アーコレードへようこそ

松穂

文字の大きさ
100 / 114
第2部

Tボーグ、黒河侑司のジレンマ(後編)

しおりを挟む
 
 
 起き抜けのシャワーを浴びた侑司は、タオルで髪を拭きながら居間に入り、リビングテーブルの上に置きっぱなしの携帯端末に目を留めた。
 青く点滅する表示ランプ。手に取りタップして眉が寄る。画面に残る不在着信。時刻はつい三十分ほど前。
 登録していないため表示は番号だけだが、不本意ながらこの番号を記憶してしまっている。かけてきた人物は、片倉瑞歩。
 うんざりする心地で、侑司は携帯端末をテーブルへ放り出した。

 約ひと月ぶりの完全な休日、二連休である。
 休日初日の昨日は、それこそ何か月ぶりかに行きつけのスポーツクラブでひと泳ぎした。湾岸エリアに新しくオープンした洋食レストランへ赴き、偵察がてらのまともな食事も摂った。
 いつもならどんなに疲労が溜まっても、まとまった睡眠と食事、適度な運動で問題なく回復してきたのだが、さすがに過剰労働が長期化したせいだろうか、染みついた倦怠感が一向に抜けず、もはや感覚の一部となってあらゆる機能を低下させている気がする。
 首にタオルをかけたまま、ソファに腰を下ろし気だるげに背を預ける。まだ乾ききっていない髪をかき上げて目を閉じれば、暗闇の奥に柔らかい光の気配を感じて慌てて目を開けた。
 温かそうな光の正体はわかっている。欲心が見せる幻覚だ。欲しくて手に入れたいと願うものだ。
 だから、休日は嫌なのだ。余計なことを考えてしまう隙間が意図せずして生まれてしまう。己の本能のまま、外に飛び出していきそうな情動を抑えつけるのは、尋常でない労力がいる。
 侑司は頭を振って、強引に思考の切り替えを試みた。
 来月に控えたマネジメントセミナーのための資料作成……休み明けに上げる日比谷の帳票データの事前確認……それぞれのホテルで催される来月のイベントチェック……
 とりあえずノートパソコンを、と腰を上げかけた時、再びテーブルの上で携帯端末が振動した。画面に表示された名を見れば、今度は又従妹はとこの立花千尋。
 思わず舌打ちして立ち上がった侑司は、振動し続ける携帯端末に目もくれずリビングを出た。


 ――その数時間後、リビングテーブルでノートパソコンと向き合っていた侑司は、いきなり開いたドアから現れた人物を、さして驚くこともなく見上げた。

「――なんだ、いたのか」
 柔和な笑みを浮かべつつ入ってきたのは、兄の和史。
 会議でもない限り、平日の昼過ぎに顔を合わせるなど滅多にないことだ。休みか、と訝しんだのは一瞬で、今日は水曜日、『紫櫻庵』も定休日だったと思い直す。
「……忘れ物か?」
 ぼそりと呟いて、侑司は再びパソコンに目を戻した。
 目黒にあるこの住処は、目下侑司だけの住まいとなっている。
 十年ほど前までは、ここが名目上、黒河家の自宅であった。だが、この場所で四人が揃ったことなど片手指で足りるだろう。
 侑司が高校の時、父と母が本社近くのマンションに越して、ここは兄と侑司の住処となったが、やはり二人がここで顔を合わせることは稀だった。
 そして数か月前、和史は入籍をきっかけにこのマンションを完全に出て、新妻との新居に越している。ただ、ここの鍵はまだ持っているはずだから出入りは自由だ。

「休みなのに家に籠って仕事? 侑司も大概ワーカホリックだね」
 屈託なく笑う兄に何の用だという視線を向ければ、彼は平然とウール製のマフラーを外し革のブルゾンを脱いだ。
「俺、もうすぐ免許更新らしいんだけど、免許証が見当たらなくてさ。探しに来た」
「……失くしたのか」
 さすがにそれは呆気にとられる。
 和史は侑司と違って、どういうわけか車の運転を敬遠する。通勤は常に電車かバスか、さもなければタクシーか徒歩だ。乗せてもらうことはあっても自分で運転することはないらしいので、免許証が手元になくとも構わないのだろうが、紛失するのはまずいのではないか。
 呆れかえる弟に、和史は邪気のない笑顔を見せた。
「まさか。たぶんここにあるよ」
 そう言いながらも、すぐ背後のソファに遠慮なく腰を下ろす兄を見やり、侑司は内心溜息を吐く。兄のマイペースさは言って治るものでもない。
 
「強制休日なんだって? どんだけ取ってないの」
 ソファにくつろぎ、代わり映えのない殺風景な室内を見るともなしに眺めつつ、和史は機嫌よく侑司に話しかける。
「昨日の夜、本社に寄ったら茂木さんがいてさ、侑司に会いたかったらしいよ」
「……茂木さんが?」
「そう。伝言頼まれましょうか、って言ったら、侑司に渡して欲しいって、預かったんだよね」
 はいこれ、と差し出されたのは灰青色の洋封筒。怪訝な顔で受け取った侑司は開いて中を見る。次の瞬間、その目を見張った。
 洋封筒に入っていたのは、一枚の写真――色褪せてかなり昔を思わせる、集合写真。

