宵月桜舞

雪原歌乃

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第五章 呪縛と執愛

第二節

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 目を覚ますと、壁の時計は三時五十分を指していた。
 美咲は、縁側で嘔吐してからずっと部屋に籠り、布団で横になっていた。
 起き上がると、吐いたあとの不快感が口内に広がっていた。美咲は洗面所へ向かい、口をすすいで再び部屋に戻る。
 布団を畳み、部屋の隅に押してから、ほとんど無意識に全身鏡を見遣る。そこには、いつもよりも血色の悪い美咲の顔が映し出され、童女のような桜姫の姿は跡形もなかった。
 一瞬、夢を見ていたのではないかと思った。しかし、美咲の脳裏には、桜姫の姿も声も、はっきりと刻まれている。
「桜姫……」
 美咲は口にしてから、立ったままの姿勢で全身鏡に触れる。ここにいる自分と、鏡の向こうの自分の手が重なり合う。当然だが、温もりは全く感じられず、硬質な冷たさだけが伝わってくる。
 不意に、鬼王を想い浮かべた。姿形はヒトとほとんど同じでも、鬼王は肉体を持たないから体温がない。鏡と同じ――いや、むしろ鏡の方が温かみがあるかもしれない。
 そして、ヒトではなくなった桜姫もきっと、鬼王と同様、体温を持たないのだろう。鏡越しに会話をしただけで触れることは叶わなかったものの、それでも何となく想像は付く。
 美咲は鏡から手を離すと、自らの左手で自らの右手を握り締めた。鬼王や桜姫と違い、ちゃんと温もりを感じる。
(ヒトだからこそ、お互いの温かさを共有し合えるんだ)
 美咲は両手を組み、それに顎を添えるような格好で瞼を閉じる。
 南條が、美咲を優しく抱き締め、そっと口付けてくれる。もちろん、ここには南條はいないから美咲の想像に過ぎない。
(――南條さん……)
 祈るような想いで、心の中で南條を呼ぶ。
 藍田に穢されてしまったから、南條を慕い続ける資格などないのは美咲も承知している。それでも、南條が愛おしくて堪らない。甘えてはいけないと思えば思うほど、南條に逢いたいという気持ちはますます募るばかりだった。
「……っ……くっ……」
 たくさん泣いたはずなのに、涙は留まることを知らない。そのまま、崩れるように両膝を折り、声を押し殺して泣き続ける。泣いて、泣いて、泣きじゃくって、全てが終わってしまえばいいとさえ思った。

