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松穂

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第2部

Tボーグ、黒河侑司のジレンマ(前編)

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 一九六〇年代初頭、時は高度経済成長期。
 日本における洋食というカテゴリーが徐々に多様化分岐して来た頃、昭和六年創業の老舗洋食屋『櫻華亭』は、一つの転換期を迎えた。
 戦後の復興が目覚ましい都心から少々離れた山の手界隈に、ひっそりと店を構える『櫻華亭』――個人経営の小規模な店でありながら、その極限まで美味を追求する料理人の腕、最高級ホテル並みのもてなしを誇りとする給仕人の質、そして、老舗の看板におごることなく、品位をわきまえ慎ましくも精進し続ける心構え……それらいくつもの要素が、宮中関係者の御眼鏡に適ったのだろう。さる宮家の御息女一行が公式に御会食されることとなったのだ。
 これが、『櫻華亭』の名を飛躍的に広める大きなターニングポイントとなった。
 果たして、この小さな老舗洋食屋が、戦後の日本を立て直してきた政界の重鎮や、いち早く経済界で伸しあがった成功者たちの御用達となるまで、そう時間はかからなかった。

 そこから『櫻華亭』は、開拓と発展の階段を早足で駆け上ることとなる。
 二号店となる松濤店のオープンを経て、ついには株式会社クロカワフーズを設立。その数年後、首都圏中心に展開し始めていた外資系ホテルの親会社、フィーデール・アンド・シングラー・インターナショナル・コーポレーションの熱烈な申入れにより、『櫻華亭』は初めて、ホテルのテナント店としてオープンするまでにもなった。
 新しく開く赤坂の店は、既存の店舗より格段に国際色が色濃くなるだろう、そして、今までの『櫻華亭』にはない斬新な試みが必要になるだろう――そう、いち早く読んだ先代の黒河正治は、赤坂店の人選にずいぶん時間をかけたという。
 当時、『櫻華亭』本店の支配人に就いていたのは今田宜之、副支配人は茂木登志夫。双方ともに若くしてベテランの格を身につけた名ギャルソンである。そのうち、赤坂店の支配人に抜擢されたのは茂木氏の方であった。
 一方、総料理長である黒河正治は、その時すでに厨房へ立つことがほとんどなく、本店の料理長は席田という老齢の大将が、サブチーフには腕が良く人望も厚い濱野哲矢がついていたのだが、赤坂の料理長に任命されたのは相馬紀生……技術もセンスも抜群の天才肌であったが、どこか飄々と捉えどころのない男であった。

 ――ところが、事は計画通りに進まなかった。
 実際に赤坂店がオープンしたその時、支配人として立っていたのは今田氏であり、赤坂に異動予定であった茂木氏は本店の支配人に昇格していた。
 本店の副料理長であった濱野哲矢は赤坂オープンに先駆けてクロカワフーズを去っており、同じく本店に勤務していた給仕人の柴村美津子という女性も、そのすぐ後に退職している。
 蓋を開けてみれば――の言葉通り、周囲は何も知らされないまま、当初の発表との相違に混乱し困惑した。
 故に、様々な憶測や噂が密やかに飛び交った。
 濱野哲矢が、本店のサブである自分を差し置いて新店舗の料理長に就いた相馬紀生を妬み、我慢ならず退職した、と言う者があった。相馬紀生が、クロカワフーズの次期総理長を虎視眈々と狙い、一番の障壁となる濱野を水面下で退職へ追い込んだ、と言う者もあった。
 保守的な思考が強くやや独善的でもあった今田氏に、本店の従業員の不満が多く寄せられていたのだ、と言う者があれば、密かに恋仲であった濱野哲矢と柴村美津子の関係を今田氏が嗅ぎつけ猛反対し、茂木氏が二人を逃がすような形で退職させた、と言う者もあった。
 しかし、どの噂も噂でしかなかった。
 すべての事情を正しく理解している人間は、その当時でも極めて少なかったであろう。
 愛弟子に去られた先代は辞めた人間について語ることはなく、噂の当事者である今田氏と茂木氏はそこから完全に、本店と赤坂店の二極別れとなった。
 そして相馬紀生は、憑りつかれたように赤坂の店で腕を振るい、上滑りする噂の存在を知っているかどうかさえ定かではなかった。

 ――それから数年後、濱野哲矢と柴村美津子が結婚して、郊外のとある場所で小さな洋食レストランを開いたという風の便りが、どこからともなく伝わった。
 ちょうどその頃時を同じくして、相馬紀生は黒河家に婿入りし、総料理長兼クロカワフーズ社長の座を受け継いだという。


* * * * *


 ランチ終了後、レジ清算の手を止めてふと顔を上げると、正面エントランスから入ってくる一人の男性が目に留まり、侑司は静かに一礼した。
 ここ数日で、麻痺したように何の感覚も覚えなくなった心中が、ほんの少し大きく拍動する。
 きっちりと三つ揃えの背広を着こみ、腕に黒の長外套だけを持った黒河紀生社長は、レジカウンターにいる侑司に軽く手を上げ、屈託のない微笑を向けた。

「ちょっと料理長に話があってね、お邪魔するよ。――ここの塩梅は?」
 その端的な質問への答えはすでに用意してある。侑司は、そろそろ賄いが始まる店奥へ一瞬目を向けて口を開いた。
「危惧したほどの混乱はありません。シフト調整に若干のヘルプはもうしばらく必要でしょうが、ランチ、ディナー共に、ピーク時でも問題なく回っています」
「マネジメントは?」
「アテンドの鷺宮が思った以上に把握しています。常日の店舗営業や事務処理などは彼に任せてあります。月末の帳票関係には改めてフォローに入ります」
「そうか、わかった。……問題は赤坂だな」
 思案気に頷く社長の言葉に、侑司も同調の意図を込めて目を伏せた。
 ここ『櫻華亭』日比谷店の支配人だった豊島は、給仕人としては優秀の部類に入ったのだろうが、マネジメント……すなわち店舗管理に関してはまったく向かない性質たちであった。予算や経費などといった数字関係が得意でない上に、細々した事務処理も苦手としており、想像以上に責任感や規範意識といったものが大きく欠如していたようだ。
 故に、昨年の四月に侑司がホテル店舗担当を離れてからというもの、面倒な事務処理をほとんどアテンドの鷺宮に任せっきりという体たらく。それを固く口留めしているのだから、彼の下劣さが透けて見えるというものだ。
 しかし皮肉なことに、支配人解雇となった非常事態においてそれが吉と出た。
 今現在、大概の事務関係が滞りなく処理できているのは、豊島の陰で店を支えてきた鷺沼の力量によるところが大きい。事後の後処理に奔走するマネージャー陣にとってこれは、不幸中の幸いと言ってもよいだろう。

 ところが、一方の赤坂は全く逆の事態となっている。
 蜂谷は何事においても完璧主義であった。事務処理のみならず、予約管理に発注、シフト管理まで、すべて自分でやらなければ気の済まない男だった。
 まして、今田顧問や木戸穂菜美といった問題因子を抱えていたこともあり、蜂谷の排他主義はますます強まっていたようだ。結果的に現在赤坂では、彼以外にマネジメント管理できる人間がいない。
 さらなる悪影響として、ワンマン管理者であった蜂谷と傲慢で尊大な今田氏の支配下にあったせいか、従業員が皆、指示・命令され慣れている――すなわち能動的意識が薄い。
 現在、侑司と鶴岡が交替で付き、本店や麻布店からヘルプに入ってもらって何とか回っているが、正常な営業状態に戻るまでは、かなりの労力と時間がかかる見込みだ。

「まぁ、近いうちに人事も動かす。……君も根を詰めすぎないように」
「――はい」
 目を伏せたまま、侑司は返事した。
 気さくな口調だけれど、この人と自分の間には決して取り除かれることのない厚い壁がある。――クロカワフーズに入社すると告げた瞬間から、双方納得の上で立ち上げた無情の壁だ。
 店奥に行きかけた社長が、思いついたように振り返った。
「――ああ、黒河マネージャー。今田顧問はしばらく体調不良で欠勤されるそうだ。赤坂の方にもそう伝えておいてくれ」
「……承知しました」
 慇懃に了承の意を伝えれば、紀生は微笑をたたえたまま、今度こそ店奥に向かった。
 その背を見送りつつ、侑司の心中は再び硬化し色を失くす。

 社長であり父親である彼の背中は、いつ見ても広く大きい。あの背に、クロカワフーズ全社員の行く末が背負われている。
 いつの日だっただろう、父の身長を越したのは。
 だが、あの人の背中が小さく見えたことなど、ただの一度もない。


* * * * *


 その夜、侑司は本社ビルに立ち寄った。
 先刻徳永から連絡が入り「明日から二日間、必ず休め」と厳命された。この身にすっかり染みつき、なおも塗り重ねられていく色濃い疲弊は、上司の目にも危うく映っているのだろう。
 休みに入るならその前に報告書を提出して――というのはほとんど口実だ。
 本当は、仕事という拘束から解放される時間を、少しでも先延ばしにしたかった。
 仕事から離れれば、嫌でも思考に余白ができてしまう。己の内面と向き合う隙ができてしまうことに、侑司は言い知れぬ怖れを感じていた。

 いつになく身体から離れない倦怠感を意識しながら廊下を進めば、誰もいないと思っていた営業事業部室に灯りが点いている。ドアを開けるとそこには二名、自席に座りパソコンと向き合う鶴岡、そして同じく自席でペンを走らす西條の姿があった。
 鶴岡はともかく、この時間、西條が本社にいるのは珍しいことだ。

「――なんだ、お前も報告書か? 急がなくてもよかったんだぞ」
「お疲れさまです。侑司くん」
 室内に入ってきた侑司に一瞬だけ目を向け、にこりともしないのは鶴岡。反して、年齢を感じさせない端正な顔に、貴公子のような微笑を浮かべるのは西條だ。
 お疲れさまです、と小さく返して、侑司は自分のデスクに向かった。

「日比谷はどうだ」
 パソコン画面に視線を固定したままの鶴岡に問われ、侑司は社長に答えたのとまったく同じ内容をそのまま伝える。
 すると鶴岡は、キータッチの手をわずかも止めることなく頷いた。
「そうか。鷺沼のおかげだな。……あいつ、統括に泣いて謝ったそうだぞ。リカーの発注額におかしな点があると薄々気づきながら、それを上に報告することが出来なかった……とな。まぁ、豊島の横暴ぶりを鑑みれば、鷺沼が見て見ぬフリをしてしまった気持ちもわからないではない。……やつの反省に免じて、お咎めはなしだそうだ」
 そうですか、と応じながら、侑司はデスクに鞄を置いてコートを脱ぐ。
「しかし……やはり問題は赤坂だな。俺が見る限り、あそこは緊急時にリーダーシップを取るやつがいない。蜂谷がそういう風に仕向けてそういう人間ばかりが残った、ということだろう。いずれ一旦バラバラにして、新しい人材を入れていった方がいいな。今度こそ、今田さんの干渉なしで、だ」
 書類をバサバサとせわしく繰りながら、鶴岡は容赦ない見解を述べる。
 この鶴岡は、昔から今田顧問と折り合いが悪い。さすがに今でこそ表立ってやり合うことはないが、十年ほど前までは相当ぶつかり合った仲らしい。
 分別も器の大きさも十分に兼ね備える鶴岡だが、それと同時に強い攻撃性も持ち合わせている。傲慢不遜で勝手極まりない今田氏とやり合う光景は、たやすく目に浮かぶというものだ。

 侑司が自席に落ち着くと同時に、座っていた西條が静かに立ち上がった。室内の片隅にあるコーヒーメーカーに向かっていると察して、侑司が下ろしたばかりの腰を上げようとすれば、西條は柔らかい微笑みでそれを制す。
 このコーヒーメーカーは、つい最近、営業事業部室に設置されたばかりのものだ。贈り主は黒河紀生社長――名目は海外出張の “お土産” だったか。

「蜂谷くんが、ようやく供述を始めたそうですよ。当初は茫然自失の体で受け答えも危うかったようですが、徐々に回復しているみたいですね。今は取り調べにも素直に応じているようです」
 迷いのない手つきでドリップの準備をする西條は、他愛のない世間話をするかのように語る。
 一方のパソコンと対峙する鶴岡は、あからさまに侮蔑の色を浮かべ鼻を鳴らした。
「憑き物が取れたってわけか。あれだけ毒を吐けばな」
「……そうかもしれませんね」
 西條は微笑みを絶やさぬままデカンタをセットしている。侑司はそんな二人のやり取りを耳にしながら、パソコンを起動させ書類やメモリスティックを取り出した。
 程なくして、小さなドリップ音と共にコーヒーの香りが漂い始める中、バチ、とキーを叩いた鶴岡が、ふと顔を上げた。
「――侑司。蜂谷の動機、、、、、について、統括から話を聞いたか」
「……はい。昨日、本社ここで」
「お前……自分のせい、だなんて思うなよ」
 思わず斜め向かいの鶴岡を凝視すれば、その視線に気づいたのか彼はパソコンから目を外し、こちらに厳しい双眸を向けた。
「お前が考えそうなことぐらいわかるさ。……いいか、今回のことはあいつの完全な逆恨みだ。くだらない、、、、、嫉妬の念、、、、に身を滅ぼされたのは、蜂谷の弱さゆえだ」
 鶴岡の断固とした口調に、侑司は黙って目を伏せる。
 昨日の昼過ぎ、統括部長の口から聞かされたばかりの “蜂谷の動機” ――彼の中に鬱積した負の感情を狂気に変異させた最も大きな原因――それはまさかの “女絡み” であった。

 もう、一年以上もの話である。
 赤坂の顧客に、とある大手電気機器会社の重役がいる。月に一、二度予約を入れ、いつも妻と娘を連れて来店する常連客だ。
 その二十歳そこそこの令嬢が、何故か侑司を見初めた。たまたま店に出て給仕のフォローをしている時、たまたまそのテーブルを接客することがあり、侑司のあずかり知らぬところで勝手に慕われた。不遜な言い方をすれば、よくある話だった。
 燃焼の程度で言えば、そのケースは可燃物質が豊富で温度も高かったようだ。マネージャーである侑司が赤坂に常勤していないと知りつつも、彼女は予約時に必ず侑司を指名して給仕を頼むほどの入れ込みようであった。
 もちろん、侑司は顧客に対する丁重な態度をわずかも崩さぬまま、若い娘から向けられる恋情には一切気づかない態度で接した。今までにも何度か女性客から秋波を送られた経験はあったが、いちいち本気で捉えるほど暇ではない。
 思うに、そのご令嬢もどこまで本心だったのかわかったものではない。娘に甘い顔の父親でさえ、そこは大企業の取締役に収まるほどの人物である。娘の一時の執心ぶりに苦笑しつつたしなめつつも、一家団欒時の余興ほどにしか見ていなかったのは明らかだ。
 そのうちに、侑司は『アーコレード』担当へ異動となり、赤坂に顔を出す機会もぐんと減った。指名を受けても物理的に応じられない時もあり、流行り病のような娘の熱も次第に冷めていったらしい。
 けれど、侑司にとって多忙な日常の中の、無益で無意味な一コマにしかすぎない出来事でも、蜂谷にとっては違った。
 蜂谷はこの顧客のご令嬢に、人知れず恋情を抱いていたという。

「――人は見かけによらず、というのはこういうことを言うんだろうな。潔癖で神経質、完璧主義に排他思考。そんな奴が、まさか顧客に恋慕しているなんて誰が思う? 真面目すぎてよほど女に免疫がなかったか、そのお嬢さんに相当の愛敬を振りまかれたか」
「鶴岡さん、そういう言い方は」
 西條がやんわりたしなめるが、鶴岡の毒舌は止まらない。
「仕事にくだらない私情を絡ませた挙句、社の体面を傷つけ混乱におちいらせた奴を、不憫で可哀そうだと憐れむのか? 女に運がないのも仕事で結果が出せないのも、本人の器量の問題だ。ままならない現状を誰それのせいだと恨みつらみで八つ当たりするような奴に、望みある前途はない」
「それは……否定しませんが。……きっと蜂谷くんは、生真面目すぎたのでしょう……それこそ異常なまでに」
 カップを用意する西條が、どこか悲し気な笑みを浮かべている。それに抗議するかのように、鶴岡の座るデスクチェアが耳障りな音を立てて軋んだ。

 異常なまでに理想が高く、病的に完璧を求めるが故、破滅した男。
 侑司の五期上である蜂谷は、入社したての頃はそこまで目立った才覚のある人材ではなかったという。どちらかといえば大人しく無難な立ち振る舞いで、指示されたことだけを真面目にこなすタイプであったそうだ。
 入社後『櫻華亭』日比谷店に配属、数年勤務した後、赤坂店に異動。そこで今田顧問に目をかけられ、支配人に抜擢されたのが四年前――決して遅くはない出世である。
 しかしそこから彼は、見えない病原菌に侵されるがごとく、少しずつじわじわと精神が蝕まれていく。
 慢性的な売り上げの低迷にFCIC関係者の頻繁な出入り。勝手放題の振舞いで店をかき乱す今田顧問。洗脳するかの如く吹き込まれるブランド至上主義。
 おまけに日比谷の豊島からは事あるごとに尻拭い的な負担を強いられ、仕事の意義さえ理解していないような木戸穂菜美を押し付けられる始末。
 重圧に焦燥、鬱屈は日ごとに募る。次第に従業員の些細なミスでさえ許せなくなり、店に関わるすべての業務を自分の手で処理しなければ気が済まなくなってくる。
 元々、繊細で脆弱な神経の持ち主だったのだろう。心身にかかった大きな負荷やプレッシャーは耐えがたく、かといってそのストレスを表に出すこともできず、抑圧された鬱屈はヘドロのように蜂谷の心身を穢していき、そこから芽生えた妄念の矛先はいつしか、年下の上司である侑司に向かった。
 自分よりも年少くせに、いとも簡単にマネージャーへ昇格し、仕事ぶりもスマートでそつがない。しかも、仄かに抱いた恋心まで打ち砕いた憎き男。
 赤坂で催されたパーティーの幹事であった富田遥香の一件も、彼の悪感情に拍車をかけた。二人の微妙な雰囲気を垣間見た蜂谷は、侑司が人妻らしい女性と不倫していると思い込む。素知らぬ顔で女を食い物にする不潔で淫らな男――侑司への憎悪は急速に膨らんだ。
 そして、黒河和史と宇佐美奈々の結婚披露パーティー、そこではやし立てられた黒河侑司と彼女――水奈瀬葵。
 クロカワフーズの急成長店舗の女店長。期待のホープと持ち上げられる小娘。黒河侑司が担当になってさらに伸び率を上げた、ちっぽけな庶民の店の――、
 沸き立つ歓声の中、彼女を庇い守る黒河侑司と、彼から守られ頬を染める水奈瀬葵……二人の寄り添う姿が、奇妙に強烈に蜂谷の神経を逆撫でした。
 ――この時、蜂谷の怨念の照準が、水奈瀬葵に絞られた。

 ドリップ終了の小さな電子音が鳴って、侑司はハッと我に返った。
 インサートカップに落とし立てのコーヒーが注がれる。室内に芳香が、より一層濃く広がった。
「……そういえば僕は先日、初めて聞いたのですが、赤坂でワインの大きな発注ミスがあったそうですね。ケース販売の商品を一本単位だと勘違いしたのか、大量に納入されてしまったと」
 湯気の立つカップを手渡され、さっそく音を立てて啜った鶴岡は、熱さに顔をしかめる。
「ああ、俺も聞いたよ。蜂谷は、今田さんの仕業だと周りに漏らしていたようだが、実は蜂谷のミスだったんだと。それを、豊島に勘づかれたらしい」
 香しいコーヒーのカップは次に侑司へ施された。すみません、と頭を軽く下げれば、西條は微笑を返す。

 赤坂でのリカー発注ミス……発端は蜂谷自身の発注入力ミスだった。本当に些細な数字の打ち間違いだ。
 通常よりだいぶ多い数量に首を傾げた業者の方から確認の電話が入ったそうだが、不運にもたまたまその日、蜂谷は休みであった。取り次いだ木戸穂菜美は詳細がわからず、その場で今田顧問に確認するも、彼はろくに発注ファイルを確認せず、問題ないとあしらってしまう。
 間違いは気づかれることなく、訂正されることもなかった。
 入力ミスしたのは蜂谷だ。だが彼は、自分が犯したほんの小さなミスをフォローできない木戸にも今田氏にも、心中で憤ったという。挙句に、それを豊島に知られてしまったことが途轍もない屈辱となった。
 豊島は大量に納入されたワインをいくつか引き取る代わりに、自身がワインを不正に横領したことを打ち明け、帳簿や発注書のデータの誤魔化し方を教えてくれと迫ったそうだ。おそらく豊島はその時点で、侑司が『アーコレード』からホテル店舗に戻ってくることを聞きつけており、不正が発覚することに危機感を覚えていたのだろう。
 ――君のミスは黙っていてあげるからさ、と薄ら笑う豊島の頼みが、蜂谷には完全に脅しと聞こえたに違いない。

「――その後すぐ、赤坂で予約ブッキングのクレームだ。しかも、またもや今田さんと木戸の不手際によるものだろう? 本店に恩を着せられ、役職者の眼前で頭を下げる羽目になり……完璧主義でやってきたあいつの自尊心はズタボロになったんだろうさ。……ちょうどその頃だったらしいぞ、辻山徹朗と再会したのは」
 泥水を啜っているのかと思うほど苦い顔つきをする鶴岡。
 侑司は、パソコンのキーボードに添えた自分の手が、先ほどからまったく動いていないことに気づき、軽く眉間を押さえた。

 蜂谷と辻山がどういう経緯で再会し、どういう流れで取引を行ったのかはわからない。
 ただ蜂谷は、侑司が『アーコレード』担当であるうちに、クレーム騒動を起こしたかったらしい。どうにも虫の好かない慧徳の店で異物混入を起こせば、忌々しい黒河侑司にもあの小娘にも、一泡吹かせてやれるのだ、と。
 しかし、クレーム騒動は途中で邪魔が入り不完全な形で終わる。念のため本部クレームに仕立てたが、蜂谷が期待するほど上層部の反応は芳しくなかった。
 思い余ってネットに上げるも、それも不発。総会議で「責任追及を」と勢い込んだ豊島が、けんもほろろに跳ねのけられてしまうのを見て、蜂谷は己の計略が失敗に終わったことを悟る。
 黒河侑司と水奈瀬葵は、蜂谷のように頭を下げることはなかった。蜂谷が受けた屈辱を、同じように感じることはなかったのだ。
 心身を蝕む鬱屈感と焦燥感は、もう取り返しがつかないまでに色濃くなっていった。

「そして、木戸穂菜美が作成した《告発状》を蜂谷が見つけてしまった、ってことか。まったく……魔物に魅入られたとしか思えんな。……蜂谷はな、その日のうちに本社の総務へ行って、慧徳の雇用者名簿を密かに調べ、学生アルバイトの一人を呼び出しているんだよ。《告発状》にあった水奈瀬の相手の男が侑司だと思い込んだのか……その辺の裏を取りたかったんだろう。自分じゃなく豊島に会いに行かせているところが蜂谷らしいよな」
 書類作成作業はすでに終わったのか、鶴岡は頭の後ろで手を組みふんぞり返っている。
 再び、静かにペンを走らせていた西條が、困ったように眉尻を下げた。
「思い切ったことをするものですね……アルバイトの女の子を秘密裏に呼び出すなんて」
「若い娘なら男女の機微に敏感な上に、訊けば何でもホイホイ喋ると思ったんじゃないか? 上にバレたら、全部豊島に罪を被せるつもりだったんだろう。……そんなことはつゆ知らずの豊島は、アルバイトの娘と対面した後、『何か隠しているようだった』と蜂谷に伝えたらしい。それを真に受けて、蜂谷はあのFAXを作成したんだ。……たぶん、その時にはもう、《告発状》の信憑性なんかどうでもよかったんだよ。ヤツは侑司と水奈瀬をめちゃくちゃに傷つけること以外、考えていなかったんだ」
 噛みつくような顔で吐き捨てた鶴岡に、西條が哀れみを湛えた視線を向ける。
「……蜂谷くんは、極限まで追い詰められていたのです。赤坂が閉店するという悪い噂もまことしやかに流れていたそうじゃないですか」
「それも結局は、今田さんが源泉だったんだろう。社長の不在を勝手に悪く捉えて一人大げさに騒いでいた言葉尻を、蜂谷が鵜呑みにしただけだ」
「……それでも、ストレスが狂気に変じてしまうには、十分なきっかけだったのだと思います」
 西條の複雑な色味の瞳が憂いに陰った。
「神経質なまでに慎重を期する彼は、これまで大きな壁にぶつかった経験がなかったのでしょう。……柏木くんが、自分と蜂谷支配人は性格が似ているかもしれません、と沈んでおりました。打たれ弱く、立ち上がる術を知らない人間だと」
「……どうだかな。俺が見るに、柏木は上手くいかない原因を自分の中に探すタイプだ。逆に蜂谷は、それを他者のせいにした。その差は大きい。……似て非なる者なんじゃないか?」
 憤然とデスクチェアへ背を預けた鶴岡は、苦々しい顔を緩めることなく腕を組む。

「――畢竟、仕事とは打たれるものだ。自分に都合よく事が運ぶだけの仕事などあるはずがない。一つ何かを習得するたび、一つ上に上がるたび、それだけの責任と負荷は増えていく。それに耐えて乗り越えて、結果を出せなければ認めてもらえない。世の中そういう風にできている。……あんただって、しがらみの多い祖国を離れ日本で帰化し、悠々自適な遊客とばかりに振る舞っているが、これまで味わった辛苦は並大抵のものじゃないはずだ。成し遂げるものが大きければそれだけの苦労は必然……蜂谷はそれに耐えうる器量じゃなかった、ということだ」
 自身のことまで引き合いに出された西條は、気を悪くする風でもなく苦笑している。
 侑司はそっと息を吐き出した。
 目の前の画面には、まだ一文字も打たれていない。諦めて、少し冷めたコーヒーに口をつける。
 
 自分に対する蜂谷の憎悪の念は、正直言ってさほどショックではなかった。
 恨まれ嫉まれ、攻撃されるのは初めてでない。それこそ高校の、競泳インハイ予選の時もだ。
 慣れているとは言わないが、危機意識はある。嫉妬ややっかみを受けても耐えうるように、それなりの武装を身につけてきた。
 なのに今、自分はどうしてここまで心中が乱れているのか。
 これは何だ……この心地は、まるで――、

 濃い琥珀色の味が不意にわからなくなった。頭の中枢部分が妙に痺れるような感覚に襲われた時、不意に西條が顔を向ける。
「侑司くん、水奈瀬さんをオトリに使うような計画は、確かに姑息であったかもしれません。貴方に嘘をついたこともフェアではなかった……――ですが、これだけは信じて下さい。……社長も統括も、もちろん私たちも、水奈瀬さんを危険な目に遭わせるつもりなど微塵もなかったのです」
「ああ、そうだ。現にお前が社長室に駆け付けてドアを叩いた時、まさに俺たちは飛び込もうとしていた時だった……それは、誓って本当だ」
「……わかっています」

 わかっているのだ。あれから時間が経った今なら、社長の策謀も統括の嘘も、マネージャー陣の示し合わせも、すべて苦渋の選択だったのだ、と理解はできる。
 もし自分が彼らの立場にあり、同じような状況下で、尚且つ、彼女でなければ、、、、、、――自分とて彼らと同じように策に従い遂行しただろう。それほど、あの時点では打つ手がなく事態は逼迫していた。
 しかし、社長執務室に飛び込んだあの時の光景――今にも彼女を打とうと振り上げられた腕と、こちらを振り返った瞳の溢れそうな涙――が、目に焼き付いて離れず、思い出すたびに鎮火したはずの業火が胸を焦がす。
 彼女を守る資格などない、と自嘲したその口が、彼女に害成す全てのものに歯を剥きだし、彼女を突き放したはずのこの手が、彼女の身体を引きよせ囲おうとする。
 もはや理性では制御しきれないほどたがを失ってしまった己の欲心に、侑司はただ狼狽するしかない。

「……すべての責任は、自分にあります」
 低く呟いた声は、自分でも驚くほど力なく聞こえた。
 結局は、そういうことなのだと思う。
 蜂谷の危うい完璧主義と神経質さには気づいていた。豊島の驕りや今田顧問の我儘も知っていた。木戸穂菜美から向けられる思慕さえ、侑司は感知していたのだ。
 ――なのに、自分は何をした。
 ついて来られない人間は要らないとばかりに無視しなかったか。くだらない感情に踊らされて仕事を疎かにするなど愚の骨頂だと思ってはいなかったか。己の弱さを超克できぬ者など上に上がる資格は無いと切り捨ててはいなかったか。
 その利己心が、巡り巡って彼女を傷つけることになった。
 だから、彼女は――、

 滅多に感情を表すことのない面貌が苦悶に歪む。西條は気遣わし気に顔を曇らせた。
「侑司くん……貴方だけの責任ではないのですよ」
 ギッとデスクチェアを鳴らして、鶴岡もあとに続く。
「自分を責めるな、とさっき俺は言ったぞ。――侑司、普段のお前ならこれくらいのことでそこまで追い込まれた顔はしない。お前なら絶対に割り切る、、、、ことができるはずだ。……なのに、そこまでお前が自責の念に駆られているのは、水奈瀬だから、、、、、、だ」
 グッと詰まった侑司を横目で見やり、鶴岡はカップに残ったコーヒーを勢いよく飲み干した。
「……悩んでいるお前には悪いが、話は簡単だ。さっさと手に入れてしまえ。自分のものにすれば大半の悩みは解消する」
「また、極端な物言いを……」
 呆れる視線を鶴岡に向けた西條は、ゆっくりと視線を戻して侑司を見た。そこに微笑みはない。
「――統括が、水奈瀬さんから一通の封書を預かったそうです。知っていますね?」
 ざわりと逆撫でられる感覚を抑え込み、「はい」と無表情をつくろう。
 ――彼女の後姿が、脳裏の奥で霞んだ。

 ――どこかぼんやりと歩く彼女、彼女を乗せて走り去る白のステーションワゴン、もう二度と彼女に会えないような錯覚。
 その後、社長執務室で統括と対面した侑司は、事情聴取かと思われるような内容をいくつか問われたのち、水奈瀬葵から受け取ったものがある、と聞かされた。
 内容は知らない。現物を見せられてもいない。ただ、彼女が差し出してきたのは一通の封書だと聞かされ、すぐに侑司は悟った。――辞めるつもりか、と。

『――今田顧問に手を上げてしまった罪悪感はもちろんだけれど、どうやら仕事に対する彼女の原動力が奪われてしまったようね。……あの子、接客中に泣いたのよ』
 まるで温度を感じさせない声音で、母は侑司にそう言った。
 煮えたぎらせる沸点と凍てつかせる氷点が、心中を同時に支配したような、激しい混乱と動揺が侑司を襲った。
 だがそれも、渾身の気力を振り絞り抑えつけた。
 ――彼女がそう望むなら。

「辞めたいと願う人間を引きとめる権利など、自分にはありません」
 守ってやれなかった。いたずらに傷つけた上、満身創痍の彼女を矢面に立たせてしまった。
 しかも、それに追い打ちをかけるような、恩師の訃報。
 泣いていた。冷たくなって震えて、やり場のない悲しみを昇華させることもできず、彼女は息が詰まるほどに泣いていた。
 苦しんでいるのなら、解放してやりたい。

「……辞めたいと、彼女は願っているのでしょうか」
 ふと独り言つような西條の言葉に、侑司は顔を上げる。
 透き通った鉱石を思わせる瞳を宙に逸らせ、考え込むように西條は続けた。
「統括は、封書を預かった、と仰いました。 “退職願” を預かった、とは仰いませんでした」
 だから何なのだ、と荒げたい気持ちを、突如波立った不穏な感覚が呑み込んだ。
 確かに、自分も封書の中身を見せられたわけではない。内容を聞かされてもいない。だが、この状況で彼女が出す結論など決まっている。彼女は今、店に立つのも辛いはずで――、 

「……侑司。どのみち後悔することがわかっているなら、より本心に近い方を選ぶんだな。人間は、しなきゃよかったと後悔するより、しとけばよかったと後悔する方が、圧倒的に多いんだぞ」

 ――辞めたい……と、彼女は一度でも言ったか……?

「……侑司くん。欲しいものに手を伸ばすのは……まだ、怖いですか?」




 
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