「昔の本店スタッフメンバーらしいね。国武さんや佐々木さんがメチャクチャ若い。今田さんなんか、今と全然違うだろ。あのオヤジさんたちにもそんな若かりし頃があったってことさ」
 楽しげな和史の声を耳にしつつ、侑司は唖然と写真を凝視する。
 写真に納まっているのは給仕服やコック着姿の人々が十数人。その背後にあるのは、凹凸のある白壁に昔ながらの小さなテントを張り出した玄関――実際に見たことはないが、この建物はおそらく昔の『櫻華亭』本店だと思った。今現在の本店は、三回目に建て替えられたものだ。
 和史の言う通り、集まった面々の中には、見知った面影のある今より若い顔ぶれがいくつもあった。
 黒ベストに蝶タイを締めた壮年の今田氏と茂木氏がいて、まだ二十代くらいの面立ちをした仙田氏もいる。コック着姿の国武と佐々木は奇妙なほどつるりとした顔をして、白いコック着もエプロンも派手に汚れているのが新鮮だ。
 中央に立っているのが先代にして祖父の黒河正治……真っ白いコック着とチーフの証である黒ズボン。コック帽を手に持って、柔らかく笑んでいる。

「どうして、これを……」
「さぁ。俺はお前に渡してくれ、って頼まれただけ」
 しれりと答えて、和史は侑司の背後から覗き込んだ。
「それさ、実は親父も同じやつを持ってるんだよね。手帳に挟んであるそれと同じ写真をずいぶん前に見たことがある」
 言われて侑司は気づく。
 色褪せて古びた画像の割に、写真の紙質は皺も折れ目もなく綺麗なものだ。最近焼き増ししたものだろうか。今はネガやデータがなくとも写真から焼き増しができる。
 指が、無意識に写真の上をなぞった。
 写真中央前列で三人の若い女性がしゃがんでいる。そのうちの一人が濱野美津子夫人であることはすぐにわかった。旧姓は確か柴村美津子、だったか。
 そして、写真右端の背の高い人物――父だ。おそらくまだ “相馬” 紀生だった頃。対して、左端にいるのが濱野哲矢。口髭はないが一目瞭然、陽の光を思わせるような笑顔はそのままだ。
 一時期、クロカワフーズにおける次代の双璧とも目された二人の若き料理人が、そこにいた。

「……なぁ侑司。濱野さんて、どんな人だった?」
 のんびりとした兄の声音で、侑司は我に返る。
「俺は会ったことないんだよな。古株のオヤジさん連中はみんな慕ってる。……親父に聞いたらさ、『私とお前に欠落するものを持っていた人だ』って言われたよ。余程、好人間だったってことか?」
 肩をすくめる兄から、侑司はもう一度写真に視線を戻した。
「兄貴は……『敦房』に行ったことはないのか」
 昔、父に手を引かれ連れて行ってもらった小さな洋食レストラン。そこで食べたお子様ランチ。侑司の濱野氏との思い出は、そこから始まっている。
「親父のライバルだったという濱野さんと彼の店の存在を知った時、すでにお前が『敦房』で “調理” のアルバイトをしていた。……気になった割に足を向けなかったのは、怖かったからだろうな」
「……怖い?」
 この兄からおよそ一度も聞いたことがない言葉を問い返せば、和史は柔和な顔に苦笑を浮かべた。
「お前は昔から何でもそつなくこなしていたから。俺の唯一、、、、を越していく弟なんて、見たくないだろ」
 ――越していく? 天才と称される父のDNAを受け継ぎ、申し分のない跡取りだと誰からも認められ、その逸材ぶりを幾度となく証明し続けてきた兄を?

「……俺は……兄貴を越せるなんて、思ったこともない」
 小さく呟いた言葉は、ずいぶん子供じみて聞こえた。実際、子供だった――自分と兄の差異が、絶望的に埋められないほど大きいと悟ったのは。
 写真を手にしたまま動かない侑司に構わず、和史は腕を伸ばしてローテーブルの上に広げた書類の一枚を手に取る。羅列した数字を興味なさそうな顔で眺めてから言った。
「――なぁ、お前、クロカワフーズの社長になれよ。経営権はすべてお前に託す」
 つまらないものだと言わんばかりに書類を戻した兄に、侑司は眉根を寄せる。
 突然何を言い出すのか。またロクでもない出奔計画を立てているのか。この兄はその気になれば手に入る極みの座を、わざわざ遠ざけるような真似ばかりする。
「総料理長の椅子を拒むのか」
「まさか。なるよ、総料理長」
 事もなげに言ってのける豪胆にも呆れるが。

「まぁ、覚悟がついたのはつい最近だけどな。それまではクロカワフーズに縛られることが嫌で堪らなかった。……でも、考え方を変えたよ。俺はいずれクロカワフーズの総料理長に就く。ただし、社長の肩書は要らない。総師の椅子だけもらってあとは親父以上の放蕩三昧だ。会社はお前に任せる」
「ふざけるな」
 低く唸る弟に、和史は破顔する。
「今すぐってわけじゃないさ。親父はさて置き……少なくとも国武さんと綿貫さんあたりは越えておかなきゃな。ああ、ダークホース佐々木さんも侮れないか」
 和史はそこで、ガラリと声音を変えた。
「……天才だのなんだのって、結局、積み重ねた経験値の前じゃクソみたいなもんなんだよ。……それでも俺は、何年かかっても、“総師” になってみせる」
 細めた両眼の奥に鋭く強烈な光が見えた気がして、侑司は思わずヒヤリとする。
 ――初めてだ、と思った。
 奇才だと持ち上げられる反面、掴みどころがなく奔放自在な面もある兄は、己の立つ場所に頓着しない。むしろ束縛されるのを嫌い、常に五感への刺激を追い求めていたい性分を持つ。つまり、黒河和史という人間は、本来会社勤めに向いていない性質なのだ。
 黒河家の長男だからという理由で有無を言わせず入社させられ、その能力ゆえに類のない速さで『櫻華亭』麻布店の料理長に任じられ、今は新業態『紫櫻庵』の料理長を務めるまでに出世した兄だが、それらすべてが本人の意向に反することだと、身内は皆が知っている。
 ――そんな兄が、初めて見せた頂点への欲念。

