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松穂

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第2部

どんげすっかい、宮崎(吃驚おでん編)

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 木造アパートに張りついたポケットのような小さなベランダから空を見上げれば、広がるのはどんよりとした曇天。いつの間にか陽の気配がない。
 東京から遥か離れたこの地に来て三日、宮崎は見事な晴天続きだったが、ここでようやく雨の気配がひたひたと近づいてくるようだ。
 干された洗濯物に手を伸ばしかけて、葵は盛大なくしゃみをかます。
 南国宮崎とはいえ、さすがに冬は寒い。乾いた風は冷たく、特に朝晩の冷え込みは東京以上なのではないかと思わせる。晴れていれば昼間差す陽光は実に強く暖かだが、雲が出て陽が陰ればそれもない。
 物干竿から手早くハンガーを外しつつ、ふと、そろそろディナーの準備時間だな……と無意識に思い至ってしまった自分に呆れた。
 仕事を離れても、身に刷り込まれた日常は強く残っているものだ。どこにいても何をしていてもつい、「今頃店は」と考えてしまう自分から逃れられない。

 東京を発つ日の朝、店に寄って挨拶をしてきた。
 開店準備を淡々と進めていた柏木は、ロボットじみた口調で「ゆっくりしてきて下さい」と言い、特に迷惑そうでも心配そうでもなかった。
 葵の携帯電話がいよいよ覚束なくなってきたので、念のため、宮崎の伯父宅と母の自宅アパートの電話番号を伝えておいたが、余程のことがない限り連絡してくることもないだろう。
 一方、朝の仕込みの合間、一服しに出てきた佐々木にも頭を下げた。その時に聞いた、厨房で一心不乱に作業しているという遼平の様子は、耳に痛かった。
 遼平が、伯父の死にショックを受けていないはずがない。なのに、彼は葬儀の翌日に休んだだけで、その後は学校にも通い、店にも出てきているそうだ。
 ――彼はすでに、真正面から仕事と向き合っている。反して自分は逃げるかのごとく、この場所を離れようとしている。
 情けなくて申し訳なくて、早くその場から消え去りたくて、結局葵は、遼平に声をかけることなく店を出てしまった。
 本当に、こんな自分は、あの店へ戻る資格など無いのかもしれない。

 取り込んだ洗濯物と一緒に、葵は部屋の中に戻った。たいして多くもない母と自分の衣服を畳めば、自分のシャツからいつもと違う香りがする。母が使う柔軟剤の香りだ。
 ここには確かに母の “日常” があるのに、葵の日常ではない。香り一つとっても。そのことが妙に葵の心中を重くする。
 大好きな宮崎の空気に触れれば少しは気が晴れるかと思った。母や伯父、伯母に会えば憂いことも忘れられるかと思ったのだ。
 でも、ここに来て日が一日一日と過ぎるたび、心の中は重く濁った色によどんでいく気がする。
『――一週間後にまた連絡します』
 その時を一刻も早く迎えたいのか、永遠にその時から逃げ続けたいのか。
 溜息を吐こうとした喉が引きつり、小さな咳が出た。


