背中

一丸壱八

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第五章 意地

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 親分の顔が、目の前にあった。
 こんなに近い距離で見るのは、初めてかもしれん。

 鼻筋にある古傷が、白く浮き上がっとる。
 眉間の皺が深い。
 いつもは冷たい石像のごたる顔が、今は歪んで見えた。

「しっかりせえ。今、車が来る」

 親分の声が震えよるごつ聞こえたばってん、それは俺の耳がおかしいからかもしれん。
 俺は親分の顔を見つめた。
 視界が狭まっていく。
 黒い縁取りが迫ってくる中で、親分の目だけが見えた。

 親分の目が、赤かった。
 充血しとるんか、寝不足なんかもしれん。
 でも、その目の縁に、光るもんが溜まっとるのが見えた。
 水たい。
 ただの水滴かもしれん。汗かもしれん。雨かもしれん。
 でも、空は晴れとるし、風は乾いとる。

 その水滴が、今にも落ちそうに揺れとる。
 それを見たら、俺の胸の奥が、傷口よりも熱うなった。
 いかん。
 この人は、背中たい。
 誰にも弱みを見せちゃならん、鉄の背中なんたい。
 俺ごときのために、その鉄が溶けたらいかん。

 俺は、最後の力を振り絞って、口を開いた。
 喉が渇いて、張り付いて、音が出らんかと思った。
 そいでん、伝えんばいかん。

「親分……」

 自分の声が、他人の声のごと遠い。

「俺ごときのために……つら、濡らしたら、いかん」

 言い終わった瞬間、親分の目が大きく見開かれた気がした。
 溜まっとった水がどうなったか、俺にはもう見えんかった。
 視界が真っ暗になった。

 最後に感じたのは、頬に落ちた、一滴の熱いしずくの感触だけやった。
 それが何やったとか、俺は知らんことにする。
 俺は、分からんまま終わるったい。

 音が消える。
 感覚が消える。
 最後に残ったのは、網膜に焼きついた、あの靴だけやった。
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