「……変わったな」
 いつの間に、考え方を改めたのだろう。やはり所帯を持つと、人間変わるのだろうか。
 和史はソファの上で脚を組み直し、軽やかな笑い声を上げた。
「変わらないものなんてないよ。今回、うちの会社も色々あったからさ、俺も色々考えさせられた。……考えた結果、導き出された答えは一つ。――俺らの代で潰しちゃ、寝覚めが悪い」
 それには侑司も、つい口元が緩む。
 兄の口から、自社存続を願う意志が聞けただけでも良しと言うべきか。

「…… “総師” の座をるのは簡単なことじゃない。仮に獲れても、守るのはさらに容易じゃない」
 激励の意を込めて言ってやれば、和史は不敵な笑みを浮かべた。
「いいね。俺がクロカワフーズあそこを離れたくなくなるほど、椅子獲りゲームが面白くなることを願うよ」
 だからお前もトップに立てよ、と歌うように言って、和史は立ち上がる。侑司が目で追う間に、彼はリビングの壁際に置いたキャビネットボードに向かった。
「えっと、確か……」
 腰くらいの高さがあるキャビネットボードの上には、今ではほとんど使われない固定電話機と瑪瑙めのう細工の置時計、何も生けられていない七宝焼の花瓶が置いてある。日頃こまめに掃除する暇もないため、埃も溜まっているだろうその花瓶の中に、和史はいきなり手を突っ込んだ。
 唖然と目を見張る侑司の前で、広口の花瓶の中から次々と取り出したのはカード……その数二、三十枚ほどになるのではないか。取り出した何枚ものカードに和史は息を吹いて埃を飛ばしている。

「財布の中にカードが溜まるのって嫌じゃない? 二度と行かない店のポイントカードとか、知らない誰かからもらった名刺とか、使わなくなった診察券とか……あ、保険証だ。そういえばこれもここに入れたんだっけ」
「なんでそんなところに……」
 ただの室内装飾品でしかない花瓶など、その存在さえ念頭になかった侑司は、中に物が入っていることさえ知らなかった。一体、いつからカード保管場所になっていたのか。和史の私室ではなく、何故リビングにあるその花瓶の中なのか。

「これって期限が切れたヤツ、どうするの? 総務に返せばいい?」
 呆れ果てる弟の視線に構わず、和史は呑気に保険証らしきカードを矯めつ眇めつしている。
「……まさか、免許証もそこにあるとか」
「そうそう、あるはず……ああ、ほら、あった。危ないね、更新案内のハガキが来なきゃ、この先もこの中だったな。更新しに行かないと免許って失効になるんだろう?」
「……そうだな」
 侑司はひっそりとこめかみを抑える。たまに見る兄の浮世離れには慣れているはずだったが、こうして突然ダイレクトにかまされればやはり衝撃的だ。
 目当ての免許証以外のすべてのカードを、再び花瓶の中へ戻した兄を見て、侑司は今後あの花瓶の中を絶対に覗くまい、と心に決めた。必要なものがあればまた取りに来るだろう。

「さて、お遣いも探し物も済んだことだし、帰ろうかな。あ、お前、昼飯食った? どこか行く?」
「いや、俺は」
 食欲ない、と言いかけた侑司を、和史はふと思いついたように遮った。
「ああ、そういえば……侑司の同級生だった、富田遥香って女だけど――」
 写真を封筒にしまいかけていた手が硬直した。この兄の口から出てくるはずのない名前だ。
「……なんで――、」
 問う言葉に、突然鳴ったバイブ音が重なった。
 またか、と思い、開いたノートパソコンの脇に置いた携帯端末の画面を見れば、予想に反して徳永からの着信である。妙な胸騒ぎと共に耳に当てれば、珍しく焦ったような声が飛び込んできた。

『――侑司、休みのところすまない。今から本社に出てこられるか』
「何かあったんですか」
『ああ、やられた』
 唸るように答えた徳永は、世界的に有名なSNSの名を上げ、そこで “橘ちひろ” を検索してみろ、という。
 通話の向こうの妙な騒がしさを感じつつ、侑司は携帯を耳に当てたまま、素早くノートパソコンで言われた通りに検索をかけた。
 不可解さが半分と嫌な予感が半分――それはすぐに、頭を抱えたくなるほどの厄介事だと判明する。
 侑司の横からPC画面を覗いた兄の、忍び笑う気配がした。

『――更新されたのは昨夜の深夜頃だったらしい。今朝本社に問い合わせが入って初めて発覚した。……今日が水曜定休ということもあって、『アーコレード』への問い合わせは定かでないが、ホテル店舗には何件か入っているそうだ。『アーコレード』はもしかしたら明日からの営業に差し支えるかもしれない。早々に対策を練ろうと思う』
「わかりました、すぐに行きます」
 早口で説明する徳永に了承して、侑司は通話を切った。すぐさま着替えようと立ち上がる。
 すると、事情を察したらしい和史が「俺も一緒に行くよ」と言うので、侑司は耳を疑う。どんなに身の回りが騒がしくとも、自分に関係のないことには見向きもしない兄なのだ。
 だが、和史は無造作にマフラーを巻き付けながら、とんでもない発言をする。 