「ただいまー、葵ー、いるー?」
 母、朋美の朗らかな声が玄関から聞こえたのは、葵が洗濯物を畳み終えた時だった。
 台所でドサドサと荷物を置く音と、忙しないビニール袋の音。2DKの小さなアパートでは、居間にいても楽し気な母の声がよく通る。
「雨、降ってきよったよー、洗濯物が――、」
 ガラリと居間への引き戸を開けた母が、葵と、その膝元にある畳まれた衣服を見るなりホッとした様子で笑った。
「よかった。入れてくれちょったのね。ありがとう」
「うん」
 すっかり故郷のなまりに戻ってしまった母は、ますます快活に暮らしているようだ。現在、宮崎市内の園芸店で働いており、葵が滞在中も休むことなく仕事に出ている。
 それでもいつもより早めに上がって帰って来てくれるのは、母なりに何かを感じ、心配しているからなのだろうか。
 ニット帽とマフラーを外し、園芸店のスタッフジャンバーを脱ぎながら、母はくるりと葵を振り返った。
「ねぇ葵ー、今日の晩御飯は兄さんとこでいい?」
「……構わないけど……何かあるの?」
 尋ねれば、母は「んー」と言って、悪戯っぽく笑った。
「萩が早くも参っちょるみたいでー。過酷な現場に」
 だから様子を見に行こう、ということか。「わかった」と返す葵に、母はにっこり笑って台所に戻っていく。
「さっき帰りにレタス巻をうてきたけー、差し入れで持っていっちゃろう。ここのは “元祖” を名のっちょるだけあって美味しいんよー。ちょっと買いすぎやったかも……でも大丈夫じゃぁね、ふふふ」
 ご機嫌の様子で小さな台所を動き回る母の姿を、葵は見るともなしに眺めた。

 宮崎に来て最初の晩は、勧められるがままに伯父の家へ泊まったが、次の日からは、伯父宅から少し離れた場所にある母のアパートで寝泊まりしている。葵がそう望んだ。
 萩が長逗留する上に、自分までお世話になっては申し訳ないから、と、渋る伯父と伯母には言ったが、本心は、予定外の葵の訪問を心から歓迎しもてなしてくれる彼らの厚意が、重くて痛かった。
 有給休暇がかなり溜まってしまって――そう説明したのは嘘でない。けれど、どうしてか罪悪感に駆られてしまう。
 母は、そんな葵のぎこちない様子に気づいているのかいないのか、何も訊かずに明るく接してくれる。
 突然宮崎に行くと電話してきた娘に快く了承し、やって来た娘を朗らかに迎えた。一緒に食事の支度や後片付けをしたり、並べた布団に入り他愛無いお喋りをしたりという娘との水入らずを、母は楽しんでいるように見えた。
 ――なのに、奇妙な孤独感を覚えるのは、どうしてなのだろう。


* * * * *


 葵と母がアパートを出た時、すでに外は土砂降りであった。
 母の運転する軽自動車は、ワイパーを高速スイングさせながら水中をかき分けていくようだ。
「昼頃まではいいお天気だったのに」
 ぽつりと呟いた葵の言葉に、母はあははと大きく口を開けて笑った。
「宮崎の天気はくっきりしとるじゃろ? 照る時は照る! 降る時はジャンジャカ降る!」
 力んだ言い方が可笑しくて、葵も少し笑う。
 ライトの光が、激しい無数の雨粒をうねる生き物のように浮かび上がらせている。冷たい冬の雨だが、この地では滅多なことでは雪にならないそうだ。

「――萩がね、ここに住むて、言うちょるの」
 信号待ちで突然、母が言った。
 唐突だったので、葵はその意味を取り違える。
「……でも、実習期間って二週間以上もあるんでしょ? 萩の荷物、かなり多かったし……母さんのアパートじゃ手狭だよ」
 すると母は、違うのよ、と笑った。
「そうじゃあなくて。専門学校を卒業したら宮崎に引っ越してくるーて、言うちょるの」
「ああ、そっか……そんなこと、言ってたな……」
 勘違いに気づき記憶を辿る。その話、聞いた記憶はあるのに、いつ聞いたのかまるで覚えていない。確か、葵自身が大変な時期だった気がする。
 萩のことだから勘の赴くままパッと決めたのだろうが、少しは相談にのってやりたかったな、と今更ながらに悔やむ。
 ――と同時に、酷くうらやましく思えた。
 萩のように、自分の信じる方向へ脇目も振らず一心に進んで行けたら……
 信号が変わり、小さな車ははためく雨のカーテンの中を注意深く進む。
「……私も、ここに越して、こようかな……」
 つい漏れ出た言葉は、葵自身を驚かせた。……それは、本心?
 ちらりと母がこちらを見た気がしたが、何も言うことはなかった。

