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三章 恵みの果実を狙う者

愛し子を想う

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 美蕗がオカバ様の傍らに跪き、名を呼びながら起きるように促しているのを、利玖は離れた所で眺めていた。
 この異界の成り立ちや神々の繋がりについて、ほとんど知識を得ていない以上、オカバ様をる役目は美蕗にしか務まらない。ならば、自分は一刻も早く鶴真の元に向かって彼の無事を確かめるべきだ。
 それはわかっている。──わかっているのに、何度試しても、美蕗の存在を意識した途端に足がすくんで動けなかった。
 見た目に変わった所は何もない。それどころか、オカバ様を前にして敬虔けいけんな振る舞いをしている事で、普段よりも穏やかな人物のように見えるほどだ。
 しかし、先程彼女が垣間見せた、古めかしく荘厳な言葉遣いと、木切れでも捨てるように侵入者の女を投げ落とした得体の知れない力の事を思うと、爪先から震えが立ちのぼってきた。
 そうこうしている内に、オカバ様が呻きながら仰向けになった。狗面の従者も、その声で目を覚まして、はっと体を起こす。
「酒に何か混ぜられた」すぐに美蕗が指示を与えた。「見たところ、お身体をけがたぐいの物ではないようだが、酒瓶の中をあらためて、薬があるようなら……」
「いや……、薬はいらぬ」オカバ様が、途中で話を遮って起き上がった。「しばし、ここに留まって〈宵戸よいのとの木〉の精気にふれておれば、じき治る。おのが身の事は、自分が一番わかっておるでな」
「しかし……」
 気遣わしげに言いさす美蕗を見て、オカバ様は笑い声を立てながら、面から伸びた顎髭を撫でた。
「久しぶりにイワの里の主殿が訪ねてきてくださったのだ。酔いつぶれている場合ではなかろう」
(……イワ?)
 利玖は眉をひそめる。聞いた事のない地名だ。すぐに思い当たる漢字がなかった。
 一方、美蕗は、それを聞いて微笑みを浮かべ、優雅な仕草で頭を下げた。
「祭りの夜を無粋な真似で騒がせた事、お詫び申し上げる」
「なんの、なんの。そなたは嵐。森羅万象をかき回してこそ、仰ぎ、恐るるに値するというもの」オカバ様はそこで、首を伸ばして利玖の方を見た。「呼んでくれたのは、そのほうか?」
「はっ、はい」
 急に自分に視線が集まったので、答える声が上ずった。
「そうか。まこと、助かった。礼代わりの一献をすすめられぬのが無念ではあるが……」オカバ様は、酒瓶を調べている従者の方を振り返って嘆息する。「よもや、酒に毒を混ぜられるとは。もうちっと結界を固くせねばならんか」
 美蕗が頷いた。
「御面倒でしょうが、それがよろしいかと。ヒトも日々知恵をつけている。私も、次は、此度こたびのようにお助けする約束は出来ません」
「相分かった。守りについては、こちらで熟考いたす」
 従者の従者が、そこで水差しを運んできた。
 オカバ様はそれに口をつけ、喉をうるおした後、美蕗に向き直って「しかし……」と切り出した。
「またずいぶんと、難しい依り代を使われておるのう。何ぞ、恩のある人間か?」
「ええ。ゆえあって少しの間、借り受けております」
 そう答えると、美蕗は遠く離れて暮らしている愛し子を想う母のような眼差しで、社の外を仰ぎ見た。
「普段は、ヒトの世界で暮らしていて、私も半分眠っているのですが。〈宵戸よいのとの木〉が次代に命を繋ぐ為に実を結ぶ、この一夜限りの美しい光景は、是非とも見せてやりたくて、こうして参った次第です」
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