「――その記事、たぶん俺が千尋をあおったせいだから」


* * * * *


 本社の営業事業部室のドアを開けた時、室内にはすでに統括部長と、侑司を除くマネージャー陣全員が顔を揃えていた。
 緊急時対応能力の高いメンバーならではの迅速さは珍しくもないが、部屋奥のミーティングテーブルにいる社長の姿には驚いた。まさか彼まで出てくるとは。
 一方の出迎えた一団も、侑司の後ろに和史が入ってきたのを見て一様に驚きを露わにした。が、当の本人はどこ吹く風である。
 慌ただしく各々がミーティングテーブルに移動し始めたところで、杉浦が和史をねめつけた。

「和史。お前、千尋ちゃんに何を言った」
「お前が知っている以上のことは、何も?」
 しれっと言い放たれて、珍しく杉浦が苛立ちを露わにする。
「お前があることないこと吹き込むから――」
「俺は、 “ない” ことまで言ってないよ」
「――まぁ、待て二人とも」
 鶴岡が制しながら、タブレット端末をテーブル上に置く。徳永が持ってきたノートパソコンも加えられ、ミーティングテーブルを囲む全員に、問題のウェブページが開示された。

 画面にあるのは橘ちひろの公式SNSである。一時期、著名人による公式ブログなるものが流行ったが、最近はこうしたSNSも多く利用されているらしい。
 女優橘ちひろのSNSは、主に、舞台稽古の様子やイベント参列時の一コマ、ドラマの撮影クランクアップ報告など、その時々の写真も添えて、彼女の公式活動に関して書かれているものだ。ざっと見たところ、監修は橘ちひろ本人によるものでなく、事務所の人間が管理更新しているものだと察せられた。
 問題はトップに出る最新記事のページだ。更新日時は本日の午前一時三十分。
 記事の内容は、去る某日、 “ツグミ鳴く空に” の制作関係者を集めて、遅ればせながらの打ち上げ会を催したことと、貸し切ったレストランには多くのキャストやスタッフが足を運んでくれて、打ち上げ会は大いに盛り上がったことなどが記されている。
 それだけならば何も問題はないのだが、こうして社長以下クロカワフーズ首脳陣が苦い顔を突き合わせている理由は、載せられた画像と、その際立つ宣伝効果にある。
 二枚あるうちの一枚目の画像は、ハンバーグやエビフライ、ナポリタンスパゲッティ、グラタンのココットなどが見栄えよく盛り付けられたワンプレート……嫌でも見覚えのあるそれは、慧徳学園前店の “大人のお子様ランチ” である。
 そしてもう一枚は、ミニハンバーグを美味しそうに頬張る橘ちひろのスナップ写真。彼女の着ている衣服からして、どう見ても、あの日あの場所で撮られた物としか思えない。
 さらにその下は、ご丁寧な謳い文句のオンパレードである。

 ――貴方が作る “大人のお子様ランチ” でノスタルジックな思い出を……このイベントは期間限定で開催……
 ――知る人ぞ知る老舗洋食屋『櫻華亭』の姉妹店、洋食レストラン『アーコレード』は、その味もサービスも『櫻華亭』お墨付きの一流レストランであり……
 ――特に慧徳学園前店は、橘ちひろがお忍びで足繁く通うお気に入りの店として……

 正直なところ侑司は、改めて記事全体を見て、率直に上手いなと感じてしまった。
 世のグルメを自称する人々が、コレクターのように飲食店の料理などを無断で写真に撮りネットに載せて紹介する現象は、一部で社会問題化しているほどだが、今ここに見るSNSの内容に限っては、そういった俗悪な印象がない。
 橘ちひろという女優が、ある程度のステイタスを持っている証でもあるのだろう。
 しかしながら、記事の最下部にクロカワフーズのHPアドレスと、『アーコレード』慧徳学園前店の電話番号までもが載せてあるのはいただけない。その割に、肝心なイベントメニュー開催期間はどこにも明記されていないのだから、問い合わせが殺到するのも当然だ。

「この写真……いつの間に撮ったんだろうな。撮影禁止の旨は了承いただいていたし、あの場でカメラを構えている人間などいなかったはずだが……」
 腕を組んで難しい顔の鶴岡が唸れば、杉浦が仏頂面を隠しもせず返す。
「俺らの目をかすめて、スマホ撮影でもしたんでしょ。無断撮影及び無許可掲載……どんな嫌がらせですか。クロカワフーズが宣伝広告にことさら気を使っていることを知っていてのこの狼藉ですよ? いっそのこと訴えてやりませんか?」
 文句を言う杉浦の目は完全に据わっている。
 ここまで杉浦の機嫌が悪い理由はすぐに悟った。彼は今、柏木をフォローするため『アーコレード』に付いている。確実に支障が出るだろう明日からの業務に、苛立ちを隠せないのだ。
 ニットに細身のパンツという軽装の統括部長が、嘆息交じりに口を開いた。

