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第2部
どんげすっかい、宮崎(じわり焼酎編)
しおりを挟む『――お願い……っ、母さんには、言わないで……!』
かつて、壮絶な痛みを堪えながら、葵は叫んだ。
絶対に知られてはいけない、と思ったのだ。
知れば母は自分を責めるだろう。ショックとストレスでまた、病気が再発するかもしれない。
だから、自分も兄も弟も、母さんだけには絶対に知られないように、と――
「――葵」
母はそっと葵を抱き寄せ、コートを着たままの背を優しくさすった。
「……辛かったね……ごめんね、傍にいてあげられなくて」
凍りついた葵を溶かそうとするように、母の手は何度も背中を往復する。
「ずっと、謝ろうと思おちょった。母さんを気遣って、一人で抱え込んで……辛い思いをさせてしまった。母さん、そんなこと全然知らなくて、知った時にはもう、遅かった」
「……母さ……」
喉が詰まって言葉が出ない。母は身体を離して、唇を震わす葵を覗き込んだ。
「ちゃんと、話そう。寒いから、ストーブ点けて」
そう言って、葵を居間の方へ促した。
雨は完全に上がったのか、いつも以上に静けさを感じる夜だ。母の言うように急に気温が下がったのだろう、狭い小さな部屋はすでに冷気が立ち込めている。
電気ストーブをつけてコートを脱いでいる間に、「少しだけ飲もうか」と、母が焼酎のお湯割りを作ってくれた。スーパーにも売っている紙パックの入りの芋焼酎で、宮崎の有名酒造メーカーのもの。全国区でもメジャーだ。
グラスではなく大振りの湯呑を満たすお湯割り。口に含めば、少し薄めの馴染みの味。
胃の腑に落ちていく温かさが、大きく波立った心中を抑えてくれる気がした。
小さな折り畳みのテーブルに落ち着いた母は、同じく湯呑の焼酎をこくりと飲んで大きく息を吐く。
「これから話すことは、萩に内緒じゃぁよ」の言葉に頷けば、母は遠くを見るように目を細めた。
「……去年のお彼岸、じゃったかな。萩が一人でこっちに遊びに来た時があったでしょ?」
――それは昨年三月、萩が単身宮崎を訪れた時の出来事だった。
いつも通り、萩は伯父宅へ厄介になり、母もその時は一緒に泊まったそうだ。大体、伯父宅では客人とあらば夜は決まって宴会となり遅くなる。そこに参加する母は、仕事の都合さえつけばそのまま泊まることも少なくない。
その夜も、母は義姉の千恵子と一緒に、先に潰れた武雄を寝かせて酒盛りの片づけなどをした後、ようやく風呂へ行こうかと着替えを取りに客間へ向かった。そこで閉じた襖に手をかけた時、部屋の中にいる萩の声を聞いたのだ。
『――はあぁっ? 戻ってきたって……、――んだよそれ、ふざけんな……!』
萩が誰かと電話で話しているのはすぐにわかった。が、ずいぶんと激昂している。萩なりに声を潜めているつもりなのだろうが、興奮すると周りへの気遣いなど霧散する息子だ。しかも、古い日本家屋である伯父宅は、襖で仕切ってあるものの防音性は低い。
萩の話す声は、襖越しに朋美の耳を直撃した。
『――だから、蓮兄! そんなん言ってる場合じゃねーだろ……! あいつが葵に近づくかもしんねーんだぞ? ……あぁっ? んなのわかったもんじゃねーって……!』
――相手は蓮なの? ……葵? 葵がどうしたの?
