奈瀬さんは、みんなに好かれて、黒河マネージャーとつき合っていて……仕事も上手くいってるのに……なんで私ばっかりつらい目に遭うんだろうって……羨ましくて、妬ましくて……それで……」

 どうして悪戯電話をかけようと思いついたのか、はっきりとは思い出せない……たぶん心のどこかに、以前慧徳の店が無言電話の被害に遭った、と聞いたのが残っていたからかもしれない……そんなことを、木戸は言った。さらに言えば、つい最近、欲しくもないテレフォンカードを十枚ほど押し付けられ、手帳の中に入れ込んだのを思い出したからかもしれない……と。

「……ちょっと嫌な思いをすればいい……それくらいの気持ちだったんです。……日に何十回も公衆電話から着信があったら、いくらあの子でも気味悪がるだろう、って……不安になって仕事でちょっとミスでもすればいい、って……」
「ちなみに、どれくらいの頻度でかけたの?」
 諸岡の問いに、木戸はちょっと首を傾げて考えた。
「……多い時は……五十回……くらい……?」
「――五十っ?」
「――ストーカーじゃんっ!」
 すかさず双子兄弟が突っ込んで、木戸は奇襲に遭った亀のように首をすぼめる。
 大久保が頭痛を耐えるようにこめかみを抑えた。
「……ちょっと、の悪戯じゃないよね」
「……で、でも、毎回そんなにしたわけじゃありません! ……五十回くらいしてしまったのは……予約ミスで本部クレームになってしまった時です。……あれだって、私のせいじゃない、今田顧問が悪いのに、また私のせいにされて……それで、悔しくて、我慢できなくて……つい、八つ当たりみたいに、何度も何度も……」
 諸岡は「あれね……」と嘆息した。
 赤坂が出した本部クレーム――予約のダブルブッキングでその対応が問題になった、あのクレームだ。
 茂木顧問の機転が利いて事なきを得たが、その後の十月の会議で、蜂谷支配人とアテンドの木戸は、役職全員の前で謝罪し深々と頭を下げる羽目になった。
 忘れもしない、その会議の日だ……公衆電話からの不審着信について、水奈瀬葵からそれとなく着否方法を聞かれたのは。
 大したことじゃないんですけど……と、水奈瀬葵はあくまで笑顔だった。五十件以上もの執拗な不審着信を受けていたなんて、諸岡は思いもしなかった。

「……十月の会議の日、君が水奈瀬とぶつかって、俺があのテレカを拾ったよね? その後もしたの?」
 じっと諸岡に見据えられ、木戸は恥じ入るように腫れぼったい目を伏せて首を振った。
「していません……あの時、水奈瀬さんにテレフォンカードを見られてしまったし、私も焦って逃げてしまったので、たぶん水奈瀬さんに気づかれたと思ったんです。だから、怖くなって……あの日以降は一度もかけていません。本当です」
 とりあえず、嘘をついているようには見えないかな、と諸岡は思う。
 ふと双子に目を向けると、あれは明らかに疑っている目。一方の大久保は、何を考えているかわからない表情で、じっと木戸穂菜美を凝視していた。

「……なるほど。公衆電話の件はわかった。じゃあ、進めよう。……慧徳で異物混入のクレームが起きた件だけど……木戸さんは何か関与した? ……例えば、誰かに頼んで虚偽のクレームを上げさせた、とか」
 俯いていた彼女はバッと顔を上げた。
「そ、そんなことしてません! ……だって、私もびっくりしたんです! ……水奈瀬さんが動揺して、仕事でちょっとミスすればいい、なんて思ったら、本当にあんなクレームが慧徳で起きてしまって……」
 双子兄がフンと鼻を鳴らす。
「――ざまぁ見ろ、って思ったんだ?」
「……そんな……っ!」
 双子弟も小馬鹿にするような目を向ける。
「ほくそ笑んだんだろ? 心の中で」
「……ち、違う……っ」
「――ストップ。お前たち、少し黙ってて。……異物混入のクレームには、関与してない……となると、それを本社のホームページに打ち込んだり、グルメサイトにリークするようなこともしていない?」
「そんなこと、してませんっ!」
 もはや、やけっぱちの叫びに聞こえなくもないが、まぁいいとしよう。
「……わかった。それじゃ、最後……水奈瀬と黒河さんを中傷したFAX、あれを全店舗に送信した?」
 途端に、表情を凍りつかせる木戸穂菜美。
「……あれは……私じゃ、ない……」
 引きつった声を絞り出すような様子も、どこか妙だ。
 諸岡は細い目をさらに眇めて、彼女を見据えた。
「……さっきから、何か引っ掛かるんだよね、その言い方。『あれは私じゃない、、、、、、、、』――まるで、別の、、心当たりがある、、、、、、、ような言い方じゃない?」
 木戸は俯いたまま、パーカーの裾を意味もなく弄っている。唇は引き結ばれたまま。
 すると、黙っていた大久保がおもむろに立ち上がり、腕を組んで木戸穂菜美を真っ直ぐ見下ろした。

