宵月桜舞

雪原歌乃

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第六章 追憶と誓言

第三節

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 辺りの景色が変わっている。今まで目にしていた趣味の悪い庭はかき消され、何もない靄だらけの世界に美咲はいた。
 一瞬、鬼王の棲む世界へと導かれたかと思った。しかし、鬼王の世界には桜の木が常に満開の花を咲かせ、花びらを舞い躍らせている。
「桜姫?」
 鬼王じゃないのなら、と思い、美咲は自分の中に眠るというもう一人の名を呼んだ。
 靄の中から、まるで浮き出てくるかのように漆黒の髪と瞳を持つ幼顔の少女が姿を現す。少女――桜姫は美咲を見るなり、血のような赤い唇に弧を描く。
「何の用?」
 不敵に笑う桜姫に、美咲は眉根を寄せながらつっけんどんに訊ねる。
 だが、桜姫はそんな美咲の態度を全く意に介することなく、「別に」と淡々と続けた。
「用などない。ただ、そなたの暇潰しに付き合ってやろうと思っただけだ。今のそなたは籠の中の鳥も同然。この屋敷から出ることが出来ないのでは、何もやることもないだろう?」
 美咲の今の状況を楽しんでいるのか、桜姫は鈴を鳴らすようにコロコロと笑う。それがよけい、美咲の癇に障る。
「あんた、凄い力を持ってるんでしょ? だったらここから出ることぐらい朝飯前じゃないの?」
 美咲の問いに、桜姫は笑みはそのままで、ゆっくりと首を横に振った。
「そなたは相当私を買い被っているようだな。確かに私はかつて、同族からも畏れられ、忌まれた存在だった。それは時代が変わった今でも変わっておらぬが。だが、この屋敷には強力な結界が張り巡らされている。よく考えてみろ? そなた、ここに来てから、〈ガッコウ〉という場所にも行かせてもらえぬであろう?」
「それは……、私がずっと体調が悪いからで……」
「そんなものは気の病だ」
 桜姫は吐き捨てるように言い放った。
「あのような空気の澱んだ中にいては、どれほど強靭な精神を持つものであろうとも病に罹って当然だ。むしろ、あの屋敷の主は、そなたが病めば病むほど充足感を得ている。あの主――アイダ自体が荒みきっているぐらいだからな」
 桜姫の鋭い指摘に、美咲は不思議と素直に納得した。確かに両親の元でならば、美咲は天真爛漫な女子高生のままでいられた。しかし、本家に連れて来られてからというもの、身体がいつも重いような気がしている。ただ、幼い頃に預けられていた頃は、体調不良を覚えた記憶が全くない。
「幼いそなたがここにいた頃は、そなたを全身全霊で守ってくれる存在があったからだ」
 美咲が心の中だけで思っていた疑問に、桜姫はサラリと答えを出した。
「そなたの祖父と祖母は稀有な存在だ。もちろん、そなたの両親もだが、両親――殊に母親は腹を痛めて産んだ我が子だ。どんな宿命を背負っていようとも可愛いと思って当然。だが、祖父母にとっては自分の子供の子供なのだから、両親に比べたら絆は浅い。それでも、あの者達は全てを承知の上で最期までそなたに愛情を注ぎ、アイダが手出しせぬようにとアイダを監視し続けてきた」
 そこまで言うと、桜姫は小さく息を吐き、美咲をジッと見据えた。
 美咲もまた、桜姫の漆黒の双眸を見つめ返しながら考える。
 自分には優しく、対照的に、藍田と朝霞を快く思っていなかった祖父母。特に藍田に関しては、もしかしたら、今回のような暴挙に出るのではと危惧し続けていた部分もあったのだろうか。よくよく記憶を辿れば、祖父母は同じ家にいながら、藍田を美咲に決して近付けさせないようにしていた。全く接点がなかった、というわけではない。だが、美咲が藍田と対面している時は、常に祖父か祖母のどちらかは必ず側にいた。
「お祖父ちゃんもお祖母ちゃんも神経を尖らせていたほど、伯父さんは危険な存在だってことなんだね……」
 ポツリと漏らした美咲の言葉に、桜姫もまた、「そうだな」と静かに答える。
「あの者は私を亡きものにした男の再来だ。それまでも、私が目覚めの時を迎える時が訪れるとあの者の再来も出現したが、今ほど強くあの者の魂を引き寄せた者も稀だな。
 アイダだけではない。私を、そして鬼王を唯一封じることが出来る力を持つ男――ナンジョウもまた、私の兄の魂をより強く感じる……」
 思わぬところで桜姫から出てきた『ナンジョウ』という固有名詞に、美咲の鼓動が早鐘を打った。息苦しさも覚え、美咲は無意識に自らの胸の前に両手を押し当てる。
「どうした? 顔色が悪いぞ?」
 美咲の心など全て見通しているはずなのに、桜姫は怪訝そうに訊ねてくる。いや、桜姫のことだ。心中を察していながら、わざと反応を覗っているに違いない。
「――南條さんに、逢いたい……」
 意地を張り続けることに疲れ、美咲は桜姫に想いをぶつけた。
「桜姫だって分かってるはずだ。私が、どれだけ南條さんに逢いたくて堪らないか、って……。確かに、私は南條さんと片手で余るほどしか逢ってない。けど、それでも南條さんに逢いた……」
 美咲は全て言い終わらないうちに嗚咽を漏らした。その場に崩れ落ち、声を上げて泣きじゃくった。今までもたくさん泣いた。だが、あの家の中にいては、涙を流すことが精いっぱいだった。
 桜姫は何も言わなかった。桜姫の足元しか見えていない美咲には、今、桜姫がどんな表情で自分に視線を注いでいるかなど分かるはずがない。
「――そなたと私は」
 しばらく口を噤んでいた桜姫が、不意に言葉を発した。
「そなたが生まれる前から繋がっている。だから、私の怒りと苦しみはそなたの怒りと苦しみ。そして、そなたの哀しみと痛みは――私の深い哀しみと痛みだ……」
 美咲は弾かれたように、涙で濡れた顔を上げた。
 桜姫は神妙な面持ちで美咲を見下ろしている。心なしか、桜姫も美咲同様、今にも泣き出してしまいそうに瞳の奥が揺れていた。
(桜姫にとっては、鬼王もお兄さんも同じぐらい大切だったから……)
 声に出さずとも伝わると思った美咲は、心の中で桜姫に向けて言う。
 桜姫の唇がわずかに動いた。しかし、その声は美咲には届くことはなかった。
(あんたには悪いと思う。けど、私は自分の気持ちに嘘は吐けない……)
 この美咲の〈声〉を桜姫はどう捉えたであろうか。過去はともかく、ヒトではなくなった今では、桜姫は鬼王を強く愛しているから、自らの意に背く気か、と不快な気持ちを抱いているかもしれない。
(私はこれからも、〈藍田美咲〉として生きるんだ……)
 初めて逢った日の夜、南條が美咲に向けて言ってくれた言葉を反芻する。まだ、完全には立ち直っていない。しかし、声を出して泣いたことで少しでも気が晴れたように思えた。
「私は藍田美咲。桜姫じゃない。藍田美咲という一人のヒトなんだ……」
 より強く桜姫に、そして何より自分自身に言い聞かせるために、今度は口に出して言う。
 桜姫はそれから、一言も口にすることはなかった。表情を崩さず、ただ、桜姫に真っ直ぐな視線を注ぎ続ける美咲を見つめ返すだけだった。
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