モノクロォムの硝子鳥

ヒソリ

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08.来訪者

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教室への階段を昇る途中、踊り場に小さな人だかりが出来ているのに気付いてひゆの足が止まった。
踊り場からその下の階段数段にかけて、ざっと10人くらいの女子生徒が楽しそうに笑い声を上げて喋っている。
話に夢中で授業開始の予鈴が聞こえなかったのか、誰一人として教室へ戻ろうという気配が無い。
よく見れば、彼女達の中心に一人だけ男子生徒が混じっていて、彼を囲むように小さな輪が出来ていた。

他の生徒が階段を通り抜けようとしても、彼女達が階段を塞いでしまっているせいで壁際の狭いスペースしか通れず、何人かが迷惑そうに彼女達を見ている。
それにも気付いていないのか敢えて無視をしているのか。一向に譲る気配は無かった。

「……あ…」

隣で辻本が小さく呟く声。
何だろうと辻本の顔を見れば、急に手を捕まれて軽く引っ張られた。

「ひゆちゃん、授業遅れるから早く行こう」

「あ……っ」

歩いても授業にはまだ間に合う時間なのに、辻本に手を引かれるまま足早に階段を昇っていく。
人だかりの出来ている所を通り抜けようとした時、呼び掛ける声が聞こえた。

「辻本君」

声の元へと視線を向けると、女子生徒達に囲まれていた男子生徒がひゆ達を見ていた。
辻本の足が止まりひゆの手を掴む手が僅かに震え、離れた。
周りにいる女の子達も一斉にこちらに振り向き、不躾な視線を投げつけられる。

(……辻本さんの、知り合い?)

「久しぶり。暫く見なかったけど元気だった?」

話しかけられても返事どころか辻本は振り向きもしない。
辻本が様子が気になり、どうしたんだろうと顔を上げようとした時―――。

――ドンッ

肩に何かが当たる衝撃。ひゆの身体がグラリと大きく後方へ傾く。

「―――……あッ……!」

咄嗟に態勢を立て直そうと脚に力を入れるが踏み止まれない。
繋がっていた辻本の手は驚いた拍子に離れてしまう。

(落ちる……っ!)

階段途中の壁側、手摺からも遠い位置では掴むものが何もない。
背中から落ちていく恐怖にひゆはギュっと身体を強張らせた。
視界を閉ざした瞬間、背中掛かる衝撃に一瞬胸が詰まる。
しかし、固い所にぶつかるというよりは幾分柔らかで、身体に感じた衝撃は想像していたよりも軽かった。

(……どう、なったんだろう――)

予想していたものと違う感覚に、ひゆはキツく閉ざしていた瞼を恐る恐る上げる。
目に映ったのは、階段に少しだけ乗っている自分の靴先と、身体に回された知らない腕。
状況が掴めなくてひゆは呆然としてしまう。

「……大丈夫か?」

不意に、自分の耳元で静かな声が響いた。

(――…え……?)

声につられて足先からゆるゆると視線を上げれば、自分を背後から覗き込む男子生徒の顔があった。
見覚えの無い顔。さらりとした黒髪に整った綺麗な顔立ち。
シルバーフレームの眼鏡の奥には、静謐とした感情の見えない瞳がひゆの顔を映していた。

(誰だろう……)

ぼんやり見上げて何も言わないひゆに、相手は僅かに眉根を寄せた。

「何処か打ったのか?」

聞かれて、止まっていた思考が少しずつ回り始める。
何かがぶつかって、階段から後ろに落ちて――……そういえば身体の何処も痛くない。
良く見れば辻本の立っている位置から数段しか落ちていなかった。
回されている腕がひゆの身体を後ろから抱き留めるように支えているのを見て、助けられたのだと漸く頭が理解した。

「……いえ…、どこも…」

「大丈夫ならいい。立てるか?」

背中に手を添えられながら自分の足でしっかりと立つ。
乱れたスカートを直す時、足元に続く十数段の階段を見て一瞬背筋がゾッとした。

(あのまま落ちてたら……――)

