87 / 114
第2部
シミュレーション・パーティー、開宴
しおりを挟むつかの間の正月休みは、文字通りあっという間であった。その大半が “脱・ゴミ屋敷” のための悪戦苦闘で終わったと言ってもいい。
大晦日の昼前、目ぼしいお正月用品を抱えて実家マンションへ帰った葵は、あまりの散らかりように顎が落ちた。
玄関、パンパンに詰まった指定ゴミ袋がてんこ盛り……キッチン、洗われていないグラスや皿がてんこ盛り……リビング、ペットボトルにビールの空き缶に脱ぎっぱなしの洋服がてんこ盛り……洗面所及び風呂場、リビング以上に洗濯待ちの衣類がてんこ盛り……その他、ゴミや埃や異臭がてんこ盛り……
肝心の兄と弟はおらず、仕方なく葵は一人、大掃除を開始した。洗い物に洗濯、掃除、追加の買い出しや料理もこなすうち、あっという間に日が暮れた。
合間を縫って、母への近況報告も忘れなかった。
去年までは正月休みを利用して宮崎へ飛んでいたのだが、今年は東京で過ごすことにしたので多少の気懸りと後ろめたさはある。
しかし電話越しに聞く限り、母の方はさほど気にしておらず、心配もしていないようだった。父の七回忌法要で十月に会ったばかりだからかもしれない。
年明け一月の末頃には、萩が臨床実習で宮崎に滞在する予定となっている。自分よりも伯父夫婦の方がソワソワ待ちわびて落ち着かないようだと笑う母に、葵は少しホッとした。
その萩といえば、夜遅くにヘロヘロと疲れた様子で帰って来た。
聞けば、冬休みに入ってからほとんどバイト一色の日々だったようで、年始もみっちり働く予定らしい。臨床実習時にかかるほとんどの費用は学費に含まれているそうだが、それでも実習先を遠方に決めたので色々入り用なのだとか。
葵が用意した簡単なお節料理や年越し蕎麦などを食べながら、萩はゴミ屋敷化させたことを詫びたが、「蓮兄、全然帰ってこねーんだもんな」とふてくされたように漏らしたのが、ツキンと胸に痛かった。
兄とはFAX騒動の後、辞職勧告を突きつけられ、気まずく別れたままだ。
葵のアパートで派手にやり合った萩としては、当然納得がいかないまま再戦も受けて立つつもりでマンションに戻ったというが、それから兄と顔を合わすこと自体がほとんどなかったらしい。
結局その夜も、蓮は仕事が忙しかったのか飲んできたのか、葵と萩が眠ってしまった後――おそらく明け方近く――の帰宅であった。元日の翌朝も起きてこず、葵が麻実と一緒に初詣へ行っている間に再び出かけてしまったようで、会話らしい会話は何一つできなかった。
避けられているかも、とは思ったが、ヘソを曲げ意固地になる暗愚な兄でないこともわかっている。仕事に向き合う葵の決意を、いつかきっとわかってくれると信じるほかなかった。
その後も、バイトに明け暮れるあまり面倒臭がり度数が史上最高値までアップしている弟を放ってもおけず、葵は三日ギリギリまでマンションで過ごし、家事全般を請け負っていた。
こうして、葵の正月休みは瞬く間に終わった。
――迎えた一月四日、仕事始め。
ここからいよいよ、例の計画が本格的に動き始めることとなる。
通常の店内業務をこなしながら、少しでも時間が空けばひたすら “模擬実験的営業” の準備に勤しむ日々が続いた。
一日だけの、しかもディナータイムのみの短い模擬販売ではあるが、他に前例がないこともあって、多くのことを慎重に一つ一つ検討していかなければならない。佐々木チーフや柏木と繰り返し打ち合わせ、直接本社に問い合わせることも少なくなかった。
それと並行して、主賓である橘ちひろこと立花千尋とは、何度も電話やメールでやり取りした。正式な主催者は彼女の事務所なのだが、完全に千尋本人が橋渡し役となっているようだ。
「……え、じゃあ、うちの社長が直接、千尋さんの事務所へ連絡したんですか?」