「――そうやって、また、、逃げるんだ?」
 ハッと、木戸が顔を上げる。
「黙って泣いて俯いていれば事は済むと思ってんの? さっきから聞いてればさ、アンタも相当ネジれてるよね。……葵ちゃんがちやほやされている? 当り前でしょ、だってあの子、メチャクチャいい子だもん」
 双子が同じタイミングで、うんうんと頷く。
「……なんであの子がみんなに好かれるか、きちんとした頭で考えたことある? 逆に、アンタがどうして嫌われているか、ちょっとでも考えたことあるの?」
 木戸の顔がショックを受けたように歪んだ。が、大久保の追撃は止まない。
「クロカワフーズはね、生半可な気持ちでやっていける仕事じゃない。一旦客の前に立ったら、絶対に気は抜けないし、常に神経を張り巡らせて身体も頭も使えるものは100%フル回転なの。……そんな真剣勝負の場で “誰も教えてくれない” ? 正直言ってそれ、鬱陶しいだけ。何しに来てんの?って思われるに決まってる。それだけみんな必死なの、人に構ってなんかいられないの」
 一旦言葉を切った大久保は、だけどさ、と続ける。
「そんな状況でも、自分以外に目を向けられるからこその “役職” でしょ? 忙しくても自分のことで手一杯でも、客と店と従業員全員に気配りするのがアテンドなの。そのアテンドが、自分の仕事さえもままならないなんて、迷惑以外の何物でもないわけ。……大体ね、私らアテンドに比べたら、 “店長” である葵ちゃんに課される負担はもっと大きいんだよ。支配人や店長って、店トップの管理責任者なんだから。アンタが言う “私ばっかり” の辛さなんてね、葵ちゃんのそれに比べたら “ミジンコ” レベルだって」

 諸岡と同じく圧倒されていたような双子兄弟が、突然の極小プランクトン登場でちょっと吹き出しかけた。辛うじて堪えた二人は、誤魔化すように軽く咳込んで言う。
「葵ちゃんだって、最初っから完璧だったわけじゃないと思うぜ?」
「そうそう、休みの日も店に来てパソコンに向かうことだってあったらしいし」
「オレたちもワインやリカーについて、何度も質問されたしな」
「勉強してるんだよ、自分ができないことや足りないことは」
 すると、大久保は「珍しくマトモなこと言うね」みたいな顔をしたあと、その涼やかな目を真っ直ぐ木戸に向けた。
「……仕事でもなんでも、壁にぶつかるのは当たり前。葵ちゃんだって私だって、何度もぶつかったよ。それでも乗り越えて来られたのは、逃げなかったから」

 揺らぐことなく木戸に向けられる切れ長の瞳。
 才色兼備の彼女でも、ここまで順風満帆にやって来たわけじゃない。パワハラに悩まされ、陰湿な苛めに遭っても、毅然と顔を上げそれに立ち向かっていった彼女の勇姿を、諸岡は知っている。そんな彼女の台詞だからこそ、真に迫る現実味に溢れていた。
 しんと静まった部屋の中で、俯いた木戸の鼻を啜る音が空しく響く。
 諸岡は、感銘の余韻を破らないように、静かに口を開いた。
「……木戸さん。さっきコイツらが言った通り、あのFAXを流した犯人は木戸さんだ、って疑っている人は多いと思う。仕方ないよね、あの場から逃げ出して、今もずっと逃げ続けているんだから。私じゃないってメソメソ泣き寝入りするんじゃなくてさ、わかってくれるまで声枯らして叫んでみたら? 今ここで言えなきゃ、この先一生、言えないよ?」

 諭すような諸岡の言葉に、木戸の泣き腫らした顔がさらに歪んだ。
 これ以上の追及は無理か……と諦めかけたところで、意外にも木戸はその顔を上げた。
 腫れたまぶたに充血した目、赤くこすれた鼻先、乱れた髪。パーカーの裾を無意識に掴むその指先は小刻みに蠢いている。
 けれど諸岡には、彼女が長い間その内側に籠ってきた殻を脱ぎ捨てるため、ようやくもがき始めたように見えた。

「……本当に、FAXなんて送ってません……そんなつもり、、、、、、じゃなかった、、、、、、んです……」

 ――そして諸岡他三名は、木戸穂菜美が独白する、予想外の事実を知ることとなる。




 
しおりを挟む

処理中です...