あのまま落下していたら、間違いなく軽症じゃ済まない。
打ち所が悪ければ最悪の事態も想定出来る。

「大丈夫っ!? ひゆちゃん…っ!!」

名を呼ばれてはっと我に返る。
駆け寄った辻本がギュッと腕を掴んで心配そうにひゆの様子を窺っていた。

「ひゆちゃんが急に後ろに落ちるんだもん…っ! 心臓が止まるかと……っ」

「無事で良かった」と繰り返しながら、辻本はひゆの背中を撫でさする。
それまで聞こえていなかった音が急に耳に届き、ひゆを取り囲むように周りは騒然とした雰囲気に包まれていた。

「あっ……」

(そうだ、お礼……!)

階段から落ちかけたのを助けて貰ったお礼をまだ言えてない。
助けてくれた相手の姿は既に近くには居なかった。
何処に行ってしまったのかと周囲を見回せば、他の生徒より頭一つ分高い彼の姿は群がる生徒達の間をすり抜けて、廊下の奥へと消えたところだった。

「待っ……!」

「何騒いでるんだ、お前達っ! 本鈴はとっくに鳴ってるんだぞ、さっさと教室に戻れっ!」

突然響いた教員の怒鳴り声にひゆの声は掻き消され、生徒達のざわめきが鳴り止む。
男性教員が声を張り上げて群がりに割り込んで、まだその場に張り付いていた生徒達を教室へ戻るよう追い立てていく。
ぞろぞろと教室へ戻りだす生徒達の中に相手の姿は紛れてしまい、いつの間にか相手の見えなくなってしまった。

(どうしよう、誰だったのか分からなくなっちゃった……)

「ひゆちゃん、教室戻ろう?」

人気の少なくなった階段で立ち尽くしていたひゆに、そっと辻本は声を掛けて教室へと促してくれる。
いつまでもそうして居られないと諦めて、彼が消えた先をもう一度見た後、辻本と一緒に階段をゆっくり昇り始めた。

「辻も……あの、……結菜」

「何?」

「さっき助けてくれた人……見た事ある?」

もしかしたら辻本なら知っているかもしれない。
ほんの少し期待を込めて聞いてみたけれど、辻本は考える素振りを見せてからすぐに小さく首を振った。

「ごめん、見覚えないや。さっき助けて貰った事?」

「うん……お礼、ちゃんと言えなかったから」

表情を曇らせてぽつりと零すひゆに、辻本は軽くぽんぽんと肩を叩く。

「同じ学校だし、きっと何処かですれ違うよ。その時にでもお礼は言えるし。折角助けて貰ったのにそんな風に落ち込んじゃ相手が可哀相だよ?」

励ましてくれるその暖かさに気持ちを浮上させて「そうだね」とひゆは頷き返す。
学年もクラスも何も分からなかったけれど、同じ学校に居るのだからそのうち逢えるだろう。
今度逢えたら、ちゃんとお礼を言おう。思いを胸で噛み締めて相手の顔を忘れないように脳裏へと焼き付けた。


----------


放課後。
6限目の授業を終えて帰り支度をしていた時、ふと右足に違和感を覚えてひゆは足元を見下ろした。
右足の踝の少し上のあたり。
気になるその部分に手を伸ばして触れてみると軽く指先で触れただけでツキリと痛みが走る。
素足に触れ無くても分かるほどに、そこは熱を持っていた。

(……あの階段の時かな)

思い当たるのはそれしかなく、軽く足首を振ってみるとその痛みは膝上まで走って、ひゆは僅かに顔をしかめた。
授業中は特に何も感じなかったのに、時間が経ってから症状が現れたのか。
階段での出来事は「落ちなかった」事ばかりに気を取られていたが、あの時踏み止まろうとして変な風に捻ってしまったのかもしれない。

一度気になってしまうと、足首のあたりがじくじくとした痛みを訴えだす。
我慢出来ない痛みではなかったが、このまま痛みが酷くならないかと少し不安になる。
図書室に寄ってから帰ろうと思っていたが、先に保健室に寄って湿布薬を貰いに行く事にした。

