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四章 史岐の父

ある刑事

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 オカバ様が〈宵戸よいのとの木〉の実を切り分けて口にふくませると、それが薬代わりになったのか、程なくして鶴真も意識を取り戻した。
 少し休むとふらつきも消えて、自分の足で歩けるようになったが、入れ替わりに今度は利玖が緊張を切らしてへなへなと腰を抜かしてしまい、結局、二人そろって小一時間ほど社で休ませてもらった。
 利玖が目をつぶっている間に、美蕗は姿を消していた。
 その後、当初の予定どおりに実の入ったざるを受け取って旅館に戻る事が出来たわけだが、その後が大騒ぎだった。
 複数の宿泊客からフロントに「銃声のような音が聞こえた」という問い合わせがあり、結果、地元の警察が駆けつける事態になっていたのだ。利玖が樺鉢神社から〈宵戸の木〉の花を見る事が出来たくらいだから、もしかしたら、二つの世界は完全に隔絶されているわけではなく、どこか重なり合う部分があったのかもしれない。
 利玖を危険に晒した負い目もあったのだろう。鶴真は、笊を抱えたまま、頑なに「まだ仕事が残っている」と主張したが、ロビィに来ていた平梓葉に一喝されて渋々救急車で病院へ搬送された。救急車には、能見正二郎が同乗した為、梓葉と利玖は、鶴真から指示されたプライベート・ロッカーに笊を移し、ようやく人心地つく事が出来た。
「そう、頭を蹴られたの」ロビィの隅にある衝立の後ろで二人は情報共有をした。「心配ね。検査して、何事もなければいいのだけれど」
くだんのお酒を多く召し上がっておられたのに、たった一人で侵入者と戦ってくださったのです。相手が銃を取り出しても、怯む様子もありませんでした」
「それは、そうでしょうね。経験があるから」
 利玖がぽかんとしていると、梓葉は、自らの突飛な発言に気づいて頬を赤らめ、「えっとね……」と言いながら指を折り始めた。
「鶴真が旅館を継いだのが去年で、でも、わたしよりも年上だとすると、仮に高校と大学を卒業した後だとしても、何年かブランクがあるでしょう?」
「あ、ええ」数秒遅れて利玖も頷く。どうも眠気と疲れで頭がまったく回っていない。「あ、そうか、以前は、何か別のお仕事をされていたのですね」
「うん。陸上自衛隊にいたの」


 スーツを着た男達がさかんに旅館を出入りし始めた。間もなく、利玖も聴取を受ける事になるだろう。
 体験した事をありのまま話すわけにもいかないが、かといって警察相手に嘘をつくのも気が引ける。返答の内容と話す相手については十分に吟味する必要があるだろう。
 その検討に取りかかる前に、利玖は気になっていた質問を梓葉にぶつけた。
「梓葉さん」
「ん?」
「史岐さんに、離れた所で生活されているご兄弟や、歳が近くてお顔のよく似た親戚の方はいらっしゃるのでしょうか」
 ロビィにいる警察関係者に気を取られていた利玖は、それを聞いた途端、梓葉の顔色が変わった事に気づかなかった。
「儀式の途中、よく似た人物に助けていただいたのです。言葉を交わさなかったので、お名前もわからないのですが、わたしが会いに行けるような方なのであれば、お礼をしなければと……」
 その時、梓葉が切羽詰まった様子で利玖の肩を叩いた。
 びっくりして目を戻すと、梓葉がスマートフォンの画面を見せている。メモのアプリに一行だけ、
『そのまま話し続けて』
と打ち込まれていた。
「あ……、ええ、そうですね。梓葉さんの言うとおりです。まずはわたしも病院で検査を受けなければ。え、診療代ですか? それは、はい、負担してくださるというのなら、ありがたいですが……」
 状況が飲み込めないまま利玖が喋っている間に、梓葉はパンプスから足を抜き、ストッキングの素足で音を立てないように衝立の方へ近づいた。
 そして、手をかけられる位置まで来ると、隠れんぼの鬼役のように勢いをつけて、衝立の向こうに隠れていた人物を引きずり出した。
「こんばんは、おじさま」顔には微笑みを浮かべていたが、梓葉の瞳には、挑むようなきつい光があった。「こちらへいらして。きちんとご紹介なさった方がよろしいわ」
 梓葉に促されて、グレイのスーツを着た初老の男性が苦々しい面持ちで現れた。
 髪には白いものが混じっているが、姿勢がよく、一挙一動に隙がない。日常的に体を鍛えているのだろう。身なりもきちんと整えていて、スーツも腕時計も品格を感じさせる上等な代物だった。
 その男と目が合った時、利玖の頭の中は、真空のように静かになった。
 そして、その直後、何かが決壊する予兆をたたえて、どろどろと不気味な音を響かせ始めた。
「不躾な真似をしました事、どうかお許しください」
 そう言って男が頭を下げた時、すうっと抜けるように涼やかな煙の匂いが漂ってきた。
「薙野県警の熊野と申します。──今のお話を、詳しくお聞かせ願えませんか」
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