『そうよ、ホントにビックリよ。取材や撮影はお受けできないが、その代わり、慧徳の店でちょっとした企画のプレ販売があるからモニターとしてご協力願えないか、って言うじゃない? クロカワフーズの社長本人から言われちゃ、こっちもそうワガママ言えないし? 小父さんって実は、とんでもなく策士なのよねー』
「はぁ……なんか、……すみません」
『いーの! むしろこっちは正々堂々と大手を振ってお店へ行けるんだから、願ったり叶ったりよ。……でもすごいよねぇ、 “大人のお子様ランチ” なんて。それをクロカワフーズでやっちゃう葵ちゃんに感心するわー。侑だってグランドメニューに載せられなかったのに』
「……ああ、そういえばそんなこと、聞きました」
『だって、昔の『櫻華亭』では普通に出していたらしいのよ? メニューにもちゃんと載せていたっていうのに、クロカワフーズって会社が立ち上がってから、あっちのお偉いさんたちが “子供向けの料理をグランドメニューに載せるのか?” って突っ込んできたらしくて』
「あっちの……というと、FCICの」
『そう、ソレ。まぁ、三十年以上も前の話なんだけれどね。そもそも “お子様ランチ” は日本独自の文化らしくて。ランクの高いレストランに子供を連れていくこと自体がおかしい、ってことらしいわ』
「……なるほど」
『――でね、侑が本店の支配人だった頃、お子様ランチをレギュラーメニューとして復活させたかったんだけど、どうしても許可が下りなかったんだって。要望があれば特例として出すこともあるらしいけど、あくまでも裏メニュー扱いみたい』
「……『アーコレード』もそんな感じです。メニューに載せたら、家族連れのお客様は絶対に喜ぶと思うんですけど……」
『でしょう? まったく変な話だわ。格式だか品格だか知らないけど、 “お子様ランチ” 一つで落ちるようなステイタスなんて、クソっくらえよ』
天下の女優様、品位がなくともその声音は美しい。
『――そうそう! お祖母ちゃんにこの話をしたら、すっごく興奮しちゃって大変だったの! 葵ちゃんなら素晴らしい成果を上げられるわ、とても楽しみね、って喜んでた』
お祖母ちゃんとは、立花婦人……もとい、黒河節子夫人だ。彼女の嬉しそうな笑顔が目に浮かんで、葵もつい笑んでしまう。
『今回のシミュレーションが成功したら、三月の本番で大々的にイベント開催できるんでしょう? そうしたらお祖母ちゃんも “大人のお子様ランチ” を食べられるわ。だから頑張って成功させましょ! あ、それでね、 “特別招待状” を配る人数なんだけど……』
有り難いことに、今回の計画に関して彼女は実に協力的で積極的であった。
依然打診してきた、DVDの特典映像撮影の件は潔く断念したようだが、彼女自身が主催者として仕切れることが楽しくて仕方ないらしい。こちらがいささか引くほど大乗り気で、芸能人という特殊な多忙さを極める身でありながら、こうして何度もコンタクトを取り合い、打ち合わせに念を入れてくれる。
「……あの、千尋さん……撮影は不可だってこと、本社の方から通達が行ってますよね……?」
『うん、聞いてる聞いてるー。大丈夫よ、バレなきゃいいんだから』
「――え、ちょ、ちょっと……、千尋さん……っ?」
『とりあえず、 “ツグミ鳴く空に” のスタッフとキャスト、大体のところで百人くらいかなー。……どう? それくらいで足りる?』
「……そっ、そんなに、ですか……?」
彼女自身の本質なのだろうか……時に豪胆、時にスリリングな立花千尋に、葵は翻弄されっぱなしなのである。
ともあれ、準備は順調に着々と進みつつであった。
正月気分はすっかり抜け、瞬く間に日が過ぎていく中、静かであった慧徳学園前の駅周辺にも生徒や学生たちの姿が再び行きかうようになる。
『アーコレード』慧徳学園前店は、次第に加熱していく緊張感と高揚感を内に秘めたまま、いつもと変わりない風景の中で、訪れる客を出迎えていた。