「ひゆちゃん、帰るの?」

片づけをしている途中、辻本に声を掛けられた。

「うん、図書室寄ってから帰るよ」

保健室に行く事を言えば余計な気を回させてしまいそうで、そこは辻本には伏せておく。

「あ、そっか。ひゆちゃんって部活やって無かったよね」

「残念」と呟く彼女に、何が残念なのかとひゆは不思議そうに首を傾げる。

「ひゆちゃんと一緒に帰れたらなーって思って。今度、私の部活が無い日に一緒に帰ろうね」

笑顔で言う辻本にひゆは一瞬戸惑ってしまった。
そう言えばこの学校に通うようになってから、誰かと一緒に下校したのはいつが最後だっただろうか。
一人で行動するのが当たり前になっていた自分にとって、何でもない事のように言われると妙な違和感を覚えてしまう。

「……じゃあ、今度」

「うん、また明日!」

辻本はにっこりと嬉しそうに笑って返事をすると、バイバイと手を振って他のクラスメイトと一緒に教室を出て行った。

(……学校の途中まで車で送り迎えに来て貰ってたら……一緒に帰れないかな…)

学校近くまで送迎して貰っている立場では一緒に帰るのは難しいかもしれない。
辻本と一緒に帰るのはその時になったら考えよう。

普段よりもゆっくりと、痛む足を庇うようにして歩く。
辿り着いた保健室の扉の前、伸ばしかけた手よりも先にガラッと扉が開いた。
驚いて手を引っ込めたひゆの前には保健医の女性が立っていた。

「あっ……と、ごめんなさい。どうしたの?」

何処かに出掛ける所だったのか、保健医の腕にはいくつもの資料が抱えられている。

「すみません、足を捻挫したみたいで。湿布か何か貰いたいんですが……」

「捻挫?ちょっと待ってて、診てあげるから」

保健医はそう言って踵を返すと保健室の中へ戻って行く。ひゆもその後に続いて保健室に入った。
普段嗅ぎ慣れないアルコールや薬品の匂いのする室内は何だか落ち着かない。

「そこの椅子に座って。捻挫した方の足は靴下も脱いでね」

指示を出しながら近くの机に資料を置くと、保険医は薬品棚から湿布薬を取り出した。
椅子に腰を降ろして靴を脱ぐと、歩いていた時よりも強い痛みが走った。
足首の部分は掌の大きさほど赤くなって腫れてしまっている。

「随分大きく腫れてるわね。それだけ赤くなってたらかなり痛いでしょう?」

大きな湿布薬の入った袋を手に戻って来た保険医は、少し屈んで赤く腫れ上がった患部を見つめた。

「とりあえず湿布は応急処置だけど、痛みが酷いようならいちど病院に行った方が良いわね。足首は動かせる?」

「動かすと刺すような痛みが少し。……歩く時は、体重を掛けると痛みが強いです」

患部の大きさに合わせて湿布に鋏を入れる音が静かに響く。

「……あの、先生」

「何?」

「さっき、何処かに行く所だったんじゃ無いですか?」

机に置かれている資料に視線を向けながら、気になっていた事を尋ねてみた。
保険医は「そうなのよね」と言いながら、切った湿布の大きさと赤く腫れている部分とのサイズが合うかどうか翳して確認をしている。

「4時から職員会議に出なきゃならなくてね。もう時間が押しちゃってて……」

保健室の壁に取り付けられている時計を見上げれば、会議の時間から10分も過ぎていた。

「あの、後は自分で出来ますから先生は会議に行って下さい」

ひゆは湿布を受け取ろうと手を伸ばす。

「そう?大丈夫?」

「はい。湿布を貼るだけですし、終わったら直ぐに帰りますから」

「じゃあ……お願いしても良いかしら?使い終わったものはそこの銀のトレイに入れて貰える?」

壁際のテーブルの上に絆創膏やガーゼを入れた瓶が銀のトレイの上に整えられている。
小さな怪我なら生徒が自分でも手当て出来るように置かれている物だった。

「分かりました、ちゃんと片付けておきます」

「悪いわね、有難う。でも、痛みが酷くなるようなら早めに病院で診て貰いなさいね?」

ひゆに湿布と固定用のテープを渡すと、保険医は置いていたファイルの束を抱えて保健室を出て行った。
扉が閉まると、途端に室内は静けさを増す。
窓の外では校庭で部活に励む生徒達の元気な声が響いていて、静かな保健室の中にも届いた。