 町中から外れた集落にある伯父宅――岩切家に到着すると、母は納屋前の駐車スペースに向かう前に、玄関前へ車をつけてくれた。葵は車からまろび出て、一人先に豪雨の中を玄関の軒先へ滑り込む。――が、傘を畳んで引き戸を開けた瞬間、その場で硬直した。
 昔ながらの大きな段差がある玄関間口で、驚いたようにこちらを向く四人の人物。
 玄関の框上で仁王立ちするのは伯父の武雄で、その脇に伯母の千恵子。玄関土間に立ち、こちらに振り返ったのは、弟の萩ともう一人――ここに居るはずのない人。
 萩がホッとした顔で肩の力を抜く。
「――葵! ちょうどよかった。伯父さんに説明しろよ。黒河サン、怪しい人じゃないってさ」
「え……あの」
 固まったまま葵の脳内は大パニックだ。
 真っ黒なコートを着て真っ黒な傘を手に持ち、端然と立つ背の高いその人――黒河侑司は、まるでコラージュされた写真のようにしか見えない。
 框上から見下ろす武雄がギュイっと太い眉を吊り上げた。
「なぁも、怪しいとはゆうちょらん。じゃけぇど、突然来よって葵に会いたいなんぞゆうちょっかい、どげん理由なんかはっきりさせぇとゆうちょんじゃ」
「もうー、さっきから説明してんじゃん。葵の会社で何か知らねーけどトラブルが起きたんだろ? だから迎えに来たんだよ。緊急事態、ってやつ」
「キンキューだかなんじゃ知らんけど、葵は休暇中じゃ! たかだか仕事のためにわざわざ東京から迎えに来るなん、おかしかないかぁゆうちょるが。戻って欲しいゆうなら電話一本寄越せばよか話じゃろ」
「だからそれも言ったって! 葵の携帯が壊れてて連絡取りようがなかったんだって」
「そんでもじゃ! ケータイ壊れちょぉからて、他に連絡しようがあるじゃろがい!」
「――お父さん、落ち着きぃて。お客さんも葵も、困っちょろうが――」
 興奮のためかますます聞き取りにくい訛りで早口にまくし立てる武雄を、千恵子が慌てて抑えている。
 一方の葵は、そんなやり取りがまったく耳に入ってこなかった。なんでどうして、と疑問さえ浮かばない。真っ白になるとはこういうことか、身体も思考も、別次元に飛んでしまったかのように実態がなくなった。
 こちらを向いた侑司の、真っ直ぐな双眸が音にならない何かを放っている。葵を見つめたまま侑司の口が小さく動いた。低い声は聞き取れなかったがその唇は、申し訳ない、と動いた気がした。