「……確かに、ほんの出来心とは言い難い悪ふざけね。発覚後すぐに彼女の事務所へ連絡を入れたのだけれど、SNSを管理する担当者が不在とのことで、記事の削除や訂正はすぐには無理だそうよ。ちなみに、千尋本人とも連絡はつかず。昨夜の便で日本を発ったのですって。……こんな時、身内であることが裏目に出るわね。千尋と縁続きの黒河なら、多少の羽目外しも大目に見てくれると踏んでいるのよ。のらりくらりとかわされるだけに終わったわ」
「千尋さんに、そう指示されている可能性が高いですね。この投稿記事は彼女の意志を強く感じます」
 画面を見つたままの西條が言えば、沙紀絵は傲然と顎を上げた。
「もちろん、あの子が、、、、そう指示した、、、、、、のよ。自分が日本を発って音信不通になる頃に記事を更新。その後SNS担当者はしばらく消息不明。――全部千尋の差し金に決まっているわ」
 然もありなんの彼女の論に、誰ともなく重々しい溜息が漏れる。
 しばしの沈黙の後、杉浦が上座へ顔を向けた。

「――で、どーします? 明日は『アーコレード』のどの店にもジャンジャンかかってきますよー? とりあえずイベント期間については未定、決まり次第、店頭もしくはクロカワフーズのHPで告知、ってことで対応しますか?」
 社長の左隣りに座る徳永が、頷いてこれに答える。
「そうだな。そもそもあの企画は、慧徳の四周年記念イベントのために作られたものだ。やるにしても三月までは待たなければ――、」
「――いいじゃないか。前倒しで二月から決行しよう」
 割り込んだ社長の声に、その場の全員が目を剥く。当の黒河紀生は、どこか状況を面白がるような微笑を浮かべ、淡々と言ってのけた。

「思わぬ突発的広告となったが、これを利用しない手はないんじゃないか。どうせなら慧徳だけじゃなく、渋谷と恵比寿でも期間限定の特別イベントとして決行しよう。――『アーコレード』の三店舗は来月から、この “大人のお子様ランチ” フェアを開催する」
「いや、しかし――、」
「来月って、金曜日……二日後ですよ?」
 徳永と鶴岡が慌てて反論しかけるが、社長はゆったりとした動きでテーブルに肘をつき両手の指を組み合わせた。杉浦と柏木、そして侑司に焦点を合わせる。
「慧徳店でのプレ販売の際、渋谷と恵比寿の店長と料理長はヘルプで入ったんだったな。だったらノウハウはわかっているはずだ。あと二日あるなら、スタッフ間で最低限のすり合わせも可能だろう。すべての準備を二日で整えるんだ」
「社長、ですが――、」
「まずは食材や什器の調達に人員の確保だ。食材でどうしても間に合わない物は『櫻華亭』各店舗から寄せ集めればいい。リカーの不足分は『プルナス』に援助してもらう。人員に至っては『櫻華亭』や『紫櫻庵』から回せるだけ回そう」
「ちょっと待って下さい。今はホテル店舗がギリギリで立ち回っている状態です。人員に余裕など――、」
 堪りかねて鶴岡が声を上げる。だが社長はやんわりと片手で制した。
「なに、そう長い期間じゃない。最初の一週間さえ無事に越えれば、後は流れに上手く乗れるはずだ。うちのスタッフは皆、優秀だからな。どのみち二月は売り上げに落ち込む低迷期……少しでも店舗が活性化されるなら、社にとってマイナスではない」
 社長の右隣に鎮座する統括部長の眉がピクリとわずかに動いた。それに気づかぬ徳永は角ばった顔に困惑を浮かべる。
「社長……先ほども申し上げたように、これは慧徳の四周年記念イベントとして企画されたもので、予定では三月実行だったはずです。渋谷と恵比寿を巻き込み、その上一か月も前倒しでやるとなれば……『アーコレード』をよく知る常連の顧客に混乱が生じるのではないのでしょうか。理由なきイベント事を乱発するのはお勧めできません」
「理由付けなどどうとでもなる。ここまで反響があるということは、少なくとも世間の期待は小さくないということだろう。その期待以上のものを提供できる自信があるからやるんだ。イベントの持続力が疑わしいというなら、渋谷と恵比寿は一週間でもいい。……私はね、『アーコレード』に限らず、今、社内全体、、、、を巻き込みたいと思っている」
 徳永と鶴岡がハッと息を呑んだ。二人だけじゃない、その場にいるマネージャー全員が、ようやく社長の意図を理解した。
 黙り込んだ場を見渡して、社長はひょいと横の人を覗き込む。
「――どうかな? 統括部長殿のご意見は。上手くいけば “一石三鳥” くらいにはなると踏んでいるのだけれどね」
 冗談めかす社長とは逆に、振られた統括は思い切り眉をひそめる。
 社長が――父がこうして母に意見を求めるということは、すなわち是を見込んでいるのがほとんどだ。否と言われそうなことなら、伺いを立てたりしない。
 露骨に忌々しそうな顔をして見せて、統括はジロリと目の玉だけを横に動かした。
「上がった利益からスタッフ全員に特別賞与を出す、と事前告知します。それくらいの重荷を皆に負わせるということ、ご承知でしょうね」
「いいね。大盤振る舞いするとしよう」
「万が一、コケた、、、場合は……貴方に全責任を取っていただきますよ。FCIC対応もひっくるめて」
「もちろんだとも。私は取締役代表だよ。曲がりなりにも」
 にこりと微笑んだ父の顔を見て、侑司は目を伏せた。――交渉成立だ。
 次の瞬間、クロカワフーズの統括部長は、女帝と呼ばれる所以の面になる。口をついて出る指示は峻厳にして有無を許さぬ響きで、臣下を圧倒した。