* * * * *
――そしてやって来た、一月第二週の水曜日。
目に映るものすべてがカサカサと枯れ果てたような冬の一日は、すでに暮れかけて薄暗い。
静かな住宅街にある『アーコレード』慧徳学園前店は薄闇の中にどこか寒々しく佇んでおり、表玄関に置かれたイーゼルには、本日貸し切り、と描かれた黒板が、冷たい外気に晒されている。
しかし、その内部では夕方五時半の開店を前に、不安と緊張が混ぜこぜになった異様な高揚感がビンビンに張り詰めていた。
本日はなるべく多くの人数が着席できるよう、会食スタイルとなっている。
店内のテーブルと予備のテーブルを一列に合わせ、フロアの中央に縦長のメイン卓が作られており、一方のカウンター席もそのまま利用できるようにしてある。これでMAX三十名ほどが一度に食事できる体制を整えることができた。
貸し切りと言っても、今日は一風変わった形式なのである。
今日来店できるのは、本日限りの特別招待状を持ったゲストのみ。五時三十分からラストオーダーの十時までの間ならば、いつでも好きな時間に来店し無料で食事ができる――これが、今回のシステムだ。ポイントは “無料で” という点である。
クロカワフーズ本社の口利きがあったのか、はたまた “女優橘ちひろ” のバックグラウンドの力なのか、何と今回の企画には協賛者がある。橘ちひろが所属する事務所と “ツグミ鳴く空に” のドラマの制作会社、そしてスポンサー会社の一社だ。
そこから十分な出資がされたので、無料で食事を提供できることになったのである。
名目としては、ドラマのDVDBOX発売決定における各関係者への感謝御礼、ということになっているが、もちろん『アーコレード』慧徳学園前店の特別メニューお試し企画、という意図があることもしっかりと招待状に明記してある。
つまりは、ちょっとしたモニター気分で『アーコレード』のお食事を楽しんで下さい――というわけである。
その特別招待状だが、千尋から説明があった通り、 “ツグミ鳴く空に” のドラマ制作に関わった人々へ、可能な限り配られたという。その数百五十あまり……当初の予定より大幅増量配布である。
ただ、ドラマ撮影自体は終了しているので、 “ツグミ鳴く空に” のスタッフもキャストも皆、現在はバラバラだ。それぞれが新たな仕事に就いており、当然、勤務地も時間もバラバラである。さらにこの業界の常として、時間に不規則な上、突発的予定変更は当たり前なのだそうだ。
よって千尋が言うには、招待状を手にした百五十あまりの人間全員が来店することはまずないだろう、とのことで、加えて、慧徳学園前店の立地が都心から離れているため、それが客足にどう影響するか、彼女もそこは予測がつかないと言っていた。
それでも千尋は、発案者の葵よりも絶対の自信を持っているようだった。
クロカワフーズの名は『櫻華亭』を通じて芸能業界にも広く知れ渡っており、たとえその傘下の『アーコレード』を知らなくとも、 “橘ちひろ” のお墨付きとあらば、興味を抱く人間は多いはずだ、と。
「――ドラマって、本当にたくさんの人の力が集まって作られるのよ。店に来る色んなジャンルの人を見るだけでも面白いと思う。……硬くならずに、楽しんで」
昨晩遅く、わざわざ電話してくれた彼女の優しい激励は心強かった。
さらに心強いと言えば、今日の模擬実験的営業に『アーコレード』渋谷店と恵比寿店からヘルプが入っていることだ。定休日にも関わらず、厨房には渋谷と恵比寿の料理長が、フロアには牧野女史と諸岡が入ってくれている。
もちろん、佐々木チーフを始めとする慧徳のスタッフ全員、そして柏木もしっかりスタンバっており、皆が多かれ少なかれ張りつめた面持ちだ。
さすがに葵も開店時刻が迫るにつれ、不安と緊張で心臓が弾け飛びそうになっていた。