立ち聞きなどするものじゃない、という戒めの声は、色濃くなる不穏さの前にたやすく砕かれた。
『――わかったよ、とりあえず明日帰るから……、――は? オレが言うかよ……! 何のために葵があそこまで隠し通そうとしたかオレだってちゃんとわかってるさ……母さんには言わないで、って何度も何度も……』
心臓の拍動がどんどん速くなっていく。嫌な予感、取り返しのつかない何か、見逃していた警告……飛び出しそうになる叫びを無意識のまま手で押さえた朋美に、信じられない事実が銃弾のように撃ち込まれた。
『――葵が妊娠させられた挙句、流産したなんて知ったら、母さん、また病気が――、』
静かに語る朋美はそこで一息ついた。愕然と目を見張る葵を宥めるように、母はゆっくりと大きく頭を振る。
「……それで、その場で萩を問い詰めようとしたっちゃけど、義姉さんから止められて」
仄暗い廊下に立ちつくす義妹を見かけ、訝し気に近寄った千恵子も萩の声を聞いてしまった。恐慌をきたし今にも崩れ落ちそうな朋美を素早く支え、客間から離れた台所に引き込んだのは千恵子だった。
二人が「まさかそんなこと」と一笑に付してしまえなかったのは、嫌になるほど確信に満ちた心当たりがあったからだ。
「兄さんの言うたとおり……葵が短大二年の時じゃぁね、ビックリするほど痩せて、どこか挙動不審みたいになっていて……そんな葵を、蓮と萩がピリピリしながら守っちょった。……何かあったんだ、て思うてた」
それは、母の勘であり女の勘であった。
朋美は、何かのっぴきならない事情が娘に降りかかったのだと咄嗟に察したが、それとなく探ってみても葵はもとより、蓮も萩も頑なに壁を作り立ち入らせない。そこに見えたのは、母には絶対に明かさぬという強い意志だった。
結局朋美は、娘の異変を気にしながら、黙するしかなかった。
きっと重大事であるはずなのに、打ち明けてくれない我が子たち。途方もない寂しさと疎外感を覚えたが、あの子たちはもう子供じゃないのだ、と自分を納得させ、いつか彼らが自分から話してくれるまではそっとしておこうと決めた。
何より、かつて病んでしまった自分を癒すこと優先に、子供たちを置いて故郷に帰ってきてしまったという負い目は大きい。今更、母親面して彼らを問い詰めることに気後れが生じた。
――大丈夫……葵は乗り越えられる……強い子だもの……蓮と萩もついている……あの子たちを信じて、見守るしかない……
祈るような思いで案じつつも、宮崎から東京までの遥かな距離はもどかしい。その後も、電話する時、久々の再会の時、常に細心の注意を払って娘の様子を窺った。
しかし幸いというべきか、娘の様態は徐々に回復していったように思えた。やっと就職先が決まったと聞いてから、葵本来の溌剌とした笑顔が見られるようになるまで、およそ半年くらいか。
宮崎へやってくる娘が、年々、一端の社会人として歩み成長していく姿が誇らしかった。
乗り越えたんだな、と思った。だからもう心配ないだろう、と思っていたのだ――萩の口から発せられた、衝撃的な事実を聞くまでは。
千恵子と共に台所の片隅に蹲るようにして、朋美は声を押し殺して泣き崩れた。どうしよう、そんなことがあったなんて、と嗚咽を漏らし、身を震わせる朋美に、千恵子は「今こそあんたがしっかりせんといかん」と、ずいぶん長い時間、涙ながらに説得し続けたという。
「今ここで萩を問い詰め、果ては葵を、蓮を問い詰めても、いいことは一つもない、起きてしまったことは消せない、って義姉さんに言われたがよ。あれからもう何年も経って、葵は今、心底楽しそうに生活しちょる……話してくれんかったことを責めるより、どんげな思いで辛い出来事を胸に秘めたのか、その気持ちを汲んじゃろう、って」
明け方近く、母が客間へ戻った時には、萩が何事もなかったように大の字で眠りこけていたというから皮肉なものだ。
いつの間にか夫や長男の身長を越してしまった末っ子は、寝顔にまだあどけなさを残す。そんな萩を見つめながら、そして東京で生活するもう二人の我が子、蓮と葵を想いながら、朋美は心に誓った。
――今度は私が、あなたたちの秘密を秘密のままに、陰から支えていかなければ、と。