「わかりました。やりましょう。――柏木マネージャーは、即刻佐々木チーフに連絡を。杉浦マネージャー、牧野店長と諸岡店長に連絡をつけて。ああ、貴方は引き続き『アーコレード』に付いてちょうだい」
 はい、と即答する柏木の傍ら、杉浦がいささか怯む。
「あー、でも二月は『紫櫻庵』の方も宴会がいくつか――、」
「いいよ、杉がいなくてもこっちは問題ないから」
「あうぅ」
 担当店舗の料理長に “要らない” と言われた担当マネージャーの心中には、多少同情すべきか。

「鶴岡マネージャー、クロカワフーズのホームページにイベント告知を上げて。三店舗とも、まずは期間を二週間としておきましょう。それから『櫻華亭』の各支配人と料理長に連絡。向こう二週間のシフト調整をお願い。……徳永さん、慧徳で使った什器の予備って本店にあるかしら。……ああ、西條くん、『アーコレード』の特にリカー発注先、口を利いてもらえると助かるわ」
 西條は、女王から勅命を受けた騎士さながらに優雅な一礼を返す。先ほどまで反対の色が濃かった鶴岡も徳永も、やると決まれば反応は早かった。
 侑司が彼ら上司や先輩を尊敬するのは、こういう点だ。彼らはどんな時でも、常に柔軟であろうとする。
 今の時世で、古きを守りながら生き残るためには、ルールや既成概念に捉われず、時には豪胆に殻を破る必要があることを、彼らは身をもって知っているのだ。

「統括! イベントメニューの作成はどうしましょう。専門業者に頼むとなればおそらく間に合いませんが」
 慌ただしく動き出す空気の中、最年少の柏木は誰よりも高揚を露わにしている。自分が担当する『アーコレード』が社を先導する形になるのだから、勢いづくのも無理はないだろう。
「慧徳のプレ販売で使ったメニュー表は残してあるわね。とりあえずはコピーで間に合わせるしかないでしょう――……黒河チーフ。遊んでいるなら手塚支配人に連絡を取ってもらえないかしら。『紫櫻庵』からもヘルプを出してもらうのよ」
 お叱りを受けた和史が苦笑して携帯端末を取り出した。
 あちこちに連絡をつけながら室内を動き回るマネージャー陣の中で、侑司はただ一人、座ったまま微動だにできない。
 不意に社長がゆっくりと立ち上がりテーブルを回り、先ほどまで杉浦が座っていた椅子――侑司の隣に腰を下ろした。その面持ちは意外なことに、父の顔だ、、、、、と片隅で思う。

「黒河マネージャー。私の見込みが当たれば、この先『アーコレード』は怒涛の盛況を迎える。特に慧徳学園前店は、その規模が小さいがゆえに、生じる様々な混乱を包括する力に乏しい。……確か今、水奈瀬店長は一週間の有給休暇中だったな?」
 ――そこを突くのか。持てる意識を総動員して考えないようにしていたというのに。

「――彼女なくして、慧徳は回るだろうか」
 室内の何人かが、こちらを注視するのがわかった。
 侑司の喉が鳴る。正直な気持ちを口に出すのは途轍もないエネルギーが必要だった。断腸の思いで手放し逃がした小鹿を、わざわざ捕らえ戻すようなものだ。また傷つけることになると、頭の中で誰かが警告する。
 けれど、引き戻せと叫ぶ声の方が、何十倍も大きかった。

「……彼女は、この企画の発案者です。以前のプレ販売では、準備から本番まで誰よりも尽力していました。彼女ならば、どんな状況でも大抵のトラブルを未然に防ぎ、店を円滑に回せるはずです」
 自分でも驚くほど、言葉はすんなりと出てきた。語った途端、霧がかった視界がさっと晴れた気がした。
 父は、わざとらしく思案顔をする。
「そうか。ならば、休暇を途中で切り上げてもらおうか……彼女に、店へ立つ気力があれば、の話だが」
「店の大事に、見て見ぬふりをするような人間ではありません。何より、慧徳のスタッフ全員が、彼女の指揮を願うと思います。彼女がいれば、あの店の雰囲気は格段に……」
 言いかけて侑司は、ああそうか、と感得した。
 ふとした隙に求めてしまう、あの柔らかい光の中の彼女は、笑っている。
 初めて会った時も、彼女の笑顔は、侑司を惹きつけてやまなかった。

『―― “葵ちゃん” っていうの。四月から雇ったのよ。気持ちよく働いてくれるから助かるわ』
『――誰かさんと違って素直だし、よく笑うしな。いい看板娘だよ』

 何年振りかに訪れた『敦房』にいたのは、まだあどけなさが残る若々しい女子学生。溌溂とした笑顔で客の間をよく動く新しいアルバイト。
 思えばあの時から、彼女の放つ眩しい光は侑司を魅了し、癒し、導いてきた。
 店に立って客をもてなして、「美味しかったよ」の賛辞に純粋な喜びを感じている彼女の満ち足りた笑顔は、いつだって侑司を優しく照らしていたのだ。