同じ学校の中なのに、こんなにも静寂に包まれているひるの居る場所が他から切り取られているような錯覚を覚える。
早く終わらせて帰ろう。ひんやりとした湿布を赤く腫れた足首にそっと重ねた時だった。

「――失礼します」

突然、閉められたばかりの保健室の扉がガラっと開いた。
自分の足元ばかりに気を取られていたひゆは、その音にビクリと肩を揺らして大げさなほど驚いてしまう。
扉へと視線を向ければ、男子生徒が室内に視線を巡らせていた。

(――…あれ、あの人……)

保健室に現れたのは、今日の昼間、階段で辻本に声を掛けた男子生徒だった。
あの時はちゃんと見ていなかったので気付かなかったが、襟元に3年生の学年章が見える。
保険医を探しに来たのだろうかと考えていると、保健室を見回していた相手がふとひゆに視線を止めた。

一瞬、目が合ってしまったがひゆは慌てて視線を逸らすと、中途半端になっている自分の右足の手当てに戻った。
早く手当てを済ませて保健室を出よう。

「……君、今日の昼休みに辻本と一緒に居た子だよね?」

相手も自分の事を覚えていたらしく、入口から離れるとひゆの傍へと近寄って来た。
話掛けられてしまえば無視も出来ない。湿布をテープで固定し終えてからひゆは俯いていた顔を上げる。

「……はい、そうです」

「保険の先生は? 何処に行ったか知ってる?」

「先生は4時から職員会議があるそうで、そちらに行かれました」

「そっか……」

やはり、保険医に用事があったようだ。保険医が居ないと知れば出て行くだろう。
ひゆは再び視線を落として湿布の貼られた足に慎重にソックスを履いていく。
けれど、男子生徒はその場から動かなかった。

「――その足、もしかして昼間の?」

てっきり出て行くとばかり思っていたのに、話を振られてしまい動きが止まってしまう。

「え……と、ちょっと捻ったみたいで」

小さく答えると、相手はひゆの座る近くに椅子を引き寄せて腰を降ろした。
何故近くに座ったのかが分からず、すぐ傍にある相手の気配にぴりぴりとした緊張感が高まっていく。

「あの時、急に落ちたからビックリしたけど……こんなに酷い捻挫してたんだね」

「そんなに痛みは酷く無いんですが、念の為に……」

足首を覆うほどにあてられた湿布に相手の視線が注がれる。
その視線がどうにも落ち着かなくて、痛むのも構わず湿布を隠すようにソックスを引き上げた。
ズキっと走る痛みは奥歯を噛んで堪える。

「あそこで大勢たむろっていた僕らが悪かったと思って、後で君に謝ろうと思ってたんだ……本当に、ごめん……」

声のトーンを落して謝罪してくる相手に、ひゆは驚いてしまい慌ててかぶりを振った。
まさかそんな風に思われていたなんて。

「あ、あのっ……きっと私が足を滑らせたんだと……その、先輩が気にされる事じゃ無いです」

階段から落ちる時、何かがぶつかった気がしたけれど、それが本当かどうかひゆ自身記憶があやふやだった。
仮に、彼の言う通りたむろっていた中の誰かと接触したせいで落ちたとしても、それは偶然の事故で、誰のせいだと決め付けられない。

「大丈夫でしたし……気にしないで下さい」

偶然にも、あの時は階段から落ちかける所を助けて貰い、今こうして無事なのだ。
ひゆは手当ての終わった足に靴を履いてすっと立ち上がる。
先輩には申し訳ないが、どうしてか、あまり長く話していたい気分じゃなかった。
保健室から出て行こうと、隣に置いていた鞄を取ろうとした時、グっと手首を掴まれた。
思い掛けない行動に、ひゆの身体が固まる。