「――葵! 突っ立ってねーで説明しろよ! 黒河サン、はるばる東京から迎えに来てくれたんだぞ! だいたい、お前がいつまでも古臭いガラケー使ってるからこんなややこし――」
「わしぁ、納得せんぞ! 東京もんじゃからーて、なんでもホイホイ信用すると思うたら大間違いじゃ!」
「――っだぁ! 東京モンとか、ンなのカンケーねーじゃんっ!」
 わぁわぁとがなり立てる伯父に堪りかねて萩がわしゃわしゃと髪を掻き回した時、開けたままの引き戸の後ろで母が軒先に走り込んできた。
「ひゃー、よぉ降りよるねぇ。傘が役に立たん……あれ? 葵、中に入らんとどうした――……あら」
 玄関先に勢ぞろいする面々を見渡し、母はパチクリと瞬いた。が、侑司の姿を認めると、屈託なくにっこりと笑う。
「あらあら、思うたより早かったんですねぇ。こげな雨で大変やったでしょう……ああ、ご挨拶せなね。初めましてー、葵の母ですー」
 ニコニコと警戒心ゼロの笑顔を向けられ、侑司もさすがに一瞬面食らったようだが、すぐに丁寧な一礼をした。
「水奈瀬さんと同じ会社に勤めております、黒河侑司です」
「うふふ、そげに硬くならんでも。――あらイヤだ、こんなところで。ささ、どうぞ上がって下さい」
「な……っ、ちょぉまて――、」
「あ、いえ、自分はここで――」
「まぁまぁ、いいじゃないですか。お夕飯まだでしょう? よかったらご一緒に。――ねぇ、葵? ……ちょっと葵、雨が降りこまんうちにドア締めてちょーだい。――萩。黒河さんを奥の部屋に案内してあげてー」
 呆気にとられる萩と困惑顔の侑司の背を押して「ほらほら」と急かす母に、武雄が「ちょぉ待てぃ! わしはまだ納得しちょらんけ――」などと喚いている。千恵子がおっとりとした笑みを浮かべながら、意外に強い力で夫の腕をぐいぐい引いて、萩と侑司もそれに続いた。
 玄関に残った母娘は顔を見合わせる。くすりと笑った母が娘の鼻をキュッと摘まんだ。
「なんて顔しちょるの」
「……母さん、黒河さんがここに来ること……知ってた……?」
 辛うじて掠れた声を出した葵の両肩を、母は後ろからしっかり掴む。強張ったまま動けなくなってしまった身体のスイッチを入れるように、ポンポンとその肩を叩いた。
「うん。今日の夕方ね、蓮から電話があったから」


* * * * *


「――オレもさっき帰ってきたんだよ。したら、ちょうど玄関とこにタクシーが停まっててさ。中から出てきたのが黒河サンだったろ? マジでチョーびびった。疲れすぎて幻覚見てんのかと思った」
 大皿にあるおでんの具を片っ端から自分の取り皿に入れていく萩の手を、隣に座る母がパシリと叩く。一方、千恵子が品良く盛った皿は侑司に渡った。
「ほんに悪かったねぇ。うちん人は葵ちゃんこつ娘みたいに思おちょるけぇ、失礼な物言いで噛みつきよって。すっかり頑固親父になりよるが」
「誰が頑固親父じゃ」
 長卓の上座に胡坐をかき、ビールのグラスを傾ける武雄がふて腐れたように鼻を鳴らす。侑司は再び頭を下げた。
「いえ、不躾にも突然お伺いしたのはこちらです。申し訳ありませんでした」
 侑司の所作は自然で丁寧で厭味がない。千恵子は感心するような顔で目尻を下げた。

 今日宮崎に侑司が来るという情報は、何故か蓮が知っており、蓮が母だけにその旨を伝えていたそうだ。もちろん萩は知らず、伯父宅の前で鉢合わせた時は驚いたが、雨も酷いのでとりあえず玄関の中へ案内したという。
 しかし、奥から出てきた武雄は、葵の上司だという萩の説明を聞いた途端に機嫌を損ね、侑司が何を言っても難癖をつける有様。萩と、慌てて出てきた千恵子が一緒になだめているところへ、葵がやって来たというわけだ。

「葵の上司サンだぜ。オレも色々世話になったしー」
「萩の言う “世話になった” は危険じゃが。また、ご迷惑かけたっちゃなかろうね」
「伯母さん、また、とか言うのやめてくんない?」
 そんなやり取りをしながら、六人での食事は思いの外、和やかに進んでいる。
 リアルでハードな現場での実習に「マジで心が折れそう」とボヤくわりには、テンション高く喋っている萩がいいムードメーカーになっているようだ。
 ただし、伯父の武雄だけは何とも面白くなさそうな顔である。
 侑司がアルコールを丁重に断り、萩も女性陣も同じく拒否ったので、ビールを飲んでいるのは武雄一人。
 妻と妹二人が、嬉々として見知らぬ若い男の世話をあれこれ焼くばかりか、甥っ子の萩でさえこの男を気に入っている様子……となれば、仏頂面もあらわにグラスを空けるペースも早くなるというものか。
 そんな伯父の左角に座った侑司は、上着を脱いだワイシャツ姿で特に緊張している様子もなく、女性二人からほどこされる甲斐甲斐しいもてなしに適度な感謝を示しながら、静かに食事をしていた。彼の向かいで、飢えた野犬のごとくがっつく萩とは極めて対照的だ。
 ただ沈着ながらも、母が差し入れしたレタス巻きや、伯母が昨晩から仕込んだおでんを眺める彼の表情はどことなく興味深げで、それに気づいた母が得意げに語り出す。