 では――、と言いかけた社長の言葉を、間延びした杉浦の声が遮った。
「――水奈瀬店長なら、今、東京にいませんよー」
 ああ、ゴメンこっちの話ー、とあっさり携帯端末を耳に当て直す杉浦の代わりに、慌てて柏木が説明する。
「三日前でしたか、朝早く店に顔を出しまして。まとまった休暇など滅多に取れることではないので、この機会に宮崎へ行くと言っておりました。何でも、彼女のお母様が宮崎県在住だとか」
 そこで、またしても通話中のはずの杉浦が声高に口を挿む。
「連絡先は知りませんよー。こんな事態になるなんて想定外ですからねー。ちなみにアオイちゃんの携帯、ぶっ壊れたそうなんで。こちらから彼女に連絡取る手段は、一切ありませーん。――あ? だからこっちの話だってば」
「す、杉浦さん……」
「仮に呼び戻したとしても、快く店に立ってくれるかどうかわかりませんけどねー。なんせ、社内のドロドロした確執に巻き込まれて散々なとばっちりを受けた挙句、ありもしない責任被って会社辞めようと健気に決意したくらいですからー。しかも会社は、受理しちゃってるしー? クロカワフーズは彼女に愛想つかされても、文句は言えないんじゃないすかー」
「杉浦さん……っ!」
 狼狽えた柏木が杉浦に掴みかかり、こちらに聞こえない声で何やら揉みあっている。
 和史が小さく笑って侑司を見た。社長も意味ありげな笑みをこちらに向ける。
 ――侑司は立ち上がった。
 徳永のデスクで、卓上のカレンダーと手帳の中身を照らし合わせている統括部長の元へ、侑司は足早に進み、胡乱げに目を上げた母を真っ直ぐ見つめ返す。
「――申し訳ありませんが、今から席を外します」
 黙ったまま片眉を上げた彼女も、その瞬間、統括部長ではなく母の顔を思わせた。
「慧徳店の店長は、水奈瀬葵です。このイベントを成功させるためには、彼女の存在が不可欠です。……自分が、連れ戻してきます」
 いつの間にか、室内から声が途絶えていた。皆の関心が、侑司と統括部長へ向いている。
「もし、彼女にその気がなかったら?」
 母はあくまでも尊大で冷淡な顔を崩さない。
「それまでの人間だったということです。――が、彼女は戻ってきます。必ず」
 微かな口笛が鳴る。和史か。侑司は母から目を逸らすことなく、答えを待つ。
 ほんの数秒後、沙紀絵は視線を断ち切りデスクから立ち上がった。窓際のスチールラックに置いた黒い革製のバッグから白い封筒を取り出す。それを侑司に差し出した。

「それ、彼女から預かったものよ。然るべき人間は皆、すでに目を通したわ」
 腰に手を当て沙紀絵は、侑司に読めと顎をしゃくる。
 かさついた手に滑らかな真っ白い封筒には表書きがなく、侑司は奇妙な違和感を覚えつつ中身を取り出した。
 一枚の薄い便箋に目を通す侑司の目に、今日何度目かとなる驚愕が走る。そこに連なる彼女の想いと願いが、真っ直ぐに侑司の胸を貫いて、身体中の熱が上昇した。

「てっきり “退職願” かと思ったのよ。さすがに酷な災難が降りかかり過ぎたものね。――けれど、開けてみればそれでしょ。まんまとしてやられたわ」
「――え、辞表じゃないのっ?」と叫んだ杉浦の声は、侑司の耳を素通りした。
 白い便箋いっぱいに並んだ彼女直筆のくせの少ない文字。彼女自身と同様、柔らかく大らかな。 
 そこに連なった言葉は、誠意溢れるお詫びと反省と、彼女の切なる願い、だ。あると思い込んでいた退職の意志は、一言もない。

 己の思い上がりに嘲笑わらいたくなった。
 彼女は無残に傷ついても尚、店と仲間と、侑司を守るために懸命であった。彼女のためにと己を制していた自分が、ただ逃げていただけなのだと知る。
 ここで、はっきりと――ようやく――心が決まった。
 ――手放せない。
 決意すると同時に、すまない、と心の中で詫びる。一度引き戻せば、この手は有無を言わさず彼女を自分の中に囲うだろう。囲ってしまえばもう、二度と手放すことはできないだろう。自分の傍に置くということは、否応なくそこは過酷な環境だ。彼女は再び、傷つき泣くことになるかもしれない。
 でも、――彼女が必要なのだ。

 微かな忍び笑う声に気づき、侑司はハッと我に返った。顔を上げれば、室内の全員が侑司を見ている。笑いを堪えるような顔、ホッとしたような顔と呆れ笑う顔、様々に。
「それ、表書きがないのよ。きちんと書いて改めて提出しなさい、と伝えてちょうだい。――妥当なところは…… “始末書” かしらね」
 フンと鼻で笑って、沙紀絵は再び徳永のデスクに戻り手帳を繰り出した。
 含み笑いながら周囲も動き出す。決まり悪げに封筒を胸元にしまった侑司の元へ、西條がプリンターから抜き出したばかりの紙をウインクと共に差し出した。
「宮崎行きのチケットを押さえてあります。今から出れば間に合うでしょう。くれぐれも安全運転で」
 航空チケットの予約詳細が印刷されたそれに、侑司は目を見開いた。鶴岡が侑司のデスクから荷物やコートをかき集め、唖然とする侑司に押し付ける。
「今日中に戻ってこいとは言わん。宮崎発の最終便は早いらしいからな。運賃はお前の給料から差し引いておくから安心しろ。――ああ、帰りの便は自分で取れよ、二名分な」
「鶴さーん、そこは往復で取ってあげるべきなんじゃないですかー? 往復割引が利きますしー」
「わかった。帰り便の運賃は杉の給料から差し引いておくから安心しろ」
「うえぇ? なんで俺のっ?」