――五時三十分、幕は上がる。
葵は「オープンします!」と店内に大きな声を放った。
恐るべきことに、開店から約一時間もの間、ただの一名も来店がなかった。
その間、葵の顔色は次第に蒼ざめていき、視線は開かない玄関ドアへ、耳は鳴らないドアベルに釘づけとなる。店内は何とも言えない気まずい雰囲気と重々しい空気に満ちて、誰もが不安な顔を隠しきれない。
ここまで大事になり、たくさんの人々の協力を得ながら、このシミュレーションが失敗に終わったら……そう考えるだけで五臓六腑すべてを口から吐き出しそうだ。
強張った顔でじりじりと焦りを募らせる葵に、牧野女史は「大丈夫よ、必ず来るから」と背を優しく叩いて宥めた。
待ち侘びた最初のドアベルが鳴ったのは、六時半になろうとする頃だ。
本日一番乗りの来客は、二人連れの若い女性(メイクさんとスタイリストさんとのこと)で、他に客がいない小さな店内を興味深げに見回していた。
そんな彼女らを席へ案内し、お冷を出したりオーダーを取ったりする間に、二組目、三組目のゲストがぽつぽつと来店し、にわかに店内は賑やかになっていく。
まるでそれが堰切りの合図だったかのように、それから次々と客が入って来て、スタッフは緊張も不安も一切忘れ、いきなり高圧電流が走ったかのように動き始めた。
店側としては迷ったところなのだが、本日は “大人のお子様ランチ” 以外の、通常のグランドメニューも一部を除きオーダー可となっている。だが、それらは有料となるため、やはり入るオーダーはゲストが好きなように組み合わせた “大人のお子様ランチ” が主流であった。
ワンプレートに選べる品は六品。原価の兼ね合い、そしてメインとサイドの兼ね合いを考え、全十八品をざっくり二枠に分けて、その二枠から三品ずつ選んでもらうことにした。ここは社長と茂木顧問の会話を元に、葵が熟考した部分だ。
そのワンプレートに、ミニサラダとミニスープ、食後のドリンク付きが “大人のお子様ランチ” の全容だ。量的には、大人でも充分満足できる内容である。
さらに今回だけの特別サービスとして、食前ドリンクもしくは食前アルコールも一杯までは無料で提供することになっている。協賛者様あってこその、無血大サービスである。
しかしながら、客側に至れり尽くせりな分、給仕側はなかなかの大変さであった。
ゲストが選んだ品を、一品たりとも間違うことなく厨房に通し、完璧に盛り付けられた一皿を、間違うことなく給仕しなければならない。料理が無料となればビールやグラスワインが入ることも多く、葵たち給仕人は、全神経を集中して一つ一つのオーダーを捌いていった。
そうこうするうちに、狭い店内はすでに満席となり、玄関口に待ち客が出るほどにもなる。雑多多様な老若男女がわらわらと店内に溢れかえった。
スタイリッシュで前衛的な恰好をした若い男女がいれば、よれたネルシャツに古びたデニムという軽装の貧相な男性もいる。大きな機材を抱えて撮影帰りだという若いカメラマンの隣で、大道具担当だとかいうガタイのいいオジサンが、「オムライスとナポリタンは外せねぇな……」と真剣に悩んでいたりもして、千尋の言う通り、ドラマ制作関係者と一口に言っても、その職種は多岐にわたるんだな、と、葵は密かに感心してしまった。
その多種多様な人々は、かつては同じドラマ制作に携わった仲間ということもあり、客同士あちこちが顔見知りだった。先客後客が入り乱れ、席を移動したがったり椅子の追加を求められたり、ワインの奢り合いや土産の追加まで、イレギュラーな要望も出てくる。
しかし、そこは柏木マネージャーと牧野女史が、卓越した対応術を披露してくれた。
本店の支配人およびアテンド経験を持つ二人は、そういった突発的例外的リクエストを捌くコツを掴んでいる。要望に添える場合は迅速に手配し、できないことはできないと丁重且つはっきりと断り真摯にお詫びして、ゲストにいささかの不快感を与えずして、その場の秩序を守り切った。