「こっちのおでんの具はちょっと変わっちょるでしょう? 東京じゃあ牛筋やけど、宮崎は豚の軟骨。ここまでプルプルに柔らかくするのは、圧力鍋が一番じゃあねー」
 その他にも、豆もやし入りの餅巾着とか、白菜や春菊やらの葉野菜を入れることもあるんよ、という母の説明にも、侑司は丁寧に相槌を打っている。
 葵は箸を持ったまま、目の前の光景をボケっと眺めていた。
 勃発したパニックはいまだ治まらず、頭の中の回路がショートしてしまったかのように、上手く事態を飲み込むことができない。
 せめて先ほどちらりと耳にした、緊急事態にしろトラブルにしろの詳しい話を聞けば、少しは腑に落ちるのだろうけれど、今ここで自分から切り出すのはどうにも躊躇ためらわれる。
 まさか店で何かあったのか、連絡手段は一応伝えておいたのだけれど、どうして侑司がわざわざ宮崎にやってきたのか……事情がまったく分からないまま混乱は続くばかりだ。
 そんな葵を気にするそぶりも見せず、隣に座る侑司は長卓上のビール瓶を手に取り「注ぎましょうか」とさりげなく伯父に尋ねている。伯父は口をへの字の引き結んだまま、空になったグラスを突き出した。
 ビール瓶から静かに注がれたそれは完璧な泡比率。職業柄のプロフェッショナルが色濃くにじみ出ている。同業の葵でさえ、つい見惚れてしまう無駄のない洗練された所作だ。
 むっつりと杯を受けた武雄が、グラスに口をつける前にぼそっと漏らした。
「……あんたじゃぁ、ないんか」
 その場の皆が、何?と目を向ける中、武雄はちびりとビールを舐めて言う。
「昔……葵を傷つけたっちゅう、男じゃ」
「え……」
 ――ドキン、と葵の心臓が跳ね上がった。
「ちょっ……お父さん……っ、」
 下座に座る千恵子が慌てて声を上げるも、武雄は赤ら顔をしかめたままボソボソと語り出す。
「……響介くんの三回忌ん時じゃ……久しぶりにうた葵がぁ、急に痩せて病人みたいになってしもうて……葵はぁ、就職活動が上手くいきよらんちゅーて誤魔化しよったけんど、あげに痩せてしまうんはおかしいゆうて……こっちはみぃんな心配しちょった……」
「――あー、ほら伯父さん、就活ってメチャクチャやられるんだぜ? 葵も大変だったんだって」
 萩が咄嗟にフォローするが、酔いの回った武雄の耳には届いていないようだ。
「……里美がゆうちょった……もしかしたら、あれは男かもしれんて……葵も年頃じゃ……東京にゃ悪い男がゴロゴロいるっちゅう話じゃけん……葵もなんぞタチのわりぃ男に騙されよったんじゃなかろうかぁゆうて……」
「もう、お父さんてば、里美ちゃんはなんでもかんでも大仰に騒ぐじゃろう。いちいち真に受けんでも……」
 やんわりと突っ込む伯母の声音が心なしか上ずっている。武雄の充血した眼がじろりと千恵子を見やった。
「お前じゃって、きなきなしよったじゃろがい……葵はぁ、朋美とよぉ似ちょる……朋美はぁ昔っから気丈じゃったが、ぽっきり折れるまで痛いと言わん……響介くんが逝った時もそうじゃった……流産したっちゅう時も……」

 ――え……? 
「――お父さんっ、もう、呑み過ぎじゃって……」
 ――今……なんて……?
「なーん言うてぇ……まぁだそげんも呑んじょらん……」
 窘める伯母と、完全に目が据わった伯父。二人のやり取りに愕然と目を見張ったのは、萩と葵だ。
 ――流産、した時……? 母が……?