「……ごめんなさい。……黙ってて」
俯いたまま、顔も上げられなかった。母のみならず、伯母まで知っていたとは。
葵は昨年だけでも二回、宮崎へ来た。五月末、それから十月半ば――その時のことを思い返しても、母と伯母が葵の秘密を知っていたような素振りはまったく見られなかったと思う。いつもと変わりなく朗らかに出迎え、屈託なくもてなしてくれた。
秘密を抱えながら平静を保つことにどれだけの神経を使うか、他でもない葵はよく知っている。だからこそ、頭が下がる。
項垂れる葵の傍で、母が「謝らんで」と囁くように言った。
眼を上げれば、母の瞳が潤んでいる。でも笑顔であろうとしている。娘に罪の意識を感じさせたくないのだろう。母の手が、項垂れる葵の頭に触れた。
「……お付き合い、していた人?」
やはり囁くように問われて、葵はコクンと頷く。
「短大の時、知り合った人」と言えば、母は「そう」と言って優しく葵の髪を撫でる。
「その人とは、もう……?」
「うん……ちゃんと、お別れした」
ポツンポツンと水滴を落とし、小さな水紋を描くように、母娘は静かに問答を繰り返した。
……妊娠が原因で……? ……ううん、妊娠がわかった時、彼とはもうダメになってて……
……病院には行った……? ……うん……どうしようもなくて、堕ろすことも考えて、でも、その前に稽留流産って診断されて……
……じゃあ、三回忌でこっちに来たときは、もう……? ……そう……ちょうど精神的に参ってた時だったと思う……ショックが大きかったのかな……
葵の流産が、自分と同じ稽留流産であったと聞いた時は、母もさすがに驚きを隠せなかったようだが、それでも努めて冷静に、責めることも嘆くこともなく、葵の言葉を余すことなく受け止めてくれた。
大体の経緯を訊き出した後、母は手を伸ばして強張った葵の頬をそっと包み込んだ。
「辛かったじゃろ? 一人で誰にも相談できず……でもね、大丈夫。母さんだって、無事に葵と萩を産んだもの」
母の両手は、木花を扱うせいか荒れて痛んでいる。でも温かい。
「……母さんも、辛かった……?」
「そりゃあね。でも……葵が辛い思いをしたってわかった時の方が、よっぽど辛かったかな」
「……ごめんなさい」
「もう。葵は悪くないーて。……葵は、悪くないの」
額を突き合わせるようにして目を合わせて、お互い潤んだ顔で笑んだ。
不思議なものだ。あれだけ自分を責めたのに、葵は悪くない、という母の言葉はすんなり心に入っていく。
そうか……母が大丈夫というなら、大丈夫なのかもしれない。
ひとしきり二人で鼻を啜って、ふふと照れくさい思いで笑い合い、それぞれが幾分温くなった焼酎で喉を潤した。
そう言えば昔、一家団欒の夜のひと時、父と母の手元には必ずこの芋焼酎があった。やはりグラスではなく、夫婦揃いの湯呑で。
この子にしてこの親あり、と言うべきか、両親もまたアルコールに強い体質で、二人が酔っぱらったところは見たことがない。さしずめ、食後のお茶やコーヒーを飲む感覚で故郷の焼酎を、その日の締めくくりとして楽しんでいたのだろう。
父の仕事が忙しくなって、息子娘たちもそれぞれの時間を持つようになり、家族団欒の時間は年々減っていったが、それでも母は夕食後、よく焼酎のお湯割りを作って飲んでいたのを覚えている。
父を亡くし単身宮崎に移住した母は、毎夜この部屋で一人、温かい焼酎を味わいながら、何を想うのだろうか。
ふと、母がしんみりとした口調で漏らした。
「……じゃあ、黒河さんは……全部、知っちょるのね」
突然出てきた上司の名に、内心ドキリとしながら葵は頷く。
「うん……色々あって……その、相談に乗ってもらったり……助けてもらったり、して」
すると母は「よかった、そげな恩のある人に噛みつかんで」と悪戯っぽく笑う。
「ホント言うとね、今日は母さん、今度こそ刺し違えても葵を守らんと……って、てげ、気張っちょったんよ」
「え」
なかなか物騒な物言いだ。母は湯呑の焼酎を一口飲んで、ほぅと大きく息を吐き出した。