そんな二人の手腕に見惚れ感謝しながらも、葵は他のスタッフとともに店内を隈なく動き回り、給仕人として心血を注いだ。
本日の立役者、 “橘ちひろ” が来店したのは、七時半を過ぎる頃だ。
ドラマの共演者だという数名の俳優女優とともに連れだったその一団は、他の製作スタッフと一線を画してそのオーラが違った。華やかで煌びやかな彼らの登場に、フロア内にいる客全員から盛大な歓声と拍手が起こったほどだ。
ファー付きのコートを脱ぎつつ大盛況な店内を一瞥した千尋は、当然だと言わんばかりに満足した顔で葵にこっそりと耳打ちした。
「――ね? 私の言ったとおりでしょ?」
キュッと子猫のように目を細めた今日の千尋は、レトロモダンなシルエットのワンピース。デコルテから胸元までの部分がレース仕立てになっており、妖艶さが匂い立つようだ。葵の隣にいた諸岡でさえ、ゴクリと喉を鳴らしていた。
それから間もなく、橘ちひろ率いる俳優女優陣は、盛り上がるフロア内の一角に案内されて、それぞれが思い思いの “お子様ランチ” を組み立てて楽しんでいた。
ちなみに千尋が選んだ品は、ハンバーグ・エビフライ・タンシチュー・ミニグラタン・チキンライス・ナポリタンスパゲッティ、という王道系チョイスだ。オーダーを取る池谷に「六品って、ハンバーグ六個選んじゃダメなの?」と、からかったりもしてその周囲をどっと湧かせていた。
通常ではありえない賑やかさに騒がしさだったが、特に苦情もトラブルもなく、時間は過ぎていった。
九時近くになって、また異なる存在感を放つ大物――監督、助監督、演出家ら数名――の登場に、店内は再び盛り上がりの第二波でどよめいて、結局ラストオーダーの時間になってもフロアは人でごった返していた。
ちょうどその頃、様子を見に来たのか、鶴岡、杉浦に加え黒河のマネージャー三人が店に顔を出し、大盛況ぶりに少なからずも驚きを見せる。
とっくに食事を済ませたはずの千尋は、店に残りホストよろしく仲間内を渡り歩いていたが、姿を見せたマネージャーたちを目敏く見つけ、にこやかに傍へやって来た。
顔見知りらしい鶴岡とは優美に如才なく挨拶を交わし、杉浦のことはマルっと無視し、彼女は真っ直ぐ侑司に向いた。
「あーら、黒河マネージャー。今頃何しにいらしたの? 心配しなくても、葵ちゃんのおかげでこの企画は大成功よ?」
挑むような笑みを浮かべる千尋に、侑司は無表情のまま淡々と答えた。
「……それは何よりです。今回の企画にご助力くださった橘様に、感謝しております」
感謝など、1ナノグラムたりともしていない口調だ。傍らの葵がハラハラと二人を交互に見やれば、千尋は壮絶に美しく怖い顔で微笑み、微笑んだ口元をほとんど動かさずに言った。
「……葵ちゃんを泣かせるような真似をしてごらんなさい……その動かない表情筋が震えるほどの恥辱を与えてやるんだから」
「……チ、チーちゃん? 今日はずいぶん、ご機嫌ですねー……?」
無視され続ける杉浦が恐る恐る横から口を挟めば、彼女は一瞬にして仮面を取りつけたかのように、にこりと無垢な笑みを杉浦に向けた。
「まぁ、お義兄様、ごきげんよう。いつからそこにいらっしゃったのかしら? 全然気がつかなかったわ。じゃ、私帰るから」
くるりと背を向け、仲間の元へ戻っていく優艶な後ろ姿を見送り、その場に立ちつくす面々。
杉浦が、すっと目を細めた。
「……あれ、なーんか、隠してるなー……」
夜十時半過ぎ――
ようやくゲストは帰り始め、そこからさらに一時間かけて最後の客が店を出た後、スタッフ全員が疲労とも安堵ともつかない溜息を大きく吐いた。
千尋の言う通り、模擬実験的営業は概ね成功したといえるだろう。