「怪我してるのに、このまま放っておけないな。家まで送るよ」

「えっ……」

そう告げる先輩の方を見れば、じっと真っ直ぐにこちらを見つめて来る。
掴まれた手首も、しっかりと握られていて離してくれそうに無い。
まさか家まで送るとまで言われると思っていなかったひゆは、どうしようと戸惑いに顔を曇らせた。

保健室に寄った後は図書室に行こうと思っていた。
借りたい本も有るし、あの屋敷へはまだ戻りたい気分でもなかったので何か読んで時間を潰そうと考えていた。
――それに、送迎してくれる車の事もある。先輩に家まで送って貰うのは無理だろう。
頭の中で次から次へと湧いてくる言葉を反芻しながら、はっきり断ってしまおうとひゆはキュっと唇を引き結んだ。

――…けれど、それらは事実であっても本当は建前に過ぎない。

どうしてだか、ひゆはこの先輩と一緒に居たくなかった。
何がそう思わせるのかは尋ねられても答えられないが、先ほどからザワザワとした不快な感覚が肌の上を這っている気がする。
掴まれている手も、相手の体温を感じるよりも自分の指先が冷たくなっていくのがより強く感じられた。

「どうしたの?」

怪訝そうに尋ねられて、ひゆは何も無いと首を振って誤魔化した。

「いえ……あの、先輩。捻挫も酷くないですし、一人で帰れるので大丈夫です。だから……」

掴んでいるその手を離して欲しいと、ひゆは掴まれている方の腕を軽く引いた。
いくら捻挫をしているからと言って、今日初めて顔を合わせた人間を家まで送るというのは、どう考えても不自然だ。
あまり深く関わらない方が良いと警鐘が鳴り始める。得体の知れない不安ほど怖いものは無い。

「先輩、手を――…」

軽く引いても離す気配の無い手を今度は強く引いて逃げようとした。
すると、今以上に手首を掴む手に力を込められて余計に逃げられなくなってしまった。

(……どうして――…)

膨れ上がっていく不安を抱えながら、掴まれている手首を見つめるひゆに相手が静かに口を開く。

「心配して言ってるんだけどな……それとも、僕の事――警戒してる?」

「……っ」

咄嗟に言葉が出て来なかった。
否定出来なかった時点で『肯定』しているようなものだ。

違うと、何か言わなければと、必死になって言葉を探すが何も思い付かない。
見下ろしてくる相手の視線を感じながらも、男子生徒の顔を見れなくて、ひゆは視線を伏せたまま立ち尽くしてしまう。

「――少し気になったんだけど、もしかして君、僕の事知らないのかな?」

少し意外そうに尋ねられて、ひゆは素直に小さく頷いて見せた。
今日初めて逢ったのに相手の事など知らなくて当然だ。
それなのに「知らない?」と聞かれるのだから、以前に何処かで逢っただろうか。

記憶を探ってみても、名前どころか顔すらも思い当たらない。

「ごめんなさい、私………」

「良いよ、知らなくても。今覚えて貰えたら良いから」

柔らな口調なのに、ゾクリと悪寒に包まれてひゆは小さく震えた。
自分でも変だと思うが、このまま一緒に居ると良くない事が起きそうな……そんな気がしてしまう。
手を離して貰えれば済む事なのに、話の方向を微妙にずらされてしまって何も出来ずに立ち尽くしている。

どうして離してくれないのか、相手が何を考えているのか分からない。
時間が過ぎれば過ぎるほど状況は悪くなる一方だ。
強引にでも振り切ってしまった方が良いかと、くっと手に力を込めたひゆの耳に、ガラリと扉を開く音が飛び込んで来た。
保険医が帰って来たのかと思い、心の中で安堵しながら入口の方に視線を向ける。

「此処に居たんですか、副会長。顧問の先生が呼ばれてましたよ」

(――あ…っ…)

入口に佇む相手の姿を捉えたまま、ひゆは呆然としてしまった。
どうして、このタイミングで「彼」に逢うのか――…。
そこに居たのは昼間ひゆを助けてくれたその人だった。