 ◆◇◆◇

 どれほど泣き続けただろうか。カタン、と障子張りの戸が開かれる音が耳に飛び込んできた。
 美咲は弾かれたように、涙でグシャグシャになっている顔を上げる。
「――泣いてたの……?」
 そこにいたのは、昨日の夕方まで美咲の無二の親友だと信じて疑わなかった優奈だった。本家に来てからは互いに全く口を利かなかったから、優奈に声をかけられた美咲は、嬉しさよりも戸惑いを覚える。
 美咲は側にあったボックスティッシュを引き寄せ、そこから数枚抜き取る。そして、それで涙をいそいそと拭うと、優奈に向き直った。
「お父さんとお母さんが、恋しくなったの……?」
 憐憫の眼差して見つめてくる優奈を目の当たりにしながら、美咲の中でモヤモヤとした感情が広がる。優奈に対して苛立ちにも近い気持ちになるのも、これまでならばなかったと思う。
「別に、そんなんじゃない……」
 美咲は眉間に皺を刻み、吐き捨てるように答える。
 優奈は、怯んだように身体をビクリと反応させる。普段であれば、優奈が前に出て美咲の手綱を引く立場なのに、今は逆に、一歩下がった態度で接してくる。もしかしたら、ずっと美咲に隠しごとをし続けていた後ろめたさが、優奈を遠慮がちにさせているのもしれない。
 何となく、美咲が優奈を苛めているように思えてきた。どうしようもない感情を優奈にぶつけ、苦しさを紛らわそうとしている。
(これじゃあ、ただの八つ当たりだ……)
 涙で濡れたティッシュを握り締めながら、美咲は俯き加減に拳を見つめた。
 また、目の前がぼやけてくる。自分の汚い心が情けなくて、悔しくて、小さく嗚咽を漏らした。
 その時、美咲のものとは違う華奢な白い手が躊躇いがちに伸びてきた。それは考えるまでもなく、優奈の手だった。
 優奈の両手は美咲の両拳に触れ、そっと包みんでくる。美咲の双眸から零れる涙は、透明な雫となって優奈の手に流れ落ちていった。
「――ごめんね……」
 消え入るような声で、優奈から謝罪の言葉が紡がれた。
 下を向いたままで美咲が目を見開くと、優奈は先ほどよりも力を籠めて手を握ってきた。
「信じてもらえないかもしれないけど、私も美咲の気持ちは痛いほど分かるから……。
 私もね、藍田本家の虜囚も同然。父親はロクに働かずに酒浸り。母親も母親で、そんな父親に愛想尽かしてどこかの男と姿を晦ましちゃった……。
 そんな、にっちもさっちもいかなくなった状況に陥っていた時、気持ち悪いほど絶妙なタイミングであの人達が現れたわけ。父親の生活を全面的に支援する代わりに、私を引き取る、って。
 変な話だとは思ったよ。だって、親戚には違いないけど、遠縁も遠縁だもん。美咲のように親同士が兄弟だとかならば何にも疑う余地はないけど。でも、父親はその場でその条件をあっさり承諾しちゃって……。――結局、藍田の財産に目が眩んだのかもね」
 優奈はそこまで言うと、深い溜め息を漏らした。
 美咲はそこで、ゆっくりと頭を上げる。眉根を寄せて微苦笑を浮かべる優奈と目が合った。
「そんな目で見ないでよ」
 優奈は困ったように肩を竦めた。
「確かに、『虜囚も同然』なんて言っちゃったけど、今までのことを考えると、ここでの暮らしは決して苦じゃないし。三食しっかり食べさせてもらえて、学校にも行かせてもらってる。もし、ここに引き取られなければ、最悪、あのダメ親父と野垂れ死にしてたかもしれない。――ただ、美咲にはほんとに悪いことしちゃったけど……」
 ごめん、と優奈はまた、頭を深々と下げる。
 美咲の心は、チクリと痛みを生じた。優奈のことは何でも知っていたと思っていたのに、今になって初めて知った、優奈の深い闇。本当は美咲以上に辛かっただろうに、優奈はずっと、独りで耐え忍んできたのだ。
「――謝んないでよ……」
 絞り出すように、美咲は口にした。
 優奈は首を傾げ、ジッと美咲を見つめている。
「優奈にそうやって何度も謝られたら……、私、惨めになるじゃない……。怒りたくても怒れなくなるじゃない……」
 鼻を啜ると、優奈は、「やれやれ」と呟きながら、美咲の頭を撫でてくる。
「怒りたければ怒ればいいよ。美咲を騙してたのは事実なんだし。
 けど、これだけははっきり言える。――私は、いつでも美咲の味方だから……」
 そう言って、美咲を自らの元へと引き寄せた。優奈の方が小柄なはずなのに、何故か母親に抱き締められているみたいで、ささくれた心が穏やかになってゆく。
「――こんなこと言ったらまた怒られるかもだけど、本音言うと、美咲と四六時中一緒にいられるって知って嬉しかったんだよ。その点では、私の潜在的な力を見抜いてここに招き入れてくれた史孝さんに感謝してる、かな」
 優奈のこの言葉に、美咲は瞠目して頭をもたげた。
「潜在的な、力……?」
「そう」
 優奈は頷き、続けた。