細かい問題点や改善点はあるものの、それが判明したこと自体が大きな収穫だ。葵は皆と一緒にフロアを片付けながら、今日一日を感慨深く振り返った。
亜美は、しっかりちゃっかり橘ちひろのサインをもらって(なんと色紙まで用意していた!)さらに、住吉基也とかいうイケメン俳優のサインまでも手に入れたらしく、ルンルンと鼻歌交じりでグラスを片付けている。そんな彼女を呆れた目で見る池谷、篠崎両青年も、今日はずいぶん気を張っていたらしく、さすがにお疲れの様子だ。
牧野女史と諸岡、そして厨房に入ってくれた渋谷と恵比寿の料理長らには今日のお礼をして、終電がなくなる前にと、すでに帰ってもらっている。
厨房も片付け真っ最中だが、おそらく一番疲労困憊なのは厨房メンバーだろう。
一方、レジカウンターでは柏木が今日の集計を行っていた。その周りに群がるマネージャー陣がボソボソと低い声でやり取りしながら、どこか複雑な顔だ。
四人の目が、ほんの少しずつ気づかれないくらいの頻度でこちらをちらと盗み見るのも、葵はちゃんと気づいていた。
険しい顔をした侑司と、口を突き出し考え込む杉浦、厳しい表情のまま何かを指図する鶴岡と、神妙な顔でそれに頷く柏木。
四人はしばらくレジ付近に固まっていたが、フロア内がほぼ片付いた頃、葵を呼んだ。
集計の結果、今日の来店者数は百十二名、 “大人のお子様ランチ” が出た数は九十八食。予想以上のモニター数で、厨房の仕込みもギリギリだったようだが、その分シミュレーション結果としては充分納得できる数字を出すことに成功したと言える。
出資金から出る利益分を差し引いても、追加で入ったアルコールや料理、土産用に出た洋風御膳などを換算し、条件として提示された規定の利益は十分出せただろうと、鶴岡は苦い顔で言った。
葵は、彼らにそんな顔をさせるのが申し訳なく、ただひたすら何でもない顔を取り繕うことしかできない。
今日の結果報告をまとめて、一月の定例会議で発表できるようにしてほしいのだが、と鶴岡が言い、葵は力強く了解の意を伝えた。
「大丈夫です」
――だから、心配しないで下さい。そんな顔をしないで下さい。
祈るような心地で、葵は侑司に笑んで見せた。
心の奥を走査するような彼の鋭い視線は、しばらくずっと葵に注がれたままだった。
* * * * *
翌日からまた、通常の営業日が戻ってきた。
二、三の常連客から、そういえば定休日の夜に何かやってたね、と聞かれたりもしたが、特に突っ込まれることもなかった。
店内に残る高揚した余韻は徐々に薄れていったが、賑やかで楽しい雰囲気は以前と変わらずだ。学生たちは学校が始まり、それぞれが新たな年度に向かって、忙しくも充実した日々を過ごしているようだった。
新しい季節を迎える準備はクロカワフーズでも始まっている。若干名ではあるが新入社員も内定し、もしかしたら慧徳の店にも入社前研修が入るかもしれない、と通達があった。
さらに、『櫻華亭』赤坂店の副支配人に新しい人が就くことも知った。まだ、誰が就くのかは公になっていないそうだが、おそらく一月の定例会議で発表があるだろうとのことだ。
昨年の十二月末日で木戸穂菜美が正式に退職処分となって以来、赤坂店はしばらくアテンド不在の状態が続いていた。蜂谷支配人やその他のスタッフにかかる負荷は少なからずあったのだろう。
木戸穂菜美は、今現在も連絡が取れないままだという。
そんな中、葵はいつもと同じように店に立って客を迎えもてなす傍ら、来る三月の四周年記念イベントへ向けて、イベント企画案の見直しに全力を注いだ。
模擬実験的営業は成功したのだ。三月に行われる四周年記念のイベントにおける “大人のお子様ランチフェア” の決行は、ほぼ確定で間違いない。
そこでの成功こそが、葵の真の目標であり、願いなのである。
そのためには、検証結果をもとに反省すべき点や問題となった箇所を改善する策を練り、本番前までに万全を期しておかなければならない。