「――…顧問の先生が?」

「はい。至急で来て欲しいと言ってたので、随分探しました」

真っ直ぐに、凛とした口調で告げるその相手に、ひゆの手首を掴んでいた「副会長」は、ややあってから腕を解放した。
掴まれていた部分が空気に触れてひやりと冷たさを感じる。
離して欲しいと望んでいただけに漸く拘束を解かれたような気分だった。

「ごめんね、呼び出しで送れなくなった」

肩を竦めて残念そうに言われてしまい、ひゆは「いいえ」と首を左右に振る。
彼はひゆの頭を軽く撫でてから、入口に立つ人の横を擦り抜けて保健室から出て行った。
二人だけになり再び室内は静けさに包まれる。
少し前にひゆが一人きりで此処に居た時と同じような空間だった。

「怪我、していたのか」

先に口を開いたのは彼だった。
ゆっくりと歩み寄って来る相手をじっと見つめたまま、ひゆは答えられずにその姿を追う。
そこまで広く無い保健室ではすぐに相手との距離が縮まってしまう。

階段では気付かなかったけれど彼の身長はかなり高かった。
もしかしたら180センチくらいあるだろうか。頭一つ分ほど違う相手をひゆは何も言えないまま見上げる。

はっきりと確認出来なかった顔も今ならちゃんと覚えられる。
彼が此処に現れてくれたのは本当にただの偶然だろうか?

昼間の階段での時も、周りに居た生徒達はあんなに騒いでいたのに彼は全く動じた様子が無かった。
同じ日に重なる偶然に、もしかしたら……と思う気持ちが芽生え始める。
階段の時も、今の保健室の事も、自分が彼に助けられたのは事実なのだから。

あれこれ想像を巡らせても、ひゆの中で出てくる理由は自分の都合の良いものばかりになってしまう。
理由を考える事ばかりしてしまって、ふと、まだ彼に対してお礼を言っていないのを思い出した。

「あ、の……すみません、昼間階段で……」

「何処を怪我したんだ?」

緊張しながらひゆが口を開くと同時に、見下ろしてくる彼が静かな口調で尋ねてくる。
話し掛けるタイミングが不味かったかなと思いながら、ひゆ上げていた視線を足元に落とした。

「怪我……というか、少し足を捻ったみたいで」

「痛みは?」

「え……と、少し痛いかなって思うくらいで、そんなには――…」

ひゆが説明する途中、彼は更に近付いてひゆの足元にある鞄を取った。
自然な動きで鞄を持たれてしまったので、何も反応出来ず、ひゆは彼の手にある自分の鞄をぼうっと見てしまう。

「あ、の……私の、鞄……」

「少し、じっとして」

そう短く言葉を投げた彼は、軽く身を屈めたかと思うと、次の瞬間ひゆの身体を軽々と抱き上げてしまった。

「きゃ……っ」

身体がふわりと浮き上がったのに驚いて身体が硬直する。
抱き上げられ、触れる身体と急に近付いた彼の綺麗な顔に呼吸が止まる。

(何、で……っ!?)

「スカート、押さえて」

「え、あっ……!」

空気を孕んで捲り上がりそうになる裾を慌ててキュっと押さえる。
鞄を手に、所謂お姫様抱っこでひゆを抱え上げてしまった彼は、自然な動作でそのまま保健室を出て行こうとする。
突然の事に驚いて動けなかったひゆは、この状況に慌てて抵抗しだした。

「お、降ろして下さいっ!」

必死に腕を突っぱねて彼の腕から逃げようとするけれど、関節を上手く押さえた抱き方に、身体が思うように動かせない。
もがくひゆに彼はちらりと一度視線を落としただけで、再び前に向き直ると歩き出した。

「じっとして。歩きにくい」

「なら、降ろして下さいっ! やだ……っ」

(何でいきなり……っ)

訳も分からないまま無理やり抱き上げられて、大人しくしていられる方がおかしい。
何とかして彼の動きを止めさせようと身じろぐが、更にグっと腕に力を入れてひゆの動きを押さえ込んで来る。
それだけでひゆの抵抗は簡単に封じられてしまってどうにもならない。