「……夕方頃に蓮から電話があった、って言ったじゃろ? 母さん、ちょうど帰るところで受けたっちゃけど……あの子ったら突然『今日の夜あたり、そっちに黒河という男が行くから』って言うんじゃもん、てっきり、葵が苦しむことになった原因の人じゃと思うたの」
「そ、それは、ないよ……」
「だって、こっちに来てから葵は元気がないし、突然電話してきてそげなこと言われたら、もしや!って思うがね。それでつい焦って、『葵は渡さんよ、今度こそ、母さんが守るけー!』って電話越しに叫んでしもうて。そうしたら蓮が『……母さん、まさか知っているのか』って。……あの子は頭がよう回るけぇ、たぶん、すぐに察したっちゃろうね」
しかし仕事中だったらしい蓮は、もどかしさを露わに、まくし立てたという。
――今は時間がないから詳しく話せないけど、信じてほしい。怪しいやつじゃない。むしろ葵を守ってくれた男なんだ。……葵の携帯が駄目らしいから、伯父さんの住所を教えておいた。とんぼ返りする様子がなければ、もてなしてやって欲しい……それから、葵がその男に連れられてすぐこっちに戻ることになっても、快く送り出してやって欲しいんだ。……葵、そっちでも元気がなかっただろ? それを救ってくれるのが、たぶんこの男なんだよ。……戻らなければ、葵は後悔すると思う――
「蓮兄が、そんなこと……?」
「フフ……あの子もちょっと焦ってたんじゃろか、らしくなく早口でバババーッと。でもそうは言うても、はいそうですかーて、すぐは信じられんでしょう? とにかく、会うだけ会ってみようと思うて」
あくまでも軽い口調で語る母を、葵は改めて目が覚めるような心地で見直した。
今日、仕事から帰ってきた母はずいぶんご機嫌に見えたのだが。もしかすると、そういった猜疑や緊張を押し隠すために、無理矢理明るく振る舞っていたのだろうか。
「実際、黒河さんに会って、ちょっとビックリしたっちゃが。だって……響さんに似ちょるんだもん」
「父さんに……? いや、似てないと思うよ……?」
思わず、部屋の片隅にある小さな仏壇を振り返る。そこにある遺影は亡くなる少し前の写真だから、葵の中にある一番近い父の記憶と大差ない。
写真の父の穏やかな笑みは、父の性分そのものだと言ってもいいだろう。そこに侑司との共通項は……見当たらないと思うのだが。
葵と同じく仏壇に眼をやった母は、「うーんとね……顔かたちじゃぁなくて……」と言って腰を上げ、仏壇から遺影の写真立てを持ち出してきた。
テーブルの上に丁寧な手つきで写真を立てる様子は、まるで、響さんも会話に加わって、と父の腕を引っ張ってきたかのようだ。
そして、母は目を細めて父の笑顔を眺める。
「食事しちょる時も、それとなく観察したっちゃけど……一番、似ちょると思うたのは、さっき……黒河さんを見送った時じゃぁね。あの時彼ね、葵と一緒に東京へ戻ってもいいか、って訊いてきたんよ」
母と伯母に見送られる中、革靴を履いた侑司は、框上の二人にこう述べたという。
『――葵さんの、せっかくの休暇中に申し訳ないのですが、会社で想定外のトラブルが発生し、彼女の力がどうしても必要となりました。明日の早朝便で、自分は東京に戻ります。……葵さんと一緒に帰ることを、どうかお許し願えないでしょうか』
改まっての口上に少々面喰いつつも、母は侑司の真摯な視線を丸ごと受け止めて、逆に問うたそうだ。
『葵は……役に立ちますか』
若い青年の誠意は手に取るように伝わった。きっと、娘の勤める会社は彼の言う通り、大変な事態に見舞われているのだろう。だからこそ母として、娘の状態を危惧せずにはいられない。
『あん子は有給休暇と言うちょりましたが、たぶん仕事でなんやらあったっちゃろうな、と思いました。……仕事が好きで好きでたまらん子じゃったのに、こっちに来てから一言も仕事の話はしよりません。……元気もないし、ずっと上の空で……あげな葵が戻って、役に立ちますか?』
すると侑司は、一度視線を落とした後、決然と顔を上げて言ったそうだ。
『――葵さんが店に立つと、そこに光が生まれます。その場の雰囲気を大きく調和することができる、貴重な光です。……葵さんが、どうしても必要です』
そこで母は、キュッと目を細めた。
「その時の、黒河さんの目ぇがね、ふふふ……響さんにねー」
似ていた、というのか。それはともかく、光がどうとか、どういう意味なのだろう、さっぱりわからない。なのに何故か頬が熱くなって、湯呑で顔を隠すようにして焼酎に口をつけた。
母の指が、写真立てをそっとなぞる。
「だから、お任せしようと思うたんよ。この人なら大丈夫じゃーて、どうしてか思えたんじゃぁね」
思い浮かぶのは、よろしくお願いします、と頭を下げた母の姿。
母は、やはり母なのだ、と思った。いつでも娘を心配し、娘のために頭を下げる……離れていても、娘が大人になっても、母は、母親なのだ。
しんみりと父の笑顔を眺めて、母は言う。
「必要としてくれる場所、必要としてくれる人がいるてぇことは、本当に幸せなことじゃぁね……」
必要としてくれる場所と人……母の言葉を噛みしめるように反芻する。以前、幾度か感じたことが、ふと頭に過った。
「父さんは……母さんを宮崎に呼んだのかな……」
ここでの母の生活はすっかり馴染んだものになっているけれど、元々母は、宮崎に安住するつもりはなかった。顔面麻痺が無事に治ったならば、頃合いを見て息子娘たちが待つ東京に戻るつもりだったのだ。
だが、母がそろそろ東京へ、と考える頃に何故かタイミング悪く、武雄が自動車で事故を起こして骨折したり、千恵子の実家で不幸があったり、昔馴染みの友人から園芸店を手伝ってくれないかと持ちかけられたり……と、色々なことが起きてしまう。その度に母は、東京に戻る機会を逃し続けたのだ。
母は息子娘たちをほったらかしにしてしまったと自分を責めているようだが、母が悪いのじゃない、そういう巡り合わせだったのだと思う。
そして葵は、そこに何か、説明できない不思議な力が働いたのではないか、と思うのだ。
ポツリと漏らした言葉に不可解な顔をすると思いきや、母はパッと顔を輝かせた。
「あー、それ、うちも思うたー。東京では、通院してお薬を処方されても全く動かんかったのに、こっちに戻ってすぐ、麻痺が取れたじゃろ? なんでこんなに簡単に?って思うくらい。その時にね、もしかしたら響さんが、宮崎に戻れーって、天から念じちょったのかなーて思うた」
ねぇ?と、遺影に向かって笑った母は、葵に向いて「実はね」と言う。
「子供たちがみんな自立したら、二人で宮崎に戻ろうかって、響さん、言うちょったから」
「そうなの? ……知らなかった」
「戻れればいいね、くらいの話よ。定年迎えて、その先の話。……それが、いつの間にかこうなっているんじゃから、やっぱりこれは、響さんの意志じゃぁて」
ウンウンと一人頷いて、母は瞳をくるっと丸くした。
「……でね、兄さんち行く時も言うたけど、萩が卒業後はここに越してくるてー、言い出したじゃろ? 母さん、思わず『父さんに会った?』って聞いたがぁよ」
は?と訝し気な顔をする娘に、母は遺影を自分の顔の前に立てる。
「まさか響さんが、萩の枕元に立って『宮崎に行け~……』なんて」
「母さん」
わざと眉を顰めれば、ひょいと写真立ての横から顔を出す母。
「萩にも変な顔されたー。『怖いこと言うな』じゃって。ふふ、意外とそういう話、弱いがね、あの子」
「もう」
呆れ笑いで嘆息して、葵は父の笑顔を見ながら、ちょっといいな、と思ってしまう。父さんの幽霊なら枕元でもどこでも、是非会って話をしたい。
じゃかいね、と母は笑ったまま続けた。
「蓮でも葵でもなく、一番来そうにない萩じゃったから……響さんに『大穴狙いよったね』って笑うたの」
そう言って、遺影をきちんとテーブルに立てて、母はすっと真顔になった。
「――でも、葵は違う。……じゃぁね?」
自分に注がれる真っ直ぐな瞳に、ドキンと胸が鳴る。
「葵はね……ものすごく未練のある顔をしちょる。向こうに、大切なものや別れたくないものがたくさんあるがぁね。……ここに越してこようかなーて漏らしちょったけど、本心は、東京を離れてここに住むつもりはない。……じゃろう?」
見透かされている、と思った。
そうなのだ。葵があれこれ鬱々と思い悩むのは、東京に戻った後のことばかりだ。戻ること前提なのだ。口先だけで思わせぶりなことを言うのは、ものすごく罪なことだと気づく。