「伯父さん……それ、ナンの話……」
 萩が、とりあえず笑おうとしたのか頬を引きつらせた。ドックドックと脈打つ鼓動が耳の奥まで響いている。
 そんな中、母は慌てることも否定することもなかった。黙ったまま静かに控える侑司に、少し困ったような笑みを向けて、「もう、昔の話じゃって」と箸を揃えて置いた。
「……蓮を産んで、二年後くらいの時じゃったかな。ごく初期の流産。お腹の中で、まだちぃちゃい種くらいの時、育つ前に枯れちゃったの。 “稽留けいりゅう流産” て、言うんよ」
「う、そ……」
 震える声を止めようと口元を抑えた手も震えている。
 ――稽留流産……うそ、だって、それは……

 何とも言えない微妙な空気の中で、グラスのビールをぐいと飲み干した伯父が、半分寝かけたような眼を宙に彷徨わせた。
「そうじゃ……そのショックで、朋美は飯も食われんようになったちゅーて……こっちにしばらく帰ってきよったんじゃ……まぁだちっちゃい蓮を連れて……あん頃の朋美は……わしらに隠れて……よう泣きよった……自分のせいじゃーて思い詰めてから……」
 長卓に肘を乗せそびれて武雄の身体がガクンとずり落ちた。その拍子にグラスと皿がぶつかって派手な音を立てる。
「もぉ……お父さん……」
 千恵子が腰を上げて、今にも沈没しそうな夫の元へ介抱しに行く。
 ゲフッと小さくゲップした武雄は、虚ろな目つきでフゥッと息を大きく吐いた。
「そんでも響介くんがぁ、朋美を支えてくれたんじゃぁ……響介くんのおかげじゃ……朋美も立ち直って……そんあと、だいぶ間ぁが空いたけ、もう次ん子は無理かぁと諦めちょったけんど、無事に元気な女ん子を産んでぇ……葵じゃ……そんげして産まれた子ぉがぁ、葵じゃ……」
「はいはい、そうじゃぁねぇ……お父さん、少し横になりんさい」
 千恵子に支えられながら、武雄は畳の上にごろりと転がる。
「……葵はぁ……幸せにならんと……いけんのじゃ……」

 誰もが言葉を発せないまま、居た堪れない空気が流れた。はぁ、と小さく嘆息したのは千恵子か。萩の口元が何か言いたげに開きかけるが言葉は出ず、母はやはり困ったような微笑を浮かべている。
「黒河さん……ごめんなさいね。こげな内輪の話」
 母の小さな声に、侑司は「いえ」と静かに答えた。

「……お医者様はね、誰のせいでもなく、こういうこともあるんだって説明してくれたがよ。母体に異常もないし、この先の妊娠は十分望める、言うてね。それでも、やっぱり精神的にショックじゃった……自分で知らんうちに、芽生えたばかりの命がダメんなるようなこと、してしまったんじゃろかって思い詰めて……響さんにも心配かけて」
 こんな話なのに、母は、ふふと目を細めている。
 葵は握り込んだ拳を膝上に押し付けた。
「でも、それから無事に葵も萩も、産むことができたし。だから、大丈夫なんよ」
 そう、母は葵に言う。
 ――だから、大丈夫なんよ。
 葵の眼を見て。
 ざわりとした疑念が身体の内側を撫ぜる。
 ――どうして、そんな……そんな眼をして、私を見るの……