「暴れると目立つ」

「……ッ…」

耳元で声を潜めて囁かれ吐息が産毛を掠める感触に、ゾクンっと震えが走って首を竦めた。

「い、今の方が十分目立ちますっ」

見向きもせずに、呆れを含んだ口調で言われると、腹立たしくて相手を睨み上げる。
偶然に、2度も助けて貰った事を差し引いたとしても、横暴に振り回されれば我慢出来ない。
しかも、初めて逢ったばかりの名前も知らない相手に、だ。
恥ずかしいと思うよりも反感の方が募ってくる。

「さっきのが戻って来たら面倒だろう?」

「え……?」

告げられた言葉にピクリと反応してひゆの抵抗が止まる。

「さっきの……って…」

「顧問の呼び出しがあったっていうのは口実だ。気付いて戻って来たのに鉢合わせしたら撒いた意味が無い」

淡々と並べられる理由に、どうしてそんな事をする必要が有るのかとひゆは余計に混乱する。
確かに、保健室に居た時はあの先輩と一緒に居るのが嫌な感じがして逃げたいと思ったけれど――…。

「何で、そんな事……」

どうして彼がそんな嘘を吐くんだろう――?
嘘まで吐いて、保健室から連れ出してくれたとしたら……あの階段の時だって偶然じゃ、無い?

話しながらも、何処に向かうか彼の中で決まっているのか、歩くペースは変わらない。
すれ違う生徒の姿も少しずつ増えてきて、二人の会話は自然と小さなものになっていく。

「……鈍いな」

少し間が開いた後、ややぞんざいな口調で短く切り捨てられ、ひゆは返す言葉に詰まってしまった。

(……鈍いって…)

何を指されてそう言われたのか、ひゆは分からないくてムッと顔を顰めた。
口調は静かだけれど、感情の伺えない言い方は冷たく感じられるし、責められているようにも感じる。
頭の中は疑問と不安と反感が煩くせめぎあって、頭痛さえしそうだ。

ひゆが悩んでいる間にも、彼は慣れた手付きでひゆに靴を履き替えさせた。
まさかと思って抵抗したが、そこから先もやはり抱き抱えられてしまい、彼は何の躊躇も無く校門へ向かって真っ直ぐに歩いて行く。
何度か降ろして欲しいと繰り返し言ってみても、じっとするように言われるだけでまるで聞いて貰えない。
お姫様抱っこなんてされれば、否応にも下校途中や部活に行く途中の生徒達の好奇の目に曝された。

(――暴れたほうがマシだったかも…)

無数に浴びせられる視線が突き刺さって痛い。
せめて顔を隠したくて、不本意だけれど彼の肩口に額を押し当てた。

このまま、何処へ連れて行かれるんだろう。
抵抗して逃げても、自分の足じゃ直ぐに追い付かれてしまうだろうし、このまま大人しくしているのは不安だ。
けれど、九鬼に出逢ってからずっと常識外れの状況が続いて、抗う気持ちも疲弊してきていた。

抗うのも、考える事も全て、放棄してしまいたい――…。

そんな思いが脳裏を掠めた時に、ふと九鬼の顔が頭に浮かんだ。

(……私が居なくなったら、困るのかな)

じっと真っ直ぐにこちらを見つめる彼の深い色の瞳を思う。
私が……志堂院の継承者としての立場の人間が居なくなれば、彼はどうするんだろう。

『――貴女でなけらばならないのです。誰一人、蓮水様の替わりなど出来ません――』

耳に残る落ち着いたテノール。
このまま他人事のように放棄してしまおうと思っていたが、九鬼の言葉に少しだけ気持ちが引き締められた。
伏せていた顔を上げて彼の横顔を見つめる。怯まないよう視線に力を込めて。

「……何でこんな事するんですか?」

本当なら一番最初に問わなければならかった当たり前の事。

「……少しはマシな目つきになったな」

チラリと視線を流されて呟かれた言葉に、更にムっとしてしまう。
もしかしてワザとこんな言い方をしてる?