余計な思考を無理矢理塗りつぶすかのように、葵は企画報告書の作成に没頭した。
――そして、陰謀の触手はついに伸ばされる。
定例会議が近くなった頃、葵のもとに三件の連絡が入った。
一つ目は月会議の三日前。本社から各店舗へのメールだった。その内容は、一月の定例会議は諸事情のため開始時間を繰り下げる、というもの。
二つ目は月会議の二日前。統括部長本人から葵の携帯に着信。五分もかからない短い通話だった。
三つ目は月会議の前日。同じく葵の携帯に着信。電話の向こうが名乗った時、密かに吐き出した息がほんの少し震えたのは、武者震いだと思いたい。
不思議なもので、葵の心は冷静だった。来るべきものの正体がわかっていれば腹も据わる。
ここで負けたくはない。負けるわけにはいかないのだ。
葵にはまだ、やらなければならないことがあるのだから。
0
あなたにおすすめの小説
百合ランジェリーカフェにようこそ!
楠富 つかさ
青春
主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?
ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!!
※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。
表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
裏長屋の若殿、限られた自由を満喫する
克全
歴史・時代
貧乏人が肩を寄せ合って暮らす聖天長屋に徳田新之丞と名乗る人品卑しからぬ若侍がいた。月のうち数日しか長屋にいないのだが、いる時には自ら竈で米を炊き七輪で魚を焼く小まめな男だった。
27歳女子が婚活してみたけど何か質問ある?
藍沢咲良
恋愛
一色唯(Ishiki Yui )、最近ちょっと苛々しがちの27歳。
結婚適齢期だなんて言葉、誰が作った?彼氏がいなきゃ寂しい女確定なの?
もう、みんな、うるさい!
私は私。好きに生きさせてよね。
この世のしがらみというものは、20代後半女子であっても放っておいてはくれないものだ。
彼氏なんていなくても。結婚なんてしてなくても。楽しければいいじゃない。仕事が楽しくて趣味も充実してればそれで私の人生は満足だった。
私の人生に彩りをくれる、その人。
その人に、私はどうやら巡り合わないといけないらしい。
⭐︎素敵な表紙は仲良しの漫画家さんに描いて頂きました。著作権保護の為、無断転載はご遠慮ください。
⭐︎この作品はエブリスタでも投稿しています。
あるフィギュアスケーターの性事情
蔵屋
恋愛
この小説はフィクションです。
しかし、そのようなことが現実にあったかもしれません。
何故ならどんな人間も、悪魔や邪神や悪神に憑依された偽善者なのですから。
この物語は浅岡結衣(16才)とそのコーチ(25才)の恋の物語。
そのコーチの名前は高木文哉(25才)という。
この物語はフィクションです。
実在の人物、団体等とは、一切関係がありません。
診察室の午後<菜の花の丘編>その1
スピカナ
恋愛
神的イケメン医師・北原春樹と、病弱で天才的なアーティストである妻・莉子。
そして二人を愛してしまったイケメン御曹司・浅田夏輝。
「菜の花クリニック」と「サテライトセンター」を舞台に、三人の愛と日常が描かれます。
時に泣けて、時に笑える――溺愛とBL要素を含む、ほのぼの愛の物語。
多くのスタッフの人生がここで楽しく花開いていきます。
この小説は「医師の兄が溺愛する病弱な義妹を毎日診察する甘~い愛の物語」の1000話以降の続編です。
※医学描写はすべて架空です。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる