モノクロォムの硝子鳥

ヒソリ

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09.心

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ひゆと雨嶺を乗せた車は真っ直ぐに屋敷へ帰り着いた。
出迎えてくれた九鬼もまた雨嶺の存在を知っていたようで、彼を見ても村瀬と同じく普段通りの様子だった。
雨嶺は何者なのか。ひゆは二人の会話を耳にしながら始終俯いて黙ったままだった。

車を降りる際に雨嶺に差し伸べられた手を自然と取ってしまったが、そのまま抱き抱えられそうになってひゆは慌てて固辞する。

「部屋まで送らなくて大丈夫か?」

「大丈夫です、自分で歩けます……」

さっきのようにお姫様抱っこをされるのは困るし、近くに居る九鬼の視線が何故か気になってしまう。
ひゆの言葉にあっさりと引き下がった雨嶺は、後ろから彼を呼ぶ声に顔を向けた。

「ようこそおいで下さいました、雨嶺様。どうぞこちらへ」

「はい」

エントランスに現れた壮年の執事が雨嶺を屋敷の中へと促す。

(ようこそ……って、初めからこのお屋敷に用事が……?)

呼ばれた雨嶺が九鬼の前を通り過ぎる時、彼がチラリと九鬼に視線を向けた気がした。
ほんの一瞬だったので、もしかしたら気のせいだったかもしれない。
九鬼は何も言わず、通り過ぎる雨嶺に対して丁寧にお辞儀をする。
雨嶺もまた無言のまま、案内を務める執事と共に屋敷の中へと行ってしまった。

「ひゆ様、お荷物をお持ち致します」

手にしていた鞄を自然に持ってしまう九鬼に、「いいです」と言い掛けたがそのままお願いする事にした。
痛めた脚をかばうように車から降りる。ゆっくり歩けば、と注意してもツキっと強い痛みが走り歩みが止まってしまう。
体重が掛かると足首からズキズキとした痛みが広がった。

(痛み、酷くなってる……)

痛む方の足を少し浮かせて膨れている患部を見てみる。

「如何なされましたか?」

「……少し、足を捻って」

立ち止まってしまったひゆに気付き、九鬼は素早く傍へ寄ると手を差し伸べて不安定な体勢を支えてくれた。
助けて貰っているのに、触れられるとやはり緊張して身体が固くなってしまう。

「ご無理をなされると余計に痛みが酷くなってしまいます。念の為、病院で診て貰いましょう」

気遣う穏やかな声。
九鬼の優しい声に誘われると、手を伸ばして甘えてしまいたくなる。
けれど先ほど雨嶺の親切心を断った手前、九鬼に甘えてしまうのは気が引けてしまった。

「大丈夫です。湿布も貼って――」

「失礼致します」

自然な動作で九鬼が足元へと身を屈める。
ひゆが立ちやすいよう、彼の肩へと手を引かれた。

「かなり腫れているようですが、学校で何か…?」

「……その、階段を踏み外して…」

「他に怪我はございませんか?」

じっと注がれる視線に緊張してしまう。
九鬼の肩に置いている手に思わず力が入って、スーツを強く掴んでしまった。

「申し訳ございません。お辛い姿勢のままにしてしまいまして」

ひゆがスーツを掴んだのを「辛い」と受け取ったのか。九鬼はひゆの足に負担が掛からないよう、支えながら慎重に立ち上がった。

「でも、少し痛むくらいなんで……これくらいは大丈夫です」

「足を庇って歩かなければならないほどの痛みは大丈夫とは言いません」

そう言われてしまうと何も言えなくなってしまう。
九鬼の腕が腰に回り、身じろぎする間も無くひゆの身体は軽々と抱上げられてしまった。

「九鬼、さ……」

「少し、ご辛抱下さい」

高くなった視線と、急に近くなった九鬼の横顔に心音が一気に加速する。
九鬼はひゆが落ちないようしっかりと抱きかかえ、静かな足取りで屋敷の中へと歩いて行く。

「お嫌でしょうが、ひゆ様のお部屋に着くまでご辛抱下さい」

「……っ…」

もしかして、九鬼は今朝の事を言っているのだろうか?
あれだけ露骨に視線も合わせないようにしていれば、普通は『避けている』と思われて当然だ。

今も逃げ出したい気持ちはある。
けれど、痛む足を無理させるのは良くないと自分に言い聞かせて、九鬼に抱かれるまま大人しくしていた。

――自分は、何がそんなに嫌だったのか。

九鬼に無理矢理された事?
それとも、あの後に彼が傍に居なかった事――…?

(……違う、傍に居て欲しかったなんて。――…でも、分からなくなってきた…)

無関心に努めようとしても、九鬼が傍に居るとどうしようもなく落ち着かなくなってしまう。
何もかも一方的で、自分はこんなにも振り回されて。
今までこんな風に誰かを意識する事なんて一度も無かったのに。

ひゆが自分の思考へ入り込んでいるうちに、宛がわれた部屋に辿り着いていた。
数日過ごしたけれど未だに見慣れない広い部屋。

「足の痛みは如何ですか? 酷く痛むようでしたら、掛かり付けの医師を呼びますが……」

広いソファーにひゆを丁寧に降ろすと、九鬼はその場に屈み込んでひゆの腫れた足を見る。

「足首の辺りが少し痛む感じです。そんなに酷くは……」

「触れても宜しいですか?」

「……はい」

改めて聞かれると変に緊張してしまう。
少し言い詰まってしまったが、ひゆの返事を聞いて「失礼致します」と九鬼の手が靴に伸びた。

「あの、自分でやります……っ」

白の手袋に包まれた手が軽く靴を持ち上げる。
足首に響かないようゆっくりと靴を脱がす九鬼を慌てて止めた。
履いているものくらい自分で脱げるし、そこまで手伝って貰うのは流石に恥ずかし過ぎる。

(靴を脱がされるなんて、そんな子供みたいに……っ)

静止の声に手を止めた九鬼は、困惑するひゆに視線を合わせ微笑する。

「少し足首の具合を見せて頂くだけです。どうぞ楽になさって下さい」

「で、も……脱ぐくらいは…」

「恥ずかしいですか?」

はぐらかしてしまいたかったが、取り繕う言葉も見付からないので小さく頷いて見せる。
すると、九鬼の表情が先ほどよりも甘やかなものになった。

「少しずつですが、表情を見せて下さるようになりましたね」

「……?」

一瞬、何の事を言われているか分からなくて、ひゆは不思議そうに九鬼を見下ろす。

「ひゆ様にとって、今のこの状況は心許せるものでは無いでしょう。ですが、初めてお逢いした時より、少しずつ内面の感情が出てきていらっしゃるように思います」

止めていた手を再び動かしながら告げられる九鬼の言葉に、ひゆは僅かに目を瞠った。

(――…私の、感情……?)

「拒む事も、今のように恥ずかしいと感じる事も、ひゆ様の心情の現われです。初めてお逢いした時には、ひゆ様はご自身の感情を閉ざしておられるように見えたので」

コトリ、と脱がされた靴がそっと床に降りる。

『感情を閉ざしている』という九鬼の指摘は正しい。
周囲に関心を持たないように、意識して自分がやってきた事だから。
けれど、それを誰かに指摘された事は初めてだった。
細波のような落ち着かない感覚が心の中に広がり始めてひゆは戸惑う。

(この人は、何処まで私の心を掻き乱すんだろう……)

何事にも逆らわず、素直に従い、ひっそりと感情を閉ざしていた。
そうすれば、周りの居た人たちは『大人しい』と認識して放置してくれていた。
人と関わって煩わしい思いをするのが嫌で、誰に対しても距離を取る姿勢を保ってきた。
それなのに、九鬼は出逢った最初の頃から『自分の気持ちを素直に出すように』と言う。

どうして他の人達みたいに自分を放っておいてくれないのか。
感情を出さないように、人との関わりは極力少なくするようにと自分に言い聞かせてきたのに。

(――…違う。言い聞かせてきたんじゃない……)

膝に置いていた手をきゅっと握り締める。

(そう教えられてきたから、ずっと守って言い聞かせるようにしてきただけだ……)

自分は言われた言葉を忠実に守ってきた。
ひゆを施設から連れ出したあの人の言葉を、ただひたすら従順に。

『――じっと大人しく、私の言うことだけ聞いていなさい。あなたはそうしてれば良いの』

連れ出されてからずっと、それこそ毎日のように繰り返された言霊。
その人の言葉が幼い頃からずっとひゆの感情を戒めてきた。

施設に居た頃の記憶はだいぶ薄れてしまったけれど、それでも年の近い子達と楽しく遊んでいた記憶はある。
他人の目や感情など気にせず、ただ無邪気に自分の心のまま、楽しい事も悲しい事も押し殺す事などしなかった。
けれど施設から連れ出された日、一番最初に言われた言葉は『他人と深く関わらないように』だった。
唐突に言われ、幼心に「どうして?」と聞いてみたけれど、あの人は疑問も否定も一切許してくれなかった。

『友達――? あの場所の事は全部忘れなさい。あなたには必要の無いものだわ』

子供の頃に近所に居た子供達と仲良くすると、静かな言葉で責められる。
恐怖すら感じてしまうほどの冷たい圧力に晒されたのは、1度や2度じゃ無い。

『どうして私の言う事が聞けないの? 誰かと仲良くする必要なんて無いの。他人とは深く関わらないようにしなさい』

乱暴な言葉で叱責されるよりもその静かな口調の方が威圧的で、背筋の凍る思いを何度しただろうか。
隠れて友達と逢っても、いつもその後には必ずあの人に知られていて「必要ない」と責められる。
そればかりか、仲良くしていた友達が急に自分を避けて冷たく当たるようにさえなったのには訳が分からなくて、ひゆの心は酷く痛め付けられた。

昨日までは仲良く遊んでいたのに――…どうして……?

問い掛けたくてもその相手すら居ない。
数少ない友達が、皆一様に掌を返したように態度が豹変してしまったからだ。
子供の仕打ちは容赦なかった。集団で、一方的で、傷付けることに何の躊躇も無い。

疑問と悲しみに押し潰されても、あの人から浴びせられる言葉と態度は変わらなかった。
もしかしたらあの人が……と、確かな証拠も無いのに邪推したりもした。
けれど、何を聞いても返ってくるのは『必要ない』の言葉だけ。

そうして悩み、考える事すら『必要ない』のだと更に重く責められた。
ひゆが傷付く姿を見ても、それが逆らった罰だと言いたげな冷たい視線に心の傷はより深く抉られる。

(……この人に、逆らっちゃ…いけない――…)

子供心にそう感じてからは一切の感情を殺してきた。
何かを言われる度に従順な態度を見せてその場を凌ぐ。
最初のうちは辛かったけれど、そうしなければいけないと自分に言い聞かせているうちに、他人とは必要最低限の関わりしか持たないよう線引きをするようになっていった。

――自分の感情は必要ないと『自分自身』に蓋をして。

どれだけあの人の言葉を忠実守れているか。
ひゆの言動は監視に縛られ、殺伐とした関係を強いられた生活が続いた。
友達との付き合い方も、家族がどんな関係なのかも知らない。それがひゆにとって当たり前にされてしまった。

(言われたことを守っても、褒められた事なんて……無かったな……)

それまでの記憶を辿って、ふと思い出す。
それと同時に、思い出している自分を否定した。

(今更昔の事を思い出したりなんか――…)

自分の境遇を振り返る事にも目を背けてずっと胸の中で殺してきたのに。
小さかった胸の細波は、大きな揺れを引き起こしていた。
考えたくないのに……此処に居ると余計な事ばかり考えて苦しくなってしまう。
視線を伏せたままで言葉を閉ざしてしまったひゆを、九鬼は静かに見つめ続けていた。

「……ひゆ様」

沈黙を区切る静かな声に、自分の思考に入り込んでいたひゆは弾かれたように視線を上げた。

「何か……お気に障るような事を申し上げましたでしょうか?」

「……いいえ…」

「急に黙ってしまわれたので、私が失礼な事を申し上げてしまったのかと」

真っ直ぐに見つめてくる九鬼の視線に、ひゆは小さく首を振って答える。
この人の目を見ていると……心の奥に仕舞っていたものが溢れ出しそうで、それが少し怖い。
思い出してしまった昔の事も、あの人の事も……全部蓋をしなければ。

「すみません……少し、ぼんやりして…」

咄嗟に吐いた嘘に、胸がきゅっと締め付けられる気がしたけれど気付かないフリをする。
胸が締め付けられるような理由なんて何処にもないのに、ざわめきも、息苦しさに似た感覚も一向に薄れてくれない。
九鬼と話していると、言わなくて良いことまで言ってしまいそうになるのが、ひゆ自身どうしてだか分からなかった。
行き場の無い感情が鬩ぎあう。
膝に乗せていた手に、無意識に力が篭ってひゆはスカートを強く握り締めた。

「ぼんやり、ですか」

言葉と共に九鬼の腕が伸びる。
九鬼の視線を避けて俯くひゆの頬に大きな掌が軽く手が添えられた。

「……ッ…」

軽く触れられただけなのに、ビクンッとひゆの身体は過剰に震えてしまった。
一瞬、ひゆの脳裏に過ぎったのは怖いと感じたあの時の九鬼の掌。
頭で考えるよりも先に、触れた掌から逃げてソファーの背に身体を引いていた。

軽く触れただけで逃げてしまったひゆの様子に九鬼も驚いたようだったが、それも僅かな間で直ぐに穏やかな表情に変わっていた。

「失礼致しました。私に触れられるのに少しは慣れて頂けたかと思っていたのですが……」

「あ、の……ごめんなさい。驚いて……」

ジっと真っ直ぐに見つめてくる九鬼と違って、ひゆの視線は九鬼から逃げて所在なさげに揺れる。
この部屋に抱き抱えられて運んで貰った事を思えば、顔に少し手が触れるくらいどうとでも流せるはずなのに。
注がれる視線に、表情だけでなく心の中まで暴かれてしまいそうな錯覚に襲われる。

「――でしたら、どれだけ触れればひゆ様は慣れて頂けるのでしょうか?」

「――…え……?」

(どれ、だけ――?)

九鬼に言われた言葉が頭の中でやけに大きく響く。
一旦離れたはずの九鬼の手が、逃げた身体を追って更に伸ばされるのがひゆの目に映った。
シルクの手袋に包まれた九鬼の手に、今度はしっかりと添えられる。
ひたり、と柔らかな冷たい感触に背筋に小さな震えが走った。

「……九鬼、さん……?」

片手をソファーの背に付けて、ひゆの身体がそれ以上逃げられないよう囲われる。
小さく軋んだソファーの音がやけに大きく聞こえた。心音が急に早鐘を打ちだして頭にまで大きく鳴り響く。

あの時と、まるで同じ。どうして急にこんな状態になったのか。
さっきまで普通に話していただけなのに、こうなってしまったきっかけが分からなくて困惑は深まるばかりだ。
九鬼に強引に口付けられた時を思わせる状況に、ひゆの緊張は高まっていく。
お互いに視線を絡ませたまま、身体は何かに縛られたように動けなかった。

「私が前にひゆ様に申し上げた言葉を、覚えていらっしゃいますか?」

底の見えない、深い漆黒を思わせる双眸がひゆの身体を震わせる。

「……覚え、て……」

九鬼に言われた言葉はずっとひゆの中にこびり付いて残っていた。
消したくても、消せないほどにしっかりと。

九鬼の言葉のせいで、自分がこんなにも不安定で落ち着かない事も。
全て言ってしまおうと口を開く。けれど、頬に添えられた九鬼の手が輪郭をなぞってゆっくりと辿り、顎の下を擽られるとそれ以上言葉が出なかった。

「では、お約束頂いた事も覚えていらっしゃいますね?」

ひゆに言葉を促すように、九鬼は指先で軽く開いたまま固まってしまっているひゆの唇をそっとなぞった。

「私が、素直に……自分の望みを……伝えること、ですか?」

言葉にすると、唇が九鬼に触れられた感触を思い出した。
触れられているのはシルクの指先なのに、じわりとそこから熱が広がっていく。

「ええ、その通りです。それから、こうして私に触れられる事にも慣れて頂かなければなりません、と申し上げましたが……」

静かに話しているだけなのに、耳元で囁かれているような感覚にぞくりと肌が泡立つ。
身体の震えを隠したくて、ひゆは指先が肌にくい込むほど強く自分の手を握り締めた。

「それも、覚えて……います…」

搾り出された小さな声に、九鬼は微笑を浮かべるとゆっくりと一つ頷いて見せた。

「有難うございます。ひゆ様は覚えて頂いけているようですが、こうして身構えてしまわれるのは触れられる事に慣れていらっしゃらないせいでしょうか?」

「……それ、は…」

ゆったりと顎を擽ってから頬へと戻っていく掌の感触。その滑らかな動きを過敏過ぎるほど感じてしまう。
彼に触れられて身構えてしまうのは単純に『慣れていない』という問題じゃない気がする。
こんな触れ方、今まで誰にもされた事なんて無い。

違う、と九鬼の言葉を否定しようとしたが、どうしてか先ほどから口を滑るのは短い単語ばかりで「言葉」というものが出て来ない。

「それは?」

途切れてしまったその先を促して鸚鵡返しに尋ねてくる。
けれど、喉奥に何かが詰まってしまってしまったかのように、その先が続けられなかった。
視線を逸らしたまま、ひゆはきゅっと強く下唇を噛み締めた。

「私に触れられるのがお嫌でしたら、そうさせないようにすれば宜しいのです」

「……え…」

いつもと変わらない、穏やかな口調に一瞬何を言われたのかとひゆは小さく息を飲む。

「そう、させないように……って…」

事もなげに告げられた台詞に驚いて、ひゆは逸らしていた視線を戻して九鬼を見つめた。
整った顔立ちに優しい笑みを浮かべた彼の、その下に隠されている感情までは読み取れない。

(そう、させないようにすれば良いって……そんなの……)

頭の中が混乱する。ぐちゃぐちゃになって、今自分が何を言われているのか判断が追い付かない。
九鬼が言わんとする事が何なのか、ひゆにはまるで分からなかった。
傍に居て欲しいとも、まして九鬼に触れられたいとも思っていない。
いつも強引に仕向けているのは九鬼の方だ。
なのに、触れられたくなければ触れられないようにすれば良いなんて……矛盾しすぎている。

こうして話をしている間も、九鬼の掌はひゆの頬に添えられたままなのに。

「……言われている意味が、良く…分からな……」

「何も難しく考える必要などございません」

困惑に表情を歪めるひゆに、九鬼は普段と変わらぬ微笑を浮かべて見せた。

「ひゆ様が本当にお嫌なのでしたら、一言命じれば宜しいのです。『私に触れるな』と」

「そんな、事……」

九鬼の言葉に、ひゆの目が大きく見開かれる。
本気で言っているのだろうか?触れて欲しくなければ、命じろと。
凍りついてしまったひゆから九鬼はようやくその手を離す。
途中になっていたひゆの足を取り、腫れた部分に響かないよう注意した手つきで履いていたソックスを脱がせた。
大きめに貼っていた湿布薬が意味を成していない程にそこは酷く腫れ上がってしまっている。
けれどひゆには足首の痛みよりも、九鬼の言葉の方が胸を圧迫して苦しかった。

「私は貴女の為だけに使える執事です。ひゆ様が本心から望む事でしたらどんな命にも従います」

静かな室内に響く九鬼の声は、脳へと直接響いてくる。
声音に揺られて、初めて口付けられた時に紡がれた誓約の言葉がひゆの胸に蘇る。

『――貴女が望むなら、全て私が叶えて差し上げましょう』

ドクン、とひゆの鼓動が大きく揺れた。
本当に自分の一言で、彼は何でも従うと言うのだろうか―……?
九鬼に約束させられたとはいえ、あの言葉をひゆはまだ半信半疑のままだった。

「ですが――…」

溢れかえる疑問を胸の内で問い掛けていたが、九鬼の静かな声音がひゆの思考を中断させた。

「それはあくまで、ひゆ様が本心から望まれた場合だけです。本心からの望みでなければ従うか否かは状況に応じさせて頂くつもりです」

ひゆの瞳は九鬼を映したまま呆然と固まってしまう。

「……そ、んな…」

膝に置いていた手を、指先が真っ白になってしまうほど強く握り締める。

「そんなの……私が本心で九鬼さんに何かお願いをしても、九鬼さんがそれを本心で無いと否定したら……何も叶わないって事じゃないですか……」

九鬼の言葉を聞いてひゆは確信する。
いくら優しい言葉を並べられても、ひゆの願うものが九鬼や志堂院家にとって不都合であれば、聞き入れて貰えないのだと。

考えてみれば当たり前だ。
数日前に出会ったばかりの人間の言う事を、血族だという理由だけで鵜呑みにするなんて事自体馬鹿げている。
本心から願えば何でも叶えられるなんて、そんな夢みたいな話は本当かどうかなんて悩む事すら可笑しかったのだ。
ひゆが本心から願ったとしても、その願いを反故にしたければ、九鬼はただ『本心ではない』と否定すれば良いだけなのだから。

ひゆの気持ちは二の次で、本心か否かの判断を下すのは志堂院側にある。
頭の中で反響する九鬼の声に、ひゆの身体が小刻みに震えだしていた。

「……最初から、私の話しをまともに聞くつもりなんて、無かったんでしょう……?」

滑り落ちた声は、自分でも聞いたことが無いくらいに低く掠れて重かった。

「いいえ、誓ってそのような事はございません。ひゆ様が望まれるのでしたら、私は何でも致します」

九鬼の声が……言葉が、痛い。
優しく響くテノールが、今は胸を深く突き刺してひゆを痛め付けた。
どうしてこんなに痛いのか、その理由は分からないまま。
顔を隠すように俯いてひゆは強く首を左右に振る。

「何でもするなんて簡単に言わないで下さいっ!」

静かな空間にひゆの声が一際大きく響く。
九鬼の言葉も、この痛みも、感情に振り回されている自分も、何もかも否定してしまいたかった。

「数日前に逢った人間の言っている事が、どうやって本心かどうかなんて見極めるんですか!?私の事……何も知らないくせにっ……!」

頭で考えるよりも先に声を荒げて口走る。
溢れ返る感情が身体の中に納まりきらなくて、何かにぶつけてしまい衝動が今のひゆを支配していた。
ガンガンと頭の中で響く割れるような不快音が鳴り止まない。

「……何も、知らないくせに……っ」

感情のまま叫んだ喉がひりひりと焼け付いて痛い。
強く握り締めた手は膝の上で小刻みに震えていた。
自分をこんな風に突き動かしているのが何なのか、考えようにも気持ちが落ち着かなくて収集が付かない。
身体を強張らせたまま、ひゆは俯いて視界を閉ざした。

もう何も考えたくない。
この苦くて落ち着かない気持ちのやり場を教えて欲しい。

九鬼の言葉も、相続の話も……全部聞かなかった事にしてしまえたら、今よりはずっとマシになれるだろう。

固く握り締められているひゆの手にそっと何かが重なる。
ぴくりと震えたが、ひゆはそれを振り払う事はなかった。

「……ひゆ様のおっしゃる通り、私はひゆ様の全てを知っている訳ではありません」

九鬼を避けて俯いたままの九鬼に、静かなテノールが言葉を綴る。
熱いものでぼやける視界に、重なる九鬼の手が見えた。包み込む手に少し力が篭められる。

「知らないからこそ、ひゆ様の全てを知りたいと思っております。可能な限りひゆ様のお傍にお仕えして、どんな些細な事でも、ひゆ様に関する事でしたら何でも」

今この時でなければ、この言葉にも自分は揺れてしまっていたのだろう。

「……私が、そうして欲しくないって言ったら? この屋敷に居るのが嫌で、出して欲しいって言ったら、九鬼さんは叶えてくれるんですか?」

俯いたまま、答えの予想出来る問い掛けをぽつりと口にする。

「……申し訳ありませんが、その願いには従う訳には参りません」

(――…やっぱり……)

思った通りの答えだ。
丁重な否定の言葉に、分かりきっていたとはいえ胸が軋んだ音を上げる。

九鬼はただ、自分をこの屋敷に留めておきたいだけだ。
彼自身の意思とは考えにくいから、きっとそうするように上から命じられて従っているだけだろう。
ひゆがこの屋敷に留まるなら多少の我が儘は叶えて貰える、九鬼の言う『望みを叶える』というのはそんなレベル。

(何を、期待してたんだろ……)

胸の苦しみや落胆を感じるのは、無意識に九鬼の言葉に何かを期待していた自分がいたせいだ。
九鬼が自分の命じた事に従って仕えてくれると言った言葉を聞き止めてしまったから――…。

もっと冷静にならなければいけなかった。
あの人と居た時のように、どうして感情を閉ざして何も受け入れないままで居られなかったのか。
ひゆの唇から溜め息が零れ落ちる。それは酷く淀んで重たく感じられた。

「ひゆ様」

声を掛けられても、俯く顔は上がらなかった。
もうこれ以上、自分に関わって欲しくない、その意思を込めてのささやかな反抗心。

「ひゆ様」

けれど、所詮は子供じみた抵抗でしかなく、俯いたまま顔を上げようとしないひゆに、九鬼は両手をひゆの頬に宛てると少し強引に顔を上げさせた。

「……っ…いや……」

振り払おうと手を上げる。

「全てを知らない内に目を背けるのはお止め下さい」

「……っ…」

初めて聞く九鬼の強い口調にビクリと身体が震えて、上げた手がそのまま硬直してしまう。
静かだったが、放たれた言葉は穏やかな雰囲気は微塵も感じさせない。
九鬼の声が怖いと、硬直するひゆの表情に怯えが滲む。

上げた腕が糸の切れた人形のようにぱたりとソファーの上に落ちた。
息も詰まりそうな、至近距離でお互い見つめあったまま時間が流れていく。
真っ直ぐに注がれる黒曜石の双眸がぼやけて焦点があわない。

「……申し訳ありません少し言葉が過ぎました。ですが……私の話をもう少し聞いて頂きたかったもので……」

トーンを落とした口調と共に、少しだけ視線を外された。
九鬼の表情が何処か痛みを抱えたように歪む。どうして彼がそんな顔をするんだろう?

それよりも、今の自分はきっととてもみっともない顔をしているんだと思う。
歪んで、他人に見せられないような情けない顔に。
ぼやける視界が酷く、熱いものが今にも零れてしまいそうだった。

「ひゆ様がこちらの御屋敷に留まるのが本当にお嫌なのでしたら……他に居たい場所があるのでしたら、ひゆ様の望む通り、その場所での生活が出来るよう努めさせて頂きます」

「でも……私が帰りたいって言っても、聞いて、くれなかったじゃ…ないですか……っ」

喉が引き攣って言葉が途切れ途切れになってしまう。
ひゆをこの屋敷に連れて来て、部屋に閉じ込めている張本人のくせに。

「本当に行きたい場所があるのでしたら、いくら私共が居たとしてもこの御屋敷から出て行こうとするなりもっと抗議するなり、手段はいくらでもあった筈です」

指摘されて一瞬言葉が詰まる。
出て行こうと思えば、九鬼が言う通りこの部屋を飛び出して広い屋敷から逃げだせたかもしれない。
部屋に鍵を掛けられていた訳ではない。出入りは容易に出来ただろう。

でも、そうさせなかったのは……。

「……そうかも、知れないですが……私の居場所は此処しか無いって、あの弁護士さんが……」

耳に残っている冷徹な口調を思い出して、また胸に広がる苦味が濃くなった。
あんな風に言われてしまったら、何も分からない自分の立場では大人しくしているしか選択肢は残されて居ないだろう。
下手に動いて、最悪の場合何か酷い目に逢わないという保証は無い。
どんなに不本意でも、無謀な行動に出なかったのは自分を守る為だ。

それなのに――…!

「……出て、行かないかったのを、ッ……そうしなかった…私のせいって……っ」

そんな言い分、酷過ぎる。
視界をぼやけさせていたものが、瞳から溢れて零れ落ちる。
まるで胸の苦味が溢れ返って落ちていくようだった。

「私はひゆ様に申し上げた筈です。貴女が望むのでしたら何でも叶えて差し上げると」

触れていただけの掌がゆっくりと頬を撫で摩る。
頬を濡らす透明な筋も指先が丁寧に消していく。
優しい感触の筈なのに、どうしてこんなに胸を痛くさせるのか。

「義永様が此処にしか居場所が無いと言っておられても、ひゆ様が他の場所を望まれるのでしたら、私がそこへお連れ致します。誰が何と言おうと……それがこの御屋敷の御当主であったとしても」

凛とした声音が心の中に直接響く。
九鬼の声音以外、一切の音が断たれた。頭に響いていた不快な音も全ての音が消えてしまう。

「……当主、でも……?」

驚きに大きく見開かれた瞳は、スウ……っとクリアな視界を取り戻す。

「私がひゆ様に申し上げる「何でもする」という意味はそういう事です。私は、貴女の為だけに仕えると申し上げたあの瞬間から、ひゆ様のモノとなりましたから」

九鬼の顔から、言葉を紡ぐ口唇から視線が外せない。
今、彼は何て言った……?

(――九鬼さんが、私の、モノ――…?)

九鬼を見つめたまま、ひゆは濡れた睫を何度か瞬かせる。
混乱した思考は遂にショートして機能を停止してしまった。

「貴女だけの命に従うと言っているのに、どうしてこの屋敷から出るのは駄目なのか。そこに疑問に思われていらっしゃいますか?」

尋ねられてひゆは素直にコクリと頷いた。
ひゆが望まなくても九鬼は自分の願いに従ってくれると言っているのに、実際には願っても叶えて貰えない。
それなら、最初から自分に「従う」なんて言わないでいて欲しいと思う。

「此処に初めてお連れした時にひゆのご様子を拝見させて頂いて、当然ながら知らない場所という不安はお持ちだったように見受けられました。ですが、不安はあっても特に抵抗されているご様子では無かったかと」

「最初に、言いました……行きたく無いって……」

無理矢理車に乗せて連れて来たのは、九鬼さんでしょう?
血筋や相続の話をして、この屋敷に留まるよう仕向けているのも。

「数日の間に一度でもご自分から部屋を出て、御屋敷のエントランスを出た事はございましたか? 敷地内に警備員はおりますが、ひゆ様には監視も何も付けておりません。勿論、私もずっとお傍について居ませんでしたので、お一人で行動する機会はいくらでもあったかと」

「だから、それは……っ!」

「申し訳ございません……行動しなかったのを悪い、と責めているのではありません。ですが、ずっと部屋で大人しくして頂けたのは、義永様の言葉のせいだけでしょうか?」

九鬼はひゆの頬に添えていた手を離すと、しゅるりと小さな音を立ててシルクの手袋を両方抜き取る。

「この御屋敷から出て行きたいと言われますが、ひゆ様にとってはこのお屋敷もご自身が過ごされた家も……そう変わらないと思ってはいらっしゃいませんか?」

「……っ…」

その言葉にドクンっと鼓動が大きく跳ね上がった。
思っていた事をさらりと言葉にしてしまう九鬼に驚き、ひゆの瞳が大きく見開かれる。
九鬼は漸くその表情を穏やかに変えてふわりと微笑した。

「ひゆ様は、周囲にあまり関心を持たれていらっしゃらないようですが、単に無関心というよりは、あえて無関心でいようとしていらっしゃるように私には見えます」

「そんな……事……」

「この御屋敷を出て行かなかったのは、周りに流されていれば楽だと、そう思われていたから出て行かなかったのではありませんか? 大人しく従順に従っていればそれで良いと」

九鬼は腕を伸ばすと、ひゆの髪に指先を絡ませて優しく撫で下ろす。
さらさらと零れる髪を何度も何度も優しく撫でる指先は、固く絡まりあった想いの糸を少しずつ解いていくようだった。

「ひゆ様がご自身の強い意志でこの御屋敷を出られたいと思われるなら、私は幾らでもお力添えを致します。しかし、漠然とただ此処を出たいと言われているのでしたら、ひゆ様の今のお立場上、みすみす危険に晒すような真似は致しません」

どうして彼がこの場に自分を留めているのか、そのはっきりとした理由を聞いてコクリと喉が鳴った。

心がまた、揺れる。
どんなに硬い壁で心を覆っても、九鬼の言葉と視線はその壁をさらさらと砂のように崩してしまう。

本当に、自分はどうしてしまったのか……。

「取り繕われた上辺だけの言葉や態度に興味は有りません。ひゆ様ご自身が押さえ込まれている本当の貴女自身に、私はお仕えしたいのです」

毅然とした態度ではっきりそう告げる九鬼の凛とした声が胸に強く響いた。
先ほどまで頭で鳴り響いていた不快な雑音ではなくて、ストンと胸の奥に落ちてきた言葉。

髪から滑り落ちた九鬼の掌が、膝の上で握られたままのひゆの手に重なる。
触れ合う肌からじわりと温もりが伝わり、握り締めて小さくなっている手を九鬼の指先が一つずつ丁寧に強張りを解いていく。

「本当も何も、今の私が……私です…」

九鬼の言う『本当の私』なんて知らない。
知らなくて良いとずっと思い続けていたから、周りにも自分にも気に留める事なんて何も無かった。
今までも、これからもそれは変わらず続くものだと。

「私が、お教え致します」

握り締めて真っ白になっていたひゆの指先に血の気が戻っていく。
掌に食い込んだ爪先が残した幾つもの鬱血を、九鬼の指先が優しくなぞった。
震えとは違う微細な痺れが肌を包む。

「ひゆ様が分からないのでしたら、少しずつ私がお教え致します。閉ざしてしまっている感情も、全てを」

優しく囁かれる言葉に、胸の内へと暖かなものが注がれていく不思議な感覚。
さっきまで拒んでいた気持ちに嘘は無いけれど、差し伸べられているものに手を伸ばしたいという気持ちが芽生え始めている。

こんなにあっさり信じて良いのだろうか?

一時的な迷いに揺れて、彼の囁く言葉に耳を傾けてしまっても。
ひゆの中で自問自答の葛藤が繰り返される。
自分は、どうしたいのか……それすら見付からないのに迷いだけがただ肥大していく。
気付けばまた視線を伏せてしまって、自分の手に重なる九鬼の大きな手を見つめていた。

「……委ねて頂けませんか? 少しだけでも、私に」

もう一方の腕が伸びて、俯くひゆの顎にそっと指が掛かる。

「想いを殺してしまうのではなく、ちゃんと言葉にして伝えられるようにして差し上げたい」

「ぁ……」

また無意識に唇を噛んでしまっていたらしい。
噛み締めていた唇を離させ、九鬼の指先が赤くなってしまった唇を優しく擽って撫でていく。
最初にされた時の以上に、甘やかなものが込み上げてくる。

「……でも、私……」

踏み出す勇気が出ない。
あの人の時のように、痛い想いをするのは嫌だった。もう、あんな哀しくて辛い気持ちは味わいたくない。

「いきなり、全てを変えようとされなくても、ご自身のペースで少しずつ変えていかれれば宜しいかと。ひゆ様が嫌だと思われる事でしたら、それは無理に変えなくても宜しいのですから」

九鬼の見せる穏やかな笑顔にほんの少しだけ前に進む力を貰う。
どうすれば良いのかまだよく分からないけれど、進めば何かが変わるかも知れない。

(自分の籠から、外に出なきゃ……何も変わらないんだ……)

この屋敷の事も、相続の事も、立ち向かうには自分の意思でしっかりと立たなければならない。

「……九鬼さんに、迷惑を掛ける…かも……」

不安に思って小さな声がぽつりと零れる。

「私の主のなされる事に、迷惑などというものはございません」

重なっていただけの九鬼の手が、きゅっと軽くひゆの手を握り締める。
この手を取っても、本当に……良いのだろうか?
自分自身でもよく分かっていないのだ、気付かないうちに九鬼に迷惑を掛ける事だって出てくるだろう。

「面倒臭いですよ、きっと……」

「寧ろ、それくらいの方がお仕えしがいがございます。私を困らせるくらいに、沢山我が侭をおっしゃって下さい」

優しい口調で笑みを零しながら、握っていた手に指先を一つずつ絡ませて先ほどよりもしっかりと手に力を込められる。
掌からの温もりが伝染してしまったみたいに、ひゆは自分の顔がほんのりと紅潮するのを感じた。
ひゆの中での九鬼という人間がどういう人なのか、まだ正確な位置付けは出来ていない。
物腰も口調も柔らかくて、ひゆに色々と気遣いをしてくれているけれど。

(さっきみたいに、ちょっと怖いような感じもするし……。それに、あの事も……)

その戸惑いが、重ねられた彼の手を握り返すのを躊躇わせていた。

「何か、思い詰めていらっしゃるようなお顔ですね」

「私……九鬼さんが、よく分かりません…。私が屋敷を出て行かなかった事とか、触られたくないなら命令すれば良いなんて言うのに……」

そのまま、握られている手に視線を落とす。
彼の言葉は矛盾だらけで、どれが本心なのか分からなかった。
触れられたくなければそう命じれば良いと言う一方で、どれだけ触れられれば慣れるのかと問われる。

「申し訳ございません。ひゆ様を悩ませるつもりは無かったのですが、御屋敷を出て行かれるかどうかのお話も、私への命についても、全てはひゆ様のお気持ちを量る為に申し上げました」

気持ちを、量る――?

「お気持ちを逆撫でするような話しをしたのは私の非礼です。ですが、ひゆ様が心の内に押し留めてしまっている声を少しでも聞きたかったので……」

「それじゃあ……」

わざとあんな風に話したと、九鬼は謝罪と共に頭を下げた。
一つ一つ、九鬼の言葉にちゃんと耳を傾ければ、彼の言葉も行動も全てがひゆを主体として成されている。
まだ全てを受け入れた訳じゃないけれど自分が望むものへ進めるよう、手を差し伸べてくれるなら。

自分の気持ちの動きを伝えるように、指に絡む彼の手をひゆはほんの少しだけ指先に力を入れて握り返した。

「……本当に、私が触らないでって言っていたら、九鬼さんはどうしていたんですか?」

言葉通りならば、九鬼は自分に一切触れずに仕えるつもりだったのだろうか?
どう答えるのか表情を伺いながら静かに見つめていると、九鬼は笑顔のまま更に強くひゆ手を握り締めた。

「その答えは私の中では論外でしたので「触れて欲しくない」と言われた場合にどうするかは、考えておりませんでした」

見惚れてしまうほどの綺麗な笑顔で告げられて、ひゆは言葉を無くして呆然としてしまった。

「……考えて無かった、んですか?」

「はい。必要有りませんでしたから」

事も無げにその上笑顔であっさりと言われてしまい、尋ねたひゆの方が逆に焦ってしまった。
答えを考えていなかったと言う事は、お願いしていても却下されてしまうと言う事だろうか?

折角気持ちに整理が付きそうだったのに、九鬼の一言でまたさっきのように頭が混乱してしまう。
九鬼の答えをどう解釈すれば良いのかと悩むひゆの目の前で、クスリと小さく笑う気配がした。

「……?」

「失礼致しました。何を悩んでおいでなのか、何となく想像がついたもので」

まるで人の心の中を見透かすような口振り。
自分の反応を笑われたのが恥ずかしくなって繋がれていた手を解こうとしたが、九鬼の指がしっかりと絡んでいて指一本外せない。
軽く睨むように見れば、九鬼は何処となく愉しそうな表情を浮かべていた。

「……何で笑ってるんですか?」

「ひゆ様の反応が可愛らしいからですよ」

笑いながら可愛いだなんて言われても、からかわれているようにしか聞こえない。

(……九鬼さんに遊ばれてる?)

九鬼に何かされる度に反応を返す自分を見て楽しんでいるんじゃ……と、疑ってしまいそうになる。
無理に抵抗すれば余計に楽しませるだけのような気がする。
外すのは諦めて捕まれている手から力を抜くと、反抗の意を込めて九鬼から視線を逸らした。

「……可愛くなんてないです」

「とても可愛らしいですよ。そうやって拗ねたお顔も」

言葉と共に大きな掌が頬の輪郭を緩やかに滑った。
もう何度も触れられているのに、暖かな感触にピクリと身体が震えてしまう。

「ひゆ様にこうして何度も触れておりますが、本当にお嫌でしたら言葉にされなくともお顔に出していらっしゃるでしょうから」

(そんなに顔に出してる……?)

他人から冷めた人間だと思われているのは気付いていたし、自分でも表情の変化は乏しいと思っていたのに。
顔を上げれば、変わらず優しい笑顔でこちらを見つめる九鬼の目とぶつかった。

「私、そんなに分かりやすいですか……?」

「そうですね……誰が見てもすぐ分かるというわけでは無いでしょうが、私の場合は人よりもそれが良く見えるといった感じでしょうか」

ああ、それなら納得が出来る。
執事という仕事がどれ程のものか想像はつかないけれど、これまでの九鬼の行動や所作を見る限りでは、普通の人では見落としてしまいそうな細かい所にまで配慮されている。

彼ほどなら人の表情から気持ちを酌み取るくらい造作もないだろう。
数日過ごした間に、自分でも気付いていないような癖とかも知られていそうで、余計に恥ずかしい気がしてくる。
ひゆの眉が困ったように寄せられ、目元がほんのりと赤らんだ。

「……あんまり、見ないで欲しいです」

「それは難しい注文ですね、自分の主人を見ずにお仕えするというのは。私に見られるのもお嫌ですか?」

鼓膜を擽る声は優しくて心地良い。
じっと見つめられながら言われてしまうと、それ以上嫌だと言い難い。
頬を撫でていた手がぴたりと止まり、少し力を加えて九鬼の方へと向かされた。
何処までも深い、吸いこまれていくような漆黒の双眸に縫い止められて、身体の自由が奪われていく。

「見られるのも、触れられるのも……ひゆ様は本当にお嫌ですか?」

耳元に唇を寄せて、甘さを含んだテノールがそっと囁くように問いかけてくる。
吐息が耳朶と首筋を掠めて、寒気とは違った震えが皮膚を撫でるのに、キュっと軽く首を竦めた。
そんな風に聞いてくるのは……ズルい。

「ひゆ様?」

甘い声で名前を呼ばれるのもこうして優しく触れられるのも、どうして良いか戸惑うけれど嫌じゃ無かった。
けれど、触れられて甘やかされる事に慣れてしまったら……何か勘違いしてしまいそうで。

ひゆが嫌だと思っていないのを感じ取っていたから、九鬼は「触るな」という命令に対する答えを用意していないと言ったのだろうか。
分かっていながら、ひゆが『嫌じゃない』のを言葉に出させて意識させようとするのだから、意地が悪い。

「急に触れられたりするのは……困ります」

素直な気持ちを吐露する。
どうすれば良いか困ってしまうのは本当だったから。

「嫌か、そうでないか。どちらかでお答え頂けますか?」

曖昧な答えは即座に一蹴されてしまいひゆは軽く息を飲んだ。
丁寧だけれど有無を言わせない口調で更に強く問われる。
心なしか、先程よりも彼と向かい合う距離が縮まっている気がした。
答えない限り逃がしては貰えそうにない雰囲気に嫌でも身体は硬直してしまう。

「嫌、じゃ……ない、です」

ひゆは観念して、絞り出すくらいの小さな声でそっと告げた。
同時に、目の前に居る彼の表情が今まで以上に甘く優しいものへと変わった。
優しいながらもどこか艶やかさを含んだ綺麗な笑顔。
九鬼の笑顔があまりにも綺麗過ぎて、彼を見つめたままひゆの呼吸が止まってしまった。

「お言葉を頂けて安心致しました。ひゆ様には少しずつ慣れて頂けるようこれからも務めさせて頂きます」

「え、あ……っ」

軽く引き寄せられたかと思うと、ふわりと身体が浮き上がる。
ぼうっとしてしまっていたせいで、我に返った時にはひゆの身体は軽々と九鬼の腕に抱き抱えられてしまっていた。

「九鬼さん……っ」

「話を長引かせてしまい申し訳ございません。すぐに捻挫されている足首を診ますので、もう暫くご辛抱頂けますでしょうか」

(脚……忘れてた……)

九鬼との会話にすっかり引き込まれてしまって、捻挫していたのが頭の中から抜け落ちていた。
意識すると急に痛みがぶり返して、膝のあたりまでズキズキとした痛みが上ってくる。

でも、この部屋に連れられて靴を脱いだのにどうして急に抱き上げられたのか。
てっきり此処で何か処置をされると思っていたひゆは、間近にある九鬼の横顔をそっと伺った。
これから病院にでも連れて行かれるんだろうか?

「……あの、九鬼さんが診てくれるんじゃ無かったんですか?」

脚は痛むけれど、病院に行くほどじゃ無い気がする。
不安を滲ませたひゆの声にも、九鬼は足を止める事無く真っ直ぐに廊下を進んでいく。

「ひゆ様の脚は私が診させて頂きますよ」

「じゃあ、何処に……」

「湿布を取り替えますので、替えのものを取りに」

(湿布を、取りに行くだけなら――…)

ひゆを連れて行かなくとも九鬼が取りに行って部屋に戻って来るだけ良いはずだ。
わざわざ自分を連れて行くよりも、九鬼が一人で行って戻って来る方が早いし手間も掛からない。

「私、部屋で待ってますから、降ろし……」

どうにか九鬼を止めて降ろして貰おうと口を開くが、全てを言い終わらないうちにひゆの言葉は遮られてしまった。

「今はひゆ様のお傍を1秒でも離れたくありませんので、どうかこのままで……」

「……っ…」

少し頭を屈めた九鬼の唇がひゆの小さな耳朶に触れるまで寄せられる。
甘い希求は掠れた吐息と一緒になって耳殻を擽り、鼓膜を甘く震えさせた。
身体の芯を擽られるような、艶を秘めた低い声音にぞくりと身体が震える。

思わず漏れそうになる声を、ひゆは咄嗟に飲み込んで唇を引き結んだ。

(……心臓、煩い)

トクトクと早い鼓動を刻む心音はさっきからずっと胸を叩いて、収まるどころか九鬼のせいで余計に酷くなってしまった。
熱を上げる顔も一向に納まってくれない。
九鬼はひゆを離してくれる気はなさそうで、せめて顔くらいは隠そうと彼の胸元に額を押し当てて顔を伏せた。

顔を伏せていても、耳とほんの少し覗く項が薄らと赤く染まっているのが九鬼の瞳に映る。
彼の口元が微かに綻んでいるなんて、ひゆは気付かない。

腕の中で大人しくなったひゆの身体をしっかりと抱き直す九鬼は、変わらぬ足取りで目的の場所へと向かった。
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