 肩に、大きな手が乗った。父の顔で頷いた黒河紀生は、そのまま統括部長の元へ行く。母はすでに携帯端末で通話中だ。
 徳永が苦笑を浮かべ、行け、と目で促した。侑司が抜ける分、ここに居るメンバーへの負担が増す。だが、あとのことは任せろ、と皆が言ってくれている。
 侑司は、再びそれぞれの仕事に戻った全員に向けて頭を下げた。荷物を持ち直し部屋を出ようと踏み出したところで、「侑司」と和史に呼び止められる。
「――さっき言いかけたこと、忘れる前に言っておくよ」
 侑司の耳元に顔を寄せて囁いた和史の言葉は、驚きよりも可笑しさを引き出した。

「――富田遥香。春から旦那が転勤で北京なんだってさ。彼女も一緒について行くそうだよ。よかったな。過去のわだかまりが遠くに去って」

 ――まったく、今日は驚かされてばかりだ。
 思わず笑ってしまった侑司を見て、和史も白い歯を見せる。
 軽く肩を小突かれてそれを合図に、侑司は今度こそ営業事業部室を後にした。

 話したことも尋ねられたこともない富田遥香のことを、兄が知っているということは、大方千尋か、もしくは彼女の姉の圭乃あたりから聞いたのであろう。富田遥香の近況まで知り得たのは不可解だが……そんなことはどうでもいい。
 “過去の蟠り” が侑司の脳裏を占めたのはほんの数秒。瞬く間に、最重要事項で埋め尽くされて消えた。
 ――何としてでも、水奈瀬を連れ戻さなければならない。この手で。

 早足に駐車場へ向かいながら、侑司は携帯端末を取り出し、ある番号を呼び出した。
 時刻はすでに夕方――相手の職種を思い浮かべるが、外部からの電話にすぐ出られる状況なのかどうかも定かではない。だがどうか出てくれと願う。
 三コールで出た相手は、開口一番「どうした」と尋ねてきた。侑司からの着信を待っていたような、笑みを含んだ声音だった。
 わかっているのなら、もはや駆け引きは必要ない。

「――仕事中にすまない。頼みがある」
 急くような侑司の言葉に、電話の向こうの水奈瀬蓮がくつくつと笑った。




 
しおりを挟む
感想 2

あなたにおすすめの小説

百合ランジェリーカフェにようこそ!

楠富 つかさ
青春
 主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?  ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!! ※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。 表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。

25年目の真実

yuzu
ミステリー
結婚して25年。娘1人、夫婦2人の3人家族で幸せ……の筈だった。 明かされた真実に戸惑いながらも、愛を取り戻す夫婦の話。

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~

さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」 あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。 弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。 弟とは凄く仲が良いの! それはそれはものすごく‥‥‥ 「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」 そんな関係のあたしたち。 でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥ 「うそっ! お腹が出て来てる!?」 お姉ちゃんの秘密の悩みです。

裏長屋の若殿、限られた自由を満喫する

克全
歴史・時代
貧乏人が肩を寄せ合って暮らす聖天長屋に徳田新之丞と名乗る人品卑しからぬ若侍がいた。月のうち数日しか長屋にいないのだが、いる時には自ら竈で米を炊き七輪で魚を焼く小まめな男だった。

N -Revolution

フロイライン
ライト文芸
プロレスラーを目指す桐生珀は、何度も入門試験をクリアできず、ひょんな事からニューハーフプロレスの団体への参加を持ちかけられるが…

あるフィギュアスケーターの性事情

蔵屋
恋愛
この小説はフィクションです。 しかし、そのようなことが現実にあったかもしれません。 何故ならどんな人間も、悪魔や邪神や悪神に憑依された偽善者なのですから。 この物語は浅岡結衣(16才)とそのコーチ(25才)の恋の物語。 そのコーチの名前は高木文哉(25才)という。 この物語はフィクションです。 実在の人物、団体等とは、一切関係がありません。

診察室の午後<菜の花の丘編>その1

スピカナ
恋愛
神的イケメン医師・北原春樹と、病弱で天才的なアーティストである妻・莉子。 そして二人を愛してしまったイケメン御曹司・浅田夏輝。 「菜の花クリニック」と「サテライトセンター」を舞台に、三人の愛と日常が描かれます。 時に泣けて、時に笑える――溺愛とBL要素を含む、ほのぼの愛の物語。 多くのスタッフの人生がここで楽しく花開いていきます。 この小説は「医師の兄が溺愛する病弱な義妹を毎日診察する甘~い愛の物語」の1000話以降の続編です。 ※医学描写はすべて架空です。

一億円の花嫁

藤谷 郁
恋愛
奈々子は家族の中の落ちこぼれ。 父親がすすめる縁談を断り切れず、望まぬ結婚をすることになった。 もうすぐ自由が無くなる。せめて最後に、思いきり贅沢な時間を過ごそう。 「きっと、素晴らしい旅になる」 ずっと憧れていた高級ホテルに到着し、わくわくする奈々子だが…… 幸か不幸か!? 思いもよらぬ、運命の出会いが待っていた。 ※エブリスタさまにも掲載

処理中です...