「マシかどうかなんて知りません。何でこんな事するのかって聞いてるんです」

小声では無く、はっきりと声に出して問い質す。
彼は答えをくれず無言のままで歩く速度を緩めない。
そうしている間に、彼が向かっている先が何処なのかひゆは気付き始める。
少し冷静になって周りを見ると、見慣れないながらもそこは今朝ひゆが通った道だった。

(どうして、この道――…)

その光景を見て、ひゆは小さく息を飲んだ。
通学路から外れたこの道を選んだのは、車で来たのを他の生徒に知られないようにする為だ。
それなのに、彼はひゆが辿った道を同じように歩いて行く。
まさか、と思う考えは自分の視界に映るものでそれまでの不安がやがて疑問へと変化した。

辿り着いた先は今朝ひゆが村瀬と分かれた場所だった。

「何、で……」

掠れた声でやっとそれだけが口から零れる。
視線の先には今朝見たのと同じように、車が一台みちの傍らに停車していた。
間違いなくあれは村瀬の運転する車だ。 

――どうして彼がこの場所を知っているんだろう。

村瀬には帰りに連絡をしてから迎えに来ると話しをしていた。
何時に帰るか連絡を入れていないのに、車はそこに停まっている。
誰が、車を此処へ呼んだのか――、この状況では考えうる相手は一人に絞られる。

「どうして?」を考え始めると余計に混乱してしまうばかりだ。

考えられる可能性に怖いとすら感じてしまって、ひゆの身体は震えてしまいそうだった。
知らないとばかり思っていた相手は、自分の事が誰だか知っていて、その上での行動だと考える方が自然だ。

(階段も、保健室も……来てくれたのは偶然じゃ無かったんだ……)

じゃあ……彼は一体、誰――?

動揺を隠せないひゆを余所に、彼は車の方へと向かっていく。
すると、車の扉が開いて運転席から村瀬が姿を表した。その姿に、少しだけほっと気持ちが緩む。

「お嬢様、如何なされましたか?」

駆け寄ってくる村瀬は、心配そうにこちらを見つめて声を掛ける。

「少し足を捻られたみたいで、大げさかもしれませんが運ばせて頂きました」

ひゆより先に状況を説明する彼に、村瀬は「そうでしたか」と納得すると直ぐに車の後部座席を開いた。
彼の態度はひゆに対する時と何ら変わらず、少し素っ気ない。

(二人とも、顔見知り……)

普通に会話を交わす二人の様子を見て思う。
そうでなければ、知らない人間に連れて来られたりすれば、村瀬はもう少し何らかのリアクションを見せるだろう。
後部座席に丁寧に降ろされ、そうして彼も当然のように隣へ乗り込んで来た。
車にまで乗って来るとは思わなくて、ひゆは反対側のドアへと身体を寄せる。

「大人しく座ってろ。別に何もしない」

広い座席でゆったりと脚を組んで座る彼は、手に持っていたひゆの鞄を隣へ置いた。
鞄を引き寄せて、ひゆは怖々と彼の顔を見る。
自分だけが「知らない」というのはこんなにも怖く感じるものなのか。

「――…あなたは、一体誰なんですか?」

ぎゅっと鞄を胸に抱いて身を固くする。
聞きたい事は沢山あったが、彼が何者なのか。それをまず知らなければ。

ドクンドクンと、緊張に鼓動が騒ぎ出す。

沈黙の後、彼は軽く眼鏡のブリッジを上げてからひゆの方へと顔を向けた。
視線だけでなく、きちんと真正面から見据えられて、緊張がいっそう高まる。

雨嶺あまみね、だ」

返されたのは短い一言。
感情を見せない彼の態度は静かだけれど、その声音は力強く響いてくる。

「俺は君を護る為に居る。君の祖父、志堂院康造氏からの依頼だ」

雨嶺はそれだけを告げると再び前を向いてしまった。
得体の知れない相手の、たった一言にひゆは衝撃を固まる。

(私を、護る――…?)

走り出す車の中、ひゆはそれ以上何も聞けずただ大人しくするしか出来なかった。
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