 武雄がゴゴッといびきをかいた。
「もぉ……今日はまたぐいぐい飲んじょるけ、こんげなるとは思ちょったけんど」
 呆れる母に、千恵子が「威勢ばっかりで、気は小さい人じゃぁて」と苦笑し、夫の身体を小突く。
 葵の頭に温かい大きな手が触れて、すぐに離れた。
「……寝室へ、お連れしましょうか」
 侑司が、すっと音もなく立ち上がった。


 侑司と萩が、武雄を抱えて寝室まで運んだ。そのまま食事もお開きになり、どうせなら泊まってお行きと勧める千恵子の言葉を、侑司は丁重に断った。宮崎空港に降り立った際、市内のビジネスホテルを予約しておいたらしい。
 萩が、侑司をホテルまで送って行くと言って、納屋前に停めてある伯母の軽自動車を取りに行き、葵がお手洗いに行って戻ると、すでに座敷は誰もいない。
 慌てて玄関に出れば、母と千恵子が侑司を見送っていた。

「……うちの娘を、よろしくお願いします」
 耳に入ったのは母の声。姿勢を正して深々と頭を下げた母の隣で、千恵子が葵に気づく。
 頭を上げて葵に振り向いた母は、晴れ晴れしい顔で葵の背を侑司に向かって押し出した。
「じゃ、うちらはお片付けしようかね」
「黒河さん、今日はありがとうございました」
 二人はそれぞれ、もう一度ペコリとして、パタパタとスリッパを鳴らしながら奥へ戻っていってしまう。
 そこで初めて、葵は侑司と二人きりになった。
 黒いコートを着て帰り支度を整えた侑司は一部の隙もなく、やはりこの古い日本家屋の玄関で見るとどこか異質だ。

「……ありがとう。御馳走になった」
「いえ、あの……」
 侑司の眼がまともに見られない。優しい声が心拍を上げる。
 すると侑司は「これを、渡しておく」と、胸元から何かを取り出した。手の平くらいの大きさの紙片は……航空券。
 侑司が手を伸ばし、葵の手を取ってチケットを握らせた。
「明日の早朝便だ。空港で待っている。もし間に合わないようなら時間を繰り下げてもいい」
「あの、トラブルってなにが……」
 葵が侑司を見上げた時、玄関の引き戸が勢いよく開く。
「――黒河サーン、準備でき――、……わりぃ」
 何故か、開いた引き戸は再びガラガラと閉まった。
 微笑を浮かべた侑司は、「詳しいことは明日話す」と言って葵から離れる。
 馬鹿みたいに立ち尽くす葵の眼前で、引き戸は静かに開いて、静かに閉まった。
 車のエンジン音が遠ざかり、葵はチケットを持つ自分の手に視線を落とす。
 自分の手は冷めたいな、と思った。――やっぱり、彼の手は温かかった。


 葵も片付けに加わり、ある程度済んだところで、アパートへ帰ることにした。
 送り出してくれた千恵子は、目尻を下げて「頑張りぃよ」と言う。葵の肩を優しく叩いてくれた伯母に、短いお礼の言葉しか返せなかった。
 雨はほとんど止んでいて、濡れた路面が冷たく鈍く街灯を照り返している。
 葵は、車内にぎこちなく張り詰めた静寂を解くことができなかった。
 突然の混乱と不意に過った疑念が、雨の名残の微粒子のように、飽和状態のまま不安定に浮遊していた。

 帰宅してすぐ、「雨が止んだらグッと冷えるがねー」と風呂場の支度をしに行こうとする母を、葵は呼び止めた。
「……母さん」
 どうしても、訊いておかなければならない。
「……知ってるの……? 私が……」
 訊きたいのに、喉元で引っ掛かって出てこない言葉を、もちろん母はわかっているのだ。
 振り返った母の顔が、今にも泣きそうに歪んでいたから。

「ごめんね……葵が辛くて苦しんでいた時……傍にいてやれんかった……」




 
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