「と言っても、私はよく分かんないんだけどね。けど、史孝さんの話だと、私には癒しの力が備わってるとか。どうやら蒼井のウチも、藤崎さんや神山さんと同じ能力者の血筋だったみたい」
「能力者の、血筋……」
 美咲は口にしながら、優奈を凝視する。南條、そして藤崎の力は実際に目の当たりにしたから驚くことはない。しかし、優奈も彼らと同様の能力者だという事実を受け止めるには、多少なりとも時間が必要だった。
(けど、あの伯父さんが、ただの親切心だけで優奈を引き取るはずがない……)
 美咲は、口元を嫌らしく歪める藍田を想い出す。とたんに、スッと血の気が引いてゆくのを感じた。
「美咲?」
 優奈が、心配そうに美咲の顔を覗き込んでくる。
「大丈夫? 顔色悪いけど、具合悪いの?」
「ううん、大丈夫。ちょっと、ヤなこと想い出しただけだから……」
「ヤなこと……」
 言いかけて、優奈の眉間がわずかに痙攣した。
「――美咲……、まさか……」
 優奈が言わんとしていることは、何となく察した。だが、即答も出来ず、優奈から逃れるように視線をさ迷わせてから、おもむろに首を縦に動かした。
「信じられない……」
 優奈は瞼を閉じ、眉をひそめながら何度も首を横に振る。
 そこで少々慌てて、美咲は「でも」と訂正した。
「実際は未遂で済んだから。伯父さんに身体を弄られて気を失った時に、代わりに桜姫が目覚めて伯父さんを気絶させちゃったみたいだし。何をしたかは知らないけど……、意識が失くなるほどだから、よっぽどのことをしたのかもしれない」
「――桜姫が……?」
「うん。あ、桜姫って分かる?」
「それは私も知ってる。史孝さんにちょっと聴いた程度だけど。でも、桜姫って確か、美咲が十六歳にならないと覚醒しないんじゃ……」
「え、そうなの?」
「うん。これも聴いただけだけど……」
 『聴いた程度』とは言っているが、どうやら、優奈の方が桜姫について知っていそうだ。本当に、藍田はどこまで優奈に事情説明しているのか。
「けど、未遂だったとはいえ、酷い目に遭ったんだね……」
 今にも泣き出しそうな表情で、優奈は美咲に視線を注いでくる。安っぽい同情などではなく、美咲の気持ちを察し、自分のことのように胸を痛めている。美咲にもそんな優奈の優しさが伝わった。
「でも、どうしても疑問に思う部分もあるんだよね。史孝さん、私達には、『桜姫は非常に危険な存在だ』って吹聴していたのに、当の本人は何故か桜姫に執着しているし……。普通だったら、危険分子だと分かった時点で手を下すなりするはずだと思うけど、そんな気配はもちろんなし。って、こんな言い方すると、美咲、イヤな気分になっちゃうね……」
 言ってしまったことを悔やんでいるのか、優奈は気まずそうに目を逸らす。だが、優奈の言うことは尤もだと美咲自身も思っていた。
 美咲は、鬼王完全復活の鍵となる桜姫の魂を受け継いでいる。それは美咲が幼い頃からすでに分かっていたはずなのに、それでも殺される気配は全くなかった。亡くなった祖父母に至っては、美咲を目に入れても痛くないほど可愛がってくれたからともかく、実の娘の朝霞にすら愛情を注いでいなかった藍田が、ただの姪である美咲に対して何もせずにいたのはおかしい。それどころか、桜姫が転生するのを望んでいたというのだから、よけいに理解に苦しむ。
「伯父さんの考えなんて、誰にも理解出来っこないよ……」
 諦めにも近い気持ちで口にすると、美咲は苦笑いを浮かべた。
「まあ、〈分かりたくもない〉ってゆうのが正しいけど。あのヒトの頭の中をうっかり覗いちゃったら、かえって気分が悪くなりそう……」
「――確かに、史孝さんの領域にはうっかり足を踏み入れたくないね……」
 優奈はそう口にして、「でも」と付け加えた。
「これからずっと、あのヒトと関わらないわけにはいかないからね、私の場合。それでも、ある程度の距離は置いて」
 そこまで言うと、優奈はそっと美咲を放して立ち上がった。
「そろそろ朝霞さんも帰って来る頃だ。夕飯の支度しないと」
「夕飯の? 優奈がやってるの?」
 美咲の問いに、優奈は、「交代でね」と答えた。
「実際のトコ、私はまだ簡単なものしか作れないから、朝霞さんの助手のようなもんだけど。でも、神山さんはあまり家事しない方だから、朝霞さんが一番動いてるかもね。朝霞さん、炊事掃除洗濯、全て完璧にこなすヒトだし」
「そうなの?」
「うん。物静かだしマイペースだからそうは見えないけど、いざとなると凄くテキパキ動くよ。教え方も、神山さんとは比べようもないぐらい丁寧で上手だしね」
 意外と言ってはどうかと思うが、優奈の朝霞に対する評価は高い。美咲は朝霞を好意的に思っていないだけに複雑な心境だが、わざわざ水を差すこともないだろうと、あえて口を噤んだ。
「じゃ、美咲は時間までゆっくりしてなよ」
 そう言い残し、優奈は静かに部屋を出て行った。
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