ごめんなさい、と呟けば、だから謝っちゃダメじゃーて、と抱きつかれた。
「いいの。当然じゃぁて。それでいいの。……過ぎた時間はもう、取り戻せないけれど、これからはいくらでも頑張れる。母さん、もう大丈夫だから」
耳元で母が言う。母の温かさと香りをスンと吸い込みながら、葵は母の肩越しに父の遺影を見た。
「……明日、帰るんよね?」
母さんをお願いね……と染み入るような思いで祈る。
「うん……帰る。母さん……ありがとう」
戻ったところで、こんな自分に何ができるのか、まったくわからない。けれど、これだけは確かだと、わかったことがある。
――自分の居場所は、ここじゃないのだ。
* * * * *
翌早朝、母に空港まで送ってもらった。
昨夜、侑司から渡されたチケットを見せると母は「あらまぁ早いこと」と笑って、すぐに交替で風呂を済ませ、布団に入ったのだけれど、横になって消灯してからも母娘は余すことなく語り合った。だから、今朝の別れの挨拶はシンプルで短かかった。
ただ一つだけ、車中で尋ねてみたことはある。
「母さん……一人で寂しくない?」
ずっと気になっていたことだ。
遠く離れた距離を憂いているのは母だけじゃない。兄妹弟三人皆が口には出さずとも、母の身を案じている。特に長男の蓮は、母を一人にしておくことに誰よりも自責の念を感じている。
しかし母は大げさに目を丸くして、ううんと大きく頭を振った。
「一人じゃぁないもの。兄さんも義姉さんもいるし、市内の里美姉さんも時々一緒にご飯食べるし? 仕事仲間も増えて……ああ、萩が越してくれば、ますます賑やかになるわー。――あ、そうそう、今度のゴールデンウィークあたり、実可ちゃんが遊びに来たいって言っちょるの。『アオヤギ・スイミング』に謙悟くんがコーチで入ったんじゃろ? 実可ちゃん、一週間くらい仕事休んで宮崎旅行してやるって張り切っちょった」
そう語る母に、嘘をついている気配は微塵も見られなかった。
母の心は母にしかわからない。たとえ寂しくとも辛くとも、きっと葵たちにそれを漏らすことはないだろう。それが、母親というものなのかもしれない。
結局、母の懐の深さに甘えている自分を実感しながら、葵は母と別れた。
侑司とは特に待ち合わせの時間も場所も決めていなかった上に、葵の携帯電話が心許ないため少々焦ったのだが、宮崎空港のこぢんまりさが幸いしたせいか、割と容易に侑司を見つけることができた。
東京に戻ったら新しい携帯端末を購入しよう、と決意しつつ、搭乗手続きカウンター前で待っていた彼の元に走り寄れば、侑司はいつになく厳しい顔つきである。
その理由はすぐにわかった。羽田行きのフライト便に若干の遅れが出ている。
昨夜宮崎を通り過ぎた大きな低気圧が、夜中関東方面へ進むにつれてさらに発達し、向こうでは明け方まで大雪になったらしい。幸い、現時点で関東近郊の降雪は止んでいるものの、東北地方はいまだ大荒れ、混乱は続いているとのことだ。
加えて侑司が危惧しているのは、首都圏周辺の道路状況らしい。積雪で首都高が通行止めにでもなれば、慧徳までの道のりは格段に遅くなるという。
昨日の時点では、時間を繰り下げてもいい、と言っていたので、何故そこまで急ぐのかわからず困惑する葵に、侑司は「状況が急変した」と厳しい顔つきのまま説明した。
「今朝早く連絡があった。本当は明日から開催する予定だったんだが……急遽、慧徳店だけ、前倒しで今日から始めることにしたそうだ。それほど、反響が大きかったんだろうな」
「あの、開催って……」
侑司が一瞬詰まった。が、すぐに葵の肩に手を置き、諭すように言う。
「……水奈瀬。お前が起案した、四周年記念企画の “大人のお子様ランチ” フェア……あれを特別イベントとして、『アーコレード』三店舗で同時開催することになった」
その瞬間、葵の顔から血の気が引いた。
「……そ、んな……」
「水奈瀬……?」
じり、と足が後退する葵を、侑司が心配そうに覗き込む。
――無理だ、と思った。
応援